日本の文化−四季のうつろい(七)松竹梅 熊倉功夫 No.179

松竹梅 熊倉功夫

干菓子 松竹梅  近頃、立派な門松を見ることが少なくなったように思います。私の子どもの頃の東京では、大きなお家の門前に、出入りの植木屋さんの仕事なのでしょうが、鮮やかな切り口を見せる竹が三本、そして松がそれを囲み、新しい藁で胴を締めた門松が、必ずと言ってよいほど立てられたものでした。さて、そこに梅の枝があったのか、記憶にありませんが、恩師の西山松之助先生が、故郷の門松のことを書かれているのを読みますと、播州有年の里では、早咲きの梅がこれに添えられていた、とあります。松竹梅は正月のシンボルです。
 松竹梅という組み合わせは中国が源流です。中国では歳寒三友といって厳冬の中でも葉を落とさない松や竹の剛さや、雪中にも花を咲かせる梅のけなげさに、ことに文人たちは共感したようです。すでに唐代から松竹梅がセットになって詩の中にあらわれます。

雪持竹(ゆきもちだけ) ところが不思議なことに、中国では松竹梅が一組となって三友とされても、そこにはおめでたい意味がないのです。どうやら祝意の象徴としての松竹梅は、日本の発明だったようです。
 そもそも松竹梅セットが日本に輸入されたのは、室町時代。今から六〇〇年くらい前ではないかといわれます。とすると、当時の五山の禅僧たちが中国宋代の文人の風を慕って詩文を綴る、いわゆる五山文学の影響であったかもしれません。
 日本では、竹は神の宿るところです。竹の内側が中空であるところに、神秘が生まれます。かぐや姫が竹の中から生まれたのはその証といってよいでしょう。
 松もまた、神の宿る依代です。能舞台の背景には必ず松が描かれます。あの松は春日大社の参道にある影向の松を写していて、影向の松に降り来たった神が、翁の姿で舞台に登場するわけです。つまり、竹も松も神が宿る聖なる植物。おそらく松と竹の性質に引かれて梅まで一緒に寿福の象徴となったのではないでしょうか。
 同じ頃、七福神のセットも誕生しています。その由来を見ますと、ヒンドゥー教からきた大黒や毘沙門天、弁財天がいるかと思えば、道教の寿老人がいたり、仏教の布袋がいたりいろいろです。それを縁起物として七福神という形にまとめたのが、松竹梅と同時代の室町時代。どうやらこの時代から、庶民の福神の中へも大陸の影響が入り込んできたのだと思います。

春告草(はるつげくさ)  話が脇道にそれました。松竹梅に戻ります。お菓子では松竹梅が一つにまとまったものは少ないでしょう。松竹梅をすべて入れるにはモチーフとして多すぎます。ですから松のお菓子と竹のお菓子、梅のお菓子を組み合わせて、松竹梅にする例はいろいろありました。その典型は、昔の婚礼の引出物に使われたお菓子です。杉の縁高に羊羹が一本と煉切りが二つで、松が羊羹の意匠であれば笹と梅が煉切り、といった具合で、まことに巨大なお菓子でした。甘いもの大好きな私が毎日食べても食べきれないで、煉切りの表面が堅くなってしまうのが口惜しかった記憶があります。あの三つ組の引出物も、最近は見たことがありません。ちょっと淋しいことです。
 婚礼の松竹といえば、落語の松竹梅が思い出されます。松五郎と竹蔵と梅吉が、婚礼に招かれます。ご隠居さんに相談したら、三人揃っての口上を教えられました。

根引きの松 「なったあ、なったあ、蛇になった、当家の婿殿蛇になった、なんの蛇になあられた、長者になあられた」というのですが、最後を言い間違えて、「亡者になあられた」と失敗する話です。江戸時代は松竹梅の全盛期で、落語(元は江戸の小咄)にもあるとおり、人名や店名、品名などからあらゆるデザインやら美術まで松竹梅が登場しないところはない、といった流行をみました。
 どうやら松竹梅でものの等級を表すようになったのも江戸時代から。最初は遊女の格付けだったともいいますが、誰でも思い浮かべるのは鰻の蒲焼。「待つ(松)だけ(竹)うめえ(梅)」というダジャレがあるくらいです。
 今年も松竹梅で、めでたく春を迎えられました。このへんでお開きにいたしましょう。

■菓子製作:菊岡洋之(本家菊屋/奈良県大和郡山市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(八)端午の節句 熊倉功夫 No.180

端午の節句 熊倉功夫

皐月の干菓子 「柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ 粽たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ……」*
 端午の節句といえば、なんといっても粽。そして柏餅。菖蒲湯に入って、空には鯉のぼりがはためいて、爽やかな初夏の風が若葉の間を通り抜けていく。そんなイメージが、五月五日のこどもの日の典型的な姿でしょう。av
 そもそも五月五日は男の子の祝日なのに、なぜ子どもの日なのでしょう。それなら三月三日も子どもの日にしてほしい、とジェンダー論者から苦情が来てもおかしくありません。しかし、実をいうと、五月五日は女性の日でもありました。
 端午の「午」は、午(うま)。午は、十二ヵ月を十二支にあてた時の五月に相当します。そして、午の月の、最初の午の日が端午です。

皐月の干菓子 午の月の卦は で、五つの陽の下から陰が現れる月で、陽が男性であれば、その一番下に女性が現れるわけで、女性の存在が強く感じられる月といえましょう。そんなわけで、五月五日を「女の家」という言い方が古くからありました。端午の節句の前夜には、菖蒲で屋根を葺いた小屋をつくり、そこへ女たちが集まって好きなようにしても、誰も文句を言わなかったという話も聞きました。
 五月が「午」ということは、十一月が「子」。つまり一年の始まりです。十一月を一陽来復というように、十一月の卦は 。陰の詰まった一番下から陽がきざしてきて別の意味での正月になります。十一月に歌舞伎の顔見世が行われるのも、茶の湯で炉を開くのも、その卦からくる正月の気分です。
 ところで、五月五日は、中国でも日本でも決してめでたい日ではありません。厄の日ですから、いろいろな手を使って、身に降りかかる厄を払い除ける日です。よもぎや菖蒲を庇にさすのも、その強烈な匂いで厄を払う気持ちです。またこの日に薬草を摘んで、病魔から逃れようとします。それが薬玉です。
 古代の記録に、野に出て薬草を採る「薬狩り」の記録があります。また、「あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる」という額田王の歌も、薬狩りの中の恋のたわむれを歌にしたものでしょう。

