菓子街道を歩くNo.135 大垣

大垣[水の都 天然の甘味]

マップ

芭蕉ゆかりの船町

 大垣といえば、「奥の細道」結びの地として名高い。元禄2年(1689)、松尾芭蕉は、江戸を出発して約5カ月後、「奥の細道」の長い旅を大垣でしめくくっている。芭蕉は、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句を残し、大垣船町の河港から船で下っていった。
 今、大垣を訪ねると、船町の水門川のほとりは芭蕉の句碑や銅像、「奥の細道むすびの地記念館」など、芭蕉一色に彩られ、かつて栄えた河港の面影を伝える住吉燈台(木製の高い灯籠)がそそり立っている。
 船町は大垣の豪商が集まっていた地域だが、今も、古い蔵造りの建物などがいくつか目につく。そのうちの一軒が、地元出身の日本画の大家、守屋多々志さんの生家である。今年7月、ここからほど近い郭町に、大垣市守屋多々志美術館が開館した。
 大垣城の天守閣や郷土館も、船町から1キロと離れていない。大垣の旧市街は運河に沿い、堀に沿って散策するのにちょうどよい街である。

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大垣城。慶長元年(1596)に築かれた天守閣は戦災で消失。現在の天守閣は昭和34年の再建である。大垣藩は寛永12年(1635)に城主となった戸田氏が幕末まで治め、大垣の文化の基礎をつくった。

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奥の細道むすびの地風景。芭蕉が船で下ったこの水門川は、南で揖斐川に合流し、桑名へ通じる。木製の常夜灯・住吉燈台は、貞享2年(1685)の建設。

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芭蕉銅像。昭和60年建立。住吉燈台の向かい側に建つ。

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郷土館。昭和60年開館。大垣城の近くにあり、大垣藩主戸田家の遺品をはじめ郷土の資料を展示する。火曜休館。

あとを継ぎたくなる店

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田中屋せんべい総本家

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作業風景

 田中屋せんべい総本家は、入母屋風の瓦屋根をもつ古風な建物で、本町の落ち着いた商店街の角地を占めていた。店に入ると右手の作業場で、お年寄りの職人さんが、悠々とせんべいを焼いている。
 せんべいを焼く道具は、長い真っ直ぐな鉄のペンチの先に型がついていて、その型に生地を入れてガスの火にかざすというもの。その道具をズラリと15〜16本も並べて座り、職人さんは独得の手順で型を返してゆく。
 5代目社長の田中民生さんに話を聞く。昭和21年生まれと若く、すてきな紳士である。
 田中屋せんべい総本家は、安政6年(1859)創業。人気の銘菓「みそ入大垣せんべい」は、創業以来の看板商品だ。機械ではうまくいかず、すべて手焼きである。
 生地は小麦粉と砂糖と糀みそで、糀みその天然の甘みを生かしている。卵を使わないから、仕上がりは固い。その固さが、赤ちゃんの歯がため用にちょうどよいとか。
 田中さんは大阪で洋菓子の修業をしたこともあり、「生どら」など、洋菓子のセンスも取り入れたものもどんどん開発している。
 「伝統は継続しながら変えていくものだと思っています。後継者が、自分もあとを継いでやってみたい、と思うような店にしなければ、しょせん続いていきませんから」と田中さんは言う。
 「うちは住まいと店が一緒。よそに住まいがあって、ここへ通うという生活をすると、子どもたちはお菓子の世界と関係がなくなってしまいます。菓子作りを見て育つ。後を継いでもらうには案外大事なことじゃないかと思います」
 という話も興味深かった。

「大垣」を歩んだ歴史

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槌谷

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銘菓「柿羊羮」

  竹の容器の銘菓「柿羊羮」で知られる槌谷は、俵町にある。古風な建物の軒先でひときわ目をひくのが、ローマ字の入った立派な箱型の看板。約100年前のものだという。だが、槌谷の歴史は100年どころではない。創業は宝暦5年(1755)、30歳とフレッシュな現社長の槌谷祐哉さんは9代目である。思わず「まるで将軍さまですね」と冗談が出てしまった。
 「柿羊羮」は4代目が創案した。竹林のそばの柿は不思議に甘い、竹と柿は相性がよい、という話を古老から聞き、竹の容器に羊羹を流すことを考えた。はじめは竹筒に流したが、食べにくさから、割ったのである。糖度が非常に高い地元産の堂上蜂屋柿を干し柿にしてジャムを作り、これに少々の白餡と寒天を加えてかためるという製法は、昔も今も変わらない。
 戦争中も、この柿のジャムだけを壺に入れて土に埋め、疎開させた。また、戦後、富有柿の流行で堂上蜂屋柿が不足したとき、槌谷では近郷の農家に苗を配ったが、今使用している柿のほとんどがそのときの苗が成長したものだという。もともと大垣の地名は「大柿」からきているともいわれるが、槌谷はこの地にふさわしい歴史をもっている。
 槌谷さんは、北海道などで2年余り修業したあと、すぐに社長に就任した。槌谷の商品は、柿を素材にした多彩なお菓子のほか、洋風菓子、純洋菓子と幅広い。若い社長がぞんぶんに腕をふるうレールは敷かれているようだ。
 「守るべきものは守りますが、お客様の嗜好も変わります。昔、甘くておいしい、と言われていた菓子が、今は甘くなくておいしい、とよく言われます。昔も今も、お客様の嗜好に合うものを作るのが、その時代に生きる菓子屋の宿命だと思います」
 きちんとして、爽かな人柄に、大垣の明日が見えてくるようだった。

未来風景と湧き水

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加賀野八幡神社の自噴井。大垣の地下水の豊かさを象徴する湧き水だ。

 大垣は古い城下町である一方、工業都市でもある。大正初期、紡績によっていちはやく工業化し、戦後も紡績を中心に工業都市として栄えた。この土地がもっている豊富な地下水と川の水資源を、有効に生かしてきたのである。
 その後、さすがに紡績は衰退したが、県のIT産業前線基地ソフトピアジャパンを市内に建設し、企業誘致をすすめる積極性は、工業都市大垣の面目躍如といったところだ。
 ソフトピアジャパン周辺の未来風景を突っ切って、加賀野八幡神社の自噴井を見に出かけた。かつては市内いたるところにあった湧き水の、今、残されている一つである。神社に着いてみると、湧き水の井戸のまわりには、水をペットボトルに詰める人たちがひしめいていた。にぎやかで、気持ちのよい光景だ。
 芭蕉を運んだ水門川の水、神社の境内で勢いよく噴き出ている湧き水。やはり大垣は水に生きる町なのである。

槌谷

岐阜県大垣市俵町39 TEL:10584 (78) 2111

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柿羊羮。原料は9割以上が地元産の堂上蜂屋柿。ルビーのような色も美しい。

   

田中屋せんべい総本家

岐阜県大垣市本町2-16 TEL:10584 (78) 3583

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みそ入大垣せんべい。糀みその甘みを生かした自然な味。パッケージには守屋多々志画伯のデザインも。

   

菓子街道を歩く 諫早 No.185

諫早「シュガーロードが通る米どころ」

眼鏡橋。天保10年(1839)、洪水でも壊れない橋として、本明川に架けられた双円のアーチ式石橋。全長49.25メートル。現在は諫早公園内に移築保存され、諫早のシンボルとなっている。重要文化財。

川と街道の町

 諫早は、有明海、大村湾、橘湾と三つの海に囲まれているから漁業の町かというとそうではなく、むしろ町の中心を流れる本明川の存在が大きい川の町であった。この川の潤す平野と、江戸時代から行われてきた有明海の干拓によって、諫早市は長崎県一の米どころとなっているのである。
 ただ、本明川は恵みの川である反面、大雨のたびに氾濫し、橋を流し、諫早市街に大きな被害をもたらす川でもあった。現在、諫早のシンボルともなっている石造りの眼鏡橋(重要文化財。現在は諫早公園に移築保存)も、江戸後期に領主の諫早氏が、洪水でも壊れず流されない橋として建設したものである。
 一方、諫早は、ここを通らずには長崎に出入りできない交通の要所でもあった。長崎街道の大村湾沿いの道と有明海沿いの道が合流するほか、島原への街道もあり、まさに街道の十字路なのだ。当然、宿場としても栄えていた。
 今回の旅は、その諫早市の「おこし」と「カステラ」の老舗、菓秀苑森長を訪ねた。

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本明川。諫早平野の南北の山地からの水を集め、諫早市街の中央を流れて、有明海に注ぐ一級河川。たびたび深刻な洪水を引き起こしてきた荒れ川として知られる。   天祐寺。安土桃山時代に創建された禅寺で、中世の諫早領主であった西郷家と、近世の諫早領主・諫早家の菩提寺。

