菓子街道を歩く 大和郡山・三輪「城門の餅、神前の最中」 No.175

大和郡山・三輪「城門の餅、神前の最中」

郡山城址。10世紀後半に築かれ、16世紀になって筒井順慶が修築。さらに豊臣秀長が兄・秀吉の命で本格的に築城した。戦後、隅櫓(すみやぐら)などが復元され、大和郡山のシンボルとなっている。

金魚のいる城下町

 大和郡山といえば、金魚の産地として有名である。金魚の養殖は江戸時代に武士の副業として始まり、全国に知られた。毎年、この地で行われる「全国金魚すくい選手権大会」は、真夏の風物詩としてテレビでもお馴染みだ。
 町を歩いてみると、奈良には珍しい城下町の面影が残っている。城跡を中心に、古い建物や由緒のあるお寺、掘割などがほど良く点在していて、町歩きが楽しい。
 筒井順慶の築城に始まるといわれる郡山城は、豊臣秀吉の時代、秀吉の異父弟・豊臣秀長が百万石の石高をもって入封した。徳川時代には譜代の大名が何人か封じられたあと、享保以降は柳沢氏が藩主となって明治を迎えている。
 柳沢時代が最も長かったわけだが、当地では町の基礎をつくった秀長の人気がいまだに根強い。城跡にある柳沢文庫や柳沢家の菩提寺永慶寺とともに、秀長の菩提寺・春岳院や秀長の墓・大納言塚、秀長ゆかりの源九郎稲荷神社などは、大和郡山で欠かせない見どころとなっている。

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金魚池。市街地の南側には、住宅のすぐ裏手に金魚の養殖池が広がる。   江戸時代には染物屋が軒を連ねていた紺屋町。染め上げた布や糸をさらしていた水路が道の中央に残る。

秀吉の「うぐいす餅」

 大和郡山には、秀長ゆかりのお菓子がある。本家菊屋の「御城之口餅」だ。当主は、26代目の菊岡洋之さん(昭和41年生まれ)。
「先祖は、天正13年(1585)に豊臣秀長公がこの地に封じられた時、つき従ってきた御用菓子司です。城の大手門の入り口の地所をいただき、店を構えたのが菊屋治兵衛でした。それ以前から菓子屋だったと思いますが、私どもではこの治兵衛を初代としております。
 ある日、その初代に、秀長公から太閤殿下をお招きして茶会を催すので、茶会用の珍しい菓子を調製せよとの命がありました。工夫の末に、粒餡を餅で包み、黄粉をまぶした一口サイズの菓子を作って献上すると、太閤殿下が大変喜ばれ、『うぐいす餅』という銘までくださった。
 そこで、お許しを得て、その『うぐいす餅』を売り出したのですが、店が大手門の前、城の入り口にあったことから、やがて菓子は『御城之口餅』と呼ばれるようになりました。街道に面した、“お城の口”にある菓子屋の“餅”の評判が道行く人々の口コミで広がったのでしょう。店先にお客様が腰掛けられるスペースを設けて、お茶をふるまったと思われる古い茶釜が、今も残っています」
 本家菊屋の店の間口は、奈良の商家には珍しく大変に広く、茶店の面影を残している。

十六弁の菊

 本家菊屋は、生菓子や干菓子など茶の湯の菓子に定評があり、また饅頭や最中などにも銘菓が多い。なかでも「菊之寿」、「菊之宿」、「菊まん」、「菊月」など、菊の紋をかたどったり、焼き印を捺したものが目に付く。
「十六弁の菊の紋は、創業の頃から用いています。十六弁の菊の紋と本家菊屋という文字が入った江戸初期のものと思われる茶釜も伝わっておりますし、店の屋根瓦にまでこの菊の紋が入っているのです。
なぜ菊の紋を用いるようになったかは明らかではありませんが、奈良には皇室ゆかりの社寺がありますので、そうしたところから拝領したものではないかと考えております」
 奈良で最古の歴史を誇るお菓子屋さんである本家菊屋は、お寺の御用も多い。小上がりの壁面や天井にびっしり並べられた菓子型のなかにも、名刹の法要で用いられたものが、たくさんあるそうだ。
 しかし、重い伝統を、若い26代目はあまり感じさせない。真っ直ぐに家業に打ち込んでおられるからだ。
「私のところには家訓を書いた軸が伝わっていて、そこには、ただ正直に、真面目に家業にいそしめ、ということが書かれています。ですから、私自身も余計なことは考えず、本業に専念することにしています。『御城之口餅』は、地元で愛されて伝わってきたわけですから、菊屋はこれからも地元の方々のご要望に応えられる店でなければならないと思っています。新しいことをする時は、しっかり準備してからやって行きます」 
 昨秋10月8日には、奈良市の繁華街に喫茶室を備えた奈良三条通店がオープンした。

神の鎮まる山

 奈良盆地の東端を南北に走る「山の辺の道」は、古墳や古社が道沿いに連なる日本最古の道である。そのほぼ南端にある三輪山は、古代から人々の信仰を集めてきた神の鎮まる聖なる山。三輪山そのものを御神体とする麓の大神神社(三輪明神)は、延喜式の定める大社のなかで最も古い神社である。
 大神神社への最寄駅となるJR三輪駅を出て三輪の町に入ると、落ち着いた町並みが続く。江戸時代、大神神社の門前町として、また大和上街道の市場町・宿場町として発展した三輪は、茶屋や商家が軒を連ねてにぎわった。全国に名高い「三輪そうめん」も当時から盛んに生産されていた名物である。町にはそうした往時の繁栄の面影を残す古い建物が点在している。
 三輪では今、産学官民あげて町づくりに取り組んでいる。神の山としての三輪山を重んじながら、ここを魅力ある町にしていこうという試みだ。町を包んでいる艶やかな印象は、その成果なのかもしれない。

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大神神社(おおみわじんじゃ)。崇神天皇7年(紀元前91年)の創建。本殿はなく、拝殿からご神体である三輪山を仰ぎ拝む古神道の形態を伝えている。

「みむろ」は三諸

 三輪には、そうめんに負けず劣らず全国に広く知られた名物、白玉屋榮壽の作る最中の名品「みむろ」がある。
 白玉屋榮壽は、弘化元年(1844)の創業で、当主は7代目の石河敏正さん(昭和33年生まれ)。本店は大神神社の巨大な一ノ鳥居のすぐ脇、鳥居越しに三輪山を仰ぎ見る場所にある。
「一般的に、神棚というのは南向きに置かれるものですが、このあたりの家々では西向きに置かれた神棚も多くみられます。なぜかといいますと、神棚に向かって手を合わせると、神棚のその先に、町の東側にある三輪山を拝む形になるからです。
 ここは、お山(三輪山)あっての三輪、生活のなかに神様が入っているという土地柄です。
 私どもの初代は榮治といいまして、三輪の里で弘化元年に菓子屋を開業しました。今も築250年ほどになる、その家が残っております。生菓子も羊羮も饅頭も手がけ、最中『みむろ』も初代が創製いたしました」
「みむろ」とは、三輪山の別名・三諸山のことで、この三諸を『みもろ』とも『みむろ』とも発音する。神聖な山の名を菓銘にできたのは、初代が大神神社の調進司という御用を頂戴していたところから許されたのだそうだ。
「江戸時代の史料によりますと、このあたりが宇陀小豆という小豆の産地だったことがわかります。初代もおそらく、これに目をつけて最中を考えたものと思います。
 それにしましても、当時の三輪は人口千人ほどの小さな町、そこで菓子屋という商売を続けていくことができたのは、言うまでもなく大神神社の参詣者と街道を行き交う方々のおかげです。そして評判を頂戴して、店を栄えさせていった一番の売れ筋商品が『みむろ』でした」

飽きられない味

 今、白玉屋榮壽では「みむろ」だけしか作っていない。
「『みむろ』だけで行こうということになったのは、戦後のことです。戦時中から終戦直後にかけては物資が極端に不足して、菓子屋はどこも休業状態にありましたが、材料がなんとか手に入るようになって、まず復活させたのが『みむろ』です。そして、これが大変よく売れたために、統制が緩和されていった段階でも『みむろ』の増産に力を注ぎ、昭和23年には専業を決意。そのまま、今日まできてしまったというのが実際のところです。結果的に背水の陣を敷いたことになり、『みむろ』は飽きられることがあってはならない菓子になりました。
 いつもおいしくなければならない。そのためには、材料を厳選し、無理な機械化をしないことはもとより、店を増やすことも抑えてきています。昭和39年に父が奈良駅からすぐの三条通に店を出しましたが、あとはこの本店のほかに町内にもう1軒あるだけ。多店舗展開をして、どこででも買えることが、飽きられるきっかけになるのではないかと警戒しています。
 ただ、それは決して後ろ向きになっているというのではなく、この町に一人でも多くの方に来ていただいて、『みむろ』を味わっていただければという思いです。そのためにも、これからも三輪の町づくりに積極的に参加していきたいと思っています」
 この秋からは菓子づくりの修業を積んでいた長男・敏和さんが帰ってきて、石河さんのサポートを始めた。
 神の山・三輪山の恵みにあずかり、三輪の町に寄り添って生きて行く。それが『みむろ』の店、白玉屋榮壽の誇りとなっている。

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三輪山(みわやま)。太古から神の鎮座する山「神奈備(かむなび)」としてあがめられてきた。標高は約467m。

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箸墓。三輪山麓の古墳群の一つ。3世紀中頃に築造された全長278m、高さ30mの前方後円墳。卑弥呼の墓との説もある。   三輪の町内には、大神神社の門前町として発展した江戸時代の町家が点在している。石河家もその1軒。

本家菊屋

奈良県大和郡山市柳1-11 0743-52-0035

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菓子作りに専念することを旨に、26代。
私も、次代へと家業をつなぐ一人です。
菊岡 洋之

