和菓子探検(1) 百年前の干支菓子作りの舞台裏 No.213

百年前の干支菓子作りの舞台裏

右上より時計回りに、羅漢雌雄虎礫まむき寅字落雁平安将軍

 年末から年始にかけて店頭に並ぶ個性豊かな干支の生菓子。いまでは多くの店が取り扱っていますが、大々的に売り出されるようになったのは、実は近代以降のこと(*1)。明治時代初期、宮中の歌会始の勅題(現「お題」)を題材にした菓子を京都の菓子店が創始、やがて干支の菓子とともに新年に売り出すようになったものが広まったといわれます。
新しい年の顔となる菓子を考案するのですからどの店も力が入りますが、兎や羊など可愛らしい動物はともかく、蛇や猪、空想上の生き物である龍をおいしそうに仕立てるのは知恵のいるところです。

現在、製菓の専門誌に写真入りで菓子の作例が掲載されていますが、そうした取り組みは明治時代からありました。
今回は百年ほど前の大正時代、寅年に向けて発行された図案集『勅題干支新年菓帖』二冊を見てみましょう(*2)。大正三年(一九一四)用には、虎の図案が四十点以上掲載されています。「春夢」のように写実的に動物をかたどる以外に、虎杖や虎耳草(ユキノシタの別名)といった植物の意匠、大福帳形の蒸菓子に「初寅」、小判形の落雁で「虎の子」の菓銘を付けたものなど、連想ゲームのようなアイデア勝負の菓子が見えます。

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虎の子 春夢
 
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初寅
「初寅」に大福帳(商家で売買の勘定を記入した帳面)を新調すると商売が繁盛するといわれた。
虎杖

 町の菓子店の主人が図案集を手に、新年の看板商品をあれかこれかと悩みながら選ぶさまが想像されます。菓子店向けの本なので、「蒸菓子」「煎餅」などの製法名が記されているのみで、作り方や材料は書かれていません。そのため、実際、どのような菓子になったのかはわかりませんが、各店が創意工夫し、素敵な菓子に仕上げたことでしょう。

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『勅題干支新年菓帖』 巻二十五(1925) 『勅題干支新年菓帖』巻十三(1913)
 
それぞれ勅題と寅年にちなんだ凝った装丁になっている。
 

 着眼の意外性で楽しませる一方、有職故実や故事に基づいた格調高い菓子も。矢の刺さった岩をかたどった「臥虎石」は、草原の石を虎と思い込み、矢を射ると、石に矢が立ったという中国の故事にちなんだ意匠です。一心を込めて事を行えばかならず成就することのたとえで、「一念巌をも通す」の語もあり、年頭にふさわしい菓子といえます。
 大正十五年用には、縁高折の図案が掲載されており、当時の需要の多さを実感できます。「真達羅」のような伝統的な三ツ盛に対して、「山の君」には「洋菓」と書かれているので、デコレーションケーキなのかもしれません。
 大正三年用に比べ、虎の姿は抽象化されたものが多く、可愛らしい感じも。しかし、「電目」「神虎」のように立派な菓銘が付いており、そのギャップが面白いですね。

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臥虎石
矢は楊枝を使うとある。
タイガー煎餅
横文字のものも。
 
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真達羅
右下はこの年の十干(じっかん)「丙」(ひのえ)の文字。
山の君

 令和四年にも、いろいろな虎の菓子が販売されます。現代の職人がどのように題材を捉え、表現するか、ご注目いただけたらと思います。
 今年の干支は「壬寅」。生命力にあふれた、成長の年といわれます。読者の皆様にとりまして、ますます良い年となりますよう願っております。

所 加奈代(虎屋文庫 研究員)

*1 江戸時代の史料にも、兎や鶴亀ほか動物意匠の菓子は見られるものの、主に吉祥としての題材であり、干支を意識したものではない。

*2 『勅題干支新年菓帖』は、明治三十四年(一九〇一)に創刊。翌年の寅年向けの内容だった。以降、四十年にわたり刊行。戦中の中断を経て、昭和三十年(一九五五)に復刊し、数年間、発行された。

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虎尾
夏の草、虎尾草をかたどっている。
電目
 
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負嵎
虎が山の一角に立て籠もり威勢をはるという意味。
神虎

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和菓子探検(2) 菱餅は何色? No.214

菱餅は何色?

「風流古今十二月ノ内 弥生」
早稲田大学演劇博物館所蔵
段飾りに緑と白を交互に重ねた菱餅が描かれている。
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(拡大図)

 雛祭と聞くと、美しい雛人形や小さな雛道具に心を躍らせる方も多いことでしょう。お雛様に供える菓子も、雛あられ、有平糖、金花糖などさまざま。なかでも蒔絵の台や三宝にのった菱餅は、ひときわ目立つ存在です。菱餅といえば、紅・白・緑の三色の餅を思い浮かべますが、かつてはこの取り合わせではありませんでした。さて何色だったのでしょうか。まずは雛祭の歴史からたどってみましょう。
 雛祭はもともと上巳の節句と呼ばれ、紙などで作った人形で身を拭い災厄を移して水辺に流し、母子草(春の七草のゴギョウ)を餅に搗きこんだ草餅を食べて邪気を払う習わしがありました。人形は、のちに女子の「ひいな遊び」と結びつき、美しく作られて室内に飾られ、やがて雛人形へとつながっていきます。また、草餅は母子草から、同じく厄除けになるとされた蓬が用いられるようになりました。
 上巳の節句での菱餅は、江戸時代に広まったとされます。形は陰陽道の考えで女性を象徴しているともいわれ、厄除けの草餅の流れを汲み、多くは緑と白で作られました。当時の錦絵を見ると、緑と白を何枚か重ねたもの、白で緑をはさんだもの、その逆などの組み合わせがあったことがわかります。しかし、絵草紙に複数の色の餅を重ねた菱餅の事例があり、二色以外の餅も存在していたようです。国学者、屋代弘賢が各藩へ出した風俗や年中行事などに関する質問状への返答を見ると、緑・白以外の菱餅を用意した地域もあったことがわかります。伊勢の白子(三重県)は「紅黄白等の餅」、和歌山では「青(緑のこと)黄白の菱に切し餅」。阿波の高川原村(徳島県)は「米・粟・黍の餅」とあるので、白・黄・茶だったのでしょうか(*1)。