郷土菓子への愛

 菓秀苑森長の本店は、八坂神社のある八坂町にあり、ひときわ目立つ堂々たる和風建築(昭和5年築)である。
 会長の森長之さん(前6代目社長、昭和11年生まれ)にお目にかかった。
「森長は寛政5年(1793)の創業です。初代の森龍吉が新町でおこしの店を始め、以来、戦中戦後の一時期を除いてずっと、おこしを作り続けてきています。
 森長おこしという名前にしたのは明治31年(1898)、4代目の森長四郎の時からです。それまでは、新町おこし、諫早おこしと呼んでいました。
 諫早では、おこしは祝いごとなどがあると家庭でも作った郷土菓子です。その郷土菓子を、基本を崩さずに伝えてきたのが、森長の仕事だったのだと思います。 
 作り方は、まず、うるち米を蒸して唐アクと呼ばれるかん水に浸けてから、もう一度蒸します。それを乾燥させて、何カ月か寝かせ、鉄鍋で炒ったものが、乾米。この乾米を、沸かした水飴、粒状の黒砂糖と混ぜ合わせ、木枠に移して冷ましたものが、森長おこしです。溶けきらなかった黒砂糖が生地の中に残っているのがうちの黒おこしの特長です。
 長崎街道は南蛮の砂糖が伝えられた道・シュガーロードですから、それが古くからある乾米と出会って生まれた黒おこしは、米どころ諫早ならではのお菓子といえるでしょう」
 おこしといえば固いお菓子という印象があるが、森長のおこしは歯ごたえがありながらも、しっとりとした味わい。噛むほどに、米と黒砂糖の素朴な味と香ばしさが口の中で広がっていく。昔ながらに手作りでおこしを延ばし、黒砂糖を散らした復刻版黒おこしは、そのおいしさが際立つ逸品だ。

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復刻版黒おこし   黒おこし

進化するカステラ

 昭和50年(1975)、森長はおこしに加えて、カステラの製造販売も始めた。
「おこしと同じく、しっとり感があるのが、おいしいカステラの条件でしょうね」
 と、森会長。そのしっとり感を追求し、大ヒット商品となったのが、平成21年に発売した「半熟生カステラ」だ。外はフワッ、中はトロトロ。まさに"半熟"、新感覚のカステラ。こちらの話は、このお菓子を開発した7代目社長の森淳さん(昭和44年生まれ)にうかがった。
「十数年前に、カステラの原形ともいわれるポルトガル菓子・パン・デ・ローを試験販売しました。人気はあったのですが、定番商品となるまでには至りませんでした。ただ、それをきっかけにして、卵をたっぷり使ったやわらかなカステラを作ろうという発想が生まれました。
 基本的には、卵黄を普通のカステラの倍使うことを考えました。ところが、材料の配合が違うので焼き加減がわかりません。ドロドロになったり、途中で破裂したりと失敗の連続。試行錯誤を繰り返して、なんとか完成させましたが、日持ちさせるために冷凍を採用したのも正解でした。できたてよりも、いったん冷凍させると、味が落ち着くんです」
 森長は、カステラ業界には遅れて参入したために、こうした斬新な商品の開発にも取り組みやすかったという。半熟生カステラは、テレビなどメディアで次々に取り上げられ、大ヒット商品になった。
「古いものこそ新鮮だ、今の若い人には、そういう受け取り方があると思うんです。おこしにしろ、カステラにしろ、古きよき伝統の菓子を、これからの子どもたちにもきちんと伝えてゆきたいと思っています」
 お二人が声をそろえて将来への展望を語られた。

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半熟生カステラ

クスの若葉のそよぎ

会長の森長之さんは、諌早市の芸術文化連盟の会長として諫早の文化活動にも深く関わっておられる。
「私は、伝統の菓子は地域の文化とともにあるという考えです。諫早には、詩人の伊東静雄、若くして亡くなった芥川賞作家の野呂邦暢、脚本家で作家の市川森一、父が諫早出身だった洋画家の野口弥太郎といったゆかりの人々がいます。こういう方々の仕事を後世に伝えて、諫早の文化を育ててゆくことも、地元から恩恵を受けた私どもの責務だと思っています」
 店を出た後、この地を治めた諌早氏の館跡・御書院や菩提寺である天祐寺などに加えて、詩人や作家の文学碑、諌早市美術・歴史館などを巡った。
 野呂邦暢文学碑が麓にある上山公園の山を見上げると、山頂までクスの大木が、むらむらと若葉を茂らせていた。
 この自然と歴史のなかでこそ銘菓が生まれ育まれたのだと強く感じた散歩であった。

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慶巌寺。筑紫琴の名手であった4世住職に、のちの八橋検校が入門したことから、箏曲「六段」発祥の地とされる。   野呂邦暢文学碑。上山公園内。42歳の若さでこの世を去った純文学者・野呂邦暢は、諫早を愛し、ここを舞台に多くの名作を残した。芥川賞作家。

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御書院。諫早高校内。初代諫早領主・龍造寺家晴によって壮大な屋敷が築造された、桃山様式の池泉回遊式庭園。

菓秀苑 森長

長崎県諫早市八坂町3-10 0957(22)4337

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寛政5年に創業して
220余年が過ぎました。
いつの時代もチャレンジャーで
いたいと思っています。

森 長之

菓子街道を歩く 米子 No.186

米子「伯耆大山のふもと商都の今昔」

米子の街を抱くように、名峰・大山が優雅な裾野を広げている。(写真協力:仙田 隆宏)

米子街歩き

 米子の街を歩いていると、小高い山の上に、遠目にも立派な城の石垣が、どこからでも見える。五重の大天守閣と四重の小天守閣があったという山陰きっての名城・米子城の跡で、明治初期に解体され、石垣だけが残ったのだ。
 江戸時代の米子は、一部の自治が認められた自分手政治という独得の制度のもとで、家老が鳥取城の藩主から米子城を預って統治していた。
 波静かな中海に港を持つ上に、松江に近く、早くから山陽との往来も開けていた米子は交通の要衝。そのため物資の集散地として「山陰の大阪」と呼ばれるほど商業が発達し、繁栄したのである。
 市内中心部をほぼ東西に流れる旧加茂川沿いには、回船問屋であった後藤家住宅(一番蔵・二番蔵は国の重要文化財)や白壁の土蔵など、商都米子をしのばせる建物が点々と残っている。
 また、商店街は呉服店や陶器店、染物店など味のある店が並ぶ本通り商店街や、居酒屋やバーなどが軒を連ねる朝日町通りなどがあって、こちらは昭和の雰囲気を色濃く残していた。
 米子の街歩きは、思いがけない店に出会えそうで楽しい。今回はそんな米子に和菓子の老舗、つるだやを訪ねた。

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米子城跡。慶長7年(1602)、標高90mの湊山山上に四層五重の天守閣と四重櫓という2つの天守を連ねて完成した華麗な城だったが、明治期に解体された。国史跡。(写真協力:剱持雅隆)

代を重ねる

 つるだやの本店は、米子高島屋の前から真っ直ぐ西に伸びる角盤町通り沿いにある。店の南側は約4百メートルにわたって9つの寺が並ぶ寺町通りである。
 大正14年(1925)、初代鶴田定蔵が、当時の淀江町から米子町に移って来て創業した。戦後、2代目鶴田芳一のときに、親交のあった初代米子市長・野坂寛治らと語らい、大山山岳会の協力なども得て大山で採れる山うどを加えた落雁「三鈷峰」を創製。淡いヒスイ色をしたこの銘菓で、"米子に、つるだやあり"と一躍名を上げた。地産を生かした、野趣のある米子銘菓の誕生であった。
 現在の社長は4代目の鶴田陽介さん(昭和40年生まれ)。まず、米子とはどんな町かとうかがってみた。
 「こういう古謡の文句があるんです。『逃ぎょい逃ぎょいと米子に逃げて、逃げた米子で花が咲く』。米子がどこからやって来た人でも受け入れる開放的な風土だったということです。商業の町ですから、誰にでも成功のチャンスがあったんですね。
 ただ、これは見方を変えると、米子がいろいろな場所から来た人々が集まってできた街だということです。そのためか、どこか米子人というか、米子っ子としての心情に乏しいところがあります。
 そういう意味もあって、今、私は毎年、夏のイベント『米子がいな祭』をお手伝いさせていただいています。祭りを通じて米子市民に一体感のようなものが生まれ、それが代を重ねるうちに、郷土愛となり、街の発展にもつながるはずだと思って。お菓子も、地域の歴史風土や文化と無縁ではありませんから」  ”がいな”とは、土地の言葉で大きいとかすごいの意。「米子がいな祭」は、万灯や花火、太鼓などの催しが繰り広げられる米子の一大フェスティバルである。

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後藤家住宅。江戸時代に、藩の米や鉄を回漕する特権を与えられた回船問屋。国の重文。非公開。

