郡山 No.172

郡山「百六十年のお菓子町起こし」

郡山市公会堂。大正13年に建てられたルネッサンス様式の洋館で、市のシンボルとして親しまれ、コンサートなどにも利用されている。

街道の華やぎ

 「薄皮饅頭」で有名な柏屋を訪ねて、福島県の郡山市へと旅した。郡山は、江戸時代までは奥州街道の宿場町だったところで、今は福島県第一の都市。柏屋は嘉永5年(1852)の創業だが、以前は郡山宿の本陣隣で旅籠を営んでおり、宿の茶店で饅頭を売ったのが、菓子屋に転じるきっかけとなった。
 柏屋の本店は今も、旧奥州街道との交差点に近い、駅前大通りにある。旧奥州街道の中心部は〈なかまち夢通り〉と呼ばれ、ホテルやブティックが集まっていて、やっぱりここが郡山で一番華やかな一角となっていた。

イメージ   イメージ
郡山市の西端は猪苗代湖。風力発電の風車が林立する布引「風の高原」からは絶景が望める。   安積国造神社。市内中心部に位置する郡山の総鎮守。この社の神官の子として生まれた安積艮斎(あさかごんさい)は吉田松陰や高杉晋作などを育てた儒学者。

「代々初代」

 「薄皮饅頭」を創案した柏屋の初代、本名善兵衛は、仙台藩の武家から本名家に婿入りした人であった。気骨は武士そのもの、本名家の祖先が医師だったことから、「薄皮饅頭は国民の滋養である」という饅頭観を持っていたという。
 以後、柏屋の当主は代々善兵衛を襲名していくが、初代の気骨を受け継ぎながら、個性豊かな当主が続いた。現在は5代目の本名幹司さん(昭和30年生まれ)。遠からず善兵衛を襲名する予定でいる。
「柏屋には初代以来伝わる家訓が100以上もあります。たとえば『代々初代』、これは何代目であろうと、創業者のつもりで努力せよということです。関連する家訓に、『今日が創業』、『のれんは革新』というものもあります。代々、なにか難しい事態を迎えるごとに、こういう家訓を思い起こしてやってきたのだろうと思います。
 3代目は戦争という一大困難にぶつかりましたし、4代目の時代はいわゆるバブル期でしたが、この時期はまた別の意味で舵取りがたいへんだったと思います。私自身も、非常に悩み、迷った時期がありました」

災い転じて

 5代目が遭遇した困難は、洪水という天災であった。昭和61年8月の集中豪雨で阿武隈川の支流である逢瀬川や矢田川の堤防が決壊、柏屋の工場が水没したのである。
「私自身もボートで救出されました。夜が明けて見に行ってみると、工場もトラックも泥水の中に沈んでいる。呆然としました。正直、何もかもおしまいだと思いました。しかし、そこで泣きながら泥水のなかで片付けをしている社員の姿を見たんです。ハッと胸を衝かれました。社員という財産が残っていたのだと。
 さらに、陽が昇ると、取引先などから100人を超す人たちが駆けつけてくださいました。総がかりで掃除を手伝い、菓子を作る機械をメンテナンスして、何とか動かそうとしていかれる。感激しました。柏屋の代々が、また社員たちが、これまでどれだけのことをやってきたかという証だと思いました。『よーし、復興するぞ』という気になりました。復興は驚くほど早く、約1週間後には薄皮饅頭の製造ラインが動き出しました。
 それから約50日。常務だった私は突然、社長を命じられました。実は当時、柏屋の業績は芳しくなく、その上に水害でしょう。最悪の時期の就任かと思いましたが、大きな危機を切り抜けたことで社員の気持ちが一つになって、逆に社を立て直すきっかけになったのです」

縁側の朝茶会

 柏屋は、郡山の町とともに生きて行く姿勢を鮮明に打ち出している。
 まず1月を除く毎月1日、朝6時から8時まで、来店者にお茶と饅頭を無料でふるまう朝茶会を、昭和49年以来切れ目なく続けている。今年2月の朝茶会にお邪魔してみたが、雪の降るなか、本店2階の「薄皮茶屋」には、通学前の小・中・高校生から通勤途中のサラリーマン、そしてお年寄りまで来客が引きも切らず。社長はもとより家族・従業員が一体となって接待に走り回っていた。
「このあたりには、寄ってお茶でも飲んでがざんしょ、といって縁側で朝茶を飲む習慣があるんです。そういう縁側文化を伝えようということで始めたのが、この朝茶会。初対面の人たちがお饅頭を食べながら楽しく話をしていただけるといいと思って」

 柏屋ではもう一つ、素敵な活動を行っている。子どもの詩の募集を昭和33年以来、続けていることだ。『こどもの夢の青い窓』(現在531号)というリーフレットを隔月で刊行し、優秀作は柏屋や市役所などに展示される。先代と友人の詩人らとの雑談から生まれた企画だ。
 現社長は、こうした負担の大きな遺産を、一つも否定せず、発展させようとしている。柏屋の家訓の一つ、「こころの伝承」ということか。

イメージ
紅枝垂地蔵ザクラ。郡山から三春町にかけては全国有数の桜の名所。名木が多く、これは三春滝桜の娘といわれる樹齢400年のしだれ桜。
 
イメージ   イメージ
萬寿神社。境内に巨大な饅頭を思わせる自然石「願掛け萬寿石」がある。   まんじゅう祭り。毎年4月第3日曜日に開催。薄皮大饅頭を奉納し、柏屋の創業年数(今年は160)と同じ合計年齢のご夫婦が饅頭開きをする。

これからも

 柏屋は薄皮饅頭のほかに、季節の生菓子も作れば、地元の偉人・安積艮斎にちなんだ「ごんさい豆」のような気軽なお茶菓子も、洋菓子も作る。県下にくまなく支店を置くほか、東京や仙台などにも店がある。しかし、もう拡大はせず、県内に重点を置いていくと言う。
「最大企業よりも最良企業です。今考えていますのは、薄皮饅頭をさらにおいしくすること、お客様に喜んでいただけるお菓子を作っていくことです」
『毎日が創業』、今年7月、柏屋は創業160年を迎える。

 本稿は3月11日の大震災前に取材編集したものです。柏屋も被災しましたが、3月末には一部店舗から営業を再開。心を込めて、再び菓子を送り出し 始めました。今後とも変わらぬご愛顧をお願いいたします。