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店内の小上がり座敷の壁や天井には、菓子の木型がぎっしり並べられている。   御城之口餅

白玉屋榮壽

奈良県桜井市大字三輪497 0744-43-3668

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奈良の田舎の最中しかない店ですが、
「慎の商い」を信条に、
こだわりを受け継ぎ守って、
お客様のご期待に応えていきます。
石河 敏正

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    名物「みむろ」

菓子街道を歩く 富山・高岡「山あり、海あり、銘菓あり」 No.174

富山・高岡「山あり、海あり、銘菓あり」

立山連峰から流れ下る神通川や成願寺川が形作った富山平野。晴れた日には、街の南側に雄大な山並みが屏風のようにそそり立って見える。(写真:吉田榮一)

街の遺産

 近年、国内を旅すると、地方の中心都市でも、かつての繁華街がシャッター通りになっているといった嘆きを聞くことが珍しくない。だが、旅人の目からみると、歴史のある町の旧市街は一つの磁場であり、ちょっとしたきっかけでいつでもにぎわいを取り戻す場所のように思える。このたび富山市を訪ね、総曲輪通りや中央通りといった市中きっての繁華街を歩いていて、その思いを強くした。
 たとえば、たまたま入ったレストランの料理が丁寧で品がある。横道に入った路地路地に、おもしろい店がたくさんある。それから、大通りに面した池田屋安兵衛商店という反魂丹の老舗がすごかった。富山売薬の全盛時代の面影を伝える堂々たる外観と、内部の大店ぶりに圧倒された。このあたりは、簡単には消えてなくならない富山のパワーゾーンである。
 旅の目的地は、富山を代表する銘菓「月世界」の店、月世界本舗。この店がまた、富山旧市街の強い磁場の一つになっているようであった。

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池田屋安兵衛商店。「反魂丹」で知られる和漢薬の老舗。富山の売薬は18世紀には富山藩の一大事業であった。現在も「越中富山の薬屋さん」は全国で愛されている。   富山市は「公共交通を軸としたコンパクトな街づくり」の先進都市。街づくりの参考にしようと、自治体など関係者の見学が絶えない。

きわだつ菓名

 月世界本舗は、その前身となる吉田榮吉商店を明治30年に吉田榮吉が創業した。現在の社長は3代目の吉田榮一氏 (昭和12年生まれ) である。
「初代の榮吉は小矢部市の出身で、金沢で菓子職人の修業を積みました。富山市に来たのは、吉田の家に養子に入ったからです。
 初代は菓子職人として腕がよく、なんでも作れた人でした。カステラで菓子コンクールの賞を受けたこともあります。それだけに、独自の商品を開発したいと思ったのでしょう。試行錯誤しながら、創業して3、4年後に、いま代表銘菓となっている『月世界』を創案しました。
 菓子の名の由来については、よく聞かれますが、初代から直接は聞いていないんです。おそらく、菓子職人は朝が早いですから、明け方の月に目をとめて、菓銘を思い付いたのではないかと、私は思っています」
「月世界」とは、全国に数ある銘菓のなかでも、際立って魅力ある菓銘だ。上質な砂糖と寒天に、卵白を泡立てたものを合わせて作る、絶妙な舌ざわりとやさしい甘味の干菓子である。

まいどはや

 月世界本舗の作る菓子は「月世界」のほかには、もう一種類だけ。「まいどはや」、吉田さんが創製したヒット商品だ。
「昭和58年が、富山県の置県100年に当たっておりまして、それにちなんだ菓子をということで作ったのが『まいどはや』です。実は『月世界』は湿気に弱くて、苦労させられる菓子なんです。そこで、逆転の発想で、しっとり感のある『月世界』ができないかと考えました。味も、シンプルな甘さの『月世界』に対して、『まいどはや』は柚子や胡麻の風味をきかせました。
“まいどはや”とは、富山弁の挨拶言葉で“まいどありがとうございます”、“こんにちは”といった意味で、いろいろな場面で使いますが、感謝の気持ちを込めて使う言葉です。富山の薬の行商の人たちが、全国でこの挨拶をして家々をまわり、有名になりました。“まいどはや”、いい響きの言葉でしょ。
 ある尊敬する菓子業界の先輩から、老舗は革新の連続だと言われたことがあります。私なりに、その革新とは、すべてを変えることではなく、確かな商品を基本にして、時代に合った方策を考えることだと思っています」
「月世界」を基本に、ということであろう。本店脇に併設された喫茶室で、ブラックコーヒーで「月世界」をいただいた。これが、実によく合うのである。
 月世界本舗では富山の小学生たちの詩集(『子どものせかい』)や、『とやまの民話』(石崎直義著)を出版してきた。地元に貢献したいという吉田さんの思いが形になったものの一つだ。
「これまで富山に人を呼んでくる仕事をいろいろとやってきました。街づくりも大切。さらに、菓子を目当てに来ていただけたら」
 趣味の写真では、日々、仰ぎ見ている霊峰・立山を撮り続けている。

商人の町・高岡

 高岡市は、第二次大戦の空襲を免れたために、旧市街の一部が保たれた。商人の町である山町筋と、鋳物工の町・金屋町である。
 山町筋には、土蔵造りの商家が数多く残っている。江戸時代にも明治になってからも大火のあった高岡では、防火対策として土蔵造りが普及した。したがって建物に江戸期のものは少ないが、山町筋はいうまでもなく江戸時代からの商人町である。
 高岡で訪ねた銘菓「とこなつ」で知られる大野屋は、この山町筋と、駅前から延びる昭和通りが交差する角にある。山町筋の商家の一つとして、古い町並みにしっくりと溶け込んだ店構えである。
 創業は天保9年(1838)。初代の大紋屋吉四郎が、醸造業から菓子屋に転じた。
 現在の社長は9代目の大野隆一さん(昭和23年生まれ)。大野さんに話をうかがって、高岡という町について認識を新たにした。
「高岡は城下町の面影が残る町という紹介のされ方をすることがありますが、実際には、ずっと商人の町だったんです。加賀藩2代藩主の前田利長公がここに城を築き、町づくりをしたことは事実ですが、その城も数年で廃城となり、実質的に城下町時代というのは短かかった。それでも高岡という町が生き残り、栄えたのは、商人たちの力があったからです。町を動かしてきたのは、商人たちでした。お城と殿様のもとで、庇護を受けていた商人とは違うというプライドが、高岡の商人にはありました。山町筋というのは、そういう商人が集まっていたところです」
 そんな高岡商人の気概は、毎年5月1日に催される御車山祭りで、山町筋を引き回される7基の山車にも伝えられている。大野さんは、御車山祭りの山車の車輪を模したきんつばを創案している。その名も、「山町筋」。

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山町筋の街並み。街の中心部を走る道沿いに、明治時代後期に建てられた土蔵造りの旧家42棟や、赤レンガ造りの銀行などが立ち並ぶ。国選定重要伝統的建造物保存地区。

万葉の「とこなつ」

 富山を代表する銘菓「とこなつ」は、白小豆餡を求肥で包み、表面に和三盆をまぶした一口大の、姿も味も上品なお菓子である。
「『とこなつ』が創案されたのは、明治の終りから大正の初め頃、6代目大野重吉のときです。和菓子といえば大きなものが多かった時代に、よくこれだけ小さなお菓子を作ったものだと思います。
『とこなつ』の名は、万葉集の大伴家持の歌“立山に降りおける雪をとこなつに見れども飽かず神からならし”という、立山が夏でも雪をいただいて神々しい様を称えた歌から頂戴していますが、『とこなつ』という言葉はナデシコの古名でもあり、あの花の可憐さとも通じるように思います。
 ご存じの通り、高岡市の港のある伏木というところは、奈良時代に国府が置かれ、大伴家持が国司として赴任して、数々の名歌を残しました。高岡が“万葉の里”といわれるゆえんです」
 万葉のゆかりも、江戸時代の山町筋の繁栄も、高岡の財産として生かしてゆく。和菓子にはそれができる。
「高岡は茶室のある家が結構たくさんあって、茶道が盛んな土地柄です。また、このあたりは浄土真宗の王国で、お寺関係のお菓子の需要も多かった。そういう土地の恵みというものを、これからも大切にしてゆければと思います。
 これからの菓子というときに、まず考えなければならないのは、品質を落とさない、ということでしょうね。昔からあるものの品質を維持した上で、今風にアレンジしてゆく。私は、これが新しいお菓子だと思っています」

国宝の寺

 高岡市街の南にある曹洞宗の古刹・瑞龍寺をご案内いただいた。前田利長の死後、利長の菩提寺とされた寺で、山門、仏殿、法堂が国宝に指定されている。
 市街にいては見えてこない高岡と前田利長の関係が、ここに来ると強く感じられる。もともと金沢にあつたこの寺の前身は、利長が織田信長・信忠親子の菩提を弔うために建てたものであった。秀吉から家康へと権力が移る時代に信長を弔った利長の反骨心が、禅寺に今も立ち込めているようである。これは山町筋の商人に、さらに現在の高岡市民に引き継がれたものではないだろうか。
 僧侶による説明を聞きながら境内を歩いて、大野さんから、この広壮な古刹が、わずか3、4人の僧によって維持されているということを聞かされ、驚いた。近頃、心を洗われるような話である。
「とこなつ」という銘菓のたたずまいが物語るもの、それが高岡のあらゆるものにつながっているような気のしてくる旅であった。

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高岡大仏。高岡市は梵鐘、銅像、花器など様々な銅製品の産地として国内シェア90%以上を誇る銅器の街。大仏は、そのシンボルとして昭和7年に完成した。総高15.85m。   高岡山瑞龍寺。加賀藩2代藩主の前田利長の菩提寺として3代藩主前田利常が建立した。豪壮にして典雅な、まさに国宝の名にふさわしい圧巻の伽藍。