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『画本千代の寿』(江戸時代後期)より
虎屋文庫蔵
三宝に色とりどりの餅がのっている。
(雛人形)(1857)より
国立国会図書館蔵

 明治時代に入っても、初めの頃は江戸時代と同様の緑・白の菱餅が主流でした。しかし、半ば以降になると少しずつ変化が見られます。「当世風俗通 ひなまつり」(一八八九)では、紅・黄・白の三色の菱餅が描かれ、子ども向けの雑誌『少年世界』(一九〇六*2)では「通常白、赤、青の三種がある」とあり、三色が定番になっていたことがわかります。さらに『料理辞典』(一九〇七)の菱餅の項に「白色の外、青・紅・黄・もちぐさ等の色つけをなすなり」とあるほか、雛菓子の見本帳でも多色の菱餅が見られることから、特定の色にこだわらないタイプも作られるようになっていったことが想像されます。一方、江戸時代同様、緑と白で用意する地域もありました。昔ながらの草餅で厄除けをする伝統が受け継がれていたといえるでしょう。

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 多色の菱餅。明治後期〜昭和戦前期に
 作成した虎屋の雛菓子見本帳より。
 
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    (拡大図) 「当世風俗通 ひなまつり」(1889)より
東京都立中央図書館特別文庫室蔵
右側の女性の後ろに、紅・黄・白の菱餅が見える。
 

 ところで、三色を「紅は桃の花、白は雪、緑は萌え出る草」に見立てているという話をよく耳にします。この典拠につき、辞典や史料類を探してみたのですが、色の理由について言及しているものはありませんでした。しかし、昭和の初めに発行された『三五乃志留辺』(一九三五)を見ると、「三色は桃の花と桃の葉の色になぞらへたものとされてゐます、(中略)或は桃の花と雪と若芽とを象徴したのであるなぞとも云はれてゐます」とあります。三色の由来は、どうもこの頃には言われていたようです。雛祭の別名である「桃の節句」と、春らしい色合いの菱餅のイメージを重ねて語られるようになり、次第に広まっていったのかもしれませんね。

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           昭和初期の写真をもとに再現した虎屋の雛飾り。
           下段中央には菱餅が置いてある。

*1 「伊勢国白子領風俗問状答」「紀伊国和歌山風俗問状答」「阿波国高河原村風俗問状答」(『日本庶民生活史料集成』第九巻、三一書房、一九六九年)。

*2 『少年世界』第十二巻第四号、博文館、一九〇六年。

森田 環(虎屋文庫 研究主査)

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和菓子探検(3) 殿様も楽しみにした嘉定菓子 No.215

殿様も楽しみにした嘉定菓子

 かつて、旧暦の六月十六日に嘉定(嘉祥)という行事がありました。旧暦の六月といえば、暑さが本格化する時期。由来は諸説ありますが、病にかからぬよう、菓子などを食べて厄除けし、福が訪れることを願うようになったといいます。
 もっとも盛んだったのは江戸時代で、幕府や宮中のほか、民間でも行われました。今回は、とりわけ盛大だった幕府の嘉定に注目しましょう。

楊洲周延「千代田之御表 六月十六日嘉祥ノ図」(1897) 以下、史料はすべて虎屋文庫蔵

(拡大図)左から羊羹、寄水、大饅頭。

 江戸幕府の嘉定菓子は八種類。饅頭や羊羹(蒸羊羹)のほか、阿古屋貝に見立てた「あこや」、現在のそぼろ餡をつけたものとは異なる、球形の「きんとん」、ねじった形の新粉餅「寄水」、鶉に見立てた餅菓子「鶉焼」、そして「のし」と「麩」です。のしは、鮑を薄く剥いで伸ばして干した熨斗鮑のこと。また麩は、煮染めたものだったようです。意外に思われるかもしれませんが、のしや麩は、古くは茶会の菓子にも使われていました。

後ろを向いている人物の傍にある白い束は、 冷麦(素麵)。
右側には酒も用意されている。

 嘉定菓子は、種類別に片木盆に載せられて江戸城の大広間に並べられ、登城した大名や旗本は順番に進み出てそのうちの一膳を頂戴しました。
 行事の詳細を記した「嘉定私記」(一八一八序)には、「饅頭三ツ盛百九拾六膳 惣数五百八拾八」というように、膳の数と菓子の個数が載っています。八種を合計すると一六一二膳となり、総数は二万個以上。さぞ壮観だったことでしょう。
 また、同史料には並べ方も出ています。「ア、マ、キ、ヤ」「ウ、ノ、ヨ、フ」と書かれているのは、それぞれの菓子の頭文字です。「ア」は「あこや」、「ヤ」は「やうかん」というように、同じものが続かないよう考慮されていることがわかります。
 しかし菓子の並べ方が決まっていたにも関わらず、下賜される菓子をめぐって、こんな話も伝えられています。天保年間(一八三〇〜四四)、大名らが我先に好みの菓子を取ろうとするようになったため、ある年、特に見苦しい振舞いをした者を老中水野忠邦が叱責したとのことです(*1)。何の菓子がもらえるか分からないなか、家格の高い大名たちが欲しいものに夢中で我を忘れてしまうとは、年に一度の機会を楽しみにする人間味が感じられ、ほほえましく思えますね。

「嘉定私記」(1818序)

(拡大図)

