菓子街道を歩くNo.142 松山

松山[城下町ハイカラ]

マップマップ

振鷺閣と天守閣

イメージ イメージ

道後温泉本館。明治27年建築の木造3層建築で、屋上には4面に赤いガラスがはめこまれた振鷺閣という太鼓楼がある。現役の共同浴場だが、温泉施設としては初めて国の重要文化財に指定された。

 道後温泉で昼湯をつかった。国の重要文化財に指定されている道後温泉本館の熱めの湯をゆっくり楽しんだあと、2階で浴衣になり、軒の柳をゆらして入ってくる涼しい風にあたっていると、「極楽ぞなもし」である。折しも正午で、屋上にある振鷺閣の刻太鼓がドーンドーンと鳴った。
 道後温泉からは、歩いてすぐの子規記念博物館に寄り、東へ1キロほどの四国霊場51番札所石手寺に参詣するもよし、道後温泉駅から「坊っちゃん列車」に乗るもよし。「坊っちゃん列車」は、伊予鉄道が、漱石に「マッチ箱の様な汽車」と呼ばれた昔の車両を復元し、1時間に1本走らせている路面電車だ。もちろん一般の路面電車も頻繁に出ている。松山城へのぼるロープウェイへは、東警察署前が近い。
 松山城は、石垣に沿った坂道のアプローチが見事だ。美しい反りをもつ石垣は大きく、山上の平地に建つ天守閣は、天守閣というより、今も15万石の大守が暮らす城館の趣がある。春には、天守閣は八重桜に囲まれる。 
 城山に立つと、眼下にひろがる松山市街の向こうに、瀬戸内の海が見えた。

薄暮に舞う桜

イメージ

坊っちゃん列車。夏目漱石が松山に住んでいたころの伊予鉄道の車両を復元したもので、道後温泉と松山市駅間、古町間の2系統がある。

イメージ

松山城。慶長7年(1602)、加藤嘉明の手になる築城に始まり、松平定行によって整備された。創建時のまま残る門や櫓もあるが、天守閣は安政元年(1854)の再建。

 松山は古代から知られた湯の里、遍路道。近くは正岡子規を生み、夏目漱石とのゆかりで文学の故郷となった。だが、この土地の幸せは、豊臣秀吉の時代に、秀吉の側近加藤嘉明が拝領し、徳川の時代には親藩松平氏の治めるところとなって、民がいわば天領のような政治のもとに豊かに暮らしてきたことであろう。 
 そうした暮らしの伝統から、松山ならではの銘菓も生まれた。とりわけ全国にその名を知られた銘菓が、「一六タルト」と「薄墨羊羮」である。
 「薄墨羊羮」の中野本舗本店は、松山市随一の繁華街、大街道にある。「薄墨」とはなにか、中野英文社長(昭和24年生まれ)にうかがった。
「薄墨羊羮」の「薄墨」は次のような伝承からきている。天武天皇の皇后が道後に湯治に訪れた折、この地の名刹西方寺に祈願をしたところ病気が平癒したため、その礼に天皇から綸旨と桜の木を下賜された。その桜を薄墨桜と呼び、今も何代目かの桜が市内の西法寺で花を咲かせている。
 「薄墨桜の薄墨は桜の色ではないんです。天皇がくださる文書である綸旨は、薄い墨で書かれる決まりになっていて、その薄墨なんですね。桜は八重咲きといっていますが、実際には一重咲きの8弁花という珍しいものです」
 「薄墨羊羮」は、抹茶入りの小豆餡のなかに、白豆が散らしてあるが、これは薄暮に舞う花びらを表したものであるという。古代の松山にちなんだ、風雅な銘菓だ。
 中野本舗は、すでに江戸時代から菓子屋を営んでいたが、確実な資料が残っているのは明治7年、中野元三郎が現在地に開店してからである。
 「私は下戸で、甘いもの好き。薄墨羊羮は毎日食べていますから、微妙な味の違いでもわかります」
 4代目の英文さんは、「薄墨羊羮」の味を守る自信をのぞかせた。

モダン松山のシンボル

イメージ

萬翠荘。大正11年、久松(松平)定義が建てた洋風建築の別邸。現在は県立美術館分館・郷土美術館。裏手に、松山で漱石と子規が暮らした愚陀仏庵が再建されている。

 「一六タルト」の製造元一六本舗も、明治16年、大街道で創業した。創業者は玉置貞二郎・ムラ夫妻。とくに夫人の名があがるのは、店の基礎をつくるうえに、ムラさんの活躍が大きかったからである。3代目の現会長玉置一郎氏がスケールの大きな実業家で、「一六タルト」の名を全国に知らしめたうえに、レストラン、スーパーマーケット、カーディーラーと事業を拡大し、グループ企業をつくりあげた。現社長の玉置泰さん(昭和24年生まれ)に用意されていたのは、グループの総帥の椅子であった。
 「でも、今日は一六タルトの話だけにしましょう」と泰さん。
 松山のタルトは、一時長崎にいたことのある久松家初代、松山藩主松平定行公が、当地にもたらしたといわれている。ポルトガルにそっくりのお菓子があるというが、くわしいことはわかっていない。西洋のいずれかの菓子をヒントに、餡を用い、日本人が工夫した。大きな特色は、柚子入りの餡を使うところだ。
 一六本舗では、四国特産の生柚子を用い、餡と生地をしっくりなじませるために、製造後ひと晩ねかせてから食べやすい大きさにスライスする。「スライスは、昭和40年代の初めに一六が始めたんですが、タルトの隠れた革命だったんです。売り上げも伸びましたし、なにより食べやすくなりました」
 なるほど、食べる側も忘れている便利さである。
 タルトが、モダン松山のシンボルであることを玉置泰さんは充分に理解し、大切にしている。そのうえで、ポストモダン松山をどう構築するか、どうやら泰さんは日夜考えているようだ。

中野本舗

松山市大街道1-2-2 TEL:089(943)0438 FAX:098 (958)3939

イメージ

大街道のアーケード街にある、中野本舗本店。

  
     
イメージ
薄墨三笑
羊羮の上に加えられた透明なかんてんの層が、特異な味わいを生む。小豆、白ごま、黒ごまの3種類がある
 イメージ
薄墨羊羮
抹茶の緑をふくんだ透明感のある色、深くてくどくない味は、羊羮の名作だ。

 

 

一六本舗

松山市東石井町166-1
TEL:089(957)0016
FAX:089(958)3791

イメージ

国道33号沿いにあるシンボル店舗「十六番館」

  
    
イメージ
一六タルト
カステラの生地に餡を塗り、手巻きで作る。柚子入りの餡に独特の味わいがある。
 イメージ
しょうゆ餅
松山で古くから作られていた郷土菓子のひとつで、素朴な味と噛みごたえを楽しむ。

菓子街道を歩くNo.125 鎌倉

 鎌倉[郷愁のモダンほのかに]

マップマップ

 

鶴岡八幡宮。舞殿を手前に、上方本宮を望む。前身は平安時代、源頼義の創建だが、建久2年 ( 1191 ) 、現在地に改めて石清水八幡宮を勧請し、鶴岡八幡宮を創建したのは源頼朝。

住む人にそれぞれの町

イメージ

妙本寺。二天門から祖師堂を望む。文応元年 ( 1260 ) 、比企能本が比企一族と師である日 のために創建。

 何度鎌倉へでかけていても、由比ケ浜のほうへ出る機会がないと、鎌倉に海があるということを、すっかり忘れてしまったりする。
それがたまたま江ノ電で藤沢のほうからやってきて、電車が海すれすれに走るあたりで、ここがもう鎌倉だと言われるとびっくりする。
鎌倉と一口にいっても、じつにいろいろなところがあるのだ。狭いようで広い、というよりも、狭いところに、こころひかれ、足を止めたくなるようなところがたくさんあるのが鎌倉である。
そういう密度の高い町だから、外からでかけていく人には、それぞれの鎌倉がある。お寺の花めぐりが好きな人、あるいは北鎌倉の禅寺の雰囲気を愛する人、若宮大路、小町通りを駆け抜けるのに夢中の人もいれば、鎌倉の山歩きのついでに街を通るような人、由比ケ浜や材木座の海水浴を考える人、もっぱら文学散歩の人など。
ところが、この町に住んでいる人にとっては、もっと切実にそれぞれの鎌倉がある。今回の旅は、はからずも、そういう鎌倉に住む人にとってのこころの鎌倉を語っていただき、案内していただけるというまれな機会になった。