柏屋

郡山市中町11?8 024-932-5580

イメージ  
「仕事熱心だった父は
饅頭で“一生を棒にふった”人。
私もそういう人生を送りたいです」
本名 幹司

イメージ   イメージ
柏屋 薄皮饅頭   檸檬

洞爺湖 No.170

洞爺湖「恵みの湖畔から」

洞爺湖は東西約11km、南北約9kmの、ほぼ円形をしたカルデラ湖。湖の南岸に沿って、宿泊施設が建ち並んでいる。一帯は支笏洞爺国立公園に含まれる絶景の地

火山と共生する

 洞爺湖温泉に、「わかさいも本舗」を訪ねた。
 洞爺湖は、温泉街側から湖を見る限り、幾重もの森に包まれた静かな湖の印象である。背後の有珠山(うすざん)は、その存在を忘れてしまうほど目立たず、むしろ、対岸の彼方に見える蝦夷富士とも呼ばれる秀峰、羊蹄山(ようていざん)の方に、朝夕目を奪われる。
 しかし、洞爺湖は、狭いところだとわずか5キロほどの陸地をはさんで、太平洋の内浦湾に接している。つまり、山一つ越えれば太平洋なのだ。その山こそが、ほぼ30年ごとに噴火を繰り返してきた有珠山であり、有珠山と洞爺湖の間の狭い平地に、洞爺湖温泉の温泉街がある。
 温泉街の西の端にあるわかさいも本舗の本店で、若狭洋市会長(昭和19年生まれ)にお目にかかった。まず、愚問とは思いながら、この地域の人々が、なぜ噴火の危険を承知でここに住んでいるのか、とうかがってみる。
「いや、2000 年の噴火のあと、人口は減っていますよ。それでも多くの人がここを動かないのは、火山の恵みが大きいからです。火山があることで雄大な景色が生まれ、土地が肥え、温泉が出て、町が栄えてきた。ここの人たちは、30年に一度の噴火くらいは仕方がないと考えているんです」
 ここで生まれ育ち、暮らしている人の、有珠山と共生してゆく覚悟である。
「私も世界各地でいろいろな湖を見ましたが、洞爺湖ほど美しい景観の湖は、そうはないと思います」とも。

イメージ
有珠山は、20 世紀に4回の噴火(1910、1944〜1945、1977〜1978、2000年)をしている活火山である。国内第1号の世界ジオパークの登録地でもあり、雄大な自然を安全に楽しめる散策路が整備されている

イメージ   イメージ
昭和新山。昭和18年(1943)12月〜昭和20年(1945)9月に起きた有珠山の火山活動によって、畑があったところに誕生した火山。特別天然記念物   三松正夫記念館(昭和新山記念館)。戦争中であったため噴火自体が伏せられ、公式な観測ができなかった噴火の様子を詳細に記録した壮瞥郵便局長の業績を展示紹介

「わかさいも」誕生

 今年の5月、わかさいも本舗は創業80周年を迎えた。80年前の昭和5年、創業者の若狭函寿が洞爺湖温泉にやってきて「わかさいも」を売り出した。
「わかさいも」は、さつま芋を一切使っていないのに「さつま芋よりもさつま芋らしい」菓子だ。地元で採れる上質な大福豆の餡をスイートポテトのように形づくり、卵と醤油を合わせたものを塗って、こんがりと焼いてある。この、ごく薄い皮の焼き具合が見事な上に、さつま芋の繊維を感じさせるために金糸昆布を入れるという、絶妙の工夫も施されている。
 北海道といえばじゃが芋が名産だが、なぜさつま芋を真似た菓子なのか。
「北海道では、さつま芋が採れません。ですから初代には、さつま芋に対するあこがれのようなものがあって、たとえば大学芋のような菓子が下地にあったんでしょう。もともと、長万部から北に上がったところにある黒松内というところで、『やきいも』という菓子を売っていて、それを洞爺湖に来てから『わかさいも』と改めましたが、長いことかけて改良しているんです。なにしろ、俺は菓子屋じゃない、芋屋だ、と言っていたくらいですから」
 若狭さんは、初代の孫に当たる。孫から見た初代の人柄は、
「仁侠の人、とでも言ったらいいんですかね。権力者や偉い人が嫌いで、弱い者、ふつうの庶民が好きでした。職業や肩書きで人を見ることがなく、誰とでも同じ姿勢で付き合った人でした」
 さつま芋以上のさつま芋菓子を創案した人物が庶民の味方であったというのは、なにか、うなずける話だ。

伝統のジレンマ

「わかさいも」は、80年の歴史をもつ伝統菓子になった。わかさいも本舗の3代目を継いだ若狭さんも、この伝統を守り育てることに力を尽くしてきた。その一方で、伝統菓子をもつ菓子店のジレンマも感じてきた。
「伝統があるが故に、そこからはみ出せない、新しいことを思い切ってできない、ということがあるんです。菓子業界は、菓子そのものも売り方も、新しいスタイルのものがどんどん出てくる。ことに北海道は新しもの好きの土地柄ですから、伝統よりも新しさなんです。私自身は、ずいぶんはみ出したことをしてきたつもりですが、革新を続けていくことは容易ではありません」
 若狭会長のはみ出しぶりは菓子以外の意外な分野にまでわたり、現在は地元の観光協会会長なども務め、地域を考えていく仕事に力を注いでいる。しかし、気持ちの根っこは、いつも菓子にある。
 最近のわかさいも本舗のヒット商品に、塩味をきかせたクッキー「北海道じゃがッキー」がある。イメージキャラクターには隣町・豊浦町出身のプロボクサー、内藤大助選手を起用。若者向けのコンセプトがパッケージなどにもはっきり表れている。
 筆者がここの銘菓で、傑作だと思ったのは、「雄北メロン」。メロン風味のカスタードクリームをスポンジで包んだ蒸しケーキだが、夏場を中心とする菓子として絶品だ。

開かれる風景

 わかさいも本舗の裏の湖岸には、「北海道洞爺湖サミット宣言の地」というモニュメントが建っている。説明書きに、「モニュメント建設にあたり、故若狭みき様の浄財を活用させていただきました」とあった。若狭みきは、若狭会長の母堂である。洞爺湖に寄せる思いは、わかさいも本舗に代々受け継がれている。
 昨年、洞爺湖と有珠山周辺一帯が、「学術的にまた景観的に貴重な地質遺産を、人類共通の遺産として保全し、地域の資源として活用する自然公園」である世界ジオパークに日本で初めて認定された。たしかに洞爺湖周辺は、観察すれば観察するほど、動く山といわれる有珠山の地形、変化の多い景観が姿を現すところである。
 洞爺湖の風景は、新しく開かれようとしている。わかさいも本舗も、新たなエネルギーをそこから汲み取っていくに違いない。楽しみである。