 楊洲周延による「千代田之御表六月十六日嘉祥ノ図」を見てみましょう。手前に羊羹や寄水などが盛られた膳、中央には菓子を手にする人物が描かれています。これは明治時代の作品で、実際とは多少異なる部分があるといいますが、先のような話を知ると、現実でも同じように、欲しい膳を見つめる大名や旗本がいたのかもしれない、と想像が膨らみます。
 嘉定は明治時代以後廃れてしまいますが、昭和五十四年(一九七九)に、全国和菓子協会によって、「和菓子の日」としてよみがえりました。この日にちなんだ特別な菓子を販売する店もあります。
 今年は食べそびれてしまったという方は、七月十四日が旧暦の六月十六日にあたるので、この日にお好きな和菓子を食べて厄除招福を願ってみてはいかがでしょうか。

幕府の嘉定菓子例(再現)
上から時計回りにきんとん、羊羹、あこや、大鶉焼、
寄水、大饅頭(中央)。 このほか、のしと麩もあった。

楊洲周延「江戸錦 嘉祥」(1903)
嘉定の菓子は、同日に奥女中も賜った。いたずらで菓子を取り上げる御坊主と、慌てる女中の様子が描かれている。

*1 風俗画報』第六号(明治二十二年七月十日号)。

参考
「甘いもの好き 殿様と和菓子」展小冊子(虎屋、二〇〇二年)、
青木直己『図説 和菓子の歴史』(筑摩書房、二〇一七年)、
相田文三「江戸幕府嘉定儀礼の『着座』 について」(『和菓子』第二十五号、虎屋、二〇一八年)。

小野 未稀(虎屋文庫 研究主任)

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和菓子探検(4) 東海道の珍名物?猿が馬場の柏餅 No.216

東海道の珍名物?猿が馬場の柏餅

柏餅

 柏餅が、男児の成長を祝う端午の節句の菓子として定着したのは、江戸時代後期のことです。柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから、子孫繁栄と結びつけられ武家の間で好まれたといいます。現在まで続くその風習によって、柏餅といえば端午が連想されますが、実は、季節を問わず販売された柏餅もあったことを、ご存じでしょうか。

 江戸時代、参勤交代のため街道が整備されたことにより、庶民の間でも、寺社参詣を目的とした旅が徐々に盛んになっていきました。お伊勢参りの流行で特に往来が多い東海道沿いには、茶屋が設けられ、名物菓子も生まれています。鶴見(神奈川県)の米饅頭、宇津(静岡県)の十団子、草津(滋賀県)の姥が餅等が知られ、猿が馬場の柏餅もその一つでした。
 猿が馬場は、白須賀宿近辺(現在の静岡県湖西市)の地名ですが(*1)、天保四年(一八三三)頃に歌川広重が東海道五十三次シリーズの二川(白須賀の隣の宿。現在の愛知県豊橋市)に柏餅屋を描いて以降(図1)、二川のイメージが強くなったようです。

図1 歌川広重「東海道五拾三次之内 二川 猿ヶ馬場」(1833頃)
メトロポリタン美術館蔵
左側に「名物かしハ餅」の看板が見える。

(拡大図)

 さてこの柏餅、現在の節句の菓子と同じものなのでしょうか。古くは万治二年(一六五九)頃の『東海道名所記』に、「あづきをつゝみし餅、うらおもて柏葉にて、つゝみたる物也」とあるほか、江戸時代後期以降の双六のコマにも葉に包まれた菓子の姿が見え(図2)、今と変わらない印象です。一方で、「東街便覧図略」(一七九五序)では平たい二色の餅の中央を窪ませ餡を載せたもの(図3)、『草まくら』(石川雅望、一八〇四年の紀行文)では葉に包まない菓子とされ、史料により異なっています。広重の錦絵には茶屋が複数描かれたものもあるので(*2)、店による違いがあったのかもしれません。

図2 双六の白須賀、二川のコマ いずれも柏餅が描かれている。
左から「東海道遊歴双六」(1852年後修、東京都立中央図書館蔵)、「五十三駅春興双陸」(年代不明、国立国会図書館蔵)、「東海道五十三次名物寿語六」(明治時代、東京都立中央図書館蔵)より。

 意外なのは、これほど有名だったにもかかわらず、味の評判がよくないことです。道中日記と呼ばれる、当時の人々の旅の記録を見ると、「たゞざく〳〵として糠をかむがごとく、嗅みありて胸わろく、ゑづきの気味頻なれば」(『東行話説』、一七六〇年)と吐き気を催していたり、「大気にまづし、色黒し」(鍋屋嘉兵衛の道中記、一八四四年)と味も色も悪い旨の感想を残していたりします。散々な書きぶりですが、道中日記は、後に旅をする人にとっては旅行案内の役割も果たしていたので、悪評がかえって人の興味を惹いたところもあったのではないでしょうか。図4の黄表紙では、毒を仕込む食べ物として登場しますが、味の悪さに引っ掛けたものかと想像したくなります。

図3 「東街便覧図略」
(1795序)より
名古屋市博物館蔵

図4 十返舎一九「猿番場柏餅」
(1804)より
国立国会図書館蔵
黄表紙(江戸時代の漫画)にも描かれており、猿が馬場といえば柏餅だったことがわかる。台には柏餅が並べられ、女性が菓子袋を手にしている。

 ちなみに地元では、この柏餅に関して、豊臣秀吉にちなむ逸話が伝えられています。小田原征伐に向かう途中の秀吉が、茶屋の老夫婦から振る舞われた蘇鉄の実(*3)入りの柏餅を気に入り、戦で勝利した後、「勝和餅」と呼ぶよう言ったとのこと。真偽のほどはわかりませんが、前述の評判も蘇鉄餡の柏餅を食べてのことだとすると、好みが分かれる味だったのかもしれません。
 有名でありながら、味は今一つの猿が馬場の柏餅。珍名物として、旅の思い出作りに一役買っていたことでしょう。

図5 落合芳幾「餅酒大合戦之図」(1859)より
東京都立中央図書館蔵
餅(菓子)と酒の合戦図で、「ばんばの猿太」という武将が「名物柏餅」の幟を背中に挿している。名前と猿の顔は地名からの連想。

*1 葛飾北斎は「春興五十三駄之内 白須賀」(一八〇四)に柏餅屋を描いている。
*2 「五十三次名所図会 丗四 二川 猿が馬場立場」(一八五五)
*3 蘇鉄の実は有毒だが、沖縄や奄美諸島では、毒抜きをして菓子に使った例がある。

参考
『「たべあるき東海道」展図録』豊橋市二川宿本陣資料館、二〇〇〇年。

河上 可央理(虎屋文庫 研究主任)

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和菓子探検(5) 菱餅をのせた鏡餅? No.217

菱餅をのせた鏡餅?