妙本寺で生まれた「きざはし」

イメージ

喫茶店「井川」のサンドイッチとコーヒー。

 鳩サブレーで知られる豊島屋の社長久保田雅彦さんは、3代目のご当主。この地で生まれ育った生粋の鎌倉っ子である。
久保田さんには、いろいろとお話をうかがった。その話そのものが、私たちにとってはいちいち新しい鎌倉体験だった。だが、話の内容についてはおいおいふれるとして、久保田さんのあとをのこのこと、ときには私たちもわがままを言いながらのんびりと歩いた、なんとも楽しい鎌倉散策をふり返ってみよう。
いざ鎌倉、ではないが、若宮大路に面したお城のように立派な豊島屋本店から出発した私たちは、南に下り、鎌倉郵便局の先を左に曲がった。ひょいと大きなお寺へ横あいから入るので、目的地はここかな、と思っていると、「ここはただの近道」と久保田さん。近道にされてしまったのは、日 の遺骨を納める本覚寺で、特色ある六角形の夷堂もある、なかなかの大寺だ。
目的地は本覚寺の前から東へ300メートルばかりも入った、妙本寺だった。老杉に囲まれて、森閑とした境内。じつは久保田さん、ここの本堂に当たる祖師堂を背にして二天門を額縁に見立てた景色、とりわけ緑の季節のそれをこよなく愛しているのだ。久保田さんは時折ふらりとここを訪れ、こころを休めたり、お菓子のアイデアをねったりするという。
「あそこの古い石段を見ていて、『きざはし』というお菓子を思いついたんです」
久保田さんが指さす先に、境内からさらに山に登ろうとする、摩滅して、苔むした石段が見える。あたりには、いたるところにシャガの花が咲いていた。
妙本寺は、北条時政に滅ぼされた鎌倉幕府の重臣比企一族の屋敷跡といわれ、一族の墓といわれるものもある。

鳩サブレーとモダン鎌倉

イメージ

鳩サブレー。小麦粉、バター、砂糖、鶏卵などを原料とする焼き菓子。形は創案時と基本的には同じ。

イメージ鳩サブレーの金型。焼き上げた後、サブレーを型からはずすときがむずかしい。

イメージ

きざはし。餅粉と和三盆糖をねりあわせた求肥に、こがしきなこをまぶした生菓子。

 妙本寺から、本覚寺の前まで戻って滑川を渡る。橋も小さければ川も小さいが、下を見ると澄んだ水を、何かの稚魚が隊列を組んでさかのぼっていた。鎌倉に川があるなんて考えもしないことである。橋のたもとに谷口屋というお米屋さん。和風の建物がよく、米の味わいを生かした菓子やおにぎりの味も評判だとか。
私たちは、橋を渡ってほどなく小町大路沿いにある「井川」で、おいしいサンドイッチを食べた。井川は、松竹大船のスターだった井川邦子さんが経営する喫茶店で、井川さんご自身がいつもカウンターで仕事をしている。
深い香りのコーヒーを飲みながら、久保田さんに鳩サブレーのお話をうかがった。「私の祖父で、豊島屋の初代は久次郎といいますが、明治30年頃、鎌倉の海浜院というホテルに滞在していた外国のかたから、ビスケットをもらったんですね。初代は日本の子どもたちに喜ばれる菓子はこれだ! と思った。それからたいへんな苦労をして試作を重ねたわけですが、まずまずのものができた頃、欧州航路から帰ったばかりの友人の船長さんが、『久さん、こいつはワシがフランスで食ったサブレーちゅう菓子に似とるゾ』と言った。そこから鳩サブレーという名前が生まれたんです。初代は初め、鳩のマークを鶴岡八幡の本殿の額の八の字が鳩の抱き合わせになっているところから取ったこともあり、八幡太郎式に『鳩三郎』と日本語の語呂に合わせるつもりだったらしいですね。でも、初めはぜんぜん売れなくて、近所に配って食べてもらっていた。ある日初代の奥さんが偶然、あげた鳩サブレーを近所の人が犬の餌にしているのを見てしまった、なんていう笑えない笑い話も残っています」
鎌倉は古都といっても遠い昔の話で、その後は長い間まったくの寒漁村と化していた。それが保養地として注目され、別荘ができ、サナトリウムができ、ホテルもできて、明治の中頃から鎌倉は息を吹き返したのである。そんな背景から、鳩サブレーも生まれたのだった。

懐かしい鎌倉がどこかにある

イメージ

鶴岡八幡宮齋館の日本庭園。

イメージ

鶴岡八幡宮で売られている鳩笛。

 小町大路をぶらぶらと、鶴岡八幡へ。途中、旧大佛次郎邸などにも寄る。鎌倉文士、鎌倉の画家の話がまた、久保田さんは体験的にくわしい。「久保田万太郎先生には、苗字が同じせいか、かわいがっていただきました」
そういえば、公開されている豊島屋本店の2階資料室で万太郎の俳句の色紙を見かけた。この資料室、世界のいろいろな鳩のコレクションも展示されている。
鶴岡八幡宮の齋館で、抹茶とお菓子をいただく。広縁をめぐらせた建物の南と西に山を借景にした美しい庭があり、南の庭先を源氏池付近を散策する人々がぞろぞろ通る。特別室めかして視界を遮らないところに、この大社のこころがみえて気分がよかった。
小町通りを、鏑木清方記念美術館などに寄りながら、豊島屋本店まで帰ってきた。小町通りは、平日にもかかわらず人通りが多い。歩きながら久保田雅彦さんがつぶやいた言葉が、印象に残っている。
「私は鎌倉が、もっとおしゃれをして歩くような町になってほしいですね」
いまは失われたモダン都市鎌倉が、久保田さんのこころの中には今も生きているのだろう。

株式会社豊島屋

鎌倉市小町2丁目11番9号 TEL:0467 ( 25 ) 0810

イメージ

若宮大路、二の鳥居付近にある豊島屋本店。

 イメージ
豊島屋社長、久保田雅彦氏。

菓子街道を歩くNo.124 成田山

成田山[お寺と町とは、持ちつ持たれつ参道にあふれるもてなす心]

マップマップ

成田山新勝寺。初詣、節分会、夏の祇園会などで全国にその名を知られる寺。『お不動様』の名でも親しまれている。約5万坪の敷地に大小40もの伽藍が立ち並び、大庭園(成田山公園)の四季折々の表情も美しい。園内に新勝寺の史料館である『霊光館』があり、見応えのある展示を行っている。

歩き出せば江戸の旅人

 参道が急な下り坂にかかったところで、思わず歓声を上げてしまった。坂の両側から迫る古い家並みのあいだに、お寺の本堂と三重塔の屋根がきっちりおさまって、見事な景色である。このロケーションに立っていると、江戸時代の風景に迷い込んだような錯覚におちいりそうだ。
驚かされたのは、参道が長く、変化に富んでいることである。京成成田駅からもJR成田駅からもすぐに参道に合流する。にぎわう寺社の参道は、いわば非日常の空間。人を華やかな、別の世界へ連れて行ってくれる。
成田では、その楽しさがたっぷりと味わえる。参道がそろそろ終りかなと思う頃、道が急カーブして下りになり、坂に沿ってお寺と古い町並みが絶妙な景色を織りなすのだ。坂を下りきって、ようやく新勝寺の仁王門の前に出る。
駅の付近から約800メートルあるといわれる参道には、100軒を超す土産物店や飲食店が軒を連ねる。店の造りはおおむね古風だが、とりわけ坂道沿いでは、江戸時代の面影を伝える古い建物が目につく。例えば、新勝寺の入口近くには能舞台も備えた望楼のある3階建てのひときわ大きな和風建築が残っている。大野屋旅館。今やここに泊まる人は少ないかもしれないが、その姿は強い存在感で、成田の往時を色濃く物語っている。