わかっていただく努力

 つるだやには、十勝産の極上小豆を皮を剥いでから製餡するという手間ひまをかけて作る品格あふれる薯蕷饅頭「甘爐」、手芒豆の餡の白さとまろやかな風味を生かした地域銘菓「白羊羮」、求肥を混ぜた餡を薄くやわらかな薄種ではさんだ半生菓子「ささ鳴き」など多くの銘菓がある。
 「若い人向けの新しいお菓子ということがよく言われますが、そればかり追いかけると軸がぶれてしまうのではないか、と私は思っています。必ずしも新しい時代には新しいお菓子というのではなく、古くからのお菓子が見直されることもあります。
 たとえば、栗入りの白餡の饅頭『かち栗』は、創業80周年の記念に期間限定で復刻したものですが、好評で定番商品になりました。
 また、私は大学入学から30歳頃まで東京にいたのですが、戻ってきて、子どもの頃に大好きだった『レモンケーキ』が作られなくなっているのに気付き自分がもう一度食べたいと思って作ってみると、これがまた評判がよくて復刻しました。現在でも人気商品の一つです。現代人の好みに歩み寄ることも大切ですが、これまで積み重ねてきたものをわかっていただく努力も大切だと思っています。
 さらに私どもでは、2代目が『三鈷峰』で地産地消の先駆けをしていますが、私も、造り酒屋の友人が地元の米でつくっている純米酒で何かできないかと考えて、生地に酒粕を煉り込んで焼き上げるカステラ「千穂の郷」を考案しました。地元の材料で地元のお客様に喜んでいただければ最高の幸せです」

四方の名所

「大山栗豊楽」、「皆生松露」、「弓ケ浜の歌」など、つるだやのショーケースのなかでは、米子周辺の名所めぐりも楽しむことができる。
 米子市の東にそびえ、街の景色の背景ともなっている大山は、標高1729メートルの雄大な単独峰。伯耆富士の異名をもち、国引きの神話にも登場する信仰の山である。西の斜面にはホテルやリゾート施設が集まっていて、1年を通して多くの観光客・登山客が訪れる。
 一方、市内の日本海側に位置する皆生温泉は山陰随一の風光明媚な名湯。そこから北西に伸びる弓ケ浜は、古くから白砂青松の地として知られた砂浜である。
 山と海の景勝に囲まれた米子の町は、これからも「がいな」気風を発揮してゆくに違いない。そんな手応えを感じた米子の旅であった。

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皆生温泉。米子市にある山陰屈指の温泉郷。大山と日本海を眺められる景勝の地に、約30軒の宿が建つ。

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水木しげるロード。米子の隣町・境港市は漫画家・水木しげる氏の故郷。駅前から続く道に約800mにわたって150体余の妖怪のブロンズ像が並ぶ。   JR境線は米子駅(ねずみ男駅)から境港駅(鬼太郎駅)まで、全駅に妖怪名の愛称がついている。鬼太郎列車や目玉おやじ列車も大人気。

つるだや

鳥取県米子市角盤町3丁目100 0859(32)3277

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時代を見定めながら
小さな変化を続けていく。
街の発展も、菓子屋の未来も、
そこにあると思っています。

鶴田 陽介

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白羊羹   ささ鳴き

菓子街道を歩く 小倉 No.183

白山(松任)「伝統に味わいあり」

小倉城跡。慶長7年(1602)に細川忠興が以前からの城を大改修したもので、南蛮造と呼ばれる最上層を大きく張り出させた天守閣に特徴がある。30年後に小笠原氏が城主となり、そのまま明治を迎えた。昭和34年に再建。

街の変貌

近年、小倉は大きな変貌をとげている。
 まずJR小倉駅が立体化して、九州の玄関口としての堂々たる顔となった。駅の北側に見えている工場群の人工美も圧巻の美しさ。ライトアップされた「工場夜景」は、今や観光の目玉となっている。
 一方で、鍛冶町の森鴎外旧居や小倉城跡の一角に建てられた松本清張記念館、紫川に架かる常盤橋など、小倉の歴史と文化にかかわる遺跡や施設も立派に整備された。 
 小倉は、江戸時代は九州探題として全九州を睨んでいた小笠原氏の城下町であり、明治以降は日本有数の軍都として、また北九州工業地帯の心臓部として栄えてきた。その繁栄のなかで培われた文化の鉱脈を、今、小倉自身が掘り起こしつつある。 
 今回、訪ねた小倉銘菓「栗饅頭」で有名な湖月堂も、小倉の市民に楽しさと夢を与えてきたという意味で、この地の文化を担ってきた老舗である。小倉出身の作家・松本清張が、若き日にデザイナーとして湖月堂のショー・ウィンドーの意匠を手がけたことを忘れがたく誇らしい思い出としていた逸話は、何よりそれを物語っていよう。

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北九州市立松本清張記念館。東京都杉並区の自宅を、外観から書斎や書庫に至るまで、清張が亡くなった当時のままに再現している。小倉は清張の郷里。 (写真提供 北九州市立松本清張記念館)   森鴎外旧居。明治32年(1899)、陸軍第12師団の軍医として小倉に赴任した鴎外が最初に約1年半ほど住んだ家。アンデルセンの『即興詩人』の翻訳をここで完成させたといわれる。

創業者の遺産

 湖月堂は明治28年(1895)の創業。現在の社長は、3代目の本村道生さん(昭和8年生まれ)である。
「初代は小野順一郎といって広島の醸造家の長男でしたが、菓子職人を志して小倉で修業を重ね、独立しました。初代を知る人は誰もが、人柄がよく、非常に頭がよかったと口を揃えて言います。2代目の小野精次郎も父親を『口数が少なく、温厚で包容力豊かな人柄で自然と人を信服させるものがあった』と書いています。写真を見ますと、体も大きくて押し出しがいい。魅力ある人だったのだと思います」
 明治33年(1900)、初代は八幡製鉄所(現・新日鉄)や炭鉱開発で活気づく小倉一の繁華街・魚町に湖月堂の看板を掲げた。
「屋号は、当時小倉に置かれた陸軍第12師団の師団長で、初代が趣味としていた囲碁を通じて知り合った井上光が、源氏物語の注釈書『湖月抄』からつけてくれたものです。優れた人物だったようで、当時、同師団に軍医として赴任していた森鴎外も褒めています」
 そして間もなく、代表銘菓「栗饅頭」が誕生した。
「饅頭の中に、正月の祝儀にも使われる縁起の良い勝栗を入れるというアイデアが、日清・日露の戦争の必勝を祈る市民感情に沿いました。この大ヒットで湖月堂の基盤ができました。すると、初代は菓子屋のほかに食品販売の事業にも進出しました。実は私どもは食品卸の会社も持っておりますが、これも初代の遺産なのです」

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常盤橋(木の橋)。江戸時代、南蛮菓子など西欧の文化が伝わった長崎街道の起点。1995年に架け替えられ新名所となった。 (写真提供 北九州市立松本清張記念館)

お客様に守られて

湖月堂は、血縁者の中から、しかし長子にはこだわらずに後継者を決定してきた。2代目の小野精次郎は三男であったし、3代目の本村さんも精次郎の娘婿だったが、請われて食品卸業を引き受け、やがて菓子店も引き継いだ。
「戦後、日本の流通業はアメリカの近代化、合理化をお手本にして大いに発展しました。しかし、それは厳しい競争の中で仕事をするということです。そして私が引き受けた食品卸のビジネスは、なかでも最も厳しい中間流通の部門にあります。
 一方、菓子屋は、良いものを作るということを第一義に、その地域の風土や文化の中でそれぞれに菓子を生み出し、お客様に買っていただいています。つまり、地域に守られ、日本の文化に守られ、お客様に守られている。そこに喜びもやりがいもあるわけです。私が菓子作りという仕事のありがたさを強く感じるのは、半分、熾烈なビジネスの世界に身を置いているからかもしれません。
 湖月堂では今、『栗饅頭』に続くものとして、パイ生地で小豆餡を包んだ『ぎおん太鼓』と、渋皮栗が丸ごと入った饅頭『一つ栗』が人気です。おいしいものがいろいろある時代に、お客様は"お国自慢"として湖月堂の菓子を選んでくださっている。それにお応えするには、精進を続けていくしかないと思っています」
 いつまでも聞いていたい経営談であった。本村さんのご趣味はテニス。ゴルフでいえば、シングルの腕前である。

湖月堂

北九州市小倉北区魚町1−3−11 TEL:093(521)0753

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地域の銘菓は
お客様に守られています。
本当に幸せな仕事だと
思っています。