月世界本舗

富山県富山市上本町8-6 076-421-2398

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富山に、ぜひおいでください。
皆様の旅の目的の
一つになるよう、
心を込めて菓子を作って
おります。
吉田 榮一

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月世界   まいどはや

大野屋

富山県高岡市木舟町12 0766-25-0215

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伝統の技に、現代の洗練を
かけ合わせていく。
高岡商人のプライドをかけて、
いい菓子を作っていきたいと思っています。
大野 隆一

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とこなつ   山町筋

菓子街道を歩く 小城「羊羹を伝える小京都」 No.173

小城「羊羹を伝える小京都」

星巌寺の五百羅漢。小城に多かった優れた石工が、享保年間(1716-35) に作ったと伝わる。ポーズも表情も、ユーモラスで変化に富んでいる。

祇園川のほとり

 鍋島藩の城下町、肥前の小京都と呼ばれる佐賀県の小城を、初めて訪ねた。
 小城市は佐賀市の西に隣接する町で、市域は南北に長い。その北部エリアが旧小城町にあたる地域で、JR唐津線の小城駅から北へ真っ直ぐ、祇園川に突き当たるまでが、旧小城町の目抜き通りであった。
 そこを車で走って驚いた。道の両側に、しきりに「小城羊羮」の看板が目に入る。羊羮の町とは聞いていたが、これほど羊羮の店が多いところだとは思わなかった。小城だけで22軒の羊羮屋さんがあるという。
 道が祇園川に近づくと、正面に小高い山へ上る長い石段と、その頂上に立つお堂が見えた。須賀神社だが、地元の人は「祇園さん」と呼んでいる。初夏の祇園川ではゲンジボタルの群生が見られ、その上流、清水の滝のある清水川は、全国名水百選の一つ。小城で、京都の東山あたりを思わせるところである。
 今回お訪ねした小城羊羮を代表する老舗、村岡総本舗は、祇園川をはさんで、須賀神社と対面する枢要の地に本店を構えていた。本店の横には、洋風の外観をもつ村岡総本舗羊羮資料館がある。

 

 
須賀神社。中世に小城の領主であった千葉氏が建立した古社。参道の石段は153段。地元では「祇園さん」と呼ばれ、毎年7月には、3台の山鉾が出る祇園祭りがある。

郷士の商法

 村岡総本舗では、社長の村岡安廣さん(昭和23年生まれ)と、ご子息の副社長村岡由隆さん(昭和51生まれ)に話をうかがった。
 村岡社長は肥前の歴史と文化に造詣が深く、『肥前の菓子』(佐賀新聞社)などの著書も出しておられる。
「小城に、どうしてこれだけたくさん羊羮屋があるのか、実はいろいろな説があって、定説がないんです。
 小城の町で羊羮を作り始めたのは明治初期に出た森永惣吉という人ですが、私どもの初代・村岡クニと2代目の村岡安吉が創業した明治32年当時でも、まだ羊羮屋は小城に4、5軒だったようです。
 小城は佐賀鍋島藩の支藩の一つですが、藩主が京都を意識した街づくりをして、茶の湯なども盛んな土地柄でした。それに、オランダや中国の文物を中央へと運んだ長崎街道に近かったことが、まず小城羊羮の生まれた背景として考えられます。
 長崎街道は、シュガーロードと呼ばれるように、砂糖で肥前の菓子を育てた大動脈でした。また、この街道沿いには、麦や米など、菓子の原料を産出する穀倉地帯も広がっています。小城藩には、中世以来ここに土着した郷士と呼ばれる人々が多く、藩に関係する生業を営んでいました。それが明治になって、羊羮作りに転じた例が多い。私どもの先祖もそうでした。
 その後、鉄道の駅売り、軍の携帯食・保存食、炭坑労働者用の甘味など、羊羮への需要が複合的に高まると、小城羊羮がそれに応えます。生産量を飛躍的に伸ばし、遠くジャワあたりにまでその名が知れわたることにもなりました。
 今は駅売りも軍も炭坑もない時代ですが、総務省がまとめた平成14年の全国都道府県別家計調査によると、一世帯当たりの羊羮の年間購入額は、佐賀県がダントツで1位。地元、佐賀の人々が日本一の羊羮好き、これほど励まされる事実はありません。なんといっても、食べてくださる人があっての羊羮です」

羊羮とマンパワー

 そもそも「小城羊羮」の名称は、村岡安吉が行商をする際の箱に「小城羊羮」の文字を入れたのが始まりとされる。それまで小城の羊羮は、「煉羊羮」「桜羊羮」などの名で売られていた。
 小城羊羮の特色は、表面がシャリシャリして、中が柔らかいことである。昔ながらの木箱に流して固める、切り羊羮の製法で作られているからだ。表面が空気に触れて、糖分が結晶する。
 また、色で言うなら、一般的な小倉も抹茶ももちろんあるが、小城らしいのは白小豆の餡に天然の紅を用いた紅色の羊羮であろう。「櫻羊羮」の名前がよく似合う。村岡総本舗では、こうした小城羊羮の伝統をふまえ、高級品も開発している。
「羊羮作りの技術のレベルを保つのは当然のことですが、その上でおいしい羊羮を作ろうとすれば、良質な材料を確保することです。これが非常に大事で、良い材料さえ使えば羊羹はおいしくなる、といってもいいくらいです。
 しかし、小城羊羮のこれから、ということで言えば、作る側の切磋琢磨だけでなく、食べていただく人、ということをもっと考えなければならないと私は思っています。そのためには、回り道のようですが少しでも多くの方々に小城の歴史や町を知っていただき、小城に来ていただくことだと思っています。
 たとえば、明治時代に佐賀出身の大隈重信候が清水観音に続く参道を改修したことがあるのですが、この事業の意味は大きく、私どもは今その恩恵に浴しています。小城羊羮の未来を考えるということは、そういうことではないかと思うわけです」

霊廟と五百羅漢

 ご案内いただいた小城の史跡で忘れ難いのは、小城鍋島家の菩提寺・祥光山星巌寺と小城公園である。
 星巌寺では、竹林のなかに墓石が整然と建ち並ぶ黄檗の雰囲気を伝える鍋島家の霊廟に圧倒され、その霊廟の塀の外に、遊ぶかのように様々にユーモラスな姿態をみせる五百羅漢につくづくと見とれた。ここへ来るだけでも、小城は訪ねる甲斐がある。
 小城公園は、桜の名所と聞くと、なにやら大味な公園を想像しがちだが、さにあらず。大名庭園に起源をもつ、変化に富んだ日本庭園だ。花も、ツツジあり藤あり。正方形に刈り込まれた樹齢350 年という槙の木という見ものもあった。

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祥光山星巌寺。2代小城城主鍋島直能が、小城鍋島家の菩提寺として貞享元年(1684)に建立。墓や楼門は、黄檗宗独特の様式。   小城公園。小城藩の初代元茂・2代直能が営んだ大名庭園が起源。3000本の桜が咲く名園。
 
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佐賀市にある佐賀城本丸歴史館。平成16年(2004)、佐賀城跡内に本丸御殿の一部を忠実に復元。幕末・維新期の「佐賀」の町・人の魅力がよくわかる。ここで紹介する「近代の佐賀人100 人」には、小城の森永惣吉と村岡安吉の名前もある。

村岡総本舗

佐賀県小城市小城町8617 0120-358-057

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「羊羹を「食べる人」を
どうしたら創っていけるのか。
羊羹屋が軒を連ねる
小さな町で、その答えを
探し続けています。」
村岡 安廣

村岡総本舗本店・村岡総本舗羊羹資料館    

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櫻羊羹   小城櫻

菓子街道を歩くNo.161 鹿児島

鹿児島「南都の熱い心」

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桜島がある

 鹿児島に行けば桜島がある、とはわかっていても、いざ桜島を目の前にすると、なにか心を揺さぶられるような気持ちになる。鹿児島に一泊して、朝、桜島を見て、また驚く。 
 鹿児島では、一日の疲れをとろうと皆で一杯やることを、「だいやめ」(「だれやめ」の音便)と言うそうである。「だれ」が疲れ、「やめ」は止めるの意。いうまでもなく、飲むのは焼酎だ。そんな「だいやめ」の最中も、桜島は赤い噴煙をみせながらどっしりと座っているのである。
 何年ぶりかの鹿児島であったが、にぎわいぶりに驚いた。天文館の盛り場は、以前の3倍くらいに膨れ上がった感じで、おしゃれな店がたくさんできている。港には4年前にブティックやレストランなどの入ったドルフィン・ポートが誕生し、人気のスポットになっていた。今年はここに、NHK大河ドラマ「篤姫」関係の資料を展示する「篤姫館」が設けられている。
 鹿児島が活気を取り戻している理由の一つは、九州新幹線の部分開業である。新八代駅―鹿児島中央駅間が開通し、4時間近くかかった博多―鹿児島間が最速2時間12分に短縮された。博多―新八代間が開通すると、博多から鹿児島まで1時間20分ほどになる。 
 九州での旅の形が、大きく変わってきた。

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仙巌園(磯庭園)。万治元年(1658)、19代・島津光久が別邸を建てたのが始まり。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な借景の庭が見事

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尚古集成館。島津斉彬が指揮を執り、大砲やガラス、刀剣、農具、地雷など西洋の技術を導入して造った洋式工場群の一つ。仙巌園に隣接して建ち、現在は薩摩藩の歴史資料などを展示する博物館になっている。   石橋記念公園。甲突川には江戸末期に5つの石橋が架けられ、五石橋と呼ばれて親しまれていたが、平成5年の集中豪雨で、2橋が流失した。残った3橋を確実に後世に残すため、河川改修に合わせて移設・復元して公園化した。