ご利益たっぷりの華やか寺院

イメージ

額堂。文久元年(1861)の建立。近世における庶民信仰を表す代表的な建築で、堂内には信徒から奉納された額や絵馬がびっしりと掲げられている。

イメージ

参道土産の家伝薬。有名な胃腸薬「一粒丸」の他、きず薬なども。

 成田山新勝寺の起こりは、平安時代、朱雀天皇が平将門の乱を平定するために、本尊の不動明王を京都の神護寺から成田の地に移したのが最初といわれる。
戦がきっかけで生まれたお寺だけに、かつては戦場に向かう兵隊さんやその家族たちが武運長久を祈りに訪れた。今、この寺は交通安全祈願の寺として知られるが、これもまたビジネス戦士たちの交通戦争における武運を祈っているということか。
一方、歌舞伎通ならずとも「成田屋!」の掛け声はご存じのはず。成田屋の屋号も、実は、この寺にちなんだものである。子供のなかった初代市川団十郎が成田山にお参りをして子供を授かった。それからなんと300年以上も、代々の団十郎と成田山の間には親密な関係が続いているのである。こうした話題も多くあって、新勝寺というお寺の雰囲気は、どこか華やかだ。
仁王門をくぐって石段を上ると、巨大な大本堂。その裏側には、大多宝塔(平和大塔)が建つ。この二つの堂塔が、新勝寺の主要な礼拝の場である。毎日、本堂で行われるお護摩のために、美しい僧服の貫首が大勢の僧を従えて石段を上り下りする光景は、一幅の絵である。
また、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂の四つは江戸時代の建物で、仁王門とともに国の重要文化財に指定されている。額堂は一般に絵馬堂と呼ばれるものと同じで、飾られている大きな額には、江戸から船で運ばれてきたものも多いようだ。
このほか、境内には成田山を再発見できる資料館・霊光館や、関東屈指の名園といわれる日本庭園など、見どころが多い。

羊羹一筋 売れた屋号

イメージ

創業記念菓『伝承 栗羊羹』。「栗がたっぷり」がウリ。

イメージ

滲み出た砂糖が表面をおおい、期せずして美しい文様を作る『昔羊羹』。

 再び参道へ――。目につくお土産は、とうがらしの風味がきいた白うりの醤油漬「鉄砲漬」や印旛沼産のうなぎの蒲焼、小魚などの佃煮、江戸時代から作られている家伝薬などなど。しかし成田山の土産の筆頭といえば、「米屋の栗羊羹」である。
米屋が成田山の参道で初めて羊羹を売り出したのは明治32年だった。今年100周年。羊羹も売れたが、屋号も売れた。「米屋の羊羹」は関東・東北あたりの人ならたいてい知っている。
今、米屋社長は3代目の諸岡孝昭さん。まだまだお元気な会長・諸岡謙一さんのもと、邦彦さん、靖彦さんという二人の弟さんとともに暖簾を守っている。
100年売り続けてきた羊羹、見た目には変わらないが、味に流行はあるのだろうか。
「世の中がソフト志向ですから、それに合わせて多少甘さを控えているという傾向はあるんです。ただ、一方では、しっかりと甘みのある羊羹を懐かしむ声もある。そこで『昔羊羹』という名前で、砂糖が粉をふいて表面を白くおおっている昔ながらの羊羹を出しましたところ、評判がいいんです」
創業100周年を祝って、今年は創業記念菓『伝承 栗羊羹』も販売している。栗が通常商品の1・5倍も入っており、どこを切っても栗が顔を出す。今年限りの限定商品なだけに、こちらも大変な人気だ。
「最近、和菓子は健康にいい食べ物として見直されてきているんですが、羊羹も良質のタンパク質である小豆と、整腸作用のある寒天、エネルギー源の砂糖でできている健康食なんです。ほどほどの量を召し上がっていただけば体にもよく、心もなごむ。それが和菓子の素晴らしさなのだと思います」
米屋の羊羹は、初代が新勝寺の精進料理の中にあった「栗羹」にヒントを得て考案したのだという。となると、社長の羊羹健康食論もなかなか奥の深い話になる。

巨大なごぼうが名物 新勝寺の精進料理

イメージ

新勝寺の精進料理。右上の皿に載っている茶色のものが『大浦ごぼう』の甘煮。千年にもわたる歴史を持つ野菜だが、現在では新勝寺の精進料理でしか味わえない。お護摩祈祷にあたり3万円以上の初穂料を献じた人に供される。それ以下の初穂料の場合は別途料金が必要。

 もっとも、現在の新勝寺の精進料理に「栗羹」はない。
「今は参道で栗羊羹がたくさん売られてますから、精進料理からははずしてあるんです」
と、こちらは新勝寺のお坊さんのお話。寺と町が持ちつ持たれつの共存共栄。この寺の精進料理の量が控えめなのも、参道の食堂の仕事を奪わないためだ。
しかし、栗羹もご飯もつかない代わりに、ここの精進料理には大浦ごぼうという呼びものがある。
大浦ごぼうとは成田市の東南にある八日市場市の大浦というところで作られる巨大なごぼうで、大きなものは長さ1メートル、直径も20センチから30センチにもなるという。今では新勝寺の精進料理だけにしか使われず、生産されたものは全部そっくりお寺に納められてしまう。手をかけて調理をした甘煮は缶詰にして保存されるため年中食膳に供される。口当たりはさくさくと軽く、甘い。

大浦ごぼうはお寺だけで食べさせ、ご飯や土産は参道の店に任せる。成田のお寺と門前町は、お互いにそれで成り立ってきた。米屋の諸岡家なども菓子屋としてはまだ3代目だが、もともとは成田の名主を務めた古い家柄で、成田山との関わりは非常に深い。
町はお寺のお世話になり、お寺も町の人々に支えられている。成田に1日いると、しっとりとした町のムードが、そこから生まれているらしいことがわかってくる。

米屋株式会社

成田市上町500番地 TEL:0476 ( 22 ) 1211

イメージ

米屋本店。新勝寺の表参道に面して堂々とした店構え。

   
     

イメージ

不動の大井戸。本店の中を通り抜けたところにある工場脇に造られている。水は持ち帰り自由。

 

イメージ
米屋社長、諸岡孝昭氏。

菓子街道を歩く 金沢 No.188

坂田「京の文化香る 北の港町」

ひがし茶屋街。江戸後期、市中に点在するお茶屋を集めたのが始まり。木虫籠(きむすこ)と呼ばれる出格子のある茶屋様式の町家が並び、国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。

新しい金沢、はじまる

 名勝兼六園の唐崎松に掛けられた雪吊りの縄が取りはずされると、加賀百万石の城下町・金沢に本格的な春がやってくる。
 まずは、金沢城を艶やかに染め上げる桜。長町武家屋敷跡の石畳の路地は春霞にけぶり、ひがし茶屋街に並び建つ出格子の町家からは、軽やかな三味線の音が流れ出してくる。
 この魅力満載の古都が、この春、旅人であふれている。3月14日に北陸新幹線が開業したのだ。東京‐金沢間が2時間半。関東人には「行きたいけれどちょっと遠かった」街がぐんと近くなった。
 金沢駅に降り立った観光客を出迎えるのは新しい駅のシンボル「鼓門」の威容。街に繰り出せば金沢21世紀美術館などの新たな観光スポットも、グルメを喜ばせる山海の幸も、伝統文化に根ざし、現代人の感性にも響く多彩なお土産品も目白押しで並んでいる。
 今回の菓子街道は、新時代を迎えた金沢に、銘菓「柴舟」で知られる菓子舗、柴舟小出を訪ねた。

イメージ   イメージ
金沢駅。旅人に雨傘を差し出すイメージで設計された「もてなしドーム」と能楽の鼓をイメージした「鼓門」が古都の新しいランドマークとなった。   金沢城公園と兼六園。百万石の城下町・金沢の歴史と文化のシンボル。特に春の石川門界隈の景色と、日本三名園の一つでもある兼六園の冬の雪吊りは圧巻の美しさ。

「柴舟」へのこだわり

 柴舟小出の歴史は大正6年(1917年)、初代の小出定吉が駄菓子屋を開いたことに始まる。
 昔から金沢には、煎餅を生姜入りの砂糖蜜にドボンとくぐらせて乾かした「しばふね」と呼ばれる駄菓子があり、定吉も同様のやり方で作り、匁何銭の計り売りをしていた。
 そのお菓子を、金沢を代表する銘菓「柴舟」へと変身させたのが、2代目の弘夫。現在、店を率いている小出進さん(昭和24年生まれ)の父君である。「第二次世界大戦が終わり、砂糖などの統制が解除されると、父はすぐに新しい菓子としての『柴舟』の創作に没頭し始めました。
 特に、この菓子の命ともいえる生姜蜜については材料に金沢城公園と兼六園。百万石の城下町・金沢の歴史と文化のシンボル。特に春の石川門界隈の景色と、日本三名園の一つでもある兼六園の冬の雪吊りは圧巻の美しさ。★もこだわり抜き、生姜は国産の上物を選び、砂糖はほとんどの菓子屋が代替甘味料で菓子を作っていたこの時代に、高価な本物を使いました。菓子の姿も試行錯誤を続けました。1枚1枚、手作業で生姜蜜を刷毛で塗って仕上げる方法もそうした中ら生まれたものです。
 とはいえ、昭和25年頃に当店が1枚5円で売っていた『柴舟』の原価は、4円85銭。その日の売り上げで、翌日の材料を買うような商売です。もちろん、そのままでは続けられません」
 やがて、値段を上げることになったが、それで客離れが起きるようなことはなかったという。何の変哲もなかった地域のおやつ菓子が銘菓に変身した楽しさと、『柴舟』の枯淡の風情は、金沢らしいお土産として大評判になった。そして何よりも、お菓子そのもののおいしさが、茶の湯に親しみ、お菓子にも一家言を持つ金沢の人々の心をしっかりつかんでしまっていたのだ。