わかさいも本舗

北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉142 0142(75)3111

イメージ  
「私自身はずいぶんはみ出したことをしてきたつもりですが、革新を続けていくことは容易ではありません」
若狭 洋市

イメージ   イメージ
わかさいも   北海道じゃがッキー

江差/北海道 No.166

江差/北海道「北海道羊羮物語」

開陽丸(平成2年復元)は、幕末にオランダで建造された江戸幕府の軍艦。戊辰戦争で旧幕府軍の榎本武揚らを乗せて北海道に向かい、明治元年(1868)に江差沖で座礁、沈没した。内部には引き揚げられた大砲などが展示されている。
イメージ   イメージ
海にせり出している特徴的な形の島が「鴎島」。この島が風よけ、波よけとなって、江差を天然の良港にしている。   民謡の最高峰ともいわれる「江差追分」。毎年秋に全国大会が開かれている江差追分会館では、4月末〜10月までの毎日、実演も行われている。

夢の遺産

 どこも同じような渡島半島の海岸に鴎島が見えてくると、江差である。江差は、ゆるやかな岬の角で、かもめが翼を広げたような形の小島が自然の防波堤をなしていたために、天然の良港として発展した。北前船の寄港地となり、ニシン漁で栄え、鉄道もここまではやってきたのである。
 ニシン漁全盛の頃、「江差の五月は江戸にもない」といわれた。ニシンの豊漁でわく江差のにぎわいは、江戸そこのけだ、と。
 恐ろしいほどの数のニシンが産卵のために海岸に押し寄せることをニシンの「群来」というが、そのピークが3月。漁期を終えた5月、江差では町じゅうが浮かれ、大金が飛び交ったのだ。
 ところが、大正初めのある年から、ニシンの群来は止まってしまった。江差の町はさびれ、以来、はや百年近い歳月が過ぎ去ろうとしている。
 今、江差の町を訪ねると、静かな湊の一つに還ったように見える。だが、ここが名もない一漁港に戻ることのないことは、町を歩いてたちどころにわかった。ニシン漁と北前船がもたらした繁栄が、遺産として、風景のなかにも人の心にも受け継がれている。
 江差繁盛の名残は、かつての網元・横山家や回船問屋だった中村家の建物、江差追分会館まで建てての江差追分継承、13基もの山車が引き出されるという姥神大明神渡御祭(8月9日〜11日)など、町の規模からすれば驚くほど豊かな文化と芸能の遺産として伝えられているのだ。
 その一つというべきものに、江差の老舗・五勝手屋本舗の銘菓「五勝手屋羊羮」がある。菓名も珍しければ、パッケージもひときわ異色の名物羊羮だ。

イメージ   イメージ   イメージ
横山家。約160年前に建てられた「にしん御殿」。海に山が迫る地形を生かし、階段状に造られた。   旧中村家住宅。海産物の仲買商を営む近江商人の家屋で、総ヒノキアスナロ切妻造りの母屋から浜側へと部屋が続く、江差の繁栄を今に伝える豪壮な建築。国指定重要文化財。   旧檜山爾志(にし)郡役所。明治20年(1887)に落成した、道内に唯一現存する郡役所庁舎。館内を飾る布クロスなどに明治のモダニズムが香る。

ホカイテの豆

 五勝手屋本舗は、創業を明治3年(1870)としているが、すでに江戸後期から祖先が江差に住み始め、菓子屋を営んでいた。羊羮を売り出し、本格的に営業を始めたのが明治ということである。
 現在の当主は明治の初代から数えて5代目、小笠原隆さん(昭和20年生まれ)だ。五勝手屋という、屋号のお話からうかがってみた。
 「アイヌ語に、波の打ち寄せる浜、という意味のホカイテという地名がありました。そこに、南部藩から檜の切り出しのために渡ってきた杣人たちが住みついて、はじめ五花手、のちに五勝手という文字を当てました。それが慶長の頃と伝えられています。
 やがて五勝手村では小豆の栽培に成功し、私どもの先祖が、その小豆を使って菓子を作り、松前の殿様に献上すると大変喜ばれた。以来、五花手屋(のち五勝手屋)と名乗ることにしたと伝わっています。」
 明治20年代の、銅版画かと思われる五勝手屋の全景を描いた絵が残っている。店を含めて、2階建ての大きな家屋3棟と土蔵を塀が囲む堂々たる構えだ。
 「五勝手屋羊羮ひとすじ、と言いたいところですが、和菓子に専念するようになったのは昭和58年から。それ以前は洋菓子なども作っていました。戦後も先代がソフトクリームやシュークリームなどを売り出しています。これだけの町ですから、時代とともに、地元とともに歩んできた、ということが言えると思います。今は、和菓子を生菓子からお饅頭まで、ひと通り作っています」
 五勝手屋本舗の銘菓では、サケの形をした「あきあじ最中」などこの店らしいが、おもしろいのは、羊羮を白玉で包んだ、ウズラの卵より少し大きめの「けいらん」である。なんとこれを吸い物のタネに使うのだ。昔からこの土地で慶弔用に作られていたものだが、現社長が少し小ぶりにするなどして工夫した。

イメージ

土地の菓子屋

 五勝手羊羮の味は、ねばり気があって、しかも後口がさっぱりしている。だから、いくらでも食べられる。 
 「実は私どもの羊羮は小豆ではなく、金時豆を使っているんです。以前はこの付近の豆で間に合ったんですが、生産量が少なくなって、今は主に十勝産の大正金時を用いています。できるだけ地元の材料を、と思っています」
 「五勝手屋羊羮」のもう一つの特色はパッケージ。一度見たら忘れられない。棹型と丸缶の2種類があり、いずれもとびきりレトロな魅力にあふれている。ところが、棹型の方のデザインについて、小笠原社長の説明は意外なものだった。
 「これは、賞状のデザインを拝借したものなんです」
 なるほど、左右の鳳凰、下の方の菊と桐の花、よく賞状の縁どりに見かける紋様である。それにしても、そういう絵柄の地色によくぞ金茶を選んだものだ。紋様と地色がピタリと合っている。
 丸缶のほうは、昭和初期の薬箱や化粧品などを思い起こさせる懐かしいデザインだ。よく見ると、北海道らしくスズランがあしらわれている。
 「一度、パッケージのデザインを変えようとしたことがあるんですが、お客様から変えないでほしいという要望が非常に強かったものですから、続けることにしました」
 みんな、五勝手屋羊羮のレトロ調が大好きなのだ。
 さて、最後に、お菓子作りの信条をうかがってみた。
 「お預かりした店をどう伝えてゆくか、という思いです。私どもの店であるのと同時に、この土地の店でもありますから、地元というものを大切にしてゆきたい。その上で、なにか新しい工夫ができれば、これに越したことはないと思っています」
 北海道開拓の、質実な精神を今に受け継いでいるような、どこまでも静かで謙虚な言葉であった。