久壽玉(くすだま) 摘んできた薬草を玉状にまとめたものが薬玉です。今、薬玉というと、祝賀会のイベントで、皆で紐を引くとパーンと玉が割れて中から紙吹雪が舞ったり、鳩が飛び出したりするものを思い浮かべます。でも、もともとは厄払いだったのです。
 なぜ厄払いの薬玉がめでたい行事のシンボルになるのか、もう一つわかりませんが、意外にヒントは、割る時に引っぱる紐にあるのかもしれません。
 薬玉には、必ず五色の色糸が下げられていました。中国の年中行事を記した『荊楚歳時記』という本に、端午には薬草を採り、五彩の糸を臂にかける、とあります。いわゆる五行説の五色で、青、赤、白、黒(紫)、黄の五色の糸を薬玉に結びつけるのが決まりでした。それが薬玉割りの紐なのです。この紐を引くと、厄がパッと消えて福がやってくる、というイメージです。

菖蒲(あやめ) 五月五日の薬狩りに、男たちは鹿を追って若い角を採りました。これが鹿茸です。それを袋に入れ、さらに袋を花で飾ります。これも薬玉です。その姿を想像すると、インドの訶梨勒が思い起こされます。訶梨勒も元は薬ですが、日本に入りますと、それを入れた袋を美しく装飾して部屋飾りへと展開します。
 薬玉でも訶梨勒でも、本来は信仰的な医学要素の強い習慣でしたでしょうが、日本ではそれをいつの間にか、楽しい行事に変身させ、美しい装飾へと発展させました。こういうところに日本の生活文化の特性があるのではありませんか。
 美しい薬玉のいろいろは、そのままお菓子にして食べてしまいたいようです。

■菓子製作:菊岡洋之(本家菊屋/奈良県大和郡山市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(一)七夕 No.173

七夕

星合(ほしあい) 年に1 度の出合い。江戸の風流人は、たらいにはった水に夜空を映して盃を楽しんだとか。(煉りきり) 七夕と書いてどうして「たなばた」と読むのでしょう。すでにこの文字と読みのズレの中に、七夕の複雑な性格がひそんでいます。牽牛星すなわち鷲座のアルタイルと織女星の琴座のヴェガの恋の物語である中国のお祭りと、日本の棚機女の信仰が習合して生まれた年中行事であることが、文字(中国)と読み(日本)という複雑さにあらわれているのです。
 五節句というと、何かおめでたい日であるかのように思えますが、実は反対です。むしろ厄日なのです。日本人は厄とかケガレがいつの間にか体にくっついてしまうと考えてきました。外を歩いていれば知らず知らずのうちにケガレに触れてしまうことがあります。同様に、厄も年月を経るうちにくっついてきます。ですから、時々、ケガレをキヨメ、厄を払う必要があって、それをまとめてやってしまおう、というのが節句です。
 厄払いやキヨメの作法は、日本の大切な文化です。その中で最も一般的なのは「水に流す」という方法。要領よく、人間のかわり( 形代)を見立てて、これに厄を着てもらって水(川)に流してしまいます。それって、ちょっと安易じゃない、という気もしますが、日本人は四季折々、それどころか毎月、毎日というくらい、キヨメをしないと気持ちが悪いと思ってきました。
 七夕も実は、飾ったものを川に流す七夕流しをもって終了します。しかし、今ではそこまでやらないので、厄払い・ケガレをキヨメルという七夕の意味がわかりにくくなっているといえましょう。  はじめから理屈っぽい話になって恐縮でした。

かささぎの橋 天の川を橋渡しする鳥「かささぎ」を表しました。(錦玉・ういろう生地) さて、中国では牽牛は牛ですから農耕の象徴でしょう。織女は織物ですから工業です。農業と工業が合体して文明が生まれると考えると、七夕は人間の歴史を象徴する寓話かもしれません。
 見事に織られた裂は権威を表し、マジカルな力を持ちます。そこで、機織りが巧みであるように乞い願う乞巧奠という行事が中国で生まれて、日本に伝わります。七月七日の夜が晴れて、天の川が天心にかかり、それをはさんで牽牛星と織女星が見つめ合うかごとく輝くのを見ながら、技の向上を願って供え物をする行事が、日本の宮中でもおこなわれました。  一方、日本には水辺で棚機を使う女性が、神の来臨を待って一夜を過ごし、神を送り出すという信仰がありました。これも中国の影響がないかというと、そうもいえませんが、面白いのは、その神がケガレを払い、神を送り出すと、その土地も人もキヨメられるということです。効果は厄払いです。
 ところで日本に入った乞巧奠は、機織りよりも和歌の上達、さらに庶民には書道の上達へと幅を広げて、現代の、笹に短冊をつるして願いごとを書くお祭りに変わってきました。しかし、つい最近まで、いや今でも、その笹や短冊、供え物を川や海に流すという習いが、場所によってはおこなわれています。
 古代日本の乞巧奠では、内膳司から索餅が宮中に献上されるということが、記録にあらわれます。索餅は「おこり」などの病を防ぐ力がある特別な食べ物というのですが、実体は何なのか、よくわかりません。一説には小麦粉を紐状にして二本をねじり合わせた菓子だとも言われてきましたが、最近、奥村彪生さんが『日本めん食文化の一三〇〇年』という本を出されて、自ら古代の索餅作りに挑戦した結果、太さ二・五ミリくらいの手のべ素麺(もちろん今の手のべ素麺とは製法が違いますが)であることを実証しました。私も奥村さんの本を読むまでは、索餅に「むぎなわ」という読みがあるくらいですから、縄くらいに太い小麦粉を練った紐状のものと思っていましたが、実はもっとずっと細くて、まさに素麺の原型といえることが明らかになったというわけです。ちなみに素麺の関係団体では、七月七日を素麺の日としています。