「かるかん」は薩摩

 今回の菓子街道は、鹿児島の伝統を担う銘菓「かるかん」を訪ねての旅である。
 城山公園にほど近い金生町に、「かるかん元祖・明石屋」を訪ねた。
 明石屋の初代八島六兵衛は播州明石の出身で、江戸で菓子職人をしていたが、安政元年(1854)、薩摩藩主島津斉彬公に請われて鹿児島へやってきた。江戸を代表する菓子店、風月堂が島津公に六兵衛を推挙したという。
 六兵衛は鹿児島で明石屋を名乗り、薩摩藩御用菓子司として、今日に伝わる明石屋の「かるかん」を創製。明治初年、明石屋2代目を木原政吉に譲って東京に帰る。その後の明石屋は3代目が木原末吉、4代目は末吉夫人の弟、岩田嘉藤次が継ぎ、5代目太一、6代目で現会長岩田泰一さん(昭和13年生まれ)、社長岩田英明さん(昭和41年生まれ)と続いて今日に至っている。
 「かるかん」の歴史は古く、元禄12年(1699)には、第20代島津公の50歳の祝賀に用いられていた。他の大名家でも「かるかん」は祝い事の席などに登場しているが、いずれも薩摩より時代が下る。しかも島津家では、ことあるごとに「かるかん」が供されていた。「かるかん」は、もとは中国か朝鮮から渡来した菓子で、薩摩が最も早く取り入れ、珍重した上菓子であろうと考えられている。
 この島津家の「かるかん」を製造してきたのが、明石屋であった。

山芋がいのち

 「かるかん」は山芋と米の粉と砂糖だけで作られる蒸し菓子である。棹物から始まったが、餡の入った「かるかん饅頭」も案外に古く、弘化3年(1846)の島津家の記録に登場している。
 材料の山芋は、明石屋では栽培ものではなく、山で採れる自然薯を使う。栽培の山芋では、自然薯に比べて7、8割の粘りしかでないためである。そこで、「かるかん」を作るには、自然薯を確保で
きるかどうかが死活問題に
なる。
 岩田社長からおもしろい話をうかがった。
 「鹿児島には、山芋掘りの人たちをたばねるかたが10人ほどいるんです。限られた自然の産物を採るんですから、あいさつをしたり、そこはいろいろなことがあるんでしょうね。私どもは、そうしたかたたちのうち7、8人の方と密接な関係をもっています。年間55トンの山芋を使いますが、今のところ、需給のバランスは安定しています」
 山芋掘りの組織があって、親方衆がいて、いかにも薩摩らしい話だ。
 それにしても、特別、山芋の産地でも米の産地でもない鹿児島で「かるかん」が受け継がれてきたのは、なぜだろうか。
 「この素朴な風味と、白く凛とした姿が、清廉潔白を重んじる薩摩の気風に合っていたんじゃないでしょうか。明石屋は、このかるかんを、この土地と風土を愛する鹿児島の人たちのために伝えていこうという気持ちで仕事をさせていただいているんです」

石の橋、石の工場

 鹿児島では、桜島のほかにも多くの見どころが旅人を迎えてくれる。
 市の中心部を流れる甲突川沿いの加治屋町一帯は、西郷隆盛や大久保利通が生まれ育った歴史の地。西郷生誕地碑近くにある維新ふるさと館では、多くの逸材を育んだ薩摩式の教育制度「郷中教育」などについても紹介している。かつて甲突川にかかっていた5つの見事な石橋は平成5年の豪雨で2橋が流失したが、残った3橋は鹿児島駅の北西に移設。立派に復元されて、石橋記念公園として整備されている。
 また、仙巌園(磯庭園)は背後に山が迫る細長い地形に造られた名庭として知られるが、こういう地形を庭園にした例は、他に例がないのではないか。しかも、この地は石造建築の機械工場(現・尚古集成館)などもある、気鋭の君主・島津斉彬公の近代産業化への実験場でもあった。
 ここから桜島を眺めていると、日本の一歩先を歩いていた鹿児島人の、誇りと焦燥が熱く伝わってくる。
 日本の歴史に独自の地歩を占め、いま60万人超の人口を擁して魅力を発揮している鹿児島を、現代日本の南都と呼んでみたい気がした。

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甲突川に隣接する加治屋町周辺は、風情あふれる歴史の散歩道。江戸時代に下級武士たちが住んでいた加治屋町は、西郷隆盛や大久保利通、村田新八、東郷平八郎など、幕末から明治にかけて活躍した多くの逸材を輩出した。   甲突川沿いにある「維新ふるさと館」。ロボットと大型スクリーンに映し出される映像などを駆使して、幕末から明治維新に至る激動の時代をわかりやすく紹介している。

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郷隆盛銅像   大久保利通銅像

かるかん元祖明石屋

鹿児島市金生町4-167 TEL. 0120(080)431

「鹿児島に明石屋があってよかったと、鹿児島の人たちから言っていただける菓子屋になりたいのです」
岩田英明
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明石屋本店   代表銘菓の「かるかん」と「かるかんまんじゅう」

菓子街道を歩くNo.159 姫路

姫路「復活する雅の町」

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姫路城。連立する天守と白壁がつくりだす優美な姿から別名白鷺城とも呼ばれる。
1993年12月、法隆寺とともに日本初の世界文化遺産に登録された。

お城と町と

 日本一の名城をもつ町は、にぎわっていた。御幸通、小溝筋、西二階町など、いく筋もある繁華街には人出が多く、お城を中心に、なにやら雅な雰囲気がひろがっている。
 鉄筋コンクリート再建の城を見慣れた目で姫路城を見ると、本物の城の凄味に驚く。外観も見事だが、巨大な柱や梁の使われた天守閣や、ぶ厚い板の床が延々と続く百間廊下などに立つと、さながら戦乱の時代の武将にでもなったような気持ちになる。
 内濠の外側にある好古園という庭園がまた楽しい。しばしば時代劇のロケに使われるというだけあって、大小9つ、大名の生活ぶりを彷彿させる日本庭園である。
 姫路の市街は戦災でほぼ全焼した。城が焼け残ったのも奇跡的だといわれる。戦後のなりふりかまわぬ復興の時期には、城が売りに出されて買い手がつかないというようなこともあったとか。だが、姫路城が世界文化遺産に登録されて15年、国際的に注目されていることもあって、姫路は息を吹き返しつつあるようだ。

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天守をはじめ、櫓や門など80棟以上が国宝、重文。城郭建築技術の粋を集めた名城だ   城内には人形浄瑠璃『播州皿屋敷』に登場する「お菊井戸」など、物語の舞台となっている見どころも多い
     
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好古園。姫路城の西隣にある日本庭園。姫路城を借景に、9つの趣の異なる美しい庭園が次々に現れる   姫路市立美術館。ルネ・マグレットやポール・デルヴォーなど近代ベルギー作家のコレクションが充実している
     
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書写山圓教寺。西の比叡山とも称されている天台宗の古刹。映画「ラストサムライ」のロケ地にもなった    

「玉椿」をめぐって

 今回、姫路で訪ねたのは、銘菓「玉椿」で知られる老舗、伊勢屋本店である。現在は相談役の元社長山野昭一さん(昭和2年生まれ)と、社長の山野浩さん(昭和32年生まれ)にお話をうかがった。
 「姫路城は毛利氏に対する抑えとして徳川家康が築かせた城です。ですから、戦争にそなえて、いろいろな仕掛けが施された城なんです。代々の藩主も、本多、松平、榊原といった普代の大名が続いたんですが、寛延2年(1749)から酒井家が入り、明治まで続きました。この酒井家が天保の頃になると、財政が苦しくなってきたんですね。そこで家老の河合寸翁という方が、たいへん苦労をされて建て直しをはかった。天保3年(1832)に、ときの藩主酒井忠学に、11代将軍徳川家斉の娘・喜代姫のお輿入れがあったのも、寸翁公がお膳立てした政略結婚。おかげで姫路藩は木綿の専売を認められ、窮状を脱したといわれています。
 私のところは、元禄15年(1702)頃から伊勢屋新三郎が菓子屋を始めていますから古いんですが、当時の記録は失われていて詳しいことはわかりません。ただ、喜代姫お輿入れの際、京や江戸に負けない菓子を作れという寸翁公の命で、3代目新ヱ門が江戸へ派遣されたことは確かです。そして江戸から戻った3代目が献上したお菓子の
なかで、お眼鏡に適ったのが、 玉椿 。銘が先にあって、それをお題に作り上げたのかもしれません。ともあれ、これが藩の御用菓子に取り立てられたわけです」
 昭一さんが語る「玉椿」誕生のいきさつ。「玉椿」は、薄紅色のやわらかな求肥餅で白小豆と卵の黄身を使った黄味餡を包んだ、実に上品なお菓子である。

戦後の試練

 先に、姫路の戦災と復興のことに触れたが、伊勢屋本店も、戦後の荒波を免れなかった。
 「学校は彦根(現滋賀大)だったのですが、卒業したのが昭和23年。とにかく砂糖がなくて、菓子屋はどうにもならない時代。それでいろんなことをやりました。人工甘味料を使ってキャラメルを作り、全国に売ったりもしました。初めはよかったんですが、だんだん売れなくなってくる。今思えば、昭和27年頃、父親と相談して、こういうことはやめて、しっかりした和菓子を作ろうと決めたのが、よかったのでしょうね」 
 その後、昭一さんは風味、形、やわらかさなど、最高の品質を求めて菓子づくりに専念した。季節の生菓子とと
もに、「雨華最中」、「禅の心」、「栗名代」といった銘菓も次々に創案している。「雨華最中」は、2代藩主酒井忠以の弟で、有名な画家・酒井抱一の庵号雨華庵から名づけたものである。