五勝手屋本舗

北海道檜山郡江差町本町38 0139(52)0022

「この店は先祖から、また地域からお預かりしたもの。だから、懸命に伝えていこうとしています」
小笠原 隆

イメージ  イメージ
    五勝手屋羊羹

イメージ
あきあじ最中

長岡/新潟 No.165

長岡/新潟 「越後の二都」


長岡 花火にこもる底力
長岡まつり大花火大会。8月2日・3日。信濃川河川敷で打ち上げられる尺玉以上の大型花火2万発は、日本一といわれる。写真は天地人花火(2008年8月3日打ち上げ)
イメージ   イメージ
悠久山公園。代々の藩主が木を植え、神社を造営するなどして整備、市民から「お山」の愛称で親しまれている。山上にある城を模した建物は、長岡市郷土資料館。   河井継之助記念館。幕末の長岡藩で藩政改革に腕をふるい、戊辰戦争でもめざましい戦いぶりをみせたが、負傷がもとで42歳で世を去った河井継之助の記念館。

復興の町

 長岡には、戊辰戦争の英雄・河井継之助、太平洋戦争の名将・山本五十六、救援米百俵を学校建設にまわした小林虎三郎、さらにNHKの大河ドラマで浮上してきた与板城主・直江兼続など、歴史上の偉人が多い。ただ、河井継之助や山本五十六の記念館もあるが、ゆかりの遺跡や遺品はあまり残っていないようである。
 長岡に古いものが残らなかったのは、戊辰戦争で幕府側について戦ったことにもよるが、なんといっても第二次大戦の空襲によって破壊されたためである。終戦を半月後に控えた8月1日、50機のB29が長岡上空に飛来し、全市の8割、1万2千戸を焼き尽くした。千百余名の死者も出ている。長岡が米軍にねらわれたのは、明治以降、日本に数少ない油田を開発し、工業都市としてめざましい発展をとげていたからであった。空爆によって、工場だけでなく、歴史的な建造物や文物も焼失してしまったのである。
 しかし、戦後、長岡は明治以降に培った技術力を生かして復興した。

雪のように溶ける

 今度、長岡を旅して銘菓「越乃雪」を初めて食べた。見るからにくずれそうな一個を口に入れると、和三盆糖の甘さだけ残して、お菓子の固まりはあとかたもなく消えた。
 「あっ、これは雪ですね」
思わず口に出た言葉に、
 「雪でしょ、越後の」
と応じたのが、大和屋の現当主、岸洋助さん(昭和19年生まれ)である。
 「越乃雪」は、越後の上質なもち米を寒ざらしという方法で乾燥させた寒ざらし粉に、四国の和三盆糖を独自の配合で合わせ、越後の気候による「しとり」を加えて押し物にしたお菓子である。
 「長岡藩主は牧野様という徳川譜代の大名ですが、9代目の藩主に牧野忠精という方がおられました。江戸で生まれ育ち、ずっと江戸におられた方で、17、8歳の頃、初めて長岡へお国入りしたんですね。気候の異なる土地で、緊張もあおりになったんでしょう、体調を崩された。近臣の方々が心配されて、私どもの先祖大和屋庄左衛門に相談されました。そこで寒ざらし粉に甘みを加えたお菓子を調製し、差し上げたところ、食欲が出て、体調も回復されたというんです。庄左衛門はお城へ招かれ、忠精公から『実に天下に比類なき銘菓なり、吾一人の賞味はもったいなし、これを当国の名産として売り拡むべし』というお言葉をいただき、『越乃雪』の菓名も賜りました。それが安永7年(1778)のことです。まあ、その時代、砂糖は薬と考えられていましたからね」
 この話からすると、大和屋は、元和7年(1621)に牧野氏が入封する以前からの、長岡の有力な商人だったようだ。

幸せなお菓子

 「文政8年(1825)に御用菓子商として、さらに天保元年(1830)には藩の金物御用を命じられまして、金物屋になりました。しかし、一方では同じ年に悠久山神社のお供え菓子を献上しています。金物屋とお菓子屋を兼業していたわけです。与板などが金物の名産地でしたから、金物の商いは、藩にとっては重要だったのでしょう。
 その後も『越乃雪』はずっと作り続けてきましたが、河井継之助もこのお菓子を愛好していたといいますし、米百俵の小林虎三郎が師の佐久間象山に進物として用いたり、高杉晋作が亡くなる10日ほど前に、今年の雪見はできそうもないからと、盆栽の松に雪の代わりに『越乃雪』をふりかけて眺めた、というようなエピソードが伝わっています。明治になっても、明治天皇をはじめ貴顕の方々に召し上がっていただき、今次の大戦中も、商工省指定の技術保存商品の指定を受けて、中絶を免れました。実に幸せなお菓子だと思っております」
 お菓子も幸せだが、お菓子屋のご主人も幸せである。
 もちろん、大和屋には「越乃雪」以外にも銘菓がたくさんあり、上生菓子も作っていて、茶席でよく使われている。岸社長のお菓子作りの心をうかがってみた。
 「『越乃雪』に次ぐ準エースは欲しいですね。今のところは『俵最中』、『胡麻餅』といったところですか。しかし、あまり欲張らず、『越乃雪』以外のお菓子は、時代の求めに応じて、入れ替えをしていけばよいのだと思います。
 私どもの家訓は、『家業を楽しむべし』なんです。私も楽しみながら仕事を続けてゆければと思っています」