願いの袖 牽牛に会う日に想いを馳せる織姫の心模様を二色の餡に写しました。(餡・団子生地) 江戸時代の宮中の七夕行事には素麺が登場します。後水尾天皇(一五九六〜一六八〇)が著した『当時年中行事』には、和歌を書いた梶の葉(実際、私も筆で書いてみましたが、表面がザラザラした梶の葉に、まことによく墨がのるのに驚かされました)で、索餅を包み、これを梶の皮と素麺で十文字にくくって、女房が屋根の上に放り上げる、とあります。これですと索餅と 素麺が別ものになってしまいますが、はっきりと素麺が七夕の行事に一役買っています。
 索餅と素麺の考証はともかくとして、今では素麺はお菓子ではありませんが、かつては重要な間食でした。七夕というと、織物や五色の糸をイメージしたお菓子、梶の葉、笹をモチーフにしたお菓子が趣向として目立ちます。これに加えて素麺を上手にアレンジしても面白いかもしれません。そういえば三輪素麺の山本さんは、恋素麺という紅白の素麺を出しています。七夕の一夜、恋が成就するのを願って、これをすするのも一興でしょう。

■菓子製作:佐藤慎太郎(乃し梅本舗 佐藤屋/山形県山形市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(二)雲間の月 No.174

雲間の月

吹きわくる「吹きわくる竹のあなたに月見えて 籬(まがき)はくらき 秋風の音」(祝子内親王)。銘や色などから、月を感じていただく趣向の菓子です。 月といえば秋。月は秋の最も嬉しい景物です。ところで、その月が地球に一番近い天体なのですが、実に不思議、神秘的な存在なのです。
 たとえば、月の裏側は地球から見えない。たしかにいつ見てもお月様では、うさぎが餅つきをしています。しかし地球も公転していますし、月も自転しているわけで、両方が完全に同調していなければ、裏が見えてしまいます。どうして完全に同調できているのか、理由はわかりません。
 では完全に月の半分だけしか見えないのかといえば、月は微妙に揺らめいていて、周辺のあたりは裏側も少し覗けるのだそうです。恥ずかしそうに裏は見せないくせに、ちらちらと袖口の裏だけは見せるなんて、実に心憎いしうちではありませんか。

 日本人は月が好きです。演歌をひもといても、太陽を歌ったものに比べて月を題材にしたもののほうが断然多いでしょう。でも、昔から月が好きかというと、そうとも言えぬようです。
 平安時代の『古今和歌集』では、全1111首のうち、月が登場する歌は31首。約3%に過ぎません。ところが鎌倉時代の『新古今和歌集』では、1980首中、月の歌は300首ですから約15%と5倍に増加しています。日本人は、中世になって、だんだん月が好きになりました。しかも、ただ月が好きというだけではありません。好きな月の姿に変化があります。
 平安時代、藤原氏が栄華を極めたのは藤原道長(966〜1027)の時代です。道長は、わが権力の絶大なることを誇って、宴会でこんな歌を披露しました。「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」。一点の欠けたところもない満月のように、この世はすべてわがもの、と大いに自慢した歌です。月は満月こそすばらしい。これが古代の月のイメージでした。
 ところが中世の日本人の美意識を最もよくあらわしている『徒然草』では「花は盛りに 月は隈なきをのみ 見るものかは」といっています。隈なく皓々と照り輝く月は見たくない、というのです。むしろ欠けている月、雲がかかって見えにくい月がよい、という全く反対の月の鑑賞態度があらわれます。
 そのことを端的に語ったのが、茶の湯の始祖ともいうべき村田珠光(1423〜1502)です。珠光は月についてこう語っています。

 月も雲間のなきは嫌にて候へ    (『禅鳳雑談』)

月は雲の絶え間にときどき見えるのがよいので、くもりなく輝いている月は嫌だ、というのです。これが、中世に生まれた日本人の美意識です。

 月に村雲、という言葉があります。
  むらくもや 月の隈をば はらふらん
   晴行くたびに 照りまさるかな      源 俊頼(『金葉和歌集』)

むらくも「波に兎」は伝統のモチーフです。そこに、雲間から月がのぞいて、月光がさしたさまを重ね合わせてみました。 むらむらと集まり散ってゆく雲にさえぎられるからこそ、晴れればまた一段と美しく月は輝きます。ここが大事です。先程述べましたように、隠された月が面白いということは、その背後に、美しく照り輝く月のイメージがあるのです。つまり隠された月と照り輝く月のダブルイメージの面白さです。初めから終わりまで隠れていたのではつまりません。逆に、満月が一人輝いているだけでは曲がなさすぎます。完全な美しさが、何か障りがあって隠されているという表現法を「やつしの美」といいます。
 やつれるといえば、病気でゲッソリと痩せてしまった状態ですが、中世の美意識を表現する言葉は「わび」にしても「さび」にしても、本来は、がっくりと落ちこんだ状態であったり、鉄が錆びついて崩れかけている状態に通じる意味であるようにマイナスイメージの場合が多く、その否定的な状態を逆転させて積極的な美意識にとり直したところに中世日本の独自性がありました。
 「やつし」も同じで、それ自体は嬉しい言葉ではないのですが、やつれる前の本来の美しさと重ね合わせることで、イメージが大きく拡がってゆくところがあります。