 新年を迎えるにあたって欠かせないものといえば、鏡餅です。年神様へのお供え物、あるいは稲魂(穀霊)が宿る場所などとされ、年末から新年にかけて各家庭に飾られます。
 その歴史を遡ると、古くは『源氏物語』にも登場しています。年明けに光源氏が六条院の女君たちを訪問する様子が描かれる「初音」の帖。明石の姫君の歯固の祝いに「餅鏡」、つまり鏡餅が用意されているのです。

 歯固とは、平安時代の頃より宮中で行われた行事で、正月に餅や押鮎、大根など固いものを食べて長寿を願うというものでした。歯は齢に通じ、「齢を固める」の意があったと伝わります。
  先の『源氏物語』の場面では、鏡餅に向かって願いごとを唱えたり、歌を吟じたりする人々の様子が描写されており、鏡餅が重要な存在だったことがわかります。

図1 歌川国貞「楽屋正月の図」(1863)
東京都江戸東京博物館蔵
芝居小屋の年始の楽屋風景。うしろの雛段に、座頭の中村芝翫あてに一門の人々から贈られた鏡餅が飾られている。

 さて、現在鏡餅といえば、大小の丸餅を重ね、上に橙(あるいは蜜柑)を置いたものを思い浮かべる人が多いと思います。伝統的なお飾りである譲葉や裏白、御幣、昆布などを添える家もあるでしょう。古い時代の絵図の鏡餅も概ね同様の飾り方ですが、ひとつ意外な事実も。

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図2 「年中御祝図式」(年代不明)より
吉田コレクション
紅白5枚重ねの菱餅を、三方向から、亀甲形になるようにのせる旨が書かれている。
図3 『日本風俗図絵』第5輯(1914)より 「大和耕作絵抄」(部分)」
国立国会図書館蔵
江戸時代中期の絵草子に、鏡餅を農耕の神様にお供えする様子が描かれている。

 図2は、武家の年中行事の際の行事食を解説した「年中御祝図式」(年代・作者不明)に見える「御具足鏡餅」です。室町時代以降の武家では、鏡餅は甲冑(具足)の前に飾られ、「具足餅」と呼ばれました。注連縄や海老の迫力もさることながら、驚かされるのは、菱餅がのっていることではないでしょうか。実は、今でこそ雛祭のイメージが強い菱餅ですが、古くは鏡餅にも用いられていたのです。

 これは武家に限ったことではなく、京都の菓子店・川端道喜に伝わる絵巻物「御定式御用品雛形」から、江戸時代、宮中に菱餅をのせた鏡餅が納められていたことがわかるほか、民間(図3)の事例も確認できます。丸餅と菱餅の組み合わせは、万物を二元にわける、中国伝来の陰陽思想によるものでしょう。天は円、地は角をかたどるとされるので、全体で宇宙を表現したとも考えられます。

図4 橋本周延「徳川時代貴婦人の図」(1896)
東京都江戸東京博物館蔵
明治時代に、江戸幕府の女性たちを題材に描かれたシリーズものの錦絵のひとつ。
江戸時代、将軍家や大名家などでは正月に鏡餅の贈答が行われた。
画面中央の鏡餅は、菱餅、丸餅、裏白に加え、吉祥の象徴である松を飾った豪華なもので、一際存在感を放っている。

 現在、こうした鏡餅はほとんど見られなくなりましたが、関連を思わせるのが、宮中の正月の行事食である「菱葩」です。のした丸餅の上に小豆の渋で染めた菱餅を置き、さらに白味噌、甘く煮付けた牛蒡をのせ、二つ折りにして作ります。白味噌は雑煮にちなむもの、牛蒡は歯固の押鮎の見立てとか。宮中でいつ頃から食べられるようになったのかは不明ですが、戦国時代の公家の日記『言継卿記』には既に「菱花平」の名前が見えるので、かなり古い風習と考えられます。

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図5 宝永2年(1705)「諸方御用留帳」より
虎屋黒川家文書
図6 虎屋の「花びら餅」

 明治時代には、裏千家十一代玄々斎の求めに応じて、前述の川端道喜が菱葩を初釜の茶席の菓子として工夫し、のちには一般にも「花びら餅」(図6)として広まりました。お店により作り方はさまざまですが、中に菱餅を入れるなど、菱葩の名残を感じさせるものもあります。
 今年も鏡餅を据え、花びら餅を賞味して、よい新年のスタートを切りたいですね。

河上 可央理(虎屋文庫 研究主任)

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和菓子探検(6) きんとん秘話 黄色い団子からそぼろ状の菓子へ No.218

きんとん秘話 黄色い団子からそぼろ状の菓子へ

 餡玉に餡のそぼろをつけたきんとん(*1)は、茶席の主菓子の定番です。中も外も餡の、いわば餡の塊ですが、こし、小倉、白餡などの餡玉と、そぼろの餡の組み合わせによって、切り口の色の対比や味の変化が楽しめます(図1)。