信濃川の流れ

 長生橋の上から信濃川を見た。たっぷりとられた河川敷の緑の中を、大きくカーブしながら流れてくる信濃川が、なんともいえず美しい。この風景を、長岡の人々は日々見てきただろう。
 長岡を蘇らせてきたのは、この信濃川かもしれない。流れ去るもののあとから、次々に新たな力が生まれているのである。
 「長岡の花火は、一度見てください」と岸社長が言わnれた。
 広い河川敷を使って、思うさま打ち上げられる花火は、長岡の底力を示す祭りなのだ。越後屈指の城下町であった長岡は、戊辰戦争で城を失っても、大戦で有形の歴史のほとんどを失っても立ち直った。形のない、目には見えない伝統の力というものを感じさせる町が、長岡である。

越乃雪本舗 大和屋

新潟県長岡市柳原町3-3 0258(35)3533

「季節のうつろいを感じられる越後の風土を愛したお菓子作りを続けていきたいと思っています」
岸 洋助

イメージ  イメージ
    越乃雪

イメージ
栗甘美


新潟 自由を愛する気風
信濃川のウォーターフロントに立つ複合施設「朱鷺メッセ」。県立のコンベンション施設のほか、ホテルや美術館が入っている。

堀と柳と美人

 夜、タクシーで萬代橋を渡り、旧市街の華やかなネオンのなかに入って行くと、新潟は大都会だな、と思う。
 堀と柳と美人の町といわれた新潟。美人には、市中に美人が多いということのほかに、名だたる新潟の花柳界の意味も含まれているに違いない。
 だが、今度新潟を訪ねてみて、そんな三題噺じみた標語で漠然と思い描いてきた新潟とは違う新潟と出会えた気がした。いや、違うというより、ある意味で堀と柳と美人の背景がわかってきたといったほうがいいだろう。
 新潟で、銘菓「流れ梅」で知られる老舗大阪屋を訪ね、6代目社長岡嘉雄さん(昭和27年生まれ)のお話をうかがって、新潟にはまだまだ奥がある、の感を深くした。

イメージ
萬代橋。現在の橋は昭和4年(1929)竣工で3代目。2004年に国の重要文化財に指定された新潟市のシンボル。

イメージ   イメージ
旧新潟税関庁舎。港町新潟の面影を残す建物を集めた「みなとぴあ」地区にある。擬洋風建築で、国の重要文化財。   行形亭(いきなりや)。江戸時代中期から続く老舗料亭。広大な庭に離れ座敷が点在する造りで、140畳の広間なども。北前船の寄港地として栄え、明治元年からは日米修好通商条約の開港5港に指定された新潟のにぎわいを今に伝える。

港がはぐくむ反骨

 岡さんの見る新潟市民気質をうかがってみよう。
 「新潟の町に昔から住んでいる者が共通して持っているものがあるとすれば、自由を求めるというか、何よりも規制を嫌うということでしょうね。ここは港町ですから、人の出入りも比較的自由でしたし、多かったわけです。
 金沢や長岡のような城下町だと、領外へ一歩出れば他国ですから、人の結びつきも経済も国の内部で固かった。そういう性格は今でも続いているところがあって、旧城下町はお菓子の業界一つとっても、まとまりがいいし、組織率が高いですよ。新潟のような港町は、それぞれが自由ですから、そうはいきません。
 直江兼続がいた時代にもそういうことがあったようですが、江戸中期の明和年間に、たった2カ月ほどでしたが、明和義人として伝えられる新潟町民が藩に対抗して自らの町の自治を行ったことなどがありました。そういう歴史を持っていますから、上から力でこうせよといわれるのが嫌いです」
 そういう新潟で、岡嘉平が安政5年(1858)、菓子店・浪花堂大阪屋を開業した。
 「嘉平は滋賀県の、今の豊郷町の出身ですが、大阪で菓子修業をしたことから、大阪屋と名乗っています。嘉平の生まれた彦根藩では当時、次男三男などはどんどん国外に出て稼ぐべしと奨励していましたので、郷里を出たことはわかるんですが、なぜ新潟に来たのか、ということはよくわかりません。ただ、明治の初期は、新潟の人口が日本一だったんです。東京よりも多かった。それほど米がとれ、栄えていたところなんですね」

モダンと雪国の風土

 大阪屋の目指すお菓子作りについて、岡さんはこう語る。
「新潟は城下町ではなく実質的な土地柄ですから、象徴的な表現よりも、食べやすいことを第一に考えています。そして、新潟らしい風情や自然を感じさせる、または新潟人の性がわかるような菓子が作れれば、と思っています。
 昭和4年にはパンを作ってイタリア軒や新潟鉄工所などにおさめていました。戦後もすぐに本格的に洋菓子を始めています。
 ただ、新潟はなんといっても雪国で、土くさい背景も持っています。昭和28年に『雪國』という立体形のお菓子を発売しましたが、これは新潟らしさということが発想のもとでした。
 『流れ梅』は昭和61年に売り出したものですが、新潟の内陸の渓流のイメージです。これにはいささか思い入れがあって、好きなお菓子です」
 大阪屋にはほかに、円形の小倉羊羮「喫茶去」、抹茶のカステラ生地に新潟の地酒を入れて新潟の掘割りをイメージした「緑の柳」など、特色のある銘菓がある。
 大阪屋は、昭和30年代からはのれん分けの施策としてフランチャイズチェーンシステムを採用、今では県下に80店以上の加盟店を数える。同時に、経営の合理化以上に労働条件の改善にめざましい実績をみせてきた企業だ。

海岸通りの記憶

 大阪屋がかつてパンをおさめていたというイタリア軒に一泊し、朝、ホテルの裏側に当たる海の方へと歩いてみた。
ホテルのすぐ横に蕗谷虹児の「花嫁人形」を刻んだ碑がある。虹児は若い日、このあたりで貧乏暮らしをしていたことがあったようだ。
 また、海に近いあたりに行形亭という豪華な料亭があり、そのすぐ近くに北方文化博物館分館があるが、ここに、疎開してきた渾斎秋艸道人・會津八一が住んでいたという。八一の記念館はもう少し海寄りにあった。
 會津八一はもともと新潟の生まれで、昭和20年に故郷に疎開し、そのまま新潟の土となった。学者、歌人、書家として高名な人物である。現在、大阪屋が用いている看板は、八一の手になるものだ。
 南浜通、大畑町といった界隈を歩いていると、往時のモダンな雰囲気をもった新潟の町が、おぼろに見えてくるような気がした。

イメージ
日本海に面する新潟市は、名だたる夕日の名所としても知られる。

大阪屋 古町本店

新潟市中央区古町通7番町1006-1 025(229)3211

「新潟の風景や産物、そして風情が込められたお菓子を作っていきたいんです。」
岡 嘉雄

イメージ  イメージ
    新・雪國(平成17年発売)