月次(つきなみ)「水のおもに 照る月なみを数ふれば 今宵ぞ秋の最中なりける」(源順)。中秋の名月をうたった和歌からの発想ですが、菓子に描いた月は満月ではありません。そのおもしろさに気付いていただけたら。 民芸運動の創始者、柳宗悦の言葉に「秋サブ夏ヲヘテ」という一句があります。夏の暑さに負けぬあつい情熱、はちきれんばかりの元気。それがあればこそ、秋の静寂の美が心の底から楽しめます。この「サブ」は淋しいという意味だけでなく、「さび」という美と、それをよしとする生き方を意味しています。
 中秋の名月を、皆さんはどんなふうに楽しまれるでしょうか。鑑賞のスタイルはさまざまです。皓々たる月を見る方も、雲の間に月を見る方も、はたまた雨雲に閉ざされて全く見えぬ月を心に思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。それぞれに月の楽しみ方があります。その時、目の前の月ばかりでなく、その対極にある月をイメージしていただくと、ますます月は美しく見えるのではないかと思います。
 月はお菓子にとって欠くことのできないモチーフです。月に波、月に千鳥、月に雁と、いろいろ月の菓子はありましょう。さらに月は見えないけれど、銘やデザインの中に月が隠されているお菓子も少なくありません。見えない月を探す楽しみも日本文化の楽しみ方の一つかもしれません。

■菓子製作:佐藤慎太郎(乃し梅本舗 佐藤屋/山形県山形市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(三)お餅の話 熊倉功夫 No.175

お餅の話 熊倉功夫

柚(ゆう)柚子の黄色が暖かな灯りのようにともる、真冬の菓子です。求皮に淡雪と白餡を加えた雪平餅で、柚子餡を包んでいます。 正月といえば、お餅がつきもの。わが家のご近所の病院では、今年も餅つき大会が開かれるはずです。昔は、町内のあちこちで餅つきの音が聞こえたものですが、近頃は、まず家で餅をつくことがなくなりました。
 いつの頃から正月餅をつくようになったのか、わかりません。しかし、室町時代の連歌師・宗長の日記に「正月餅つく家々、ほこらしきを聞て、大方の旅のやとりもことたりぬ、隣の餅を耳につかせて」とありますのが大永六年(一五二六)のことでした。おそらく室町時代には、正月のための鏡餅など、行事に供える餅をつくことが一般化したと思われます。
 子どもの頃、父の田舎の家でも十二月二十七、八日頃でしたか、餅つきがありました。一年中、納屋の片隅にあった臼が持ち出されて、きれいに洗われ、大きな蒸籠に真白なもち米が蒸し上がります。つきたてのお餅に甘い餡をつけて食べたおいしさは、今も忘れられません。のし餅がたくさん作られて近所の衆や親戚に配られます。鏡餅もできます。とても贅沢な気分で家中が満たされました。
 正月餅は、いうまでもなく雑煮と鏡餅の習慣に深く関わっています。大事なことは、お餅が丸いこと。関東では雑煮のお餅は切り餅ですが、関西の丸餅が本来の姿でしょう。鏡餅は必ず丸い。丸い姿は心すなわち霊の象徴です。霊は玉でもあります。新しい年の幸せをもたらす歳神が、新玉を分けてくださる。それがお年玉ですから、子どもだけがもらうものではありません。その新玉を形どったのが、お餅です。さあ、これを食べて、この一年を無病息災に過ごそうと祈願いたします。

紅梅 雪国の民にとって、寒中に咲く紅梅のめでたさは格別。紅白二重に包んだ煉りきりの中から、梅の花が浮かび上がる意匠も独特の菓子です。  鏡餅は小正月まで飾っておきますので、固く固くなってしまいます。これに刃物を入れるのははばかられると、打ち欠きます。欠いた餅ですから、かき餅です。焼いてもなかなか固いものですから、食べるのに骨が折れます。よほど歯が丈夫でなければ食べられません。歯という字が齢という漢字に入っているように、年齢を重ねると、まず弱ってくるのが歯です。そこで、歯が丈夫で長寿でありますようにと、わざと固い餅などを食べるのが歯固めの行事です。鏡餅には、そうした思いも加わっているのです。
 日本の正月には、お餅が欠かせない。ことに最近は日常、お餅を食べる機会が減りましたので、お餅といえば正月を連想してしまうのですが、戦前の記録などを見ますと、何かと行事の時は餅をついてふるまっています。
 そもそも日本を含むアジアの照葉樹林帯(カシ、シイ、クス、ツバキなどの木が中心となる植生の地域)に生活する人々は、もち米が大好きです。中国・雲南に行ってみたら、もち米が常食されているのに驚きました。日本のお餅の起源も非常に古いでしょう。『豊後風土記』に、白鳥が餅に変わる話がありますように、真白いお餅は、とびきり神秘的な食べ物でしたろう。この話はだんだん変形して鎌倉時代の『塵袋』には、豊後国の長者が遊びで弓を射るのに的になるものがない、そこで餅を的にして射ったところ、餅が白鳥に化して飛び去った話になりました。以来、その家は衰えて消えてしまったといいます。食べ物を遊びにすると罰が当たるという教訓でしょう。近年のグルメ番組を見ていると、我々も罰が当たりそうな気がしますが……。
冨久笑(ふくわらい) 笑う門には福来る。ひょうきんなお多福の面を模しています。餅の質感も菓子の姿にぴったりの一品となりました。  さて、お餅は言うまでもなくお菓子です。餅菓子という言葉がありますし、京都では市井の庶民的なお菓子屋さんのことを餅屋と言います。いつの頃から餅が菓子の意味を持つようになったか判然としませんが、江戸時代初期の笑話集『醒睡笑』には、お餅の話がいくつもあって、腹をすかせた小坊主には、何より魅力的なお菓子でした。当時の餅は甘いものではありません。砂糖がだんだん豊富になる十七、八世紀に、ようやく甘いお菓子としてお餅が主役になりました。 
『絵本酒之味』の挿絵では、正月の門松をたてた玄関の前に臼と杵が置かれて、「右や餅、ひだりさかづき、あけの春」という句が記されています。十八世紀になると、下戸を右、上戸を左と表現するようになり、さらに下戸は甘党、上戸は辛党に決めつけるようになったというわけです。しかも、そこへ女性と男性とを振り分けて、下戸―甘党―女性、上戸―辛党―男性
というジェンダーが成立しますが、こんな分類の仕方をするのは日本だけ。古い見方にわずらわされず、お餅(お年玉)とお酒(お神酒)をお正月であればこそ合わせて、大いに楽しもうではありませんか。