図1 きんとん製『遠桜』の製造風景/とらや
1. 着色した白餡を漉し網にかけてそぼろを作る。 2. 餡玉に竹箸でそぼろをつける。
※実際には手袋を着用して製造。

 十六世紀にはすでに茶会の菓子に使われていましたが、『日葡辞書』(一六〇三)に「中に砂糖の入った、ある種の円い餅」と記されているように、どうやら最初はそぼろつきの形ではなかった模様。ちなみに、この餅タイプのきんとんについて、伊勢貞順の作法書『酌並記』(一五三二〜七〇)に、人前でうかつに食べると、中の砂糖が飛び出して顔にかかるので要注意、端を少し食いちぎり砂糖を出してから食べるのが良い、と小籠包のような食べ方が提示されており、面白いです。

 形については、後年の元禄八年(一六九五)に作られた虎屋の菓子見本帳に絵図があり、黄色の丸い菓子として描かれています。また、原材料が書かれた見本帳からは、クチナシで着色した餡入りの新粉団子だったことがわかります(図2)。きんとんは、漢字で「金団」と書き、かつては黄色(金色)の餅や団子の類だったのです。

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図2 団子状のきんとん
「御菓子之畫圖」(1707)より
虎屋黒川家文書
図3 『古今名物御前菓子秘伝抄』(1718)
国文学研究資料館撮影・味の素食の文化センター蔵
「きんとん餅」の製法が書かれている。

 江戸時代中期の、版本としては初めての菓子製法書『古今名物御前菓子秘伝抄』(一七一八)によると、餅生地で砂糖を包み、茹でて、きな粉や胡麻をまぶすとのこと(図3)。そして『古今名物御前菓子図式』(一七六一)になると、白餡を黄色の新粉生地で包み、ささげの漉し粉をつけた「大徳寺きんとん」が登場します(*2)。餡玉に餡をつけるあたり、今の形に近づいてきた気がしませんか。

 さらに時代が下り、虎屋の文政七年(一八二四)の見本帳に、現在と同様のそぼろをつけたきんとんが見えます(図4)。

 また、江戸の菓子屋による製法書『菓子話船橋』(一八四一)の「紫きんとん」にも、「上餡を裏漉にして、そぼろにかけるなり」と書かれているので、江戸時代後期には現在のスタイルになったといえるでしょう。見本帳には図5のように多色のきんとんが並んでいて楽しいですが、それ以上に、そぼろの描き方がさまざまで目をひきます。描き手の個性という面もあるでしょうが、実際、現代でも、そぼろの固さや太さは店ごとに異なります。一般に、京都は口どけの良い柔らかなそぼろを好み、東京では餡に寒天を加え、つや感をもたせたそぼろを作る店が多いのだとか。

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図4 木の花「御菓子繪圖」(1824)より
虎屋黒川家文書
輪郭の描写からそぼろの菓子とわかる。
図5 江戸時代の菓子見本帳に描かれたそぼろのきんとん
右上から

黒金頓「御蒸菓子図」より 国立国会図書館蔵
青金飩「御菓子譜」より 同志社女子大学図書館蔵
紅金頓「菓子絵図帳・塩瀬山城」より 吉田コレクション 
五色きんとん「御菓子雛形」より 国立国会図書館蔵

 名店の技法を紹介したプロ向けの製菓本を見ると、そのつけ方に多様な表現があることに気づきました。「つける」以外に「着せる」「のせる」、さらに「箸数少なくざんぐりかけるのがよく」「箸使いに気を配り、餡種にふんわりと軽くつける」「念入りに餡玉に植えつける」といった具合で、その店のきんとんの特徴を感じさせます。熟練の職人はササッと手早くつけていきますが、まんべんなく、丸くなるようにするのは、簡単そうに見えて難しいもので、そぼろの目をつぶさないよう、先端の細い竹箸を使います。さらに手になじんだ自分専用の箸を持っている職人もいるほど。手ごしらえで形作る和菓子の魅力が、そぼろ一つ一つに詰まっています。

図6 さまざまなきんとん
上段右から
「春麗」「クリスマスツリー」「乱桔梗」/鶴屋𠮷信
下段右から
「残菊」「梢の錦」/三友堂
「下田の春」「向日葵」/とらや

参考 『和菓子技法』第三巻、主婦の友社、一九八九年。
*1 「きんとん」には、おせちに欠かせない料理のきんとん、岐阜県名菓の茶巾絞りの栗きんとんなどもある。
*2 同書には、白餡を餅生地で包み、その上をさらに白餡で丸く包むとの製法も紹介されている。

所 加奈代(虎屋文庫 研究員)

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昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、機関誌『和菓子』の発行や展示の開催を通して、和菓子情報を発信しています。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

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和菓子探検(7) どのように削った?かき氷 No.219

きんとん秘話 黄色い団子からそぼろ状の菓子へ

 冷たくて美味しい夏の風物詩といえば、かき氷ですね。
 いつ頃から食べられていたのか、はっきりとはわかりませんが、清少納言の随筆『枕草子』に「あてなるもの」(優美で上品なもの)として甘葛(あまずら*1)をかけた「削り氷」(けずりひ 図1)があげられていますので、千年以上も前の平安時代中期には楽しまれていたようです。
 当時は冬にできた氷を、地中や山奥に設けた氷室(ひむろ)と呼ばれる穴に運びこみ、夏まで保存していました。そのため、かき氷は大変貴重で、貴族のみが口にできる高級品でした。

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<p style=図1 甘葛がけの削り氷(再現模型)
虎屋文庫蔵

 ところで、かつては氷をどのように削ったのでしょうか。『枕草子』には記されていませんが、鎌倉時代初期の歌人、藤原定家の日記『明月記』にある元久元年(一二〇四)七月二十八日の記述が参考になります。定家は、歌人の源通具が削った氷を、藤原家隆らとともに食べたと書いています。この時、通具は自ら小刀を取り、白い布で氷を包んで片手で押さえながら削ったそうです。目の前で作るパフォーマンスによって、その場が盛り上がった様子が想像されますね。しかし薄く削ろうとすればするほど、氷は早く解けてしまいますので、どちらかというと砕くようにして、粒を残すようにかいていたのかもしれません。