イメージ
涼味流れ梅

熱海・網代 No.164

熱海・網代「巨匠たちの愛した菓子舗」

 
網代駅の裏山からの風景。湾に沿って右手に網代港、さらにその奥が網代の町。豊富な湯量を誇る温泉地で、大らかな海の景色と、のどかな風情も人気。

伊豆のとば口

伊豆に向かう踊り子号に乗って熱海を過ぎ、多賀のあたりにさしかかると、相模湾の海が一望のもとに開けてくる。弓なりに続いてゆく美しい海岸線は、やがて一つの岩鼻の手前で深い湾をなしている。そこが網代湾であり、網代の港だった。
  今回は、銘菓「伊豆乃踊子」のお店を訪ねて、網代にやってきたのである。
  東京あたりでも、網代は熱海の先にあるアジの干物で有名な町、程度にしか知られていない。おそらく銘菓「伊豆乃踊子」の名は聞いていても、その 製造元の菓子舗・間瀬が、網代にあることを知る人は多くないだろう。
 駅を出て港に降り、干物を売る店がずらりと並ぶ通りを抜けた先、岩鼻の縁に当たる狭い土地に、密集した市街地がある。旧下田街道はここを通っていて、目抜きに菓子舗・間瀬の本店があった。
 当主は現在、5代目の間瀬眞行さん(昭和25年生まれ)。お話をうかがっていると、この店の歴史は、まったく網代の歴史そのものであった。

丁場の菓子屋

「私どもは明治5年には営業していましたが、創業者は間瀬ではなく、内田金兵衛という人です。当時、この店は、網代では 丁場の菓子屋 として知られていました。丁場というのは、正確には石丁場で、江戸城の増改築で使われる石垣用の石を切り出した石切場のことです。
 網代湾の裏手は、山から海へ切り立った断崖になっています。石が豊富な上に、この地形が石を掘り出し、山坂を転がして海岸まで下ろし、船に乗せるのに便利だったんでしょう。今でも山の上に、藩の刻印を打った石が残っていますよ。
 江戸時代の網代は、諸国と江戸を結ぶ船の風待港として利用されていました。ですから、網代はかなり早くから開けた港でした。  
 明治5年といえば、まだ江戸の続きのような時代。内田金兵衛が網代で菓子屋を始め、そこに養子として入ったのが間瀬忠右衛門でした。その後、忠右衛門が実家の事情で復籍したために、店名も菓子舖・間瀬と改めたのです。
 忠右衛門の長男が間瀬康雄で、私の祖父にあたります。祖父が今日の店の基礎を築きました。昭和13年にこのあたりでは珍しかったアイスキャンデーを製造し、話題を呼んだりもしています。
 一方で、祖父は地元の信用金庫を立ち上げたり、網代が熱海と合併(昭和32年)する前の、最後の網代町長を務めたりもした人でした。とにかく活動の幅が広く、横山大観など日本画の大家を迎えたかと思えば、禅にも関心をもつといった具合で、一人息子で私の父である間瀬悦基(平成13年没)も私も、祖父の影響で美術も参禅も引き継いでいるんです。

イメージ   イメージ   イメージ
網代漁港。江戸時代には廻船港としても栄えた港は、波の穏やかな天然の良港。魚市場が併設され、網代沖で採れた魚を中心に、毎朝セリが行われている。   長谷観音堂。奈良、鎌倉と同じ長谷観音。行基が作ったと伝えられる観音像が安置されている。   竹林に囲まれた広い境内には、三十三体の観音像が置かれ、供養塔には寛政3年(1791)の字が刻まれている

「伊豆乃踊子」まで

えっ、横山大観がお宅におられたんですか?
 「戦中戦後の食料難の頃、網代は余るほど魚がとれるところでしたからね。大塚巧芸社という美術出版社の社長さんが網代に疎開されていて、大観、前田青邨、安田靫彦といった先生方が網代によく来られたんです。美術好きの祖父のところが、自然と、お酒を飲んだり宿泊されたりする場所になりました。祖父は一間を玄関まで別にして、先生方専用にしていたくらいです」
 「大観先生は、とにかくお酒を召し上がる方でしたね。食べ物はちっとも召し上がらず、お酒だけでした」
 と、これは同席してくださった悦基夫人、眞行さんのご母堂幾代さんの言葉。

康雄さんご自身は絵を描かれたんですか。
 「いや、祖父は描きませんでしたが、父は下田出身の太田聴雨先生に弟子入りして絵を描きました。祖父も一時は、父を画家にさせてもいいと思ったこともあったようです。しかし、結局父は菓子屋を継ぎ、昭和41年に『伊豆乃踊子』を作ることになります」

そして「伊豆乃踊子」が大ヒットとなったのですね。
 「これを売り出してすぐに川端先生がノーベル賞を受賞されました。間もなく山口百恵さん主演の映画ができたりして、お菓子も川端文学ブームに乗りましたね。一時は売上の8割以上が『伊豆乃踊子』で、ほかのお菓子が作れないようなありさまでした」

感性をお菓子に

社長ご自身も、禅や絵をおやりになるんでしたね。
 「鎌倉円覚寺系の禅で、網代に昭和初期に支部ができたんですが、さすがに3代続いて禅道場に通っているのは珍しいといわれます。ですが、禅は茶や書などにも通じる日本文化の基礎と思って続けています。絵は宮本沙海先生に入門しました」

常々、お菓子作りでお考えになっているのは、どういうことでしょうか。
 「新しいことに挑戦したいということです。そうしないと、自分がつまらない。できれば、自分たちの感性を注ぎ込めるようなお菓子づくりをしたいと思っています。もともと私は洋菓子を習ったんですが、30歳の時、和菓子だけに力を注ごうと、それまでやっていた洋菓子を一切やめました」
 間瀬では毎月、「今月のお菓子」という新作を、月の後半だけの期間限定で売り出しているが、この試みが10年を越えた。そのなかから続々と定番菓子も生まれている。  お話をうかがったあと、長谷観音堂と阿治古神社に案内していただいた。由来は写真説明に譲るが、網代の名所である。最後に、間瀬家の住宅の一階を、茶室を中心に茶味豊かに改装し、喫茶室として開放している好日庵にご案内いただいた。菓子舖・間瀬には、宮城道雄の名曲にちなむ「春の海」という銘菓があるが、こういうところでいただきたいものだと思った。