■菓子製作:佐藤慎太郎(乃し梅本舗 佐藤屋/山形県山形市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(四)桜〜木の葉のお菓子 熊倉功夫 No.176

桜〜木の葉のお菓子 熊倉功夫

久方の 「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」日本人は、桜の咲く姿のみならず、散る姿にも美を見出します。 今年も桜の季節がめぐってきました。去年は大震災の余波で、各地の花見の行事が中止されて淋しい思いをいたしましたが、今年は無事に迎えられそうです。
 日本中が悲しみにくれている時に花見でもなかろう、という気分は当然ですが、花見の本質からいうと、ドンチャン騒ぎが花見の目的ではありませんから、中止すればそれで終りというものでもないと思います。
 桜は特別の木です。梅が満開になっても、あるいは藤の花の下でも花見の宴は開きません。なぜ桜の花の下でだけ、花見の宴が開かれるのでしょうか。桜は神の木だからです。
 サクラのサは、農耕の神様のことです。苗代をかき、水田の準備が整う頃、サの神は山から里へ降りてきます。その時節のものには、サの字がつきます。サオトメ、サナエ、サツキ……。
 サクラのクラは、漢字を当てますと「坐」。神のいますところ、という意味です。京都に岩倉という地名がありますが、これは御神体が岩である神がいますクラ「イワクラ」です。秋田県の横手地方の、小正月の子どもの行事に「かまくら」があります。雪でドームを作って、水神さんをおまつりする様子をご存じの方は多いでしょう。あの「かまくら」も「神坐」からきた言葉です。というわけで、サクラはサの神がいます神木ということになります。
 「山煙る」というように、新芽が出て山全体がボーと煙るように感じられる早春。やがてそのうち山裾にパッと白い桜の花が咲きますと、いかにも春の農耕の神が到来した、と古代の人々が感じたのも、よくわかります。さあ、田を耕さねば、と思うのでしょう。地方によっては桜より先に咲く辛夷のことを「田打ちざくら」とも呼ぶようです。

花重ね 色の組み合わせで季節を表す、重ね色目。古来より日本人の色彩感覚は、豊かな自然に支えられてきたのだな、と感じさせてくれます。 里に降り立った神様には、今年の豊作を約束してほしい。それには神様を十分もてなして機嫌よくお過ごし願わねばなりません。まず神様に一献差し上げ、よい気持ちになっていただきましょう。せっかくですから芸能も楽しんでいただきましょうと、おもてなしする我々も神様と共に飲み食い、歌の一節もお聞かせするという具合で花見の宴は盛り上がります。自分たちの楽しみと考えてはいけないのです。神人共食という祭礼の本質がここに極まったと考えるべきなのです。
 花見というのも、満開の桜、散りゆく桜を鑑賞するのが目的ではありません。本来は、どの方向の桜がよく咲いているか、今年の咲き具合は例年に比べてどうかという花の様子を見て、今年の豊凶、あるいは農耕の計画をたてることにあったのです。花見だけではなく、古代には国見とか山見もありました。日本人は、こうして自然と会話しながら生きてきたのです。
 お菓子に話を転じましょう。桜といえば、何といっても桜餅。こんな絶妙なお菓子と葉の取り合わせは世界中見回しても日本にしかありません。桜の葉の香り、わずかな塩の味、中に包まれた皮と餡。ああ、春だなあ、と心の底から思える味わいです。
 私は関東の人間ですので、四〇年前に京都へ移り住んで、小麦粉を薄く焼いた皮の桜餅がないのに驚きました。すべて道明寺粉で餡を包んでいるのです。道明寺粉の桜餅も風情がありますが、子どもの頃からの習慣で、あっさりとした小麦粉の皮の桜餅でないと桜餅を食べた気がしません。よく話題になるのですが、桜餅の桜の葉は食べるのかどうか。私は食べませんが、古くから両派あったようで、食べても食べなくても、人にとやかく言われることはありません。念のため。
桜餅  つい桜餅に夢中になってしまいました。桜餅に関連して木の葉で包むお菓子のことも一言。桜餅は江戸時代中期、一七三〇年頃にできたと言われていますが、同じ木の葉でも柏餅と椿餅は、ずっと古くからありました。そもそも木の葉は古代の人にとって食器にもなりました。有馬皇子の歌に

 家にあれば笥に盛る飯を
  草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

とあります。椎の葉ならずとも広い葉であれば食器がわりにするのが、照葉樹林帯に住む民族の知恵。柏もその一つで、本来は「カシグハ(炊ぐ葉)」の意味だと解されます。つまり、ご飯を蒸籠で蒸し上げる時、下に敷いた葉なのでしょう。その名残が柏餅ではないかと思えます。これまた柏の葉の香りと餅の取り合わせが絶妙の一語に尽きます。
椿餅 山形の冬の寒さにも落ちない椿の葉。雪囲いの下で冬を耐えた、その葉を使って菓子を作る時、雪国の人間の春を焦がれる思いはひとしおです。  椿餅の椿も照葉樹の典型の一つ。つややかな葉の木ですから「ツ・ハ・キ」です。常緑で、陽に当たるとちょっとテラテラと輝く葉の木が照葉樹です。この照葉樹におおわれた照葉樹林文化の一つが、椿と餅とお茶の文化。お菓子の世界も奥が深いものですね。

■菓子製作:佐藤慎太郎(乃し梅本舗 佐藤屋/山形県山形市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(五)八朔 熊倉功夫 No.177