イメージ   イメージ
犀川。かつては一部が金沢城の外堀にも転用されていた。同じく市街を流れる浅野川を「女川」と呼ぶのに対し、「男川」と呼ばれている。河畔には金沢ゆかりの室生犀星の碑も建つ。   金沢21 世紀美術館。2004 年に開館した現代アートの美術館。開放的な展示とユニークな企画で観光客にも大人気のスポットとなっている。

菓子のかたち・音・味

 「柴舟」は、掌にすっぽり納まる小判型の煎餅だ。両端に軽い反りが入っているのは、市内を流れる犀川や浅野川をかつて往来していた柴を運ぶ小舟をイメージしたもので、菓銘の由来でもある。
 表面には白砂糖がハケで丁寧に塗られており、うっすらと雪を掃いたようで気品が漂う。雪景色の中を音もなく川を下っていく小舟を描いた水墨画の世界である。
 2枚を打ち合わせると、カンカンと高く乾いた音がする。職人たちはこの音で煎餅の硬度を確かめるそうで、手で割ろうとしても予想外に硬い。しかし頬張ると口の中でほどなく溶ける。そして、まろやかな甘さが口中に広がったと思った瞬間、ピリッと生姜の辛味が後を追いかけてくる。
 滑らかな舌触りのこの生姜蜜は、今も創製当時と同様に蜜を摺り合わせるという独自の製法で仕込んでから使われているそうだ。

イメージ
近江町市場。300 年近く金沢の食文化を支えてきた市民の台所。日本海の魚介類や、最近注目の加賀野菜などを旅のお土産に。

金沢のお菓子はいいですね

 柴舟小出は再来年の2018年に創業100周年を迎える。この間、「柴舟」をはじめ「不老仙果」や「山野草」「栗法師」などの銘菓を数々、世に送り出してきた。また、正月の「福梅」などの季節ごとのお菓子や茶の湯の生菓子、冠婚葬祭のお菓子など、金沢の人々の生活に寄り添うお菓子も作ってきた。
 そうした菓子作りの拠点となっているのが平成23年に竣工した、いなほ工場だ。「新工場を建てたのは、昨今の、食の安全に関する高度な要求に応えるために効率の良さだけではないクリーンな製造現場が必要になってきたからです。しかし和菓子というのは、すべてを機械で作るとおいしくなくなるでしょう。そこで新工場では最新鋭の製造ラインを整えながらも、要所要所に手仕事の場を残しました。新商品の開発なども、いなほ工場で行っています」
 北陸新幹線の開通により、今、金沢では土産菓子の開発合戦が起きている。「もちろん私たちも、後継者である専務を先頭に、多くのスタッフがアイデアを持ち寄って試作を重ねています。ヒット作は欲しい。しかし、浮足立ったものを作れば必ず失敗します。新幹線の開通というビッグチャンスに加え、創業100周年を迎えるこの機会に、当社の次の柱となる菓子を、そして金沢らしい菓子を作っていくことが、うちの使命だと考えています」
 柴舟小出の姿勢を表す言葉が、パンフレットに掲げられている。
 「金沢のお菓子はいいですね」
 自己主張を抑えた慎ましい言葉に、百万石の城下町金沢の菓子屋のおおらかな誇りが宿っている。

イメージ
「柴舟」は、煎餅にハケで生姜蜜を手塗りして仕上げられる。

柴舟小出

金沢市野町3 − 2 − 29(本店) 076(243)2331

お客様に喜んでいただけるお菓子を作っていく——。
これまでもこれからも、ただ、その一点だけを考えています。   小出 進
イメージ  イメージ
     
イメージ   イメージ
柴 舟   山野草

菓子街道を歩く 館山 No.189

館山「黒潮洗う 南房総の豊かな旅」

東京湾の入口に位置する館山湾は、海越しに霊峰・富士を仰ぐ。言葉を忘れてしばし佇む観光客が多い。

黒潮の海と富士山と

 房総半島の歴史は、黒潮を抜きには語れない。かつて半島の南部が「安房」と呼ばれたのも、その昔、四国の阿波(徳島県)の氏族が新天地を求めて大海に漕ぎ出し、黒潮に乗って運ばれたこの地に故郷の名をつけたためと伝わる。
 また、「勝浦」や「白浜」など、紀伊半島にあるものと同じ地名が多いのも、中世以降、黒潮を利用して漁をしたり、物資を運んでいた紀州の人たちが住み着いたからだそうだ。実際、房総の地引き網漁は紀州の漁民が伝えた技術という。
 平成の今も、黒潮の海は人々を引き寄せる。サーフィン、潮干狩り、海水浴……。さらに暖かな海流がもたらす温暖な気候は、1年中この地を花で彩る。
 東京湾アクアラインを利用すれば、都心から車で2時間程で「鏡ケ浦」とも呼ばれる波静かな館山湾の浜辺に立つ。目の前には海を隔てて霊峰富士が予想外の大きさでそびえている。思わず歓声を上げてしまう絶景だ。
 かつて南房総を訪れた正岡子規は、この地を、
  山はいがいが 海はどんどん 菜の花は黄に 麦青し すみれ たんぽぽ つくづくし
と詠んだ。
 今回の旅は、この歌に導かれて南房総の中心である館山市へ。房総土産の定番菓子「花菜娘」で広く知られる房洋堂を訪ねた。

イメージ   イメージ
崖観音。断崖に張り付くように建てられている大福寺の観音堂。 海上からも見え、漁民や海運業の人々の信仰が厚い。南房総では、 こうした崖や切り立った岩山など独特の地形が目につく。   南房総国定公園内にある館山の海水浴場は、県内でもトップクラスの透明度を誇る。磯遊びやサーフィンなども盛ん。

銘菓「花菜っ娘」誕生

 房洋堂の創業は大正12年(1923)である。折しも、木更津から館山まで鉄道が延長された時期で、館山の町が活気を帯び始めたなか、初代が材木商から転じての開業であった。

「私が入社した昭和40年前後は高度成長の真っただ中で、房総にもレジャーブームの波が押し寄せていました。いろいろな観光施設からオリジナルの土産菓子の注文が入り、そのたびにアイデアを凝らして菓子作りに励んでいました。
 ただ、どの菓子も日持ちが今一つ。何とかならないかと苦慮していたところ、旅先でアルミホイルに包まれた焼き菓子を見かけました。空気に触れない分、賞味期限が長い菓子が作れるのではないかと、旅から帰るとすぐにホイル包みの焼き菓子を手作りで試行 錯誤し始めました」
 これが代表銘菓「花菜っ娘」誕生のきっかけだ。昭和50年(1975)、菓子は化粧箱に詰められ店頭に並んだ。
「花菜っ娘」は、しっとりとした乳菓生地で黄身餡を包んだ菓子だ。生地や餡に地元特産の牛乳と卵を使っており、食べると柔らかな甘みとともに豊かな香りが広がる。まず地元で贈答用に喜ばれた。
 さらに、包み紙には南房総を象徴する黄色の菜の花畑に女の子を配したイラストを用い、房総の明るい印象を打ち出した。ちなみに、「花菜」とは、房総での観賞用の菜の花の呼び名である。

イメージ
鶴谷八幡宮の例大祭「やわたん まち」。名工たちの手による見事な彫刻が施された神輿や山車、お船が多数繰り出し、毎年10万人の人出でにぎわう。今年は9月19・20日。千葉県指定無形民俗文化財。

「地元」へのこだわり

「何を作っても売れない」
 苦境のなか、平成10年(1998)に盛岡で行われた全国菓子大博覧会が大きな転機となった。
「会場に並んだ京都や金沢や松江といった日本有数の城下町の銘菓を見ているうちに、田舎の菓子屋だというコンプレックスが、逆に払拭されたんです。伝統も文化も、そういう街には叶わない、であるなら、南房総の風土と房州人の気質を込めた菓子を作るほかない、と。そして、それには地元の産物を徹底的に研究し、そのおいしさをお菓子で表現すればいいのだと」