 時代は飛び、江戸時代後期に、文人の鈴木牧之が新潟の茶屋で食べた「雪の氷」には、菜切庖丁が使われています。「さらさらと音して削り」という表現からは、雪ならではのやわらかく細かい粒子や、削る際の涼しげな音が思い起こされます。

>図2 「新版ねこの氷屋」(1889)” height=”326″>                    </p>
<p style=図2 「新版ねこの氷屋」(1889)

図2 「新版ねこの氷屋」(拡大図)

(拡大図)

虎屋文庫蔵
猫を擬人化し、繁盛する氷屋を描いた作品。明治時代、「東京横浜等の如きは(中略)五歩に一店、十歩に一舗の有様なり」(『風俗画報』第99号、1895年)と記されるほど、かき氷店が流行した。
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図3 「氷店」『東京 築地川』のうち(1962)
鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵
清方の幼少期(明治時代)の風景を描いたもの。
©Nemzoto

 削り方に変化が生まれるのは、かき氷が普及した、明治時代のことです。明治二十年(一八八七)に、氷商の村上半三郎が手回しハンドル式のかき氷機を発明し、特許を取得。この削り機によって、現在と同じような細かい粒子の氷ができるようになりました。

 とはいえ、当時の絵画史料に多く見られるのは、図2〜4のような鉋(かんな)状のもの。手軽な大きさで、かき氷屋をはじめるのに導入しやすかったためか、大正時代頃までこちらが一般的だったといわれます。これを使ったかき氷は、少々粗めで、氷の食感を楽しめるのが特徴です。

図4 かき氷屋と女性たち

図4 かき氷屋と女性たち(明治時代)
長崎大学附属図書館蔵
ふきんで氷を押さえ、刃のついた面を上に向けた台鉋に押し付けて削った。

図5 回転式の氷削り機

図5 回転式の氷削り機(昭和初期頃)
文京ふるさと歴史館蔵
戦時中に開店したあんみつ屋で使われていた。

6 手かき氷

図6 手かき氷
画像提供:羽二重餅総本舗 松岡軒
同店では現在も、白山(はくさん)の伏流水から作られた氷を、年季の入った鉋で削り、提供している。

 家庭でも気軽にかき氷が食べられるようになるのは、電気冷蔵庫が普及した昭和四十年代(一九六五〜七四)以降。家庭用のかき氷機として「きょろちゃん」(図7)が流行するなど、氷の塊を回しながら削る、手動の回転式のものが中心となっていきました。

現在では、電動のかき氷機も登場し、好みの削り方に調整できると人気を集めています。ブームもあり、見た目の華やかなかき氷が増え、トッピングや味に注目しがちですが、削り方によって、ふわふわ、ガリガリなど氷の質感もさまざまですので、その違いを楽しみながら召し上がってみてはいかがでしょうか。

きょろちゃん 復刻版

図7 きょろちゃん 復刻版(2016年発売)
画像提供:タイガー魔法瓶株式会社
昭和51年(1976)発売。昭和53年にデザインを大きく刷新した3代目のきょろちゃんが一躍ブームとなった。氷を削ると目が左右に動く仕様になっている。

初雪氷削機 HB320A

図8 初雪氷削機 HB320A(2009年発売)
画像提供:株式会社中部コーポレーション
昭和24年(1949)から改良を重ねながら作り続けられている日本製かき氷機の定番品。雪のようにふんわりとした食感のかき氷を作ることができる。

参考 鈴木牧之『北越雪譜』二編、一八四一〜四二年。
   田口哲也『氷の文化史―人と氷とのふれあいの歴史』冷凍食品新聞社、一九九四年。
   『水登ともに』四二七号、水資源協会、一九九九年、二十九頁。

*1 古代から中世にかけて作られた甘味料。冬にもっとも糖度が上がる、ツタの樹液を煮詰めて作ったとされる。

小野 未稀(虎屋文庫 研究主任)

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和菓子探検(8) 菓子を撒いて厄除招福! No.220

きんとん秘話 黄色い団子からそぼろ状の菓子へ

 家を新築する際の上棟式(建前とも)で、屋根から餅や菓子を撒くことがあります(図1)。最近は見かけることが少なくなりましたが、どんな菓子が降ってくるのか、たくさん拾えるのか、楽しみにしていた人もいたのではないでしょうか。餅や菓子を用意するのは、神様に供えるため、そしてこれらを撒くことで災厄を払うことができるとされ、上棟式のほか、祭礼や祝いごとなどで見られます。なかには珍しいものもありますので、ご紹介しましょう。

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<p style=「大工上棟之図」より

 図2は、紀州(和歌山県)の蛭子神社(現・水門吹上神社)の新嘗祭(*1)の様子を描いたもの。屋根の上から男が搗きたての巨大な餅を投げ落としており、それを境内にいる大勢の人々が手を伸ばし、我先にとちぎり、奪い取ろうとしています。屋根には盥に山盛りになった丸餅もあるので、このあと撒くのでしょう。

 

図1「大工上棟之図」 国立国会図書館蔵

図1「大工上棟之図」 国立国会図書館蔵
屋根の両側で餅を撒いている。

図2 『紀伊国名所図会』後編巻1(1838)

図2 『紀伊国名所図会』後編巻1(1838)より
国立国会図書館蔵

 図3は岐阜県郡上市の長滝白山神社の、一月六日に豊作を願って行われる六日祭(花奪い祭)で奉納される「長滝の延年」の「酌取り」の一コマ。古の宴会を表現した演目で、舞台の中央には「菓子台」が据えられ、丸餅、爆米、干柿、栗、胡桃などがのせられます。演目の終了とともに、演者や神社関係者によって撒かれ、手にすることができると縁起が良いとされます。「菓子」といっても、現在のような甘い加工品が一つもないので、不思議に思われるかもしれません。かつて「菓子」は木の実・果物を指し、古い献立記録などでも、干柿や栗ほかが多く使われています。由緒ある祭で、昔の食文化のおもかげが残されている、貴重な事例といえるでしょう。