木村道生

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栗饅頭   一つ栗

菓子街道を歩く 山中温泉 白山(松任) No.182

山中温泉「芭蕉の足跡、湯の香り」

総湯「菊の湯」。芭蕉の句「山中や菊はたおらじ湯のにほひ」から名づけられたというが、浴場そのものは700年の歴史をもつ。広場に面して足湯もある。

ゆとりの町並み

 山中温泉が、さすがに千三百年の歴史を誇る湯の町だと思うのは、町中に出湯の里に憩う楽しさがにじみ出ているところである。
 芭蕉がここを訪れ、「山中や菊はたおらじ 湯のにほひ」と詠んだ昔も、この雰囲気は漂っていたに違いない。元禄2年(1689)、奥の細道の旅の終わり近く、芭蕉は山中温泉にゆったりと逗留し、旅の疲れを癒した。
 大聖寺川の上流に沿って、南北に5キロほどの町並みが、山中温泉の中心部。中央に芭蕉の句から名づけられたという総湯「菊の湯」がある。昭和の初めまで、各旅館に内湯はなく、温泉客は皆、ここまで入りに来ていたという。場所は昔から変わっていないから、芭蕉も当然、この共同浴場に入ったのである。
 菊の湯の西側の山の中腹には、温泉守護の薬師堂(医王寺)があり、大聖寺川の上流にはこおろぎ橋、下流には黒谷橋があって、山中温泉散歩コースの目印になっている。医王寺や黒谷橋も、芭蕉が訪れた場所だ。

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こおろぎ橋。大聖寺川の上流に架かる木の橋で、山中温泉のシンボルの一つになっている。   ゆげ街道。総湯「菊の湯」からこおろぎ橋の近くまで、再整備された町並み。そぞろ歩きの湯の客をもてなす街だ。

饅頭の品格

 いわゆる温泉街ではなく、古い温泉を背景に成熟してきた町である山中温泉では、お土産のお菓子にも相応のクオリティが求められる。
 この地を代表する銘菓「娘娘万頭」で知られる山中石川屋の本店は、菊の湯にほど近い本町の角地に建つ。創業は明治38年(1905)。ご当主は3代目の石川光良さん(昭和21年生まれ)である。
「初代は石川長五郎といいます。山中塗の木地屋が本業で、そのかたわら小さな駄菓子屋を始めたのが最初と聞いています。本格的な和菓子の店になったのは、2代目の石川外次郎、私の父の時からです。
 昭和の初めに店を継いだ父は、旅館のお茶菓子に宿の名入りの焼き印を押すなどアイディアマンで、銘菓「河じか」も父の創製です。戦争中には出征もしましたが、母が店をよく切り盛りしたことで縁ができ、当地にできた海軍病院の御用を務めるようになり、その後、舞鶴の艦船部隊や小松の航空隊にも羊羮を納めるようになりました。戦後は材料が手に入らず、学校給食用のコッペパンを作っていたこともあったようですが、統制が解けると、また菓子作りに励むようになりました。
『娘娘万頭』もそうして生まれた菓子の一つです。昭和30年頃に、地元の老舗旅館からの相談もあって創製したもので、『にゃあにゃあ』とは若い娘を呼ぶときの加賀言葉です。父はこの菓子に打ち込むべく製餡工場を建てて試行錯誤を重ね、数年がかりで仕上げました。昭和39年には北陸で初めて包装機械を導入しました」
 娘娘万頭は、あっさりと品の良い黒糖餡を、ほのかに味噌の香りを効かせた皮で包んだ饅頭。上質さと親しみやすさを兼ね備えた、歴史ある温泉場にふさわしい品格が漂う。
「山中温泉は、古くから文人墨客が数多く訪れるところですが、父は文人画家の小松砂丘先生と交遊し、菓子作りの上でも多くのヒントをいただいていたようです」
 娘娘万頭のロゴも、小松砂丘の手によるものだそうだ。

旅の安らぎに

 石川社長の話はもっぱら先代のことであったが、自身も優れた経営センスで、ブランド銘菓としての「娘娘万頭」を不動のものとしてきた。また、新しい菓子作りにも余念がなく、木立と水と緑が織りなす山中温泉の自然を写した「みどりの小径」や、日本一の宿として知られる和倉温泉の旅館「加賀屋」で供される繊細な創作菓子なども、当代が作り、切り開いてきた菓子の世界だ。
「お菓子は、たとえ伝統ある代表銘菓であっても、お客様のご要望を読み、時代を読みながら、絶えず新たな意識で作っていかなければなりません。特に、山中温泉のようなところでは、お菓子も旅の安らぎ、旅の楽しみといったものに一役買えるものでなければなりません。この地にお客様が来てくださることにつながるよう、努力していかなければいけないと思っています」
 近年は菓子屋としての修業をしっかり積んだ息子の石川喜一さん(昭和50年生まれ)が工場を取り仕切っている。店の一角に設えられた茶房では、喜一さん創案の「にゃあにゃあロール」が、若い観光客の人気を集めていた。

山中石川屋

石川県加賀市山中温泉本町2丁目ナ24 0761(78)0218

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「山中温泉に行ったら、
あの菓子屋がある」
未来にも、そう言って
いただける
店づくり、菓子づくりをしていきたいと思っています。

石川光良

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娘娘万頭   河じか

白山(松任)「伝統に味わいあり」

白山。石川・富山・岐阜・福井の4県にまたがる秀麗な山で、標高2702m。古くから山岳信仰の山として仰がれてきた。自然が豊かなところから登山者が多く、ドライブを楽しむ観光客も多い。

穀倉地帯の富

によって白山市となった。だが、JR北陸線の駅名は今も「まっとう」。駅前には松任城址公園が美しく整備され、その向かいに、「千代女の里俳句館」と「松任ふるさと館」が並んでいる。
 千代女の里俳句館は、「朝顔や つるべとられて もらひ水」の句で知られる江戸時代を代表する女流俳人・加賀の千代女を紹介する施設。千代女は、ここ松任の表具屋・福増屋の生まれで、この地の文化的シンボルといってもよい人物である。
 一方、松任ふるさと館は金融や米穀などを営んでいた豪商が近在にあった生家を明治末期に移築、増築したもので、巨大な木材をふんだんに使ったまさに豪族の館である。
 中世の松任が一向一揆の拠点となったのも、この地の富や文化と無縁ではないだろう。その後も一帯は真宗の門徒王国であった。千代女も門徒で、晩年しきりに井波や京へ遠忌詣での旅に出かけている。
 金沢との間が約10キロと程良い距離にあり、江戸時代の松任は北国街道の宿場町としても賑わった。
 その松任の老舗に、「あんころ餅」で有名な圓八がある。

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千代女の里俳句館。千代女は俳句の名手であっただけでなく、書にも絵にも優れていた。そうした千代女の俳画などを常時展示している。   松任ふるさと館。明治から昭和初期まで活躍した松任の豪商・吉田茂平の私邸を市内安吉町から移築。国の有形文化財。

とほうもない話

 創業は元文2年(1737)。代々圓八を襲名して、現在の当主・村山圓八さん(昭和22年生まれ)が11代目である。
 まず、圓八の創業にまつわる伝承を聞いた。
「ある時、村山家の先祖が何かを思いついたように庭にアスナロ(羅漢柏)の苗木を植え、我が願いが叶ったら生い茂りたまえと祈願して、翌日、忽然と姿を消しました。妻は夫の突然の出奔で困窮に陥りましたが、その年の秋、夢枕に夫が天狗の姿で立ち、こう語ったというのです。
 私は鞍馬山で天狗について修行をした。そこで、お前に教えるが、これこれの製法で餡で餅を包んで作って食べれば長生きする。この餡餅によって生計を立てれば、子々孫々繁栄間違いない、と」
 その夢のとおりにこしらえたのが、圓八の「あんころ餅」だというのだ。
「餡は、十勝産の小豆を煮て皮を除いた生餡を高圧蒸気で1時間ほど蒸し、冷ましたあと、砂糖液と混ぜ合わせたものです。糖分を加えたあと火を入れないので日持ちが悪く、全国でもこんな餡を使っているお菓子屋さんはほとんどないと思います。
 その餡で、もち米を搗いた餅を包んで真ん丸に丸めますが、この工程は機械化しています。機械から出てきた『あんころ餅』を9個ずつ竹皮で包んで出来上がりです。出来立てもいいのですが、竹皮が適度に水分を吸収してくれるので包んで3、4時間たった頃が一番おいしいと思います。かすかに竹の香りもして」

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聖興寺。死後、千代女を顕彰した浄土真宗の寺。千代女の辞世句を刻んだ千代尼塚、木像を安置する千代尼堂、遺品を展示する遺芳館などがある。

信じる力

「あんころ餅」は町の人や旅人に愛されて280年ほどの時を刻んできた。天狗の伝承はとほうもない話だが、それを信じる力が、この菓子を今日まで伝えてきたのである。
 この信じる力は、地域特有のものかもしれない。

 村山社長は、ここまで話すと「あとは息子に」と専務の村山勝さん(昭和50年生まれ)にバトンを渡した。
 勝さん発案の餅入りの餡ジェラートをいただきながら聞いた話が、また印象的だ
った。
「『あんころ餅』は、1日しか日持ちがしません。これを2日、3日ともつものにすることは、今の技術を使えば簡単です。しかし、それをすれば味は必ず変わります。
 欲を出さず、1日しか日持ちをしないものを作り続けたところに、『あんころ餅』が時代を超えて生き残ってきた理由があったのではないか。30歳を過ぎて、私もようやくそのことに気づきました」
 圓八の「あんころ餅」は、やはり天狗に守られている。