 房総半島は1周約420キロ、東京―仙台間に相当するほどの距離になる。その広大な半島の内部には丘陵地を利用した田畑が広がり、多くの作物が栽培されている。都道府県別でいえば、梨や落花生の生産高は全国1位、ビワやスイカは2位、サツマイモは3位。さらに卵の生産は2位、生乳は5位……。豊かな地元産の素材にこだわり、そのおいしさを生かしたお菓子をと考えていくと、次々にアイデアが浮かんできた。

イメージ
房総フラワーライン。房総半島の先端をぐるりとまわる花に彩られたドライブウェイ。周辺にフラワーパークも多数。

ふるさとの菓子作り

 例えば、代表銘菓の一つである「房総果樹園」は、涼やかな夏菓子として好評を得てきたが、近年、人気の梨を加えて評判を上げている。また、房州ビワを使った「びわゼリー」は、高級志向にも応えるように選りすぐりの大粒ビワのみを使ったワンランク上の「プレミアム房州びわゼリー」を作って新たな顧客を開拓した。
「創業100年を迎えるまでに、房洋堂を後世に残るブランドに育てられたらと思っています。豊かな自然の恵みに職人の技を加えたふるさとの菓子作りを続けていく。そしてそれが房総の町つくりにまで繋がっている。それが今後も、私の仕事の道しるべになっ ていくでしょうね」
 黒潮で鍛えられた房州人の性格の特徴は、明るく、開拓者精神が旺盛なことだそうだ。「千葉県って、アメリカのカリフォルニア州に似ていると思いませんか? 風土が明るく、産業のバランスが良く、海空の便もいい。しかし、どちらも伝統文化が少ない」
 南房総の陽ざしのような、おおらかな笑顔がはじけた。

イメージ
洲埼灯台。大正8年、東京湾の玄関口に建てられた館山のシンボル。右手に東京湾、左手に太平洋が広がる。

房洋堂

千葉県館山市安布里780 電話:0470(23)5111

イメージ  

千葉の豊かな恵みを
菓子で伝える企業として
後世に価値を残したい。

イメージ
イメージ

菓子街道を歩くNo.141 日本橋

東京 日本橋[都会のなかの都会]

マップマップ

日本橋400年

イメージ

日本橋。現在の日本橋は明治44年(1911)に架けられたルネサンス式石橋。長さ49.1m、幅27.3m。欄干には麒麟(きりん)と獅子の青銅像が置かれ、洋灯が立っている

イメージ

 日本橋の歴史は、改めて述べるまでもないが、橋そのものは慶長8年(1603)、徳川家康が江戸の町づくりをするのと同時に架けられ、諸街道への起点とされた。今でも、橋の中心が一級国道の道路元標である。下を流れる日本橋川は、海と隅田川と江戸城とを結ぶ運河だった。橋の下手が魚河岸になり、越後屋(三越百貨店の前身)に代表される「衣」とともに、江戸人の「食」もここで供給されることになる。
 今、東京の日本橋といえば、ふたとおりの意味に使われる。広くは、日本橋を渡る中央通りの両側、とくに東側に町名に「日本橋」を冠する町が多数あり、これを総称して日本橋という場合。小舟町、浜町、人形町、兜町、小伝馬町など、いずれも上に「日本橋」がつく。これは、戦前まであった日本橋区という行政区の名残であろう。
 狭い意味の日本橋は、高島屋の南から三越の北まで、1キロ余りの中央通りとその界隈を指す。奥様方が、「ちょっと日本橋までお買い物に」というときには、ここである。日本橋は東京という都会のなかでも、最もおしゃれで都会的な街だ。
現在、日本橋では、大規模な再開発が行われている。江戸開府から400年。今回の菓子街道は、大きく変わろうとしている日本橋を歩く。

魚河岸の金鍔(きんつば)

イメージ

江戸時代の日本橋は、もちろん木製の橋。創架400年の今年、記念の式典が行われた。

 まだ日本橋に魚河岸があった幕末のころ、井筒屋と称して河岸に屋台店を出し、きんつばを焼いていたのが、榮太樓總本鋪の初代、細田安兵衛である。きんつばは河岸で喜ばれ、評判だった。
 その後、安兵衛は安政4年(1857)、日本橋南詰から少し西に入ったところに、自分の幼名榮太郎をもじって店名を榮太樓と改称し、1軒の店を開いた。その後、店は繁盛を続けるが、これが現在の榮太樓總本鋪の起こりである。
 古い本によると、明治の初めまで、店先できんつばを焼く安兵衛夫妻の姿がよく見られたという。現在でも、榮太樓總本鋪の正面玄関には、創業当時の店の敷石が、一部分そのまま残されている。かつての店先は、その石を中心に2間四方ばかりの小さなものだったようだ。
 榮太樓總本鋪の銘菓として知られる、あの丸い素敵な缶に入った「梅ぼ志飴」、浜名納豆から名づけたという「甘名納糖」など、いずれも初代の考案。2代目は貴族院議員をつとめ、現在4代目の細田安兵衛さんは会長職も譲り、肩書きをもたない総帥である。
「正直言って、うちは茶の湯のお菓子などは苦手ですよ。桜餅、柏餅、大福、どら焼き、きんつばなど庶民の菓子が、江戸の菓子というか、東京の菓子だと思います。そういうものを基本にして、親しみやすいお菓子を、というのが、私などの考えです」
 日本橋で生まれた安兵衛さんは、この街で暮らす感覚がやはりよその住人とは違う。
「日本橋の上を高速道路が通ると聞いたとき、私なんか若かったから、ここらが未来都市になるような、そんな気がしましたよ。それと、このへんの人はね、お上のやることに反対するなんてことは、してはいけないものだと、はじめから思っていたんです」
 しかし、さすがに今となっては、この悪名高い高速道路を取り払い、橋と掘割の情趣を取り戻すべく、具体策を検討しつつあるという。
 榮太樓總本鋪は、昔から日本橋では女性が集まるサロンだったが、訪れた日も、1階の甘味喫茶・食堂は満員の盛況だった。

水天宮とともに

イメージ

水天宮。毎月5日の縁日や戌(いぬ)の日には、安産や子どもの成長を願う参拝者でにぎわう。

 広い意味での日本橋に属する各町は、それぞれなんらかの特色を持った町である。人形町はその最たるもの。かつてこの町は江戸っ子の粋な遊び場として栄え、芝居の中村座、市村座があり、明治以降は水天宮の門前町としてもにぎわった。
 人形町通りと新大橋通りの交差点の、水天宮との対角に、三原堂本店がある。1階は和洋菓子の店・三原堂本店、2階はカフェ・ドルチェというしゃれた喫茶店。店名を掲げた大きな看板は、交差点のどこからでも見える。
 三原堂本店は、明治10年、三原田宗元が蛎殻町に菓子屋を始めたのが起こりという。明治20年には現在地に移って開店した。
 水天宮はもともと、久留米藩有馬家が藩邸内に建てた私社であった。それを有馬家では5のつく日だけ縁日として一般の参拝を許し、多くの参詣者を集めてきたのである。その後、水天宮は有馬家の手を離れたが、安産祈願を中心に、この神社の人気は今も衰えを知らない。
 三原堂本店の創業者宗元は、はじめ、5の日以外に参拝に訪れる人のために、水天宮からお守り札を預かり、店先で分けていた。その後、宗元は水天宮に願い出てお守りの護符文字を型押しした銘菓「御守最中」を創案し、三原堂本店の看板商品として今日に至っている。
「人形町という町は、江戸の技を受け継ぐ老舗がある一方で、洋食屋さんなどハイカラな店も多い。そういう独特な情緒が見直され愛されて、今、人形町には、若い人もすごく増えてきています」と、三原堂本店の3代目、三原田敏さん。
「御守最中」のほかに、三原堂本店で人気の商品には「塩せんべい」などがある。洋菓子も戦前から手がけた。もちろん、地域の人に愛される季節のお菓子も作っている。ここも榮太樓總本鋪と同じく、町のお菓子屋さんという姿勢をベースに、銘菓を守っているのだ。

榮太樓總本鋪

東京都中央区日本橋1―2―5 TEL 03(3271)7781 FAX03(3271)7824

イメージ

榮太樓總本鋪。日本橋は目の前。

 

 

 
     
イメージ
名代 金鍔。刀の鍔の形を写して榮太樓總本鋪のきんつばは丸い。
  イメージ
梅ぼ志飴。少量の水飴を使うが、純粋に近い砂糖菓子。丸い缶は東京人の郷愁だ。

三原堂本店

東京都中央区日本橋人形町1―14―10 TEL03(3666)3333 FAX03(3666)3349

イメージ

三原堂本店。大きな看板はケヤキの一枚板。つい寄りたくなる。

  
     