図3 上は長滝の延年の「酌取り」

図3 上は長滝の延年の「酌取り」。
下は舞台の中央に置かれた菓子台で、演目終了後、台上の餅類は参加者に撒かれる。
画像提供:白山文化博物館

 愛知県豊橋市の安久美神戸神明社で二月十一日に厄除招福を願って行われる鬼祭では、鬼が飴を撒きます。赤鬼と天狗が闘う神事の最後、追い詰められた鬼が小袋に入れた飴や大量の粉(うどん粉)をまぶした飴を撒き散らしながら逃走、町内を回るというものです(図4)。これらは「タンキリ飴」と総称され、食べたり、粉を浴びたりすると、病除けになるとされることから、鬼たちのあとについて、もらったり拾ったりしようとする「追っかけ」の参加者も多いとか。赤鬼のほか、天狗や小鬼たちも分担するため、飴は一t、粉も二t以上になるそうです(*3)。
一般に菓子を撒く行事は、神事などの最後か、一番盛り上がった時にだけ行うパターンがほとんどですが、鬼祭の場合は終日続きます(*4)。鬼たちと一緒にどこまでも町を歩いてみたくなりますね。

 各地の行事は二〇二〇年にコロナ禍に巻き込まれて以降、中止や規模縮小が続きましたが、最近は再開したり、以前の規模で行なったりするところも目立つようになってきました。今回ご紹介した行事も、これまで以上に参加する人々が増えていくことでしょう。

図4 鬼祭の様子。右は境内で飴が撒き散らされた瞬間。
左は、町を練り歩く赤鬼と祭の参加者。『春を呼ぶ、鬼と天狗とタンキリ飴 豊橋鬼祭。』より
画像提供:豊橋市図書館

*1 稲の収穫を祝い、来年の豊作を祈願する祭礼。
*2 『産経新聞』和歌山版、二〇一七年十一月二十四日。
*3 図4同書、豊橋市広報広聴課、二〇一四年。なお、飴ではなく、あられやクッキー、落花生を撒く地区もある。
*4 同市で七月に行われる「豊橋祇園祭」でも町内各所で饅頭が撒かれている。

森田 環(虎屋文庫 上席研究員)

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和菓子探検(9) 世界を魅了!金花糖とその仲間たち No.221

世界を魅了!金花糖とその仲間たち

 金花糖(*)をご存じでしょうか。砂糖と水を煮詰め、型に流して作る菓子で、動物や人形をかたどった可愛らしいものが、雑誌やテレビ番組で紹介されることがあります。

 特に注目されるのは雛祭の頃。金沢が有名で、鯛・野菜・果物形の金花糖を籠や台に盛った雛菓子が人気です(図1)。また、新潟県の燕市で、二月二十五日に行われる天神講では、天神や達磨、招き猫などの形の金花糖が供えられます。

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<p style=招き猫
(写真提供:萬年堂)
中は空洞。型抜き
してから彩色する。

 現在、北陸や九州北部ほか限られた地域のみで作られていますが、江戸時代には、白砂糖を使った高級品として、各地でもてはやされました。江戸幕府の御用をつとめた金沢丹後の菓子見本帳に鯛形の絵図が描かれていたり、禁裏(宮中)御用菓子屋の虎屋の注文記録に「金花糖仕立」の瓢箪形や鮎形があったり、史料がいろいろ残っています。鮮やかな色付けができ、落雁同様、型次第で大振りのものも製造可能なので、豪華な贈り物としても好まれたのでしょう。

 しかし白砂糖の入手がたやすくなるにつれ、その価値は低下し、小さめの平たい金花糖などは駄菓子の一種に。鯛や人形といった立体的なものを作る店も次第に減っていき、金花糖を見かけることは少なくなりました。

図 1,2

(右)図1 雛菓子の金花糖(写真提供:加賀藩御用菓子司 森八)
(左)図2 「金か糖」の絵図 「菓子図譜」より 東北大学附属図書館狩野文庫蔵
江戸時代の菓子見本帳に見える平たい金花糖。

図 3,4

(右)図3 金花糖作り(写真提供:萬年堂)
木型に砂糖液を流す様子。ご主人は江戸の金花糖の復活に努め、自ら製造。
(左)図4 歌川国貞(三代豊国)「誂織当世島(金花糖)」
江戸時代・弘化(1844-47)頃 静嘉堂文庫美術館蔵
金魚の金花糖を、もの珍しそうにのぞきこむ少年が愛らしい。

 一方で、金花糖のような砂糖菓子は日本だけでなく、世界各国に存在するのですから驚きです(図5〜8)。たとえばディズニー・アニメーションの「リメンバー・ミー」(二〇一七)にも描かれたメキシコの「死者の日」では、髑髏形の砂糖菓子が供物として使われます。この祭りはイタリアのシチリア島でも行われていますが、こちらは中世の騎士や村人をかたどった砂糖人形が伝統的。近年ではアニメーションのキャラクターも題材になり、時代の変化を感じさせます。

図5

図5 金花糖とその仲間たち(写真提供:溝口政子)
右から日本の2点(松/長崎県平戸市、天神/新潟県燕市)、シチリア島、メキシコ。

図 6,7

(左)図6 ブルガリアの砂糖菓子(写真提供:溝口政子)
(右)図7 シチリア島の砂糖人形(筆者撮影) アニメーションのキャラクターなども登場。

図8

図8 中国の糖塔(写真提供:王来華)