圓八

石川県白山市成町107 076(275)0018

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賞味期限1日の
「あんころ餅」を
毎日作って、毎日売る。
こつこつ、誠実に。
それだけです。

村山圓八

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あんころ餅

菓子街道を歩く 弘前「桜とねぷたの城下町ゆかりの甘味」 No.181

弘前「桜とねぷたの城下町ゆかりの甘味」

弘前ねぷたまつり。約100基のねぷた(灯籠)がくり出し、土手町や駅前通りを練り歩く、盛大な祭り。8月1日〜7日。

北の文化都市

 弘前市の繁華街・土手町通りを歩いてゆくと、交差点に出るたびに、驚くほど広い。つまり、それぞれの角の建物が思い切り後退して、交差点が大きな広場になっている。不思議に思っていたが、はたと思い当たった。そうだ、これは「ねぷたまつり」の群衆のための広場なのだ、と。
 桜の時期と、8月の「ねぷたまつり」の1週間は全国からの観光客の歓声で沸き立つが、普段の弘前は、穏やかな空気が流れる町である。
 弘前は津軽氏のもと、約300年の歴史をもつ城下町だ。だが、町を歩くと、明治から昭和初期頃までの建物が目につき、町の風景の特色をなしている。
 市の中心部にある青森銀行記念館や旧弘前市立図書館、旧東奥義塾外人教師館、弘前昇天教会などをはじめとして、市内の洋風建築は相当数に上る。また、洋館だけでなく土手町通りには和風あるいは和洋折衷の趣あふれる建物の商家が軒を連ねている。時計店、革具店、漆器店など、いずれも営々と専業に従事してきた店である。
 もちろん建物が魅力的なだけではない。内部には、弘前人のねばり強い底力がひそんでいる。

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弘前公園から見た岩木山。津軽平野にある活火山で、津軽富士と呼ばれる。標高1625m。8合目まで、スカイラインが通じている。   弘前城。天守閣のほか、3つの櫓と5つの門が残っており、すべて国の重要文化財。現在は城跡全体が弘前公園と呼ばれ、桜の名所として名高い。

津軽藩の旗印

 今回訪ねた、津軽の銘菓「卍最中」で知られる老舗・開雲堂も土手町通りにあり、昭和初期建築の重厚な商家の一軒であった。4代目当主の木村ノブさん(昭和8年生まれ)にお目にかかり、お話をうかがった。
「私どもは、明治12年(18
79)に、初代の木村甚之助が木村菓子店を創業したのが始まりです。木村の家は弘前の地主だったのですが、幕末から明治の初めにかけて、土地のほとんどを津軽藩に献上し、菓子屋に転業しました。その折のいきさつを示す明治 4年の御意振(殿様の言葉を書きとめたもの)が、私どもに伝わっております。転業の確かな理由はわかりませんが、初代が藩主から赤楽茶碗を拝領しています。
 明治39年(1906)には、藩祖・津軽為信公没後三百
年祭の折、藩への長年の貢献が認められ、藩の旗印である「卍」の使用を許されました。これを最中の型と名前に使用したのが代表銘菓の「卍最中」です。
 開雲堂の看板は、2代目甚之助が東京の塩瀬で修業しました縁で、当時の塩瀬のご当主から贈られたものです。「卍最中」や、「有明」という白い皮の最中、大正7年(1918)から続く、さくら祭り期間限定で販売される「つともち」などは、この2代目が考案しました。

 直助が亡くなって、私が4代目を継ぎましたが、店の伝統を守るためには努力を惜しみませんでした。私には子どもがいませんが、姪があとを引き受けてくれることになっています」 
 同席した姪御さんが、さりげない様子で4代目の一言一句に耳を傾けているのが、印象的だった。

毎日の餡煉り

 「卍最中」は、正方形いっぱいに卍の字を箔押ししたような形をしている。大きすぎず小さすぎず、頃合いの6センチ角。この最中のおいしさは、舌にとろりとくる小豆の粒を散らした手亡豆の白餡にある。
「毎日毎日餡を煉る。これが私どもで一番大切な仕事だと思っています。餡の煉り方は、砂糖の加減なども含めて、季節により、その日の天候まで考えて調節する、といったものです。ですから、私も定休日を除いては一年中毎朝5時起きで、餡を煉る社員のために工場を開けています。
 私どもは店も工場もこの場所にありますから、すべてのお菓子が、裏で作って表で売るというシンプルな形です。売れるだけのものを作るということで、無理をして手を広げようとは思っていません」
 開雲堂には「卍最中」のほかにも、町を抱くようにそびえる名峰・岩木山をうつした「岩木嶺」や小豆餡を赤ジソの葉でくるんだ「干乃梅」など、何ともおいしいお菓子がある。津軽には塩漬けした梅の種を抜き、赤ジソの葉でくるんだ平べったい形の梅干があり、「干乃梅」はその梅干を模した菓子であるという。
 開雲堂では洋菓子も古くから扱っている。リンゴの本場にふさわしく香り高いアップルパイ、北国への郷愁をそそるロシアケーキなど、弘前でいただくとまた格別の味だ。

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南光坊。今治市街にある寺で、8世紀に大山祇神社の別宮の別当寺として建てられたのが起こり。四国霊場第55番札所。
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大山祇神社。養老3年(719)造営と伝える古社で、後に伊予一の宮に定められ、全国一万社を束ねる日本総鎮守として栄えた。歴代の武将の信仰があつく、8点の国宝を含む多数の刀剣、鎧などを収蔵する。
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今治市河野美術館。今治市出身の実業家、河野信一が収集した古書画などを中心とする1万点余の美術品と建物の寄付によって、昭和43年に開館した。

岩木山と喫茶店

 弘前城跡を歩いていて、ふと西側を見ると、目の前にすばらしい冠雪の岩木山が現れた。折からの快晴のなか、まさに津軽富士と呼ぶにふさわしい秀峰である。
 城跡を出て北に、武家屋敷の保存地区を覗いたあと、津軽藩ねぷた村を見学した。実物大のねぷたを眺め、津軽三味線の演奏を聞く。津軽人の血をたぎらせるものの片鱗に触れた思いである。
 城跡の南西側には50ヵ寺を超える寺が集められた寺町がある。津軽氏の菩提寺・長勝寺などがあるのもこの一角。また、町の南側には最勝院の五重塔が立ち、風景を引き締めている。
 土手町で一軒のレトロ調のコーヒー専門店に入り、店の女主人に城跡で見た岩木山の話をすると、「そうでしょう。富士山に負けないですよ」と胸を張った。
 弘前には落ち着いた雰囲気の喫茶店が驚くほどたくさんある。とびきりおいしい「卍最中」を訪ねての弘前は、実にいろいろなものに出会えた旅であった。

開雲堂

青森県弘前市土手町83 0172(32)2354

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毎日、裏の工場で餡を煉り、
菓子を作る。
そして、表の店でお売りする。
その日々の真面目な繰り返しを
大切にしています。

木村ノブ

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卍最中   岩木嶺

菓子街道を歩く 宮崎「神話のかたち 南国の香り」 No.179

宮崎 「神話のかたち 南国の香り」

鵜戸神宮。社殿のある岬の突端は、山幸彦の妻・豊玉姫が皇子(神武天皇の父)を生んだ地と伝えられる。眼下の波打ち際にある亀石に運玉を投げ、背に乗ると願いが叶うとされ、一日中、観光客の歓声が響いている。

明治生まれの街

 日向の国・宮崎は、『古事記』に描かれた日本建国にまつわる神話の地である。だが、県都の宮崎市は、明治生まれの街なのだ。
 宮崎市は宮崎平野の中心地で、中世には様々な興亡のあった土地だが、江戸時代になると、どの藩の中心からもはずれ、ありふれた農村となっていた。そこに紆余曲折の末、明治新政府が県庁を置き、明治16年(1883)、現在の宮崎県が誕生したのである。
 日本有数の近代ゴシック建築である宮崎県庁舎は、昭和7年(1932)の建物だが、宮崎が戦災や大火に見舞われなかったならば、おそらくこうした明治・大正の面影を伝える建物が、各所に残っていたことだろう。
 ただ、街は明治生まれでも、宮崎の魅力は、古代の神話や遺跡、そして南国の風土にある。国道沿いのヤシの木は南国・宮崎のシンボル。また、県庁舎前の照葉樹クスの並木も、市民に愛されてきた。
 今回の旅は、その宮崎に、宮崎銘菓「つきいれ餅」で知られる金城堂を訪ねた。