イメージ
御守最中。北海道十勝産の小豆のみを使用した小倉餡がたっぷり入っている。
 イメージ
塩せんべい。パリッとした歯ごたえの香ばしいお煎餅。あとをひく味わいだ。

菓子街道を歩くNo.140 京都・洛東

京都 洛東[花らんまん月おぼろ]

マップ

散策路の春

イメージ

哲学の道。哲学者西田幾多郎がこの道を散策して思索をしたことにちなんで名づけられた。桜並木でも有名。

マップ

南禅寺の水路閣。南禅寺方丈の南側にある、琵琶湖疎水を通すために造られたレンガ造りの橋。南禅寺境内のなかで、異色の風景をみせている。

 京都は四季それぞれに風趣に富むが、春はまた格別だ。古い町並みに桜の花がよく似合い、清々しい鴨川の流れを渡って祇園町に入れば、「都をどりはヨーイヤサァ」の掛け声が、花見小路の奥から聞こえてきそうである。
 中心部から東西南北いずこにも見どころの多い京都の、今回は鴨川から東側、洛東と呼ばれる一帯を歩いてみる。 
この地域は、点在する有名な社寺をたどって、そぞろ歩きが楽しめる散策路で名高い。祇園を起点に、八坂神社から南へは、高台寺、二年坂、三年坂(産寧坂)を経て清水寺へ続く道があり、北は南禅寺に出て、琵琶湖疎水の流れに沿って銀閣寺に至る「哲学の道」がある。 
 市街地にも訪ねたい名所が数多くある。祇園町のすぐ南には栄西禅師が開いた京都最初の禅寺である建仁寺、北には法然入滅の寺・知恩院、平安神宮、黒谷の真如堂等々。平安神宮のある岡崎公園には、京都国立近代美術館や京都市美術館もある。

京都一有名なお菓子

イメージ金戒光明寺。黒谷の通称で親しまれている法然上人が開いた道場のひとつ。

 さて、洛東の名所には、古いお菓子屋さんも入る。菓子街道ということをいうなら、ローマの道のひそみにならい、日本のすべての菓子街道は京都に続く、といってもよいだろう。いつの時代も、菓子の洗練とは、京風を取り入れることであった。
 その京都でいちばん有名なお菓子といったら、まず八ツ橋であろう。なかでも代表格が、「聖護院八ツ橋」。和菓子など何一つ知らない田舎の高校生だった筆者が、修学旅行のとき、肉桂の香りの「聖護院八ツ橋」だけは知っていて、みやげに買ったのは、今にして思えば驚きである。
 聖護院八ツ橋総本店は、丸太町通の一本北の道を東大路通との交差点から、東へ少し入ったところにある。正面軒下に白い漆喰の虫籠窓が美しい、間口の広いどっしりした店構えだ。斜向いが聖護院という古い門跡寺院で、一帯の地名を聖護院という。店の前の道を真っ直ぐ東へ進めば、黒谷の通称で知られる金戒光明寺に突き当たる。五山送り火の大文字山がまのあたり。
 この店、創業が元禄2年(1689)と古く、しかも八ツ橋という商品だけで300年以上も続いてきたところがすごい。
 銘菓「聖護院八ツ橋」の「八ツ橋」は、琴の開祖八橋検校にちなんだものといわれる。八橋検校は、八橋が名前、検校は最高の官位のひとつ。貞亨2年 (1685)に没し、金戒光明寺に葬られたが、その遺徳を偲んで全国から参詣する人があとを絶たない。そこで、金戒光明寺への参道で売られるようになったのが、八ツ橋であるという。
 現在、八ツ橋は蒸した生地に餡を包んだ三角形の生八ツ橋(聖護院八ツ橋総本店では「聖」の商品名で販売)が主流である。だが、これは昭和35年以降のことで、それまでは反りのある短冊形の焼いた八ツ橋しかなかった。この形は、琴をかたどったものといわれている。
 生地は蒸し上げた米粉に桂皮末、砂糖を混ぜてこね合わせ、薄くのばしたものに、きな粉をふりかけて仕上げる。ただ、伝統の焼いた八ツ橋と生の「聖」では、まったく同じ生地を用いるわけではなく、多少材料の違いがあるようだ。
 聖護院八ツ橋総本店の現在の当主、鈴鹿且久さんは吉田神社の社家として67代続いた家系である。まったく京都というところは、どこにどんな身分の方がいるかわからない。眉目秀麗の鈴鹿社長はこう語る。
「京都のお菓子屋さんがお互いに競争をするなら、商品の質を落とさずに、お客様へのサービスをいかに向上させるかで競争したいですね」

聖護院八ツ橋総本店 

京都市左京区聖護院山王町6 

TEL:075(761)5151 

FAX:075(771)2114

イメージ

八ツ橋総本店。新築なった京都大学附属病院にほど近く、ひっそりとした通りに老舗の風格をみせる。

  
     
イメージ
聖。新鮮でおいしい生八ツ橋は、ちぎったときの伸びがよい。
  

イメージ

聖護院八ツ橋。主役は生八ツ橋に譲ったが、根強いファンをもつ硬派。

菓子街道を歩くNo.139 伊勢

伊勢[おかげさまです三百年]

マップ

伊勢神宮とお伊勢さん

イメージ

おはらい町。内宮へ向う人の波が続く。車時代になってさびれかけたおはらい町(内宮門前町)は、昭和50年代からの町の人々の努力で、往時を彷彿とさせる町並みを取り戻し、にぎわいが復活した。

イメージ

伊勢のしめ飾り。伊勢では、玄関に「蘇民将来子孫家門」「笑門」などの文字を書いた木札をつけたしめ飾りを正月にかけ、一年中飾っておく。

 伊勢神宮は、昔から天子様が参拝する一方、落語に出てくるような八っつぁん熊さんまでもが押しかけた、不思議な神様である。伊勢神宮でありながら、お伊勢さんでもあるのだ。
 有名な「おかげ参り」は江戸初期に始まり、大ブームは4度あったといわれるが、最も大規模だった年には400万人以上もの人々が、伊勢へ伊勢へと参詣したという。当時の日本の人口が約3000万人というのだから大変な率である。奉公人が勝手に職場放棄をして、着の身着のまま伊勢に出かけてしまう「抜け参り」も盛んに行われた。
 また、幕末の慶応4年に起こった「ええじゃないか」は、集団で「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂いながら伊勢へと向かい、洗濯をしていた主婦が突如それに加わるというありさまで、群衆はどんどんふくれあがった。その数は200万とも400百万ともいわれる。
 現代では、さすがにそんなことは起こらないだろうが、しかし、神宮への参拝者数は年間600万人余。民衆の伊勢参りの勢いは、衰えることなく続いている。「菓子街道を歩く」となれば、当然、伊勢神宮ではなく、庶民のお伊勢さんの話であることは、いうまでもない。

外宮から内宮へ

イメージ

内宮の御手洗場。五十鈴川のほとりに設けられた御手洗場(みたらいば)は、お祓いの場所で、参拝を前に手を濯ぎ、身を清めるところ。

イメージ

外宮正殿。4重の垣に囲われていて、見えているのは板垣南御門。一般の人が入れるのはその内側の外玉垣まで。

 ともあれ、伊勢まで来たら、なにをおいても、まずはお参りである。
 伊勢神宮は、正式には単に「神宮」という。大きく内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)に分かれ、両社の距離は4kmばかりあるが、この両宮を参拝しないと伊勢参りをしたことにはならないという。そこで、外宮へ。
 外宮は、伊勢市駅から歩いて5分ほどのところにある。左手にかすかに池の水を見ながら巨木の中の参道を歩くと、300mほどで板垣南御門の前に着く。ここで参拝する。御門の前は平地で、大木からしきりに落ちてくる杉の葉を、神官の方々が拾い集めていた。
 内宮へは、外宮の前からバスで行ける。猿田彦神社経由で、内宮前まで約15分。
 宇治橋を入れると、参道は約600m余り。まず、いつに変わらぬ五十鈴川の美しさに見とれながら、宇治橋を渡る。境内の道を歩き、斎館の横を過ぎると、今度は御手洗場で、五十鈴川の川べりに立つ。巨大な錦鯉が神の化身のように泳いでいるところだ。
 内宮の板垣南御門の前は、石段になっていて、登りきって参拝する。

