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弘前ねぷたまつり。約100基のねぷた(灯籠)がくり出し、土手町や駅前通りを練り歩く、盛大な祭り。8月1日〜7日。 |
北の文化都市
弘前市の繁華街・土手町通りを歩いてゆくと、交差点に出るたびに、驚くほど広い。つまり、それぞれの角の建物が思い切り後退して、交差点が大きな広場になっている。不思議に思っていたが、はたと思い当たった。そうだ、これは「ねぷたまつり」の群衆のための広場なのだ、と。
桜の時期と、8月の「ねぷたまつり」の1週間は全国からの観光客の歓声で沸き立つが、普段の弘前は、穏やかな空気が流れる町である。
弘前は津軽氏のもと、約300年の歴史をもつ城下町だ。だが、町を歩くと、明治から昭和初期頃までの建物が目につき、町の風景の特色をなしている。
市の中心部にある青森銀行記念館や旧弘前市立図書館、旧東奥義塾外人教師館、弘前昇天教会などをはじめとして、市内の洋風建築は相当数に上る。また、洋館だけでなく土手町通りには和風あるいは和洋折衷の趣あふれる建物の商家が軒を連ねている。時計店、革具店、漆器店など、いずれも営々と専業に従事してきた店である。
もちろん建物が魅力的なだけではない。内部には、弘前人のねばり強い底力がひそんでいる。
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弘前公園から見た岩木山。津軽平野にある活火山で、津軽富士と呼ばれる。標高1625m。8合目まで、スカイラインが通じている。 | 弘前城。天守閣のほか、3つの櫓と5つの門が残っており、すべて国の重要文化財。現在は城跡全体が弘前公園と呼ばれ、桜の名所として名高い。 |
津軽藩の旗印
今回訪ねた、津軽の銘菓「卍最中」で知られる老舗・開雲堂も土手町通りにあり、昭和初期建築の重厚な商家の一軒であった。4代目当主の木村ノブさん(昭和8年生まれ)にお目にかかり、お話をうかがった。
「私どもは、明治12年(18
79)に、初代の木村甚之助が木村菓子店を創業したのが始まりです。木村の家は弘前の地主だったのですが、幕末から明治の初めにかけて、土地のほとんどを津軽藩に献上し、菓子屋に転業しました。その折のいきさつを示す明治 4年の御意振(殿様の言葉を書きとめたもの)が、私どもに伝わっております。転業の確かな理由はわかりませんが、初代が藩主から赤楽茶碗を拝領しています。
明治39年(1906)には、藩祖・津軽為信公没後三百
年祭の折、藩への長年の貢献が認められ、藩の旗印である「卍」の使用を許されました。これを最中の型と名前に使用したのが代表銘菓の「卍最中」です。
開雲堂の看板は、2代目甚之助が東京の塩瀬で修業しました縁で、当時の塩瀬のご当主から贈られたものです。「卍最中」や、「有明」という白い皮の最中、大正7年(1918)から続く、さくら祭り期間限定で販売される「つともち」などは、この2代目が考案しました。
直助が亡くなって、私が4代目を継ぎましたが、店の伝統を守るためには努力を惜しみませんでした。私には子どもがいませんが、姪があとを引き受けてくれることになっています」
同席した姪御さんが、さりげない様子で4代目の一言一句に耳を傾けているのが、印象的だった。
毎日の餡煉り
「卍最中」は、正方形いっぱいに卍の字を箔押ししたような形をしている。大きすぎず小さすぎず、頃合いの6センチ角。この最中のおいしさは、舌にとろりとくる小豆の粒を散らした手亡豆の白餡にある。
「毎日毎日餡を煉る。これが私どもで一番大切な仕事だと思っています。餡の煉り方は、砂糖の加減なども含めて、季節により、その日の天候まで考えて調節する、といったものです。ですから、私も定休日を除いては一年中毎朝5時起きで、餡を煉る社員のために工場を開けています。
私どもは店も工場もこの場所にありますから、すべてのお菓子が、裏で作って表で売るというシンプルな形です。売れるだけのものを作るということで、無理をして手を広げようとは思っていません」
開雲堂には「卍最中」のほかにも、町を抱くようにそびえる名峰・岩木山をうつした「岩木嶺」や小豆餡を赤ジソの葉でくるんだ「干乃梅」など、何ともおいしいお菓子がある。津軽には塩漬けした梅の種を抜き、赤ジソの葉でくるんだ平べったい形の梅干があり、「干乃梅」はその梅干を模した菓子であるという。
開雲堂では洋菓子も古くから扱っている。リンゴの本場にふさわしく香り高いアップルパイ、北国への郷愁をそそるロシアケーキなど、弘前でいただくとまた格別の味だ。
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岩木山と喫茶店
弘前城跡を歩いていて、ふと西側を見ると、目の前にすばらしい冠雪の岩木山が現れた。折からの快晴のなか、まさに津軽富士と呼ぶにふさわしい秀峰である。
城跡を出て北に、武家屋敷の保存地区を覗いたあと、津軽藩ねぷた村を見学した。実物大のねぷたを眺め、津軽三味線の演奏を聞く。津軽人の血をたぎらせるものの片鱗に触れた思いである。