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鵜戸神宮本殿。崖上の洞窟内に造られている。漁業・航海・安産の神として広く尊崇されてきた。   宮崎県庁。昭和7年(1932)建設の、全国で4番目に古い近代ゴシック建築。内部も大理石を用いた正面階段などに、クラシックな意匠が見られる。

伝説の「つきいれ餅」

 金城堂本店は県庁と同じブロックの、宮崎のメインストリート橘通りに面して建っている。明治13年(1880)、この地で創業。現在の当主は4代目の原數子さんである。「明治の初めに、宮崎がこれから発展するということで、全国各地から人が集まってきました。新天地を求めて思い切って移住する、そういう時代だったんですね。私のところの先祖は、愛知県の、同じ村の人たち何人かで宮崎に移ってきたようです。
 宮崎ではそれぞれ別々の商売を始め、私の先祖は菓子屋になりました。それが金城堂の創業者、初代・堀場岩次郎(通称・甚兵衛)です。店の名前の『金城』は、名古屋城の別名からとったものです。
 現在、代表銘菓となっております『つきいれ餅』は、大正時代の末、祖父の2代目・堀場一の時代にできました。
『つきいれ餅』は、もともと宮崎に伝わる郷土菓子で、神武天皇が東征の折、美々津の浦で風待ちをされていたところ、潮の具合で急に出航されることになったため、里人が急いで作って献上したのが始まりという伝説があります。それが、餡を包む時間もないので、小豆を搗き混ぜて作った餅でした。その素朴な餅を、上質な大納言小豆と求肥餅を用いて菓子に仕立てたのが、私どもの『つきいれ餅』です」
 祖父が創製し、父・堀場道高氏が育てたこの銘菓を、原さんは4代目を継いですぐに、小豆と宮崎特産の日向夏みかん入りの二つの味のセットにした。異なる味が互いを引き立てる、このリニューアルが成功して、「つきいれ餅」は、新しい時代にも対応する押しも押されもせぬ代表銘菓となっている。

鵜戸さんの運玉

 日向夏みかんを用いた金城堂のお菓子は、ほかにもある。寒天で固めた梅漬けと夏みかんの蜜漬けを、ごく薄い米粉せんべいではさんだ「紅日向」。ハッカ味に夏みかんの香りをきかせた「日向たちばな」。夏みかんを白餡に練り込み、かるかんにはさんだ「日向夏かるかん」等々。求肥餅と大納言小豆の餡と日向夏みかんが、金城堂のお菓子のベースになっている。
 餡のお菓子には、きんつばや、寒天で菊の花の形に固めた餡に餅を入れた「鵜戸サンさま」というお菓子がある。いうまでもなく、全国屈指の古社・鵜戸神宮(日南市)にちなんだお菓子だ。
「宮崎では、鵜戸神宮を『鵜戸さん』と呼ぶんです。でも、お菓子の名前に鵜戸さん、では失礼だというので、『鵜戸サンさま』になりました。昭和40年頃にできたお菓子です。
 それから、最近、神宮様の許可をいただき、『運だめし』という焼き菓子を作りました。ご存じのように、鵜戸神宮では、参詣される皆さんが海中の亀石の桝形に素焼きの玉を投げて、運だめしをなさいます。お菓子は、あの運玉の形をそのまま、小さなお饅頭にしたものなんです」
 運玉そっくりのお饅頭には、もちろん「運」の字の焼き印も押されている。
 今度の旅では、宮崎から青島、鵜戸神宮、飫肥の城下町まで足を伸ばしたが、久々に参拝した鵜戸神宮では、海辺の絶壁の岩窟に、お御輿のように鎮座する本殿を、改めて、しみじみ美しく、尊く感じた。運玉に興じる人々には、外国人の姿も多く見かけた。

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高千穂峡。五ケ瀬川が阿蘇溶岩台地を浸食してできた、深いV字形峡谷。近くに天岩戸や高天原などの地名が残り、一帯は天孫降臨の神話に彩られている。
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城下町、飫肥(おび)。伊東氏5万1千石の城下町として栄え、今も町には飫肥城の石垣や武家屋敷などが残る。昭和54年に御殿や大手門が復元された。
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青島。海底の綿津見神の宮から戻った山幸彦が上陸した地と伝えられる。亜熱帯植物におおわれ、中心に青島神社がある。

家族チーム

 金城堂のお菓子は、格調を持ちながら、どこか楽しい。これは家族によるチームが作っているからかもしれない。
 今、金城堂では、先代夫人の堀場敏子さん、そのお嬢さんで原家に嫁いだ原數子社長、原社長のご子息で堀場姓を継いだ欣也さん(専務)と、お嫁さんの恵理さんという家族が働き手となっている。
「母(敏子さん)は高齢ですが、お店の手伝いをしないと、機嫌が悪くなるくらいの働き者です。欣也は東京で和菓子とともに洋菓子も学んで帰ってきましたが、それまで少し置いていた洋菓子をやめて、金城堂をあらためて和菓子の店にしようとがんばってくれています。『運だめし』を発案したのも、欣也です。嫁の恵理はデザインが得意で、今使っている『つきいれ餅』の箱もデザインしましたが、これがまた評判がいいんです。皆の知恵の出し合いですね。
 ですが、お菓子作りというのは、いつも途上、そこで満足というわけではありません。お客様に受け入れていただけるかどうかも、それこそ運だめしのようなものですね」
 宮崎市の目抜き通りに130年も続いている老舗が、動脈硬化も起こさず、家族チームで生き生きと新しい和菓子づくりに取り組んでいる。
 感動であった。

金城堂

宮崎県宮崎市橘通東2-2-1 0985-24-4305

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先祖伝来のお菓子といえども、
守っているだけでは
生き残れない時代です。
菓子の味も、菓子作りの心も
日々、磨き続けています。

原 數子

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運だめし   つきいれ餅

菓子街道を歩く 高松「和菓子に伝える 瀬戸の都の心」 No.178

高松 「和菓子に伝える 瀬戸の都の心」

栗林公園。豊臣秀吉の時代からの領主・生駒氏が着工し、徳川時代の藩主松平氏が引き継いで100年の年月をかけて完成したという大名庭園。国指定の特別名勝に指定されている庭園としては最も広い面積を持つ。

栗林公園舟遊び

 今年の7月から、栗林公園の池で舟遊びができるようになった。かつて高松の殿様が舟を浮かべて以来、おそらく百何十年ぶりかの出来事ではないだろうか。
 舟は所要時間約25分、季節によって多少の違いはあるが、一日13〜17便が運航される。広大な栗林公園全体からすれば、巡るのは南湖と呼ばれる公園のほんの一部だが、ここは池畔に歴代の藩主が使った茶室・掬月亭のある、全庭園中の白眉といってよい場所だ。
 様々な逸話を交えた船頭さんの解説を聞きながら、緑濃い紫雲山を背景に6つの山と13の築山が巧みに配置された日本屈指の大名庭園を水上から眺める気分は、また格別である。
 今回の高松の銘菓を訪ねる旅は、この栗林公園での舟遊びで始まった。高松の和菓子の老舗・三友堂の4代目社長、大内泰雄さん(昭和19年生まれ)のご趣向である。舟遊びのあとは、北湖に面した花園亭で讃岐うどんを、南湖畔の掬月亭で茶菓とお薄をゆっくりといただいた。

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高松城跡(玉藻公園)。天正16年(1588)、生駒親正が黒田如水の設計で築城したといわれる。水門によって海水を引き入れ、防御と水運に備えた水城として名高い。月見櫓、渡櫓、艮櫓、水手御門が国の重要文化財に指定されている。   市街中心部では新しい町づくりが進む。丸亀町と片原町・兵庫町の3つの商店街の交差点には、ミラノのガレリアを思わせるドームが誕生した。

銘菓「木守」由来

 大内さんは、高松の街づくりや様々な文化活動に携わっているが、その際、老舗の主人であると同時に茶人としても重きをなしている。その茶道への精進は、三友堂の歴史と深く関わる。
「私のところの先祖は、高松藩の藩士だったんですが、明治を迎え、廃藩置県で禄を失った時に、藩士仲間3人で菓子屋を始めました。明治5年(1872)のことです。三友堂という店の名は、この3人の友ということが起こりです。武家の商法ですから、難しかったとみえて、一人抜け二人抜け、私の先祖大内久米吉だけが残ったわけです。
 初代の久米吉が創案した菓子に、『霰三盆糖』があります。江戸時代の高松では、讃岐三白といわれた特産品が有名でしたが、それは塩と綿と、もう一つが讃岐和三盆糖でした。初代はこの讃岐和三盆糖をそのまま味わえる菓子を考えたのです。今も全国からご用命をいただいている当店の重要な商品です。
 そして今、私どもの店を代表する菓子になっております『木守』は、2代目大内松次の創案です。この菓子の誕生には、こんな逸話があります。
 ある時、千利休が弟子たちを集め、楽長次郎に焼かせた茶碗を並べて、好きなものを持ち帰るがよいと言ったところ、赤楽茶碗が一つだけ残りました。利休はこの茶碗に、柿の収穫時に木に一つだけ残される木守柿にたとえて、『木守』という銘を与え、後に大変な名器となったのです。
 それが武者小路千家から高松藩主松平家に献じられたのですが、関東大震災の折、東京に置いてあったために壊れて焼けてしまいました。昭和の初め、残りのわずかな破片を加えて、名器『木守』が再現されました。そのことを喜んで、2代目の松次が銘菓『木守』を創案したのです」
「木守」は、漉し餡と柿ジャムを寒天でかためた柿餡を麸焼き煎餅ではさみ、三盆糖を塗った菓子である。表面の焼き印は、茶碗の「木守」の巴高台の渦巻き。柿ジャムは干し柿から作っているそうだ。
 2代目は菓子一筋の人で、茶道、書、絵画などの趣味も菓子作りに役立てるために学び、自ら包装紙の絵や文字も書いたという。その2代目が残した銘菓「木守」にこもる力が、4代目を茶道に精進させたのであろう。

