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銘菓の装い

端午の節句 熊倉功夫

皐月の干菓子 「柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ 粽たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ……」*
 端午の節句といえば、なんといっても粽。そして柏餅。菖蒲湯に入って、空には鯉のぼりがはためいて、爽やかな初夏の風が若葉の間を通り抜けていく。そんなイメージが、五月五日のこどもの日の典型的な姿でしょう。av
 そもそも五月五日は男の子の祝日なのに、なぜ子どもの日なのでしょう。それなら三月三日も子どもの日にしてほしい、とジェンダー論者から苦情が来てもおかしくありません。しかし、実をいうと、五月五日は女性の日でもありました。
 端午の「午」は、午(うま)。午は、十二ヵ月を十二支にあてた時の五月に相当します。そして、午の月の、最初の午の日が端午です。

皐月の干菓子 午の月の卦は で、五つの陽の下から陰が現れる月で、陽が男性であれば、その一番下に女性が現れるわけで、女性の存在が強く感じられる月といえましょう。そんなわけで、五月五日を「女の家」という言い方が古くからありました。端午の節句の前夜には、菖蒲で屋根を葺いた小屋をつくり、そこへ女たちが集まって好きなようにしても、誰も文句を言わなかったという話も聞きました。
 五月が「午」ということは、十一月が「子」。つまり一年の始まりです。十一月を一陽来復というように、十一月の卦は 。陰の詰まった一番下から陽がきざしてきて別の意味での正月になります。十一月に歌舞伎の顔見世が行われるのも、茶の湯で炉を開くのも、その卦からくる正月の気分です。
 ところで、五月五日は、中国でも日本でも決してめでたい日ではありません。厄の日ですから、いろいろな手を使って、身に降りかかる厄を払い除ける日です。よもぎや菖蒲を庇にさすのも、その強烈な匂いで厄を払う気持ちです。またこの日に薬草を摘んで、病魔から逃れようとします。それが薬玉です。
 古代の記録に、野に出て薬草を採る「薬狩り」の記録があります。また、「あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる」という額田王の歌も、薬狩りの中の恋のたわむれを歌にしたものでしょう。

久壽玉(くすだま) 摘んできた薬草を玉状にまとめたものが薬玉です。今、薬玉というと、祝賀会のイベントで、皆で紐を引くとパーンと玉が割れて中から紙吹雪が舞ったり、鳩が飛び出したりするものを思い浮かべます。でも、もともとは厄払いだったのです。
 なぜ厄払いの薬玉がめでたい行事のシンボルになるのか、もう一つわかりませんが、意外にヒントは、割る時に引っぱる紐にあるのかもしれません。
 薬玉には、必ず五色の色糸が下げられていました。中国の年中行事を記した『荊楚歳時記』という本に、端午には薬草を採り、五彩の糸を臂にかける、とあります。いわゆる五行説の五色で、青、赤、白、黒(紫)、黄の五色の糸を薬玉に結びつけるのが決まりでした。それが薬玉割りの紐なのです。この紐を引くと、厄がパッと消えて福がやってくる、というイメージです。

菖蒲(あやめ) 五月五日の薬狩りに、男たちは鹿を追って若い角を採りました。これが鹿茸です。それを袋に入れ、さらに袋を花で飾ります。これも薬玉です。その姿を想像すると、インドの訶梨勒が思い起こされます。訶梨勒も元は薬ですが、日本に入りますと、それを入れた袋を美しく装飾して部屋飾りへと展開します。
 薬玉でも訶梨勒でも、本来は信仰的な医学要素の強い習慣でしたでしょうが、日本ではそれをいつの間にか、楽しい行事に変身させ、美しい装飾へと発展させました。こういうところに日本の生活文化の特性があるのではありませんか。
 美しい薬玉のいろいろは、そのままお菓子にして食べてしまいたいようです。

■菓子製作:菊岡洋之(本家菊屋/奈良県大和郡山市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。