イメージ   イメージ
阿治古(あじこ)神社。網代の氏神様で、毎年7月に行われる例大祭は、神輿を乗せた船形の山車が町内を練り歩き、鹿島神宮より発祥したと伝わる鹿島踊り(市無形文化財)が奉納される勇壮な祭りとして知られる。   石丁場跡。市街地を見下ろすようにそびえる朝日山の頂上付近に、江戸城の増改築で使われた石垣用の採石場が残る。

菓子舗 間瀬

静岡県熱海市網代400-1 0120(048)144

「できれば、自分たちの感性を注ぎ込めるようなお菓子づくりをしていきたいと思っています。」
間瀬 眞行

イメージ  イメージ
菓子舗 間瀬   伊豆乃踊子
     
イメージ
春の上生菓子より

京都 No.163

京都「豆の木の五色の花」

イメージ
イメージ   イメージ
京都御苑堺町御門。京都御苑は、京都御所や仙洞御所を囲む公園で、江戸時代には200もの宮家や公家の邸宅が立ち並んでいた。一周約4kmあり、9つの門のうち南側にあるのが堺町御門。   二条城。慶長8年(1603)、徳川家康が御所の守護と将軍上洛の折の宿泊所として造営。家光の時代には、豊臣秀吉が造営した伏見城の遺構も移された。家康の将軍宣下が行われ、慶喜の大政奉還が行われた、徳川時代の始まりと終焉の場所でもある。

教会も酒蔵もあって

 京都の街は、どこを歩いても楽しい。
 洛中と呼ばれる京都の市街地のうち、御池通の北側は都のなかの都である。神社に例えれば、御池通の南側が拝殿、北側が本殿。ここには御所があり、京都における武家の拠点、二条城もある。
 今回の旅は、その洛中の北部にある「五色豆」で有名なお菓子屋さん、豆政を訪ねた。
 豆政のある夷川通に出ようとして、御池通から柳馬場通を上がってゆくと、二条通を越えた右手に、美しい教会堂があることに気づいた。案内板には、京都ハリストス正教会堂、明治36年落成とある。
 さらに、少し時間があったので豆政本店の前を通り過ぎ、一本西側の堺町通を南へ下ってみた。右手すぐに、料理屋で使う焼網などを手づくりで作る、金網専門店の辻和がある。その並びには、キンシ正宗の酒蔵が見えた。幕末に伏見へ移ったが、それまではここで酒を造っていたという。こんな御所に近いところで、と驚かされた。 
 ちょっと歩いてみただけでも、京都の小路では思いがけないものに出会える。

イメージ   イメージ
キンシ正宗堀野記念館。天明元年(1781)の築。現在は造り酒屋のたたずまいと町家文化を伝える文化財として一般公開されている。中庭には創業以来、酒造りに使われてきた名水が今も湧き出ている。

六波羅のえんどう豆

お話をうかがったのは、豆政の現社長、5代目の角田潤哉さん(昭和38年生まれ)。 

創業125年を迎えられたとか。
 「初代の角田政吉が和歌山から京都へ出てきたのが、明治17年(1884年)です。和歌山では代官をしていたと聞いています。
 最初はここで、豆屋をやっていました。京都の周辺は豆どころだったんです。丹波では黒豆、大豆、小豆、山城では空豆がとれ、洛中の六波羅あたりも一面のえんどう豆畑だったというんです。今では考えられませんけどね。
 その六波羅のえんどう豆を使って、初代が明治20年に作ったのが五色豆でした。ちょうどその頃、それまで赤っぽい砂糖しかなかったのが、白い砂糖も入るようになって、下地の白色が出せるようになった。これが大きかったと思います。 
 しかし、五色豆も作ってすぐ売れたわけではないんです。明治41年に2代目の政次郎が京都駅での駅売りを実現したことや、4代目潤治の時代、大阪万博で大きく売上げをのばしたことなど、いくつかのエポックがあって、京都の名物として定着したのだと思います」

イメージ   イメージ
六波羅蜜寺。天暦5年(951)、醍醐天皇の第二皇子である空也上人により開創された古刹。藤原時代〜鎌倉期の寺宝も多い。東山区五条通大和大路上ル。   京都ハリストス正教会。正教会(ギリシャ正教)・日本正教会の教会。ロシア・ビザンティン様式の美しい聖堂は1903年の築。

香ばしさが命

「五色豆」の材料は、昔から同じですか。
 「材料はえんどう豆と砂糖です。もちろん、現在、六波羅でえんどう豆は採れませんから、ニュージーランド産のものを使っています。この豆はしっかりしていて、香ばしさがよく出ます。
 また、五色のうち、赤と黄は色素を使いますが、茶色はニッキを、緑色は青海苔を使っています。この青海苔、海のものだと臭みがありますので川海苔に限るんですが、最近は入手が難しくなってきましたね。
 それから、豆の仕込みには地下水をくみ上げて使っています。水道水の臭みがありません。キンシ正宗さんがそこにありますが、湧き水の豊富な京都のなかでも、このあたりは昔から特に水質が良かったからだと思います。
 五色豆は、豆の香ばしさが命です。材料も工程も、この香ばしさを生かすという一点を大事にしています」

手仕事10日

その工程ですが、勘どころはどういう点ですか。
 「単純なお菓子のわりに、五色豆は出来上がるまでに10日ほどかかりますし、案外に手間もかかるんです。
 まず2日間ほど豆を水にひたすんですが、水の中に入れっぱなしにするのではなく、ひしゃくで水をかけながら豆が適度に水を含むよう調整しながら行います。水を含ませ過ぎると、炒った時に豆が破裂して、使い物にならなくなるんです。
 3日目に、豆煎り。豆を焦がさないよう、弱火でじっくりと煎り上げていきます。1日冷まし、手で選り分けて質の落ちるものを取り除き、5日目から5回ほどに分けて砂糖がけをします。煮立った砂糖は120℃にもなるので、夏などは50℃くらいの作業場で仕事をすることになります。
 豆煎りは熱風焙煎という方法を使うところも多いようですが、うちではガスと電熱の直火で煎っています。五色豆にはえんどう豆を半ばはじかした状態で使いますが、熱風焙煎ではえんどう豆独特の香ばしさが出ない。砂糖がけも、ドラムで一気にかきまぜるのではなく、鍋で空気を入れながらかき混ぜるという手作業でやります。そうして砂糖のコートを重ねていって、五色豆のこのゴツゴツした形が生まれるんです。仕上げに、宮中でも重んじられた五彩色をまとわせて夷川五色豆が出来上がります」