これからのお菓子

 現社長の山野浩さんは、大学卒業後、東京の和菓子屋で修業した。かつて伊勢屋の祖先は江戸で技術を学んだが、浩さんも京都ではなく東京体験を選んだわけである。
 「玉椿は、始終つまんで食べてみることにしています。知らない間に品質が変わっている、ということのないように。一方で、お菓子も生き物ですから、時代の移り変わりのなかで、いつまでもまったく同じでいい、ということではないと思っています。伝統のある銘菓を変えるのは難しいですが、玉椿に白い皮のものを作って、紅白の引き出物に使っていただけるようにしたりと、工夫はしてきております」
 職人としての経験を経ている浩さんは、時代の嗜好の変化にいかに対応してゆくかというところに心を砕いている。それが、父・昭一さんの築いた伊勢屋本店を発展させてゆく、大事なポイントと考えておられるようだ。
 「和菓子そのものにも、新しい試みは必要だと考えています。塩味饅頭は製塩が盛んだった姫路ではどこでも作っていますが、最近うちで出した薯蕷塩味饅頭は、塩味を抑えて上質な素材の味を引き立たせるものとしました。品質と同時に、味の好みの変化、健康志向など、いろいろな点も考えなければならないのが、これからのお菓子づくりだと思っています」
 今年は、4月18日から5月11日まで、第25回全国菓子大博覧会・兵庫「姫路菓子博2008」が開かれる。会場は姫路城の周辺一帯。姫路と姫路のお菓子をアピールする絶好のチャンスとなる。「玉椿」をはじめとする伊勢屋本店の銘菓が、さらに認知度を高めることは確実だが、山野浩社長にとっては、次の名物を考えるまたとない機会にもなりそうである。

伊勢屋本店

姫路市西二階町 84 TEL.1079-288-5155

イメージ  イメージ「もっとおいしい玉椿 を作っていきたい、それがうちの菓子づくりの原点です」 山野昭一、山野浩

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玉椿  薯蕷 塩味饅頭

菓子街道を歩くNo.150 東京・赤坂

東京 赤坂[味の魅力は残る]

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変わるセレブの街

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日枝神社。もと江戸城内にあったものを、明暦の大火以後、現在地に移した。歴代将軍家の産土神として崇敬のあつい、江戸第一の大社。西暦偶数年に行われる、ご神幸の行列が皇居を一周する山王まつりは有名。

 東京に住んでいながら、久しぶりに赤坂を訪ねて、浦島太郎になったような気分になった。一ツ木通りあたりも、以前よく行っていた店が、おおかた姿を消している。
 赤坂という街は、複雑な性格をもっている。北で赤坂御用地と接する上品な山の手の一角だが、西に国会議事堂を中心とする国政の府があるために、付近に高級ホテルや料亭が発達し、政治の裏舞台ともなった。東京放送(TBS)が、芸能の要素を持ち込んでもいる。そうした背景が、東京の他の繁華街とはひと味違う赤坂の雰囲気をつくってきた。
 だから、筆者の若い頃、赤坂に出かけるということは、セレブな、大人の遊びの匂いに触れに行くことであった。一ツ木通りのダウンタウンブギウギハウスを覗き、TBS会館の地下でお茶を飲むくらいのことだったが、夜ともなればそこら中で政治家や利権屋の危険なゲームがくりひろげられるのだろうと、眠そうな昼の田町通りあたりを歩きながら想像したものである。 
 今回出かけてみた赤坂は、ずいぶん変わっていた。しかも、ここ数年でさらに大きく変貌していくのだという。

東京のとらや

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かつては夜の国会ともいわれ、料亭街として栄えた赤坂の街で、今、街の表情を一変させる大規模な開発が行われている。新しい街は、どんな個性をもった街になっていくのだろう。

 変わる赤坂で変わらないものの一つが、青山通りの坂を上って、左手に見えてくる真っ白な、とらやの暖簾である。ほっとする白さと墨文字だ。 
 とらやの歴史をひもとくのも今さらめくが、現在では間違いなく日本最古のお菓子屋さんの一つであり、代々御所の御用を勤めてきたことから、明治天皇の東京遷都の時、京都の店はそのままに東京にも店を出した。ところが、とらやは東京生まれのお菓子屋さんだと思っている人が、東京にはまだいる。
 そう思われること自体、京都文化の伝統の中で育ったこの店が、関東の地でいかに成功したかということの証しである。東京で神田ほかを移転して、赤坂に定着したのは明治12年である。 
 とらやの創業は室町末期の1520年代と考えられるが、慶長5年(1600)の記録に店名が登場することから、当時の店主、黒川円仲を初代としている。黒川円仲という人物は、関ヶ原戦で敗れた犬山城主をかくまったというのだから、ただのお菓子屋ではなかった。千利休などがそうであったように、桃山期の豪胆な商人の一人だったのだろう。
 現在の当主は17代目の黒川光博さん。昭和18年(1943)生まれ、平成3年(1991)に社長に就任した。

裾野を広げる

 とらやは鎌倉時代に禅僧によって中国から伝えられた饅頭(酒饅頭)の製法を受け継いでおり、この店の有名なお菓子は饅頭であった。しかし、東京でとらやといえば、手みやげの最高級品として、羊羮が知られている。
 とらやのような店はあらゆる上菓子を作るし、店頭では売らない特注の菓子も作る。だが、季節ごとに桜餅も売れば柏餅も用意し、皇室御用達の看板を掲げながら、和菓子を支える大衆を軽視しなかった。それが羊羮好きの関東人が誇りとする「夜の梅」「おもかげ」のような羊羮の名作を育てたのである。
 和菓子の裾野を広げるというとらやの不断の努力は、パリやニューヨークへの出店にもあらわれている。ニューヨーク店は閉めたが、パリ店は今年25周年を迎えて、盛況だ。黒川光博社長は、「日本の文化の香りのある高品質の和菓子を、感謝の気持ちを込めたサービスで届ける」ことをモットーとしている。
 赤坂の店の地下には、喫茶「虎屋菓寮」があって、心地よい和菓子のひとときが楽しめる。

「赤坂もち」誕生

 赤坂には、丸の内線・銀座線の赤坂見附駅と千代田線の赤坂駅という、二つの地下鉄駅がある。TBS会館の横にあるのが、赤坂駅だ。
 外堀通りから、この赤坂駅を経て、乃木坂へと通じている赤坂通りは、独特の雰囲気をもっている。青山通りがクルマのための道なら、こちらは人が歩くための道に近い。この道を歩くのが好きだったから、赤坂通り沿いの赤坂青野は、よく知っていた。
 それで今回、旧知を訪ねる気分で取材にうかがったが、店に入るのは初めて。お目にかかった5代目の青野啓樹さんは、昭和45年生まれの、若い、元気な社長だった。
 赤坂青野のご先祖は江戸時代、神田明神の横で「青野屋」を称して飴屋をしていたという。明治になって、初代の亀吉が五反田で菓子屋を開店する。東五反田には島津藩や岡山池田藩の下屋敷があった。赤坂に出たのが、明治32年(1899)、2代目一三太郎の時。3代目の鑑次郎が「赤坂もち」を考案した。
 クルミと黒糖で味つけした餅に、たっぷりときな粉をからめ、容器に入れたうえで、小風呂敷に包んであるのが、「赤坂もち」である。赤坂の料亭などでも盛んに使われ、赤坂の名物になった。

昔の菓子屋に

 5年前に4代目の啓太郎が急逝して、啓樹さんは29歳で店を継いだ。その際、かなりの経営危機を乗り切らなければならなかったようである。 
啓樹さんには、そこを乗り切った自信と、これからいろいろなことをやってみたいという意欲がみなぎっていた。
 しかし、「機械だけでなく、一度職人の手を経てこそ和菓子」「お客様に店に来ていただけるような菓子屋に」という家訓は忘れてはいない。
 だから、インターネット販売なども好調だが、「インターネットのお客様の中から、一人でもお店に来ていただける方が生まれたらもっと嬉しい」と言う。
 「黒べい」など店に伝わる菓子のリニューアルにも熱心に取り組み、短い期間に、漉し餡を求肥で包んだ新商品「ほんの喜もち」も開発した。いずれも赤坂の街が大事にしてきた“粋”を感じさせる銘菓である。
 「ほんとうは、昔の赤坂のふつうの菓子屋に戻りたい、という思いもあります」
 最後にポツリともらしたひとことが、印象的だった。

とらや (赤坂店)

東京都港区赤坂4−9−22 FreeDial 0120(45)4121 FAX 0120(77)3250

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小倉羊羮の「夜の梅」と黒砂糖羊羮の「おもかげ」。「夜の梅」には、闇の中に浮き出す梅の花のように、小豆の粒が点じられている。菓銘に情趣があり、竹皮包みがゆかしい。

赤坂青野

東京都港区赤坂7−11−9 TEL 03(3585)0002 FAX 03(3589)0050

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    赤坂もち。ふわっときな粉の香り。あっさりとした上品な甘さは江戸の味。   栗饅頭。蜜でじっくり煮ふくめた栗を丸ごと一つぶ白餡で包み、焼き上げた。

菓子街道を歩くNo.151 高知

高知[土佐人気質のケンピ]

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盛況、日曜市

イメージ高知城。慶長8年(1603)、山内一豊が築いた城を焼失し、宝暦3年(1753)に再建したもの。天守閣をはじめ15棟の建物が現存し、すべて重要文化財に指定されている。城内には、山内一豊の妻の像も建っている。

 久しぶりに訪れた土佐日曜市。規模がまた大きくなっていて、帯屋町から追手筋へ通り抜けの、「ひろめ市場」なる屋根つきの常設市場までできていた。飲食店など60軒余りの店が入っているこの屋内市場は、中に広場があり、老若男女が盛大に飲み食いをしている。
 追手筋には、延々とテントがけの露店が並ぶ。その数640店余り。野菜、果物、魚介類、花、お菓子、おもちゃ、骨董品と、なんでも売っている。「まっことうまい土佐紅」とある、ふかしたてのさつま芋があまりにうまそうだったので、買ってその場でかぶりついた。すると、店のおばさんが、「あと、こういうもんが食べたくなるきね」と言って、野沢菜の漬物をサービスしてくれた。感激!
 この日曜市、始まりは元禄3年(1690)というから、おそろしく古い。最初は日の決まった定期市だったが、明治9年(1876)に市内数か所で火曜、木曜などと曜日で開かれる曜市に変わった。 
 なかでも本町の日曜市が盛んで、明治37年(1904)の電車開通で帯屋町に移り、次いで追手筋に移って現在に至っている。