赤福という餡餅

 伊勢でお伊勢さんの次に有名なものといったら、赤福であろう。赤福は、名所の名物にして、店自体がまた名所だ。外宮、内宮と参拝したら、摂社、末社はいずれまたと、赤福本店参りにかけつける人も多いはずである。
 赤福の創業は、宝永4年(1707)と古い。富士山が大噴火した年だ。創業者浜田治兵衛から数えて10代目の現当主は、浜田益嗣さん(65歳)。赤福の伝統を現代に生かした人で、その経営戦略は、しばしば経済界でも話題を呼んでいる。
 赤福餅は、搗きたての餅に三筋の指跡をつけた餡がのった菓子だ。指跡は、五十鈴川の流れを表すという。大きさ、餡の色など、まことに品がよく、伊勢みやげにふさわしい。あっさりした餡の甘さ、餅が2、3日は柔らかさを保つのもありがたく、しかも廉価である。
 おいしさの秘密は、まず材料の吟味。モチ米は餅のだれやすい夏は佐賀米を、かたくなりやすい冬は北海道の米を用い、小豆は十勝、砂糖は特注品と、配慮が細かい。餅と餡は、朝熊山麓の本社工場1カ所だけで伏流水で加工。商品は作ったその日だけ売り、売れ残りは廃棄する。そして販売は、お伊勢参りのみやげという原則を通し、西は大阪、東は名古屋までと地域を限り、伊勢への玄関口まで、という考え方である。

おかげ横丁とおはらい町

イメージ

おかげ横丁。おはらい町の一角に、赤福が140億円を投じて建設したなつかしい伊勢の町。江戸〜明治期の木造建築19棟を再現、平成5年にオープンした。

 赤福の名は、まごころから福を慶ぶという意味の「赤心慶福」から取り、店はその精神をもてなしに生かしている。驚いたのは、女将自ら、1年365日、毎朝4時に起きて本店のかまどに火を入れるという話だった。赤い色をした丸いかまどでは、今でも薪で湯を沸かし、お客さんにお茶をふるまっている。
 本店は、伊勢商家の典型的な建物といわれる木造建築で、中に入ると、昔ながらの茶店風。店の奥の座敷は五十鈴川に面しており、静かなひとときを過ごせる。
 店の向かい側には、さまざまな店や小美術館、芝居小屋や太鼓やぐらなどがひしめいてにぎわう一角がある。これが「おかげ横丁」で、江戸から明治にかけての建築物が移築、復元されて、伊勢路らしい雰囲気を創っている。
 店に並行する通りは、おはらい町通りと呼ばれている。かつては、お伊勢参りの旅人が必ず通る旧参道の一部だったが、車の時代を迎えて人通りが減少。危機感を抱いた町内が協力して町並みの復旧、保全に乗り出した。その中心となり、率先して景観を損なう自社ビルを壊し、核となる「おかげ横丁」を建設したのが、赤福である。
 効果はてきめん、お伊勢参りに来て、この町並みを歩かずに帰る人はいないほどだ。

かつては伊勢の台所

イメージ

伊勢河崎商人館。全国から参拝客が押し寄せる伊勢の台所を引き受けていた商人の町・河崎町。その町づくりの拠点として、平成14年夏にオープンした。

 伊勢にはもう一カ所、古い町並みを保存しているところがある。外宮よりもさらに海寄り、勢田川沿いの河崎町で、かつては「伊勢の台所」として栄えたという。港から勢田川を使い、舟で米や魚がここに運び込まれた。その面影が川沿いの通りに残っていて、NPOなどが積極的に蔵などの保存に取り組んでいる。
 伊勢で時間のある方は、ぜひ立ち寄りたい界隈である。
 五十鈴川駅までタクシーに乗ったら、「お客さん、今度来たときには、猿田彦神社にもぜひお参りしてよ。ほら、家なんかの方位の神様。今、あすこのお参りも盛んだよ」と言われた。降りてから、あれは猿田彦神社の親類に違いない、などといって笑ったが、思わず自分の家の玄関の向きを思い浮かべてしまった。

赤福本店

三重県伊勢市宇治中之切町26 TEL : 0596(22)2154

イメージ

屋根の断面の側に玄関がある、切り妻・妻入り造りは、伊勢商家の典型的な様式。明治10年の建築。

  

イメージ
赤福餅。この餅ひとつで、約300年。絶対の人気を誇る。

イメージ

本店店頭のかまど。店で赤福餅を食べるお客さんにお茶を出すための釜を据え、薪
を焚いて湯を沸かしている。

菓子街道を歩くNo.138 小布施

小布施[栗の郷に北斎が来た]

マップ

江戸に近い町

イメージ

イメージ

岩松院。福島正則、小林一茶ゆかりの古刹であり、高井鴻山の旦那寺であった縁で葛飾北斎が描いた大天井画「八方睨み鳳凰図」があることで知られる。21畳敷一杯の極彩色天井画は、嘉永元年(1848)、北斎89歳のときの作品。

 葛飾北斎という画家は、のちの世まで型破りだった。江戸ではなく、遠い信州小布施で蘇り、今や小布施を北斎の町とまでいわしめている。
 岩松院本堂の天井画や、北斎館にある肉筆類を見ると、冨嶽三十六景のような版画の北斎とはまた違う、恐ろしいような迫力に圧倒される。
 しかし、小布施だからこそ、北斎もやってきたのである。
 小布施は、江戸と北越を結ぶ街道沿いの町だ。西に千曲川をへだてて信越国境の山々、東に白根山をはじめとする上信国境の高峰を望む。古くから栗の産地として知られ、江戸時代には幕府が直轄。砂糖の普及に伴って、江戸末期には栗を用いた菓子の製造販売が始まった。
 一方、幕末の小布施には、高井鴻山という豪商文化人が出ている。これも、幕府が直轄していたために、小布施と江戸が近くなっていたことと無縁ではないだろう。鴻山がいなければ、北斎もこの地を訪れることはなかった

町並み景観の核

イメージ

栗と北斎の町、長野県小布施町。瓦屋根の家並みが続く美しい町のいたるところで、栗の木を見かける。

 小布施の中心街で驚くのは、店や食事処の重厚なたたずまいだ。その多くがお菓子屋さんなのである。 とくに目を引くのが桝一市村酒造場と小布施堂の棟続きの建物で、ともに旧家市村家の経営。高井鴻山と縁続きの家で、もともとは酒造家である。明治に入って、菓子の店小布施堂を始めた。現在の当主市村次夫さんが、17代目。50代と若く、小布施のホープである。 市村さんは隣接する民家や信用金庫、町と協力し、小布施の町並み景観の核をなす一区画を整備した。市村家の本宅を中央に、店や菓子工場などが取り囲み、その外側にある町営の北斎館、高井鴻山記念館などと接続し、いずれも違和感のない建築で融合させた区域である。「生活していない建物を集めたのがテーマパーク。こちらは生きて活動している町です」と、市村さんは強調する。 お菓子で市村さんが考えていることの一つは、テイクアウトできない、小布施で食べて帰る菓子の価値。秋のお菓子「雁ノ山」などもその一つで、小布施堂の特色をなしているといってよいだろう。

小美術館のやすらぎ

イメージ

高井鴻山記念館。鴻山(1806〜1883)は小布施の旧家に生まれ、京都、江戸に遊学して儒学、書、絵画を当時の一流の権威に学び、郷里小布施に戻って中央の文化人と交流しながら、地域文化に貢献した人物。多くの書や絵画を残している。

 小布施堂のすぐ近くに、お菓子が優れているのはもちろん、文化活動もめざましいお菓子屋さんが2軒ある。
 小布施堂の筋向かいにある竹風堂は、明治中期の創業。栗菓子のほか「栗強飯」のヒットでも知られ、長野県下に10数軒の支店を構え、高い直売率を誇る店である。「お店に来られる、見知らないお客さんにどう接するか、これが商いのすべてだと思っています」と、70代に入ったばかりの社長竹村猛志さんは社員教育に情熱を注ぐ。
また、竹村さんは、収益の一部は文化的な事業で地域に還元すべきだと考えている。重要有形民俗文化財の灯火用具を収蔵・展示する「日本のあかり博物館」を開設したのは、昭和57年と、北斎館に次いで古い。平成9年には松代店に併設して「池田満寿夫美術館」も開館させた。
 小布施堂の北には、桜井甘精堂がある。文化5年創業の老舗で、現在の社長桜井佐七さんが7代目。竹村さんとほぼ同世代である。
 桜井甘精堂は、「栗落雁」「栗ようかん」「栗かのこ」など、小布施の栗菓子の創製元祖の店。その伝統を受け継ぎながら、桜井さんは「小布施を楽しい町に」という努力を惜しまない。本店南側には、紅茶とオリジナルケーキの瀟洒な店も開店させた。
 さらに本店奥にある「小さな栗の木美術館」などは、美術ファンにとってはたまらない見ものだ。ここの絵画には、桜井さんと親交のあった、『気まぐれ美術館』でおなじみの洲之内徹のコレクションが多数含まれている。
 北斎の名前だけに頼らず、旧街道沿いの町を、お菓子屋さんがこぞってもり立てている。小布施は、まさに菓子街道そのものであった。