日本人の豆

 豆政には代々、伝えてきた「隣の木に移るな」という教えがあるという。儲かるからといって、関係のない分野にまで手を出すな、というものだ。豆政が作る豆菓子は何十種類もあるが、「五色豆」以外の代表的な銘菓「月しろ」などにしても、豆のおいしさを追求したもの。落花生を用い、クリームパウダーをまぶした「クリーム五色豆」も売り出した。
 「豆腐や納豆、味噌、醤油など、豆は米と共に、日本人の食の基本といえるかと思います。これからも、いろいろな年代の方に、また外国の方にも喜んでいただけるような豆菓子を作っていきたいですね」
 お話をうかがっているうちに、あの色とりどりの豆が並ぶ店先でなぜか立ち止まりたくなる、強い郷愁が蘇ってきた。

豆政

京都市中京区夷川通柳馬場西入ル 1075(211)5211

「地味な食材ですが、これからも豆のお菓子を囲んで会話がはずむような商品を作っていきたいと思っています」 角田潤哉
イメージ  イメージ
豆政   月しろ
     
イメージ   イメージ
五色豆   クリーム五色豆

山形 No.162

山形「紅花色の町」

イメージ
文翔館。大正5年に県庁舎および県会議事堂として建てられた2棟続きのレンガ造りの建築物。
昭和61年から10年の歳月をかけて復原され、今も山形市のシンボルとなっている。
国の重要文化財。

ハレの町

 山形市は、北東の山寺(立石寺)、南東の蔵王、北西の月山、湯殿山と、三方から山岳信仰の聖地に囲まれている。そのせいか、戦災にあわず、大きな自然災害にもみまわれたことがないという。
 市民は8月には花笠音頭の一大絵巻をくりひろげ、9月には馬見ヶ崎川の河原で芋煮会を楽しむ。今回の取材では、幸運にも華麗な花笠踊りを堪能できた。
 十日町角から旧県庁前まで約2キロにわたって、合い間に山車をはさみながら延々と踊りの列が続く。踊り手は連を組み、年配のご婦人たちの正調もあれば、浴衣のおじさん連、ビジュアル系からバトン隊までいて、それぞれ踊り方に工夫がある。沿道をぎっしり埋めた見物客からも、「ヤッショー、マカショー」の声がかかる。踊りが佳境に入る頃には、花笠音頭の唄も哀調をおびて聞こえてきた。
 馬見ヶ崎川河原での大芋煮会も、聞けば直径6メートルの大鍋に里芋3トン、牛肉1.2トン、コンニャク3500枚、ねぎ3500本を入れ、砂糖200キログラム、醤油700リットル、酒50升、水6トンを加えて煮るというのだから驚く。約3万食分、日本一の芋煮会と称するゆえんだ。
 大きな楽しみのある町ほど、ふだんは不思議なくらい静かである。花笠まつりの翌日の山形市街も、祭りなどなかったような顔をしていた。

イメージ   イメージ
最上義光騎馬像。
この地を治めた最上家11代城主(最盛期は57万石)
の像が山形城跡「霞城公園」内に建つ。
写真背後は二の丸東大手門。
  教育資料館。
明治34年に建てられた旧山形師範学校校舎。
国の重要文化財。

伝統の「乃し梅」

 山形では、この町の基礎を築いた最上義光公が、今でも市民に断然人気がある。実際には、最上氏の支配は元和8年(1622)までと遠い昔のことなのだが、その後次々にやってきた徳川譜代の藩主は、いずれも短期政権で人気がなかった。
 最上氏のあと、山形では殿様よりも紅花商人が主役となった。紅花は染物や口紅などに使われた高価な植物染料だが、山形はその一大集散地として栄えたのである。
 今回は、その紅花の商いや出羽三山詣ででにぎわう江戸時代の山形に生まれた「乃し梅本舗 佐藤屋」を訪ねる旅であった。
 初代佐藤松兵衛が菓子屋を創業、「乃し梅」を売り出したのは、文政4年(1821)のこと。以来、「乃し梅」は山形の誇る銘菓として広く全国に知られるようになり、佐藤屋は現在、7代目の佐藤松兵衛さん(昭和26年生まれ)が当主である。
 「実は、乃し梅と紅花には関係があるんです。紅花から紅を作るときに、触媒として使われたのが梅の酸。そのため山形では梅の栽培が盛んでした。地元でたやすく材料が手に入るということから、乃し梅のような菓子が考え出されたものと思います。
 山形藩の御典医に小林玄端という人がいて、この人が長崎へ留学したときに梅を煮詰めた梅醤を用いた気付け薬の製法を学んで帰り、これが薬屋を営んでいた佐藤家の本家筋にあたる黒田家に伝えられた。梅ならば、山形にはたくさんある。そこで、この薬の製法に工夫を加え、初代の佐藤松兵衛が作り出したのが乃し梅であると伝え聞いています」
 「乃し梅」は山形産の完熟梅の果肉を砂糖と水飴で煮詰め、寒天を加え、薄くのばして乾燥させて作る。竹の皮にはさまれた短冊形の「乃し梅」は透明な黄金色、梅の酸味がなんとも爽やかなお菓子だ。

地元の菓子屋

 佐藤社長に話をうかがうと、地元山形のお菓子屋さんでありたいという姿勢がはっきりしている。
 「行政などは地元の銘菓をもっと県外へ出したいという志向が強いですが、私は必ずしもそれがいいとは思わない。乃し梅なども、山形まで来てくださった方々に味わっていただくのが理想だと思っています。どこでも買えてしまうと、名産菓子の意味が薄くなってしまうような気がします」
 佐藤屋には「乃し梅」のほかに、「梅しぐれ」、「まゆはき」といった梅を用いた銘菓がある。一方、上生菓子から干菓子、洋菓子に至るまで、あらゆるお菓子を作ってきた。山形市内で洋菓子を作ったのも一番早かった。地元の人々が求めるお菓子すべてを作っていく、という姿勢である。

モダン山形散歩

 山形は、山形城跡(霞城公園)東側の町の中心部に蔵造りの家やレトロな洋風建築がたくさん残っている。
 メインストリート沿いに建つ佐藤屋の本店もそうした建物の一つで、母屋などは立派な木造建築に見えて、中に蔵がすっぽりと納まっている。
 近隣にも風格あふれる