山内氏の土佐

イメージ 日曜市風景。発祥は元禄3年(1690)と古い高知の名物市。毎日曜、追手筋に600店を超える露店が出て、地元で採れた野菜などを中心にあらゆるものを売る。観光客も多いが、地元の買い物客も多い。

 追手筋を、日曜市のテントを後ろに西へ向かうと、追手門の上に天守閣がすっきりと見えるので有名な全国屈指の古城・高知城に突き当たる。山内氏16代の居城で、土佐人にとっても自慢の城だ。
 坂本龍馬が土佐の外向けの顔であるとすれば、土佐の内部では藩主山内氏の存在感の方が今も大きいようだ。土佐は照るも曇るも明治まで、約270年間を山内氏のもとで暮らしてきたのである。
 今年、NHKの大河ドラマに、初代藩主の山内一豊とその妻が登場するとあって、高知はおおいに盛り上がりそうだ。一豊が実際に土佐を治めたのは、わずか数年にすぎないが、それでも今日につながる高知を創建した人として人気がある。妻なしには語れないところも、一豊はいかにも土佐らしい君主というべきか。
 ところで、今回の「菓子街道」で訪ねた高知の西川屋老舗は、創業以来藩主のご用達をしてきたお菓子屋さんであった。
 副社長の池田聰博さん(48歳)と、夫人の紀子さんにお目にかかった。現社長池田再平さんが11代目、聰博さんが12代再平を継ぐことになる。お話をうかがうと、池田さんも大河ドラマに一役もらって出演してもいいのではないかと思えるくらいに、山内氏とゆかりの深い老舗であった。

素麺から菓子

イメージ 桂浜。白砂青松と月の名所として知られる高知の景勝地。一帯は桂浜公園として保存され、和服にブーツ姿の坂本龍馬の銅像が建つ。

 西川屋老舗は、元禄初年(1688)、赤岡町に店を構えた西川屋才兵衛を初代としている。だが、それ以前、慶長年間から赤岡よりやや東の夜須出口というところで、素麺や麩を製造していた。土佐の白髪素麺として知られたものである。山内侯との関係も、一豊が入国してすぐに素麺や麩を納めたことから始まったらしい。
 元禄以降については大量の記録文書類が伝えられていて、山内侯からの注文のしだいなどもつぶさに書き残されている。山内侯から、城下の松が鼻に敷地を賜るという話もあったが、当時の当主は恐れ多いとして辞退した。高知市知寄町に本店を移したのは、やっと第二次大戦後である。
 店の歴史とともに古い銘菓ケンピは、初代才兵衛の頃から作られていたもので、今ではいわば土佐の文化財である。家業の素麺にヒントを得て、素麺と同じように小麦粉を練って薄くのばし、刻んだものを適当な長さに切り揃え、焼き釜で焼いた素朴な菓子だ。ケンピという変わった名称の起こりには諸説あるが、西川屋では、堅い干菓子の意味で、堅干と名づけられたとしている。
 ケンピの1本目を口に入れた人は、だれもが「堅い」と言う。だが、それも最初だけで、案外に口溶けは速く、甘い旨いだけでない、言うにいわれぬ慈味にとらえられる。さすがに300年を生き抜いてきた味だ。
 西川屋にはケンピのほかにも、古い歴史をもつ「梅不(うめぼ)し」、それに「土佐二十四万石」、「長尾鶏(おながどり)の玉子」などの銘菓がある。また、季節ごとの上生菓子、干菓子と、製品は多彩だ。
 新しいお菓子もどんどん加えている。「龍馬のブーツ」という愉快な菓銘の、土佐ジロー鶏の卵を用いたサブレ、「四国カルスト高原さんぽ」なるチーズクリーム入りブッセ、くるみ漉し餡をパイ生地でくるんだ「花と恋して」など、いずれも聰博さんの発案と聞いた。
 さらに機会到来で売り出されたのが、「一豊の妻」。土佐特産の小夏を加えた白餡を皮でくるんだ焼き菓子で、どこか女性を感じさせるやさしい味がする。

鏡川をはさんで

イメージ 旧山内家下屋敷長屋。幕末の藩主山内容堂が建設した下屋敷で、重要文化財。10畳ほどの部屋に仕切られ、台所用の土間もついた長屋の内部が公開されている。市内鷹匠町。

 高知城の南の鏡川べりに、藩祖を祀る山内神社があり、その境内に土佐山内家宝物資料館がある。ここへ池田聰博さんご夫妻とご一緒した。
 展示品のなかに、徳川代々の将軍から山内家に与えられた領地目録なるものがみられた。大名の領地というものは、将軍が代替わりするたびに、改めて与えられるものだったのである。
 この一事だけでも、幕府に管理される藩主の気苦労が想像できる。その上で、領内を活性化し、領民の暮らしを守らなければならなかった。土佐の場合は、特色ある産業を起こし、独得の土佐人気質を育んで、多くの逸材を輩出したのだから、山内氏の経営は優秀だったのである。
 折しも資料館では「藩主家の墓所展」が開かれていたが、ご夫妻は最近、山内家墓所の掃除に参加されたとのことで、「お墓の掃除をさせていただきながら、山内様あっての西川屋だったということをつくづく感じて、ありがたく思いました」としみじみと語った。聰博さんも山内土佐の残した人の遺産である。 
 その山内家墓所のある筆山が、資料館から、鏡川の対岸にこんもりと見えていた。

西川屋 老舗

高知市知寄町1―7―2 TEL&FAX088(882)1734

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    一豊の妻。白餡にジャムにした土佐特産の小夏を加え、ミルクたっぷりの皮でつつんだ焼菓子。やさしい味である。   ケンピ。西川屋が300年の伝統を守り続けてきた土佐銘菓。素朴ななかにも、独得の滋味をたたえて、一度食べたら忘れられない。

菓子街道を歩くNo.152 京都・洛中

京都・洛中[香りのある時間]

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北座の八ッ橋

イメージ鴨川沿いの桜。井筒八ッ橋社長、津田さん推奨の花の名所である。

 四条大橋の上で南座の向かい側を見ると、5階建ての「井筒八ッ橋」祇園本店のビルがすぐ目に入る。井筒八ッ橋は京都銘菓八ッ橋の代表的な店の一つだ。建物の最上階は歌舞伎の劇場にある櫓のような造りになっていて、そこに「北座」と大書されている。
 この北座というのは、明治26年までこのあたりにあった劇場の名前で、かつて南座の界隈には、大小の芝居小屋が7つも集まっていたという。
 井筒八ッ橋は文化2年(1805)、北座の前で水茶屋を営んでいた「井筒」の暖簾分けを受けて、津田佐兵衞が創業した。水茶屋の井筒を描いた江戸時代の錦絵が残っているが、大きな店だ。代々佐兵衞を襲名して、現在は会長が6代目佐兵衛を継いでいる。
 代表的な銘菓は創業以来製造する焼き菓子「井筒八ッ橋」だが、この店は粒餡入り生八ッ橋の元祖でもある。小倉餡入りの「夕霧」を発売したのは、昭和22年と早かった。
 「夕霧」の菓名は名妓夕霧太夫からとり、皮の網目は『廓文章』で藤屋伊左衛門のかぶる深編笠をかたどったもの。歌舞伎界と交流の深かった5代目佐兵衛が、歌舞伎にちなむ菓子として考案した。

祗園の農学士

イメージ 南座。現在の建物は昭和4年の鉄筋コンクリート造りだが、江戸時代からこの場所に生き続けている芝居小屋。毎年12月の顔見世興行は有名である。
津観音の観音堂。かつては東京・浅草の浅草寺、名古屋の大須観音とともに、日本三観音と称され、参詣者を集めた。

 こういう話を、井筒八ッ橋の7代目社長・津田純一さん(昭和24年生まれ)からうかがった。
 津田さんは、京都を訪れる人々にもっと京都を楽しんでほしいという。南座の12月の顔見世だけでなく、4月の都をどり、京をどりなど、京都にはよそでは見られない踊りの舞台がある。建都1200年祭を機に、「一見さんお断り」への誤解を解消すべく、京都に知人や親類をもたない人の代わりとなる「京都家族」なる試みも行ってきた。
 かく京都の遊びを推奨する津田さん、風流人でありつつ、大学は農学部で、バイオテクノロジーを研究したというから意外である。現会長の佐兵衞さんも同じ京都大学の農学部で、2代にわたる農学士だ。
 お菓子の原料選びにおいては、専門家である。お菓子製造で進む機械化についても、こう語った。
 「コストダウンだけを目的とせず、品質を落とさないという条件でオートメ化していくというのが私の方針です。オートメ化する場合にはそれに合う原材料というものがあるんです。それを世界中から探していますよ」 
 良心ある科学者の言、といってよいだろう。