小布施堂

長野県小布施町808
TEL:026(247)2027

イメージ

小布施堂本店。売り場の奥には「お食事処」。敷地内にはほかに「蔵部」「傘風楼」などの食事のできる店もある。

イメージ
くりかのこようかん
栗鹿ノ子羊羹
栗羊羹に大粒の栗の実を丸ごと入れた、見た目にも美しい銘菓。
 イメージ
かりのやま
雁ノ山
10月限定で、食事処で供せられる。持ち帰り販売はしていない。

竹風堂

長野県小布施町973 TEL:026(247)2026

イメージ

2階に広いレストランをもつ竹風堂本店。右隣りに建つ旧本店は「自在屋」の名で諸国民芸品を売る店になっている。

   

イメージ
方寸
初代が創製した赤えんどうを使った干菓子。香りがよく、口の中ですっきりととける。
 イメージ
栗かの子
蜜漬け栗に栗餡をからめた贅沢なきんとん。開缶の際に手を切る心配のないプラスティック容器も評判。

桜井甘精堂

長野県小布施町779 TEL:026(247)5166

イメージ

桜井甘精堂本店。左隣りに江戸時代の建物を復元した、美しい日本庭園をもつ食事の店「泉石亭」がある。

   

イメージ
純栗ようかん
栗・砂糖・寒天のみを原料に、200年の伝統の技で作った淡い甘みと高い香りを持つ栗羊羹。
 イメージ
純栗もなか
本こがし皮と純栗餡のハーモニーを楽しめる、姿形も愛らしい最中。10〜5月の季節限定商品。

菓子街道を歩くNo.137 松江

松 江[水郷の時ゆるやかに]

マップ

舟からの眺め

イメージ

堀川めぐり。舟に乗る人にとってはもちろん、堀のそばを歩く人にとっても、舟が往来することで、松江の風景は新しくなった。

 宍道湖、松江城、小泉八雲旧居と、なじみの見どころを思い描いて松江に出かけていった。ところが、平成9年に城の周囲の堀を舟で遊覧する「堀川めぐり」というものができていて、松江観光の魅力はぐんと増していた。
 今回、初めて、カラコロ広場前から舟に乗ってぐるっと1周したが、まったく趣の違う松江に出会う思いだった。
 簡単なテントの屋根がついた川舟は、低い橋をくぐる時、屋根を低くする仕組みになっている。屋根が下がるたびに、乗客も頭を下げたり、身を伏せたり。これが、思いがけず見知らぬ乗客同士をなごませるきっかけをつくっていた。
 水上から見る花々や木々の緑が美しく、ときにはそこにカワセミなども現れる。

不昧公好みの復刻

イメージ

松江城。天守閣は、慶長16年(1611)の建物で、国の重要文化財。平成13年に3つの櫓が復元された。

イメージ

月照寺。松江藩松平家の菩提寺で、国指定史跡。不昧公の廟所もここにあり、透かし彫りが施された廟門は小泉八雲も絶賛したと伝えられる。

 舟は内堀に入り、右手に小泉八雲の旧居、左手に松平不昧公を偲ばせる城山の森を見つつ通る。
 松江の文化は、茶道「不昧流」を興した7代目藩主松平治郷(不昧)によるところが大きい。町人の茶事が禁じられていた頃、富裕な町衆はひそかに「隠れ茶室」なるものまで造って、茶を楽しんだという。いまでも、松江の人々は、日に2度も3度もお抹茶を飲む。
 お茶といえば、お菓子。これも松江では、不昧公の歌にちなんだ「山川」「若草」といった銘菓が名高い。ただ、不昧公好みのお菓子は、ほんのひと握りの人々のためのものだったため、明治を迎える頃には、どんなお菓子だったかさえ、わからなくなってしまっていた。
 それを復活させようという話が、有志がつくる「どうだら会」という町おこしのための懇話会で始まったのである。
 会の意を体して、「山川」を風流堂の内藤隆平が、「若草」を彩雲堂の山口善右衛門が、古老の話を聞き、古文書を調べて、苦心の末に復刻した。それぞれ、現在も松江の代表的な菓子店として栄えている店の、実質初代である。

「山川」のしなり

 風流堂の本店は白潟本町にあるが、寺町店を訪ねた。現当主は4代目の内藤守さん。
 「山川」は不昧公の「散るは浮き散らぬは沈む紅葉葉の影は高尾の山川の水」という歌にちなむ菓子である。手にとるとしんなり曲がるやわらかさは、世の落雁とは違う。高雅で、きめが細かく、口の中で消えるように溶ける。
 「打ち菓子は砂糖と粉です。特に、粉の質がいいことが大事。それから、砂糖に水を加えた時のしとり加減、砂糖と寒梅粉を合わせて練る時の練り具合……。山川のやわらかさを出すには、この地方のその日の天候まで計算に入れる必要があるんです」
 内藤さんは、今の菓子業界の環境は、脱酸素剤、冷凍技術、宅配便の登場という3つのイノベーションで変わったという。だが、「山川」「朝汐」はいうにおよばず、新しい菓子も「路芝」など古典にちなむものが多い。
 銘菓「呼子鳥」を詠んだ山口誓子の一句が、句碑になって寺町店の店頭に立っている。時代が変わっても、風雅の伝統のなかでお菓子を作り続ける、風流堂はやはり松江の老舗である。

「若草」のコシ

 「若草」で有名な彩雲堂の本店は、白潟天満宮の門前町である天神町の四つ角に位置している。彩雲堂の現当主も4代目の山口研二さん。
「若草」は、不昧公の歌「曇るぞよ雨降らぬうちに摘んでおけ栂尾の山の春の若草」にちなむ銘菓である。
 色も味わいも、まことに春の若草のような、お茶席に似合う逸品だ。
「こだわっているのは、求肥の材料です。仁多米という島根県の山間部でとれる糯米を石臼でひいて用いています。市販の粉から作るのとはコシが違いますので」
 そのコシのある求肥を拍子木形にして、若草色に染めた寒梅粉を一つずつ昔ながらの手作業でふっさりとかけて仕上げている。
 彩雲堂では「若草」、「朝汐」のほか不昧公好みの復刻として「たまみず」、「やまかつら」などの菓子も好評だ。また、お月見用に曲げわっぱに「うさぎの上用」を並べたり、雛の節句には松江伝統の花餅を、敬老の日には「不老仙」をと、松江という土地をいつくしみ、日本の歳時記を大切にした、お菓子の提案も試みている。

湖畔の美術館にて

イメージ

島根県立美術館。宍道湖に臨んで、平成11年にオープンした。「宍道湖の夕日」観賞スポットとしてもおすすめ。

 旅のしめくくりに、宍道湖の湖岸に誕生した2つの美術館を訪ねた。湖の東岸に立つ島根県立美術館と、北岸にできたルイス・C.ティファニー庭園美術館である。
 県立美術館は、所蔵品もさることながら、一階の湖水に向かったオープンスペースがすばらしい。ボーッとするにも、語らいにも。
 ティファニー庭園美術館では、ステンドグラスやランプ、家具などの優品を堪能。本式の英国式庭園に驚かされた。ここも、足元まで湖水のくるような休憩室が魅力的。
 名にしおう宍道湖の夕日は、曇天で見られなかった。

風流堂

松江市白潟本町15 TEL:0852 (21) 3359

イメージ

「呼子鳥」の句碑が立つ寺町店。
松江大橋近くにある白潟本町の本店や塩見縄手店は、観光途中に立ち寄るにも便利。

  
     
イメージ
路芝。万葉集歌に発想を得て、出雲路の姿を表現した、胡麻の香りを配した菓子。

イメージ

山川。日本3銘菓のひとつといわれる高雅な味わいの打ち菓子。

彩雲堂

松江市天神町1245 TEL:0852 (21) 2727

イメージ

天神町の本店。堀川沿いにある旧日銀松江支店の建物を使った松江の新名所、カラコロ工房内の支店では、お菓子づくりの実演も見られる。

   
     
イメージ
若草。色、姿ともに美しく、求肥と寒梅粉があいまって、萌えぎの力を感じさせる。

イメージ

柚衣。丹念に煮つめた小ぶりの柚子に朝汐餡を詰めた、柚子の香り豊かな菓子。