 砂糖人形はエジプトやチュニジアにもありますが、中国の場合、「糖塔」「糖供」の名で楼閣や馬、獅子などを表現したものが知られます。いずれの国も型(木型ほか)に砂糖液を流しますが、ルーツをたどると、はじまりは中東のようです。型流しの製法は十世紀にはエジプトに見られ、砂糖菓子作りの技法は交易やヨーロッパ植民地政策が進んだ十六世紀に広く各地に伝わったといいます。ヨーロッパ諸国の王宮での宴会では、食卓に人形や動物ほか多様な形の砂糖菓子を飾りました。砂糖の芸術品は富と権力の象徴で、贅沢の極みだったのです。しかしその技術が陶磁器にも応用されると、作り直しの必要がないため、陶磁器の飾り物が主流になりました。

 砂糖でできた菓子は溶けたり、割れたり、こわれてしまう儚さがありますが、色かたちもさまざまに世界各地で愛されてきたとは、感慨深いものがあります。そうした金花糖の魅力を伝えようと、所蔵の木型や実物を展示して紹介したり、新たなアート作品を創ったりする方も(図9)。いつか世界中の金花糖とその仲間たちを集めた展覧会が実現できたら素晴らしいですね。

図9 NEW金花糖 ENGIMONO-吉祥- 東ちなつ
※敬称略

*金華糖、金価糖の表記があるほか、氷菓子、砂糖菓子などとも呼ばれる。

参考
ローラ・メイソン著・龍和子訳『キャンディと砂糖菓子の歴史物語』原書房、二〇一八年。
ジェリ・クィンジオ著・富原まさ江訳『図説 デザートの歴史』原書房、二〇二〇年。
荒尾美代「砂糖の魔法にかかった人形たち〜第一回全国金花糖博覧会〜」(月報『砂糖類・でん粉情報』独立行政法人農畜産業振興機構、二〇一九年、同ホームページにも掲載)。
溝口政子「菓子類などの見舞品」(『疱瘡見舞品から大坂を覗く─「小児里う疱瘡扣」をめぐって─』唐澤博物館、二〇二二年)。

中山 圭子(虎屋文庫 主席研究員)

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和菓子探検(10) 行事のなかに息づく新粉細工 No.223

行事のなかに息づく新粉細工

 米は日本人の常食。近年は米粉にも新たな注目が集まり、ケーキやパンなど用途の広がりを見せています。和菓子の世界では、うるち米の粉は「新粉」(*)と呼ばれ、団子や外郎、柏餅などに使われる、主要な原材料の一つです。

 さて、新粉と聞くと、かつて縁日の人気者だった新粉細工を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。新粉生地(新粉を湯で練り、蒸して捏ねたもの)を指先や鋏を使って細工し、注文に応じて動物や果物を作ります(図1)。餅に比べて加工がしやすく、ベタつかないので、右下の写真のような皮を剥いた蜜柑なども表現できます。

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<p style=新粉細工の蜜柑
(作成:小川三智之助、
撮影:溝口政子)

 残念ながら、今では縁日で目にする機会はほとんどありませんが、新粉細工自体は、実は各地の行事で重要な役割を担っています。これは、「米」が日本人にとって神聖な存在で、特別な食べ物とみなされてきたことが大きく関係しているといえるでしょう。米から作る団子などのお供え物が、段々と工夫され、色や形の凝った細工物になっていったと想像されます。

図 1,2

図1 新粉細工の模型(作成:小川三智之助 虎屋文庫蔵)
技術保存のため、新粉細工職人の故・小川三智之助氏に作成していただいたもの。
新粉細工の器に新粉生地を切ったものを盛り付けた「寄せ鍋」(中央)は、黒蜜をかけて食べる。

図 3,4

図2 節季市に並ぶ「ちんころ」(写真提供:一般社団法人 十日町市観光協会)
「ちんころ」とは子犬のこと。午前中には売り切れるほどの人気だそうだ。

 秋田県湯沢市の二月の犬っこまつりに並ぶのは犬形の「犬っこ」(図3)。やはり手のひらに載る可愛いサイズで、泥棒除けのおまじないとして玄関や窓に置かれます。

 また、岡山県瀬戸内市の牛窓では、八朔(旧暦八月一日)に雛人形を飾って女の子の成長を祝いますが、その際に「ししこま」と呼ばれる新粉細工を作ります(図4)。
海の幸、山の幸が色とりどりに用意され、非常に華やかです。

図3「犬っこ」の根付

図3「犬っこ」の根付
持ち帰って長く楽しめるよう、
新粉入りの樹脂粘土で作った土産品もある。

図4 上:ししこま作りの様子

図4 左:ししこま作りの様子
  (撮影:岡國太郎)
   右:ししこま
  (写真提供:一般社団法人 瀬戸内市観光協会)

 対して、新潟県魚沼市堀之内の「はと飾り」は、素朴な造形が印象的(図5)。新粉製の鳩をモミジの枝につけたもので、二月十一日の、雪中花水祝という子孫繁栄を祈願する行事の縁起物です。本来は、小正月の行事だったようで、豊穣を祈る餅花、繭玉の系譜に連なるものでしょう。

 これらは地域の人々によって大切に作り続けられてきました。集まって共同で作業を行うことで、連帯感や信仰心が育まれてきたのでしょう。現在も保存会などにより地域の子どもたちへの伝承が進められているそうで心強いですね。

 

 今回ご紹介したのはごく一例に過ぎず、その土地ならではの新粉細工が多数あると聞きます。ご存知の情報があれば、ぜひお知らせください。

図5 はと飾り/お菓子吉田屋

図5 はと飾り/お菓子吉田屋
(撮影:溝口政子)
地域の複数の店や保存会で作られている。

図6 だんご馬/山地製菓

図6 だんご馬/山地製菓
(写真提供:善通寺市)
ガラスの眼を入れ、紅白の手綱や色鮮やかな帯で美しく飾られる。

※敬称略

*粒子の細かい順に、上用粉、上新粉、新粉と呼び分けられる。

参考
亀井千歩子著『縁起菓子・祝い菓子 おいしい祈りのかたち』淡交社、2000年。
溝口政子・中山圭子共著『福を招く お守り菓子 北海道から沖縄まで』講談社、2011年。

所 加奈代(虎屋文庫 研究員)

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