文化薫る瀬戸の都

 大内さんと高松城跡(玉藻公園)にご一緒した。豊臣秀吉の時代に、水軍を率いる生駒氏が築いた名高い海城である。水門を設けて海水を引き入れ、天守閣は3重の堀で守られていたという。
 寛永19年(1642)以降は、松平氏の居城となって11代続いたが、幕末、官軍に開城。明治に入ると外堀が埋め立てられ、天守閣は老朽化を理由に明治17年に取り壊された。その後も、創建時の詳細な設計図が見つかっていないために天守閣が復元できないのだという。
「しかし、それでも高松は今も城下町です。栗林公園があって、お茶が盛んで、お庭焼き(理兵衛焼)も受け継がれておりますし、漆器の技法も伝わっています。その意味では、文化の在り方が金沢と似たところがあります。 
 さらに源平の古戦場として知られる屋島も含めて、瀬戸内海を背景とした観光地です。近年は、現代アートで有名になった直島やオリーブの島・小豆島への基地としても多くの観光客をお迎えしています。特に産業があるわけではありませんから、町は商業都市ですね。
 実は、かつて高松には多くの企業や金融機関などの四国支社が集中していましたが、交通の便がよくなったために、逆にその必要がなくなって活力を失っていきました。しかし、それにいち早く気づき、全国に先駆けて都市の在り方を考え直し、商店街の再活性化に取り組み始めたのも高松です。まだまだですが、いま、商店街には活気がよみがえってきていますよ」
 城の南側に広がる明るい商店街を歩けば、それを実感する。この成果を見に、毎年全国から1万3千人もの視察団が訪れるのだそうだ。大内さんも新しい考え方で進められている街づくりに、積極的に尽力している。
 もちろん本業の菓子づくりも、「木守」を守る一方、新しい製品の開発に余念がない。柿を用いた「木守」と同じ果物の路線で、香川特産の獅子ゆずのジャムを巻き込んだ「ロールカステラ」などは逸品だ。
 一日、高松の文化にたっぷりと接した翌日、私たちは大内さんの友人を紹介され、アートの島・直島に向かうべく、高松港からフェリーに乗り込んだ。

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直島。現代アートの島として注目されている直島のシンボルともいうべき、草間彌生の作品。島内には、地中美術館(安藤忠雄設計)、李禹煥美術館(同)などを中心に斬新な美術施設があり、アートな島巡りが楽しめる。

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屋島。寿永4年(1185)、ここに本陣を構えた平家は、瀬戸内海の水軍を一手に握って不敗に見えたが、源義経の急襲にあって敗れ、下関へと落ちていった。   直島銭湯I♥湯(なおしませんとうあいらぶゆ)。アーティスト・大竹伸朗が手がけた、実際に入浴できる美術施設としての銭湯。直島の港近くの宮ノ浦地区にある。

三友堂

香川県高松市片原町1−22 087-851-2258

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讃岐和三盆糖の上品な香りと
つつましやかな甘味。
それを生かせる技術と心を
伝えていきます。

大内泰雄

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木守   霰三盆糖

菓子街道を歩く 館林「上菓子に香る 麦こがし」 No.177

館林「上菓子に香る 麦こがし」

茂林寺。おとぎ話『分福茶釜』で知られる、応永33年(1426)開山の曹洞宗の古刹。山門をくぐると21体のたぬき像が参道に並び、参拝者を出迎える。

花の町

 上州館林といえば、有名なものに分福茶釜の茂林寺と、ツツジの名所・つつじが岡公園がある。
 茂林寺は市街の南にあって、東武伊勢崎線で東京から行くと館林の一つ手前、茂林寺前駅で下車してすぐだ。名前の通り、お寺は風通しのいい林の中にあった。
 つつじが岡公園は市街の東の、城沼という大きな沼のほとりにある。樹齢800年を超えるヤマツツジの古木をはじめとして1万株ものツツジが植えられており、初夏には40万人以上もの観光客でにぎわう。
 東武伊勢崎線の館林駅と城沼の間が館林の旧城下町だった区域で、今でも市の中心街。幾筋かの通りが並行して東へ伸び、その町筋が終わるところ、かつて城の中心部だったあたりに、市役所、向井千秋記念子ども科学館、田山花袋記念文学館といった文化施設が集中している。その東が、城沼だ。
 館林駅で、「花のまち館林」というチラシを手にしたが、駅を出てメインストリートを歩き出すと、花の鉢が街灯の柱ごとにずっと飾ってあって、まさに花の街であった。

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市民の憩いの場となっている城沼。夏にはハスが水面を彩り、遊覧船が巡る。沼の南側一帯が「県立つつじが岡公園」。   旧二業見番組合事務所。「二業」とは、芸妓屋業、甲種料理店業の2つを指す。昭和13年の建築で、2階には芸妓たちが舞を練習する舞台があった。

麦の恵み

 館林は麦の産地で、うどんが名物になっているが、お菓子にも麦粉を用いた打ち物菓子として知られる三桝屋總本店の「麦落雁」がある。
 その三桝屋總本店を訪ねると、かつて藩の御用をつとめた店らしく、道の突き当たりが城の大手門に通じる古くからの目抜き通りにあった。落ち着いたお店の奥が、ゆったりと座れる喫茶室になっていて、そこで7代目社長の大越正禎さん(昭和17年生まれ)に話をうかがった。
「館林というところは、田圃になる土地がないために、畑で大麦、小麦の生産が盛んになったんです。初代の与兵衛が、そこに目をつけました。大麦の粉を炒って砂糖を混ぜて食べる麦こがしは昔からありましたが、『麦落雁』はこれを打ち物菓子にしたものです。もちろん麦は良質のものを厳選し、砂糖も和三盆を用いました。それが文政元年(1818)のことです」
 庶民の味「麦こがし」から、「麦落雁」という上菓子を生み出した発想は卓抜だった。上品な香りと甘さ、口どけのよさで、「麦落雁」は評判となり、津々浦々にまで知られることになる。
「三桝屋が館林藩主・秋元家の御用を承っていたことから、秋元家から将軍家に献上されて評判を呼び、参勤交代で国もとに帰る武士たちによって全国に運ばれたのです。また、明治になると、皇太后・皇后両陛下がツツジをご覧になるために館林にお越しになり、私どもの『麦落雁』をお買い上げになりました。さらにコンクールなどでも何度か最高賞をいただいたりして、『麦落雁』は全国に知られる銘菓となりました」
 三桝屋總本店は、季節の和菓子などを作る一方で、洋菓子を始めたのも昭和40年代初めと早く、地元の人たちの要望に応えてきたお菓子屋さんである。しかし、いつの時代も歴史ある代表銘菓である「麦落雁」のグレードを上げることに心を砕いてきた。
「お菓子作りにどんどん機械が導入された頃に、私のところでも機械で『麦落雁』を作ってみたことがありました。しかし、手作りのものと比べて、どうしても硬くできてしまうんです。このお菓子は、やわらかさが命です。それで機械はやめて、手作業に戻しました」
たしかに、「麦落雁」は、歯でちょっと崩しても、硬さがなく、絶妙の感触で崩れる。類似のものが全国にあるが、味はまったく別ものだ。