八朔 熊倉功夫

八 朔 黄金色の稲穂が実っている様を、きんとんで表現いたしました。八朔の頃の稲の葉は、まだ美しい緑色を保っています。  ハッサクと言っても、みかんの八朔ではありません。八月朔日(一日)のことで、この日は今でも古い伝統のあるお家では大事な儀式の日となっています。
 真夏の一番暑い頃ですが、茶の湯の家元・表千家に十職といわれる職家の皆さんが、夏の紋付に威儀を正して朝から集まります。十職というのは家元の好みものなどの茶道具を造る十軒の職家さんで、たとえば茶碗や花入、水指などの色絵の焼きものを造る永樂善五郎さんや楽茶碗を造り続けて四百年を超える樂吉左衛門さん、表具の奥村吉兵衛さん、袋師の土田友湖さん、塗りものの中村宗哲さん、一閑張りの飛来一閑さん、釜師の大西清右衛門さん、柄杓をはじめとする竹芸の黒田正玄さんなど、それぞれ茶道具の専門分野を担当する方々です。
 職家さんは毎月一回、家元に挨拶に見えるのですが、ことに八月一日の八朔には全員揃って家元とともにお茶を一服いただき、日頃の道具の好みの工夫や、新しい好みのアイディアなど、家元との情報交換が行われるそうです。
 それにしてもなぜ八月一日に、そんな行事があるのでしょうか。
 そもそも八月一日すなわち八朔は、徳川幕府にとって創立記念日のような日でした。天正十八年(一五九〇)八月一日は、豊臣秀吉から新しい所領として与えられた江戸に徳川家康が入城した記念すべき日でした。以来、江戸にいる大名は八朔には登城し、将軍に拝謁するのが習いであり、武士であれば主君のもとへ挨拶に行き、使用人は勤め先の主家へ赴くのが習慣となりました。
 ところが八朔という行事は、家康の江戸入城以前からあるのです。むしろ伝統的な祝日である八朔を選んで、家康は江戸に入城を果たしたのでしょう。

田の実 田んぼの土、水、そして稲穂ーー。土を浮島生地で、稲穂を村雨生地で作り、水色の羊羹をはさみました。  八朔のことを別に「たのみの節句」といいます。たのみは「田の実」で、ちょうど稲に実がつく頃、今年の豊作を農耕の神に頼む日が八朔でした。
 田の実は「頼み、憑み」に通じます。そこで、普段から御世話になっている方へ贈り物をして、さらに一層、目をかけてくださるよう「頼む」日になったのです。ですから、先の家元へ職家さんが挨拶に行くように、昔風にいえば主家へ、出入りの職人がより深いご縁を結びに出掛ける日でもありました。
 室町時代などには、この日の贈答がなかなか盛んであった様子が公家の日記などに書かれています。武家の場合、太刀や馬の献上がありましたが、庶民はお赤飯を炊いて配ったり、ちょっと変わっているのは葉付きの生姜を贈ったといいます。その呼称も今は消えかけていますが、北関東や静岡では、八朔を「生姜節句」ともいいました。八朔に生姜味のお菓子を作って贈り物にするのもおもしろいのではないでしょうか。
 京都では、八朔を古く「姫瓜の節句」といった由。姫瓜に紅や白粉で顔を描いて竹で胴をつけ、着物など着せて人形を作ります。これを八朔人形ともいい、最後は川に流します。そこは雛祭りに似ています。それにしても、かわいい姫瓜に顔を描いて遊ぶのは何とも優雅ですね。
 『枕草紙』にも「うつくしきもの」として「瓜にかきたる児の顔」とあります。これも八朔にちなむお菓子になりそうな感じがあります。

白帷子 白のういろう生地で、漉し餡をそっと包みました。晩夏に楽しんでいただきたい上生菓子です。  さて、八朔のキーワードは何か。一つは「白」です。八朔に登城する大名は、白帷子を着用するのが約束。長沢利明氏が引用しておられますが、山東京伝の『五節句童講釈』に、こんな話が載っています。
 ある武士が主君のもとへ八朔の祝儀に赴こうと白帷子の装束にあらためたところ、幼い娘が硯箱を取り落としてせっかくの白帷子が墨で汚れてしまいました。武士は縁起が悪いから出仕を取りやめると言いだします。すると女房がその墨で一首したためて主人に差し出しました。「御出世を白帷子のお墨付き、これは神より知らせなるらむ」。女房機転の一首に機嫌を直した武士は、新しい白帷子にあらためて無事に出仕したそうです。偉大なる哉! 女房殿、といったところです。
 武士ばかりではありません。「八朔の白無垢」といって、吉原の遊女もこの日は白無垢の小袖を着ました。日本のファッションはだいたいが遊郭とか芝居といった、いわゆる悪所が発信地で、やがてそれが上流階層に及ぶという、下から上へという流行の展開をみるのが普通ですが、稀に、このように武士の儀礼の装束が庶民の風俗に影響を与えるという上から下への流行もありました。吉原の白無垢は大名の白帷子の真似でしょう。
 八朔は白、というイメージはどこからくるのか。これも先の長沢氏の指摘が当たっていると思うのですが、八月は旧暦でいう秋。その秋の色の白が、ここに象徴されているのでしょう。方角でいえば西。西を守る四神は白虎。ちょうど二十四節気の白露も八朔に近い頃です。いよいよ秋たけなわという八朔に、白のイメージがぴったりします。ここから、白を基調とするお菓子のイメージが広がるように思います。

■菓子製作:菊岡洋之(本家菊屋/奈良県大和郡山市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(六)紅葉 熊倉功夫 No.178

紅葉 熊倉功夫

紅葉狩  秋といえば紅葉狩。春の花見と相並ぶ日本人の二大野外イベントです。万葉集の時代から、紅葉の美しさを愛してきた日本人ですから、詩歌、小説の中に紅葉を探したら、それこそ枚挙にいとまがありません。数ある和歌の中で一首とあえて言うなら、紅葉狩の晴れがましさを伝えるこの歌が私は好きです。

  もみぢ葉をわけつゝ行けば錦着て
     家に帰ると人や見るらむ 
(後撰集 巻七)