平安京の蕎麦

 街をぶらぶら歩くのも、京都の楽しみの一つである。
 御池通と四条通の間、東西を河原町通と烏丸通にはさまれた地域なども、三条通、寺町通、新京極、錦市場と、繁華な道筋をかかえる京都の中心街だが、一歩はずれると、街の中はいたって静かだ。日用品を売る小さな店がいたるところにあり、街が生活の匂いをもっている。
 総本家河道屋も、この一角にある。河道屋といえば、「あの、芳香炉の」と、お蕎麦屋さんの方を思い浮かべられる人も多いかもしれない。どちらも同じ経営だが、蕎麦の店は晦庵河道屋、お菓子の店は総本家河道屋で、こちらは「蕎麦ほうる」という銘菓で有名だ。
 二つの店は50メートルと離れていないところにある。晦庵も風雅な店だが、総本家も古風な京の商家のたたずまいをみせる造りだった。
 店の歴史も古く、元禄の頃には上京で蕎麦屋を兼ねた菓子屋を営んでいたが、火災にあって現在地に移転した。現社長の植田貢太郎さん(昭和25年生まれ)が16代目に当たる。
 河道屋のご先祖は、桓武天皇の平安遷都とともに移り住んだ生粋の京都人である。そうした縁もあって、毎年5月に比叡山で行われる桓武天皇御講には、代々の当主が登山して、現地で蕎麦を打ち、供養するならわしを守ってきた。

南蛮菓子の傑作

イメージ 河道屋社長、植田さんお奨めの街スポットは、路地。変化してゆく京都の街のなかに、まだまだ至るところに残っている路地の風景。

 植田さんが、「うちのお菓子といっても、これしかありませんから」と苦笑されるのが、銘菓「蕎麦ほうる」である。
 「ほうる」はよくある「ぼうろ」とついたお菓子と同じく、ポルトガル語などからきた言葉で、南蛮菓子の手法を取り入れたことを表している。
 明治初期に河道屋の中興の祖・植田安兵衛が考案。小麦粉、蕎麦粉、砂糖、卵を材料に、形もシンプルなお菓子で、蕎麦の香りがきき、さっと口溶けする和製クッキーの傑作である。
 総本家河道屋はこの「蕎麦ほうる」だけを守ってきた。植田さんも、蕎麦打ちの修業はしたが、菓子は「蕎麦ほうる」以外のことは知らないという。
 「蕎麦菓子の路線で新しいお菓子を作りたい気持ちもありますし、試作もしています。ただ、新しいお菓子を作るなら、絶対によそにないものを一から作れ、というのが家訓なので、なかなか難しいですね」
 と植田さんは語る。

感想ひとつ

 京都で訪ねた2軒のお店の代表的な菓子で、気がついたことがある。肉桂の香りの「井筒八ッ橋」、そばの香りを生かした「蕎麦ほうる」と、いずれも香りを重視する菓子だったことだ。砂糖がふんだんに使えなかった時代、これらの菓子は香りだけを生命として生まれてきたのではないだろうか。
 味や見た目もさることながら、香りを重んずる文化というものが、京都では強く受け継がれてきているような気がする。それがお菓子のなかにも生きているのだ。

井筒八ッ橋本舗

京都市東山区川端通四条上ル TEL 075-531-2121

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井筒の生八ッ橋「夕子」桜あん・緑茶あん

つぶ餡入り生八ッ橋。「夕子」の菓名は、水上勉の小説『五番町夕霧楼』のヒロインの名前からとられている。

総本家河道屋

京都市中京区姉小路通御幸町西入ル FreeDial 0120(22)1497

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蕎麦ほうる

そば粉の香りが生きた、枯淡風雅な味わいで京都の名物菓子となっている。形は梅の花と、そのつぼみ。

菓子街道を歩くNo.153 関・津・松坂

関・津・松阪[旅人と味の物語]

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関の山

イメージ関の町並みには旧東海道の面影が色濃く残る。右手は玉屋。関宿の代表的な旅籠の一つで客室などが公開されている。

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地蔵院。古くから「関の地蔵」として親しまれた

 旧東海道の宿場町を残したというべきか、蘇らせたというべきか、三重県の関(亀山市関町)の町並みには驚くばかりである。
 道幅も旧街道そのまま、東の追分と西の追分の間1・8キロの通りに、宿場の建物が見事に並ぶ。古いままの家、修復したものさまざまだが、場違いな家は一軒も見当たらない。しかも、日用品の商店もあり、多くは人の暮らす住まいだから街が生きていた。
 ところどころに、さりげない見どころスポット。代表的な旅籠だった玉屋や、関宿の典型的な町家の内部が公開されている。町並みを見下ろせる眺関亭もあれば、地蔵院の愛染堂(重要文化財)も見ものだ。
 関では毎年7月の祇園祭りに4基の山車が引き出される。全盛期には16基あったという山車は優美にして豪華。「関の山」という言葉は、ここ関の山車の、これ以上ない見事さから生まれたとか。それをいうなら、今の関町こそ、旧東海道の町並みをこれだけ残していれば、「関の山」である。

文化を継ぐ

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西に鈴鹿峠を控えた関宿は、東海道の重要な関所として栄えた。

 関の町並みで、誰もが必ず立ち止まる古風で美しい商家がある。銘菓「関の戸」の店、深川屋陸奥大掾だ。寛永年間(1624〜1643)創業という老舗で、創業とともに生まれた銘菓「関の戸」は、街道の名物というようなものではなく、都好みの洗練されたお菓子だ。
 現在の店は天明4年(1784)の再建だが、中央に唐破風の屋根がついた庵看板、正面の連子格子、2階の虫籠窓と、重厚な風格を漂わせる。
 一歩店内に入ると、柔らかな照明の下、店の格式を物語る江戸時代の豪華な菓子器が螺鈿をきらめかせていた。
 「江戸時代の商家の店先そのままですから、ぜひ中に入って見ていただきたいんですが、入りにくいのか、外から覗くだけの方も多いですね」
 と、13代目当主・服部泰彦さん(昭和11年生まれ)。芸術家のような風貌の方である。
 三男だった泰彦さんは、家業を継ぐことになった時、「商売ではなく文化を継ぐ」つもりだった。それだけに、深川屋は1階も2階も博物館のようである。古書画、歴史資料、民芸品に囲まれて、お話がまた、関の歴史と町起こし、東海道の回顧そのものであった。
 泰彦さんは、6代目が書き残した「関の戸」の材料の割合を発見し、割合を6代目当時に戻した。これも、「文化を継ぐ」意識。
 関には「もてなすDNAが受け継がれている」と泰彦さんは言う。「関の戸」や関の町並みは、自然体でも人々に浸透してゆく、ということか。

県都の風景

 関には、東海道から伊勢路に入る「一の鳥居」が立っていた。鳥居の先は、津、松阪を経て伊勢神宮に至る道である。
 三重県の県都・津市は、古くは日本三津の一つといわれた良港だったが、室町末期の大地震で港が失われ、その後は藤堂高虎の築いた城下町として知られた。だが、江戸時代の津のにぎわいは、ここが伊勢路の重要な宿場であったことにもよるのである。
 明治以降は県庁所在地となったが、宿場町の活気を失い、城下町の遺構も戦災で破壊されて、工業都市を目指してきたのが、現在の津である。
 今回、近代日本絵画の良質なコレクションで知られる三重県立美術館を訪ね、梅原龍三郎や岸田劉生の作品を堪能した。美術館に向かう途中に通った偕楽公園界隈などには、さすがに県都ならではの洗練された雰囲気が漂っていた。偕楽公園は、藤堂家別邸跡を公園にしたものである。
 津には、県下最大の寺で、国宝を含む幾多の寺宝を所蔵する専修寺が一身田町というところにあるが、訪ねる時間がなかった。

笠のデザイン

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津の海岸。夏は長大な砂浜が海水浴客でにぎわう。

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津城跡。藤堂高虎の本格的な築城で名高いが、建物は戦災などで失われた。3層の隅櫓が復元されている。

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津観音の観音堂。かつては東京・浅草の浅草寺、名古屋の大須観音とともに、日本三観音と称され、参詣者を集めた。

 津には、この土地に古くから伝わる物語にちなんだ銘菓「平治煎餅」がある。大正2年(1913)に平治煎餅本店が創製したもので、今や津で最も知られる名物菓子だ。
 物語というのは、こうである。阿漕浜の漁師平治は、病気の母に食べさせたい一心で、神宮ご用の禁漁区で、ヤガラという栄養に富んだ魚の密漁をしていた。しかし、平治は、ある日浜辺に忘れてきた笠を証拠に捕らえられ、簀巻きにして阿漕浦沖に沈められてしまう。伊勢では知らない人のない悲話である。
 「平治煎餅」は、この話の笠をかたどった、さくさくと口どけのよい卵せんべい。笠の形を煎餅にしてみようと考えたデザイン感覚が奇抜だ。
津観音の観音堂 津観音の観音堂。かつては東京・浅草の浅草寺、名古屋の大須観音とともに、日本三観音と称され、参詣者を集めた。
 平治煎餅本店は、津観音の門前にひらける商店街、大門にある。
 就任間もない4代目社長伊藤博康さん(昭和42年生まれ)は、なによりも津の町、ことに津観音の界隈が活気を取り戻して欲しいと願っていた。
 「津観音のご本尊は、阿漕浦で漁師の網にかかって引き上げられたという言い伝えがあるんです。うちとは切っても切れないご縁があります。なんとかここがにぎやかになるように、いろいろ考えてみたいと思っています」
 伝説の阿漕浦あたりは今、海水浴客に人気のビーチになっている。

城跡の界隈

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鈴屋(本居宣長旧居)。もと魚町にあったものが城跡内に移築されている。宣長はここで、医師の仕事をするかたわら、著述を行った。

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松阪商人の館(小津清左衛門邸)。松阪木綿などを扱った江戸時代の屈指の豪商小津家の邸宅を公開している。

 松阪に入ると、東京住まいの人間にも親しみが湧く。東京にも、松阪生まれのなじみのものが多いからだ。松阪牛、三井、三越、本居宣長。宣長は小津という木綿問屋の出だが、かの有名な映画監督小津安二郎も松阪の出身である。
 松阪は秀吉の時代に蒲生氏郷が城を築き、城下町の基礎をつくったが、徳川の時代には紀州藩領となって、城代が置かれた。その紀州藩が藩士を派遣して城を守らせた御城番屋敷が、搦め手門に続く道の両側に残っている。槙垣をめぐらせた一続きの長屋が向かい合わせに建ち、小割りにして10戸ずつが住んだものだ。ここには、今も実際に人を住まわせ、文化財の荒廃を防いでいる。
 松阪城跡は石垣だけだが、一角には本居宣長記念館があり、宣長の旧宅「鈴屋」が移築されている。二階の宣長の書斎を覗き、宣長は、この小部屋から全国に名を馳せたのかと思い、心を打たれた。