次の郷土銘菓を

 三桝屋總本店のある通りの南側に、古い町屋などの見られる界隈がある。見番(江戸時代に芸者屋などの取り締まりを行った所)だった建物なども残っていた。
「館林には、多いときは100人くらい芸者さんがいたこともあるんですよ。とにかく、ここは農産物の集散地として大変栄えていたんです。私のところの三桝屋という屋号と『麦落雁』に用いている六角形三枡マークにしても、市川団十郎家の紋に由来するようですが、詳しいことはわかりません」
 わかっていることは、代々の主人が歌舞伎役者や画家、書家、茶人たちの後援者となるなかで、この地域の文化に寄与してきたことだ。
「平成16年には、高崎の達磨寺の茶会で使うために、『利休復元』という長方形の麦落雁を作らせていただきました。これは、群馬の研究者の方が千利休の祖先が群馬県の出身であるということを突き止めて、それにちなんだお菓子を作らないかというお話をいただいたものです。今後とも、工夫をして新しいお菓子を生み出していければ、というのが、私の願いです。
 私自身は若い頃に洋菓子の勉強をしまして、館林で生クリームのお菓子を食べられるのは弊社だけという時代もありましたが、これからは和菓子に重きをおいてゆきたいと思っています」
 近年、和菓子の修業を積んだ息子さんも戻ってきた。
 館林には、先にご紹介した名所以外にも駅の西口前に正田醤油の正田記念館と、前身である旧館林製粉本館を核とする日清製粉の「製粉ミュージアム」(2012年秋オープン)があり、城沼の近くには旧上毛モスリン事務所、田山花袋の旧居なども保存されている。新しい和菓子を考案するための手がかりは、いろいろありそうである。
「群馬県はいろいろな農産物が生産量で全国上位にランクインしています。ニンジン、ヤマトイモ、最近ではゴーヤなど。そうした産物を使った菓子も試作を重ねています」
「麦落雁」に次ぐ銘菓の誕生が楽しみである。

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旧上毛モスリン事務所。明治41〜43年に建てられた美しい擬洋風建築。上毛モスリン株式会社は地域の伝統産業である機業を活かして近代的製織会社として設立、共立モスリン、中島飛行機、神戸製絲と変遷しながら、館林の基幹産業として地域の発展に寄与した。

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小説『蒲団(ふとん)』で知られる田山花袋の旧居。花袋は旧舘林藩士の子として舘林で生まれ、7歳から14歳までを、この家で過ごした。   正田記念館。130余年の歴史を有する正田醤油の歴史を紹介する資料館。正田家300年の家系図や創業当時の醸造道具などを展示している。建物は嘉永6年(1853)築。

三桝屋總本店

群馬県館林市本町1-3-12 0276-72-3333

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これからも“おいしいお菓子”
を作り続けていきたい。
コツコツ真面目にやること、
それだけです。

大越正禎

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麦落雁   麦落雁
「利休復元」

菓子街道を歩く 岐阜「清流の香 幽玄の菓子」 No.176

岐阜「清流の香 幽玄の菓子」

金華山から長良川と岐阜市街を望む。岐阜は古くから長良川という大交通路によって栄えた町であった。

魅惑の川

 JR東海道線で名古屋方面から岐阜駅に近づくと、右手はるか遠くの山上に、岐阜城が見えてくる。城のある金華山が300m余りの山とは思えないほど高々と感じられるのは、電車がずっと起伏のない平地を走ってきて、初めて山にぶつかるからだ。
 岐阜は大都市名古屋に近すぎるところから、なかなか自立の難しい都市だといわれてきた。だが、岐阜には名古屋にないものがある。電車から見えてきた岐阜城のある金華山と、そのふもとを流れる清流長良川、それに皇室御用の漁として長良川で1300年もの間行われてきた鵜飼である。さらに、伊勢湾まで下ることのできる長良川舟運の発達は、ここに物資の集散地としてのにぎわいを生んだ。
 中世の守護大名であった土岐氏から斎藤道三がこの地を奪い、次いで斎藤氏から織田信長が奪うというふうに、岐阜の長良川は支配者たちに争奪戦を繰り広げさせた。それほど長良川には魅力があったのである。
 今回の菓子街道の旅は、この岐阜にしかない魅惑を求めて、岐阜駅からバスで長良川のほとりへと向かった。

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日本屈指の清流・長良川と金華山。岐阜を代表する景色だ。(写真提供:(社)岐阜県観光連盟)   長良川の鵜飼は5月11日〜10月15日に開催。
(写真提供:岐阜市)

美しい鮎

 長良川を渡る長良橋の南詰めの、湊町、玉井町、元浜町といった界隈は、昔から川港として栄え、木材や美濃紙、茶などを扱う問屋や商家が軒を連ねていた。それが近年整備され、今では「川原町」の名で、格子戸造りの町並みが岐阜の観光名所となっている。今回は、その川原町に本店を置く玉井屋本舗を訪ねた。
 玉井屋本舗は、岐阜第一の銘菓「登り鮎」で知られる老舗である。「登り鮎」は、カステラ生地で求肥を包み、長良川の鮎をかたどった香り高いお菓子だ。
 創業は明治41年(1908)。玉井経太郎が初代で、現在の主人は3代目の玉井博祜さん。女性のご当主である。
「創業者の経太郎は京都の生まれですが、お菓子を京都と東京で修業して、岐阜で開業しました。岐阜に運送業や旅館を経営していた親戚がいましたので、その縁で来たようです。
 代表銘菓の『登り鮎』は、この初代の創案で、長良川の鮎の特徴である精悍できりっとしまった魚体をよくとらえた形をしています。2本の線と一つの点で表した小さくてシンプルな頭の表現なども初代が残してくれたもので、このお菓子の生命だと思っています。
 大正になると、初代は『やき鮎』という菓子も創作しました。水気を使わずに練り上げた生地を、型抜きし、乾燥させて焼き上げる干菓子です。これは大正10年の第1回岐阜市土産物品評会で1位になり、『登り鮎』と並ぶ代表的な菓子になりました。
 初代には男の子がありませんでしたので、一人娘(はる)に養子(武)を迎えました。それが私の両親です。2代目を継いだ父は穏やかな人柄で、派手なエピソードはありませんが人望が厚く、組合の会長や商工会議所の部会長を長年務めさせていただいておりました。その父が昭和60年に亡くなり、私が3代目を継ぎました。でも、父の死後は母ががんばって店を支えておりましたので、実質的には母が3代目で、私が4代目といってもいいくらいです」
 玉井さんは、弘子の本名を、女手で店を経営して行く決意を込めて、博祜と改名されたのだという。

能歳時記

 数年前に古い店舗を改築したという玉井屋本舗の本店は、落ち着いたたたずまいのなかにも、軽快な雰囲気をもっている。趣のある坪庭を挟んで奥にある茶室も、訪れる人がお茶とお菓子を楽しめるよう開放されていた。
「私どもは、観光客の方々にもおいでいただいていますが、やはり地元に支えられているところが大きいと思います。
 岐阜は武家文化の強かった土地ですが、昔からお茶やお花が盛んなのは、何といっても自然を慈しむ心を持った人々が多いからだと思います。そうでなければ、40万人以上もの人口を抱える都市の中心に、これほどの清流が流れているはずもありません。『登り鮎』や『やき鮎』が長くご愛顧いただいてきたのも、そういう土地柄に合っていたのだと思います。
 それにしても、これまでいろいろ試みても、『登り鮎』や『やき鮎』を越える菓子ができないのですが、今、一番力をいれているのが『献上かすていら』です。宣教師ルイス・フロイスが信長公に南蛮菓子を献上したことにちなんだ菓名で、特産の奥美濃古地鶏の卵を用い、手作りにこだわったカステラです」
 甘さが先行せず、生地のふわふわ感ともっちり感と、香りを口中に残す逸品である。
 地元岐阜の文化とお菓子のかかわりを追求する玉井さんは、ご自身、岐阜にはなくてはならない文化人だ。玉井屋本舗の主人である一方、能楽師の顔をもち、2004年には宝生流のシテ方として国の重要無形文化財保持者に認定されている。
 玉井屋本舗では正月を除く毎月、2品ずつ、能にちなむ上生菓子を作り、「能歳時記」の名で販売している。たとえば昨年の4月は「春宵・花の色」、5月は「呼子鳥・歌占い」といった具合である。大変な好評で、なんともう20年以上も続いているそうだ。
 今春はどのようなお菓子が店頭に並ぶのだろうか。菓銘のいわれなどを聞きながら買い求めるのも楽しいに違いない。生菓子ゆえに遠くまでは運べない。この地の人たちだけの幸福である。
 信長の幸若舞も、長良川の鵜飼も能の幽玄に通じるところがある。岐阜には能楽がよく似合う。和菓子の背景は奥が深い。つくづくそう思わせられる旅であった。

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川原町の町並み。江戸時代には木材、紙、酒、竹皮、炭、米などの荷を扱う商家が建ち並んでいた。一角に鵜飼遊覧船乗り場がある。

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金華山(標高329m)の山頂に立つ岐阜城は、昭和31年に織田信長の時代の城を復興したもの。(写真提供:岐阜市)   岐阜大仏。正法寺にある高さ13.7mの乾漆仏。奈良、鎌倉の大仏とともに日本三大仏の一つとされる。

玉井屋本舗

岐阜市湊町42番地 0120-601-276

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40万都市の中心に、

これほどの清流が流れている

ことが岐阜人の誇りです。
これからも

自然を慈しむ心を大切に、

お菓子を作って参ります。

玉井 博祜

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登り鮎   献上かすていら