 実際に紅葉をつけて家に帰るわけではありません。でも、錦秋の美しさに心まで染められ高揚した思いのほどをよく表現しているではありませんか。
 紅葉は絵画にも染織や漆工の工芸品にも最も親しいテーマで、国宝にも指定されている狩野元信の「高尾観楓図屏風」は、桃山時代の野外ピクニックの様子をよく描いています。
 というわけで、日本人がこよなく愛する紅葉の文化なのですが、今回はちょっと違った視点で綴ってみたいと思います。
 突然、極私的話題ですみません。紅葉というと、一つ忘れられないシーンがあります。中学生の時の国語の教科書に載っていた「修学院の秋」という文章です*。半世紀以上前の記憶ですから、タイトルのほかはほとんど何も確かなことは覚えていないのですが、アメリカ人の親子が修学院を訪ねた話であったと思います。アメリカ人の少年は庭も建物も全く興味がありません。退屈極まりない日本旅行に不満たらたら(多分そんな設定でした)。ところが修学院の園路の途中で、一枚の真っ赤な紅葉が白砂の上に落ちているのを拾います。その瞬間、少年はあまりの美しさに息をのみ、今まで全く面白くなかった周囲の景色が、にわかに色彩を帯びてきます。母親は息子のその姿を見て、来てよかったと息子に語りかける、といったシーンがあったと頭の片隅に記憶が残っているのです。
 なぜ、この文章だけを覚えているのか(他の教材はほとんど記憶らしいものがないのに)、我ながらおかしいと思います。しかし文章というより、アメリカの少年が一枚の紅葉を手にしているイメージだけが、タイトルと一緒に残りました。まだ修学院も見たことはなく、アメリカの少年も身近にいたわけではなかったのですが、たった一枚の紅葉の葉が、いやたった一枚であればこそ伝えられるものの大きさに感動したのかもしれません。
 アメリカにも紅葉はあります。メイン州で見た真っ赤な広葉樹の紅葉は見事でした。眼下に青い海を見ながら紅一色に染められた山裾をドライブした思い出も忘れ難いのですが、何か日本の紅葉と違うのです。北京郊外の香山の紅葉も三十年ほど前に訪ねたことがありますが、清の乾隆帝ゆかりの名所も何か足りないと思いました。何が違うのか。どうやら日本人は目に見える紅葉だけを見ているのではないのかもしれません。

秋の干菓子 茶の湯の古典に『南方録』という千利休を主人公とする文学的な伝書があります。その一節に、藤原定家の名歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり、浦のとまやの秋の夕暮」を引用して、こんなことが語られています。華やかな錦なす紅葉も、爛漫と咲き誇る桜も、目を楽しませるものは一切ありません。ただ海岸には舟を引き込んでおく低い粗末な草葺きの小屋が一棟、淋しげに残されているだけ。いわば無一物の世界です。この境地がわびです。
 しかし、と『南方録』は話を継ぎます。誰がこのわびしい風景に心引かれるのか。それは、花や紅葉を見尽くして、その果てにあるものに気付いた人である、というのです。花や紅葉を知らない人に、初めから浦のとまやの秋の夕暮の境地は味わえない、といいます。

山路   
日本人であれば、誰もが花や紅葉の美しさを目にするでしょう。しかし花は散り、紅葉は朽ちることも見ています。花が散り、紅葉が朽ちることを知ればこそ、その美しさをいとおしく感じるところに日本人の感性がありましょう。
 もっと極端なことを利休は言っています。茶の湯の庭(露地)の風情を尋ねられて、

  樫の葉のもみぢぬからに散りつもる
          奥山寺の道のさびしさ
 (慈円)

という歌を例にして、かくありたいと言いました。樫の葉は紅葉しません。朽ちた葉は見所もないままに地上に降り積もります。その樫の葉をガサガサと踏みしめるにつけても淋しさがつのります。しかし心はどうでしょう。心の中には花も紅葉もいっぱいに詰まっていて、充実しているのではないでしょうか。すべてを捨てきったときにあふれてくる思いによって、心は満たされている、と利休は言いたかったように私には思えます。
 修学院の庭で見つけた一枚の紅葉。それも大方は紅葉が散ったあとの名残であったかもしれません。しかしたった一枚残された紅葉に美を見つけたアメリカの少年の感性は、利休に劣らぬものがあったのではありますまいか。
 一方に、即物的にズバリと描き出す方法もありましょう。これでもかと重ね合わせて表現するのも一つの方法です。しかし、捨てて、さらに捨てて、これ以上捨てようのないところに、真なるものを伝える方法もあると古人は教えてきたように思えます。

■菓子製作:菊岡洋之(本家菊屋/奈良県大和郡山市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(九)風 熊倉功夫 No.181

風 熊倉功夫

風の音 私が好きな言葉に「花鳥風月」があります。花は植物界の代表。鳥は動物を代表していると考えますと、この世の生きとし生けるものすべてを花鳥の二語で表現しているすごい言葉です。
 風は自然の現象。月は太陽を含む天体からこの地球の大陸や海、里に至るまで自然そのものの象徴です。つまり花鳥風月のたった四字の中に、森羅万象この世のすべてを包含していて、しかも、その四字に、何となく四季を感じさせるのが心憎いところです。
 花鳥風月の中で夏といえば、風でしょう。初夏の茶席に「薫風自南来」という墨跡がよく掛かります。風薫る若葉の季節が過ぎて、盛夏になれば何より嬉しいのが涼風。そうこうするうちに、秋の気配。
     秋きぬと目にはさやかに見えねども
         風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
 風は目には見えません。しかし目に見えぬからこそ、同じく目に見えぬ秋の気配を教えてくれるのです。
 見えない風をヴィジュアルに表現することはとても難しいことです。しかし、東洋の人々は、目に見えることよりも、その背後にある見えないものを聞き知ることが本当の修行である、と考えてきました。
 茶の湯もその一つです。表千家七代目の如心斎という家元は、茶の湯をこんなふうに表現しました。