温故知新の人

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御城番屋敷。松阪が紀州藩の領地となった江戸時代、城を守るために派遣された紀州藩士が住んだ長屋。重要文化財。

 蒲生氏郷が近江の国日野から松阪へ入部した時、氏郷に従って松阪へやってきた商人たちがいた。銘菓「老伴」で知られる柳屋奉善のご先祖もその一人である。
 天正4年(1575)、日野で創業したご先祖は、天正16年(1619)松阪に移り、「老伴」(当初の菓名は「古瓦」)を創製した。これが三井などの豪商、貴顕に用いられ、明治以降は毎年のように皇室のご用でお菓子づくりをしてきた。
 「老伴」は、円形の蓋のない最中生地に、ぶどう色の羊羮を詰めたお菓子である。最中の皮の型は、中国前漢時代の瓦当の模様で、鴻(大型の鳥の総称)の絵に「延年」の文字が入る。
 柳屋奉善の社長は現在17代目の岡久司さん(昭和27年生まれ)。ユニークな発想で、松阪を考え、町づくりにも熱心に参加してきた方である。
 松阪の道に見られる隅違いは、敵の来襲に備えた武者隠しではなく、松阪に流れ込む膨大な旅人を回遊させるための、蒲生氏郷が考えた仕掛けだ、などという見方もその一つ。
 そして、「松阪といえば松阪牛が有名ですが、この町を象徴するものといえば、本居宣長だろうと思います」
 宣長の愛した鈴をかたどった最中や、宣長が調合した「あめぐすり」を復元した「宣長飴」など、柳屋奉善には宣長にちなむお菓子も多い。
 久司さんは、温故知新の人だ。油断のならない、氏郷ゆかりの者の末裔である。

深川屋(ふかわや) 陸奥大掾(むつだいじょう)

三重県亀山市関町中町387 TEL 0595(96)0008

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関の戸

赤小豆の漉し餡を白い求肥で包み、和三盆をまぶした、風雅なお菓子。

平治煎餅(へいじせんべい)本店

三重県津市大門20―15 TEL 052(225)3212

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平治煎餅

阿漕の平治の伝説にちなみ、笠をかたどった卵せんべい。大笠、中笠、小笠とある。

柳屋奉善(やなぎやほうぜん)

三重県松阪市中町1877 TEL 052(225)3212

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老伴

羊羮の甘さを最中の皮でおさえた、さっぱりとした風味が特色。大判と小判の2種類がある。

菓子街道を歩くNo.154 神戸

神戸[おしゃれなお菓子人]

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朝の散歩

イメージハーバーランドから見た神戸の街。中央に神戸ポートタワー、背景の山は六甲山。

 港の見えるホテルで1泊し、朝の神戸の街を元町から三宮まで散歩した。
 それぞれ自前の名前をもった喫茶店が、店の前にめいめい工夫したモーニングセットのサンプルや看板を出していた。どの店のもおいしそう。こんな光景は東京の繁華街などでは、あまり見られなくなった。チェーン店全盛で、店の名前も同じならモーニングセットも画一的である。
 10時開店のお菓子屋さんなども、もう9時前から店内を明るくして、忙しく開店の準備をしていた。これも、気持ちのいい風景である。
 1日や2日いても、神戸の街が昔とどう変わったのかはわからない。ただ、高架下の商店街は、すばらしくきれいになった。トアロードの西側の路地路地に、おしゃれな若者向けのブティックがたくさんできていたが、あれはいつ頃からだろうか。
 観光スポットだけでなく、余裕があれば、神戸はぜひ街を歩きたい。そして、できればお店の人などとちょっと話もしたい。神戸の魅力は、人だと思うからである。

丸から四角へ

 菓子街道の取材の幸せは、たいてい、その町に育ち、その町の担い手になっている人たちに会えることだ。今回お訪ねした本砂屋の4代目、杉田肇社長(昭和27年生まれ)も、まさに元町の現在を担っている神戸っ子である。
 大丸神戸店の向かいから元町商店街に入って、1ブロック過ぎた左側、元町通3丁目に本砂屋の本店がある。有名な「砂きんつば」のお店だ。といっても、本砂屋は「エコルセ」などの洋菓子でも知られる店で、本店には和菓子館と洋菓子館が並んで建っている。
 杉田社長にお会いして、かねて思っていることを……。  「きんつばというと、関東のお菓子という印象があるんですが……」
 「たしかに、東京には昔からきんつばがありましたが、丸い形をしていたんです。刀の鍔の形だったんですね。それを明治30年に、私どもの初代杉田太吉が、角形の6面を焼く形に改良したんです」
 「じゃ、今ではどこでも作っている四角のきんつばは、こちらが最初に……」
 「はい、私どもが初めて売り出しました」
 発売当時から、店頭で実演販売をしたことも「砂きんつば」の人気を高めた。
 本砂屋は明治10年に初代が紅花堂を開店し、瓦煎餅の製造販売を始めたのが前身で、のちに本砂屋と改めた。2代目が洋菓子を好み、3代目がその志を継いで「エコルセ」を創製している。
この元町通りの本店だけで販売している「神戸エコルセ」を作るフランス製の機械を見せていただいた。鉄道の車輪の技術を応用したとかで、まさに汽車の車輪。使いこなせたのが3代目の杉田政二さんだけだったというのも、うなずける。
 「私どもが開発して、のちに似たようなお菓子がよそで作られている例もあるのですが、それを真似しないでくださいとは言わないことにしています。ただ、私は、やはり真似をして作ったお菓子は底が浅いように思います。新しいお菓子を作るなら、真似ごとでなしに、と思っています」
 「和」「洋」の垣根なく、「旨楽味遊」(旨さを楽しみ、味に遊ぶ)をモットーに、杉田さんはお菓子を考えている。
 日焼けした杉田さん、ゴルフの腕前はプロ級と聞く。「旨楽球遊」というところだろうか。

元町を劇場に

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南京町。元町通の南側の一画に中国料理店が集まり、観光スポットとしてもにぎわっている。

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元町商店街の入り口。ここから6丁目まで、1.2kmの長い商店街が続く。

 本高砂屋を出て、そのまま西へ向かうと、老舗の洋服店をはさんですぐの同じ元町通3丁目に神戸風月堂がある。
 神戸風月堂といえば、あの缶入りのゴーフル。口のなかで夢のように溶けてしまうゴーフルの味とともに、あの缶にメンコやおはじきなどの宝物を入れていた思い出を持つ人も少なくないだろう。
 神戸風月堂は、明治30年、初代吉川市三が元町に米津風月堂の支店として開店した。吉川の生家は、神戸で廻漕問屋と旅館を営んでいたが、市三は東京の米津風月堂で修業し、のれん分けを受けて故郷の神戸に店を出したのである。その後さまざまな事情で、神戸風月堂は米津風月堂の本店とは別個の店として発展することになった。創業当時から人気のアイスクリームをはじめ、シュークリーム、マロングラッセ、ワッフルと、洋菓子はなんでも。そしてこちらも創業当時からある和菓子にも力を入れている。
 ゴーフルを売り出したのは昭和2年。初めは、間にはさむクリームを1枚ずつ手で塗っていたという。
 ゴーフルには逸話が多いが、あのアルベルト・シュヴァイツァー博士が、アフリカで神戸風月堂のゴーフルを食べ、手紙で「ダンケ」といってきたことがある、というのには驚いた。
 最近まで4代目社長をしておられた下村俊子会長にお目にかかった。嫁いだ下村光治氏が3代目社長となったが、吉川市三の直系は俊子さんの方である。
 「私はお店にいても何の役にもたちませんから」とおっしゃるのは、もちろん謙遜だが、下村会長は現在、元町はもとより、神戸を活性化させるために、なくてはならないリーダーになっている。
 震災からの復興を音楽で、と始められた神戸元町ミュージックウィークは、今年9回目を迎えるが、この催しの実行委員長が下村さん。元町周辺のあらゆる場所で、クラシックを中心にポップスやシャンソンなど多彩なプログラムを、ホール・コンサート、ストリート・コンサートなどに組んで、今年も10月7日から 15日まで繰り広げられる。ぜひご来神を!
 2008年に姫路で開かれる『全国菓子大博覧会・兵庫』の実行委員長も、下村さんである。いずれも名誉職ではなく、情熱をもって取り組んでおられる。
 「神戸がこれからどういう町になっていくか、今がとても大事な時だと思っています」
 今回の菓子街道は、考え方も生き方も、おしゃれなお菓子人に出会った。

本高砂屋

神戸市中央区元町通3丁目2―11 TEL 078(331)7367

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    きんつばanフィーユ
さくさくのパイに、きんつば餡とクリーム。さらにバナナなど季節の果物をはさんでいる。和洋が溶け合う神戸らしい菓子。
  高砂きんつば・銀つば
皮は薄く、餡はたmっぷりとふくよかに。いまも店頭で一つ一つ職人が手焼きで仕上げている。

神戸風月堂

神戸市中央区元町通3丁目3―10  TEL 078(321)5555

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    衵扇(あこめ おうぎ)
(創作和菓子「源氏の由可里」から)
源氏物語をテーマとした創作和菓子シリーズの一つ。梅羊羮にねりきりを扇状に貼りあわせ、房には五色の小田巻を用いている。
  ゴーフル
薄く焼いた小麦粉の生地で、クリームをサンドした代表銘菓。しゃれた意匠の缶もおなじみ。