夏扇(なつおうぎ)      茶の湯とは墨絵にかきし松風の音
 そもそも墨絵で松風をどう描くのでしょう。嵐の中の松を描けば、ああ風が吹いているな、とは理解できますが、ここの松風は枝の間をサラリと吹き抜ける風でしょう。茶の湯では釜の煮え音を松風にたとえます。その煮え音も「ミミズが鳴くような」チチチとかすかな泡が釜底から立ちのぼる音です(ミミズが鳴くのを聞いた人はいないでしょう。これもあくまでたとえです)。そんな茶の湯の閑かな味わいを、この句は示しているともいえましょう。
 しかし、墨絵で風の音を表現するのが難しい上に、それを聞きなさいというのですから、そんなこと無理! 聞こえるはずがないと理屈で考えたのではどうにもなりません。茶の湯とは、目に見える形ではないし、言葉で説明できる理屈ではない、ということが如心斎の伝えようとしたことです。
 学校で教えるように、丁寧に教えてもらえばわかる、というものではありません。茶の湯は教えられてわかるのではなく、自分で気がつくものだ、と言い換えることができましょう。
 話が脇にそれましたが、そんなわけで風をヴィジュアルに表現するのは難しい。おそらく風をテーマにしたお菓子も決して多くはありますまい。その中で、珍しいのは「味噌松風」です。
 ふの焼から発展した非常に古いタイプのお菓子だといわれます。でも、その名前は一種の言葉遊びのようなもので、意味はお菓子の姿からきています。味噌松風は、表面には味噌を塗って胡麻をふり、美しく化粧していますが、裏はただ焼いた跡があるだけで、およそ淋しい限りです。つまり「裏(浦)淋しき松風の声」という言葉から、この菓子の名ができたそうです。

風渡る 風に象徴される四季のうつろいこそ、日本人が一番大切にしてきたものです。私は関東の人間ですが、京都へ移り住んで、ああなるほど、こういうことが四季の風情かと感動したことに、春の霞と初冬の時雨があります。
 関東平野には山が間近にありませんから、霞とかすむ、という違いがよくわからなかったのです。ところが京都は四周が山で、ことに東山三十六峰の山裾に霞がかかるのを見て、初めてそれを実感しました。東山のおだやかな緑なす稜線が遠望できます。しかし、その裾野は乳白色の霞に隠されていて、さらにその手前には京都の町並みや神社の甍が姿を現しているのです。
 また時雨も、関東にいる時は、寒気が近づく初冬の頃、淋しく降ったり止んだりする陰鬱な雨が時雨だと思っていました。ところが京都では、雨が通り過ぎたかと思うと太陽がちょっと顔を出します。雨に濡れ、散り残った紅葉が、その薄日に照らされてひらひらと舞うのです。淋しさの中のつややかさとでもいいましょうか、艶なるところがあるのが時雨です。
 雨、雲、虹……さまざまな自然の現象が、花鳥風月の「風」の中に詰まっています。

菓子製作:越乃雪本舗 大和屋(新潟県長岡市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(十)菊の節句 熊倉功夫 No.182

菊の節句 熊倉功夫

こがね菊 先日、フランスのソルボンヌ大学元学長のピット先生が京都にいらっしゃいました。ピット先生は地理学者ですが日本の食文化にとても詳しくて、今、和食の世界無形文化遺産登録にも側面から応援していただいています。そこで京都の日本料理アカデミーのメンバーが、先生を迎えての招宴を開きました。
 宴たけなわの頃、刺身のつまの小菊を、先生がおいしそうに食べています。菊がお好きですかと伺うと、大好きな由。それなら食用菊の代表「もってのほか」(新潟などでは「おもいのほか」とも)は? と伺いますと、これまた大好きと。実は私も大好きで意気投合しました。愛でてよし、香ってよし、食べてよし。こんな花は他にありますまい。

おもいのほか 菊は秋の象徴。なんといっても九月九日の重陽の節句は別の名が菊の節句。昔から延命長寿を願う日となっています(敬老の日は、本来九月九日にすべきではないでしょうか)。
 中国の古代。皇帝に愛された美少年がおりました。ところが誤って皇帝の枕をまたいでしまい、宮中から追放されてしまいます。山中に住むことになった少年を、皇帝は憐れに思って「法華経」の言葉を伝授します。せっかく教えてもらった言葉を忘れてはいけないと、少年は菊の葉に経文を書きました。その菊の葉は露を結び、露はやがて下を流れる川にしたたり落ちてゆきました。するとどうでしょう。川の水は何ともいえぬ甘露となり、それを飲んだ少年は永遠に年をとらず、少年の姿のままの仙人になったという伝説があります。
 この伝説が能に仕立てられて「菊慈童」(あるいは「枕慈童」)となりますように、菊といえば健康長寿がすぐに思い浮かびます。

被せ綿 九という数字が最大の数で、しかも九が重なる九月九日は「いく久しく」という意味にもなりましょう。この日には日本の宮中でも菊酒を飲み、夜の間、屋外に置いた菊の花に綿をかぶせ、その綿についた夜露で肌をなでると不老長寿が得られるという「きせ綿」の行事が行われました。
 重陽の節句は五節句の一つで、やはり厄を払う日でもありました。厄が消えれば無病息災で長寿が得られるわけで、同じことなのですが、実は菊が厄払いの大切なアイテムなのです。春の厄払いによもぎの強烈な香りが効果ありと信じられていたように、菊の強烈な香りが厄を払ってくれると信じられていました。そういえば除虫菊という強烈な菊があって虫も殺してしまうくらいだから、なるほど厄も払えるだろう、とつい連想しますが、これは間違い。除虫菊が日本に入ってきたのは明治時代で、関係ありません。

玉菊 それはさておき、重陽の節句が日本に入ってくると、なぜか男同士の盟約の日にも発展します。一番有名なのは、上田秋成の『雨月物語』中の「菊花の約」です。義兄弟の契りを結んだ二人の武士が重陽の日の再会を約して別れます。しかしその兄の方は遠方で捕らわれの身となり、とてもその日に弟を訪ねることができません。肉体を捨て魂魄となれば一日に千里を走るということを思い出して、兄は牢中で自殺。その魂が幽霊となって弟のもとを約束の日に尋ねてくるというお話です。その契りは恋にも似た、いささかアヤしげな雰囲気があります。
 重陽の日にはグミ(茱萸)も大切なアイテム。これも中国の伝説が元ですが、グミの枝を持って高い山に登った人々が災難をまぬがれたところから、グミの実を入れた美しいグミ袋を作って飾るのも、重陽の節句の習いです。

菓子製作:越乃雪本舗 大和屋(新潟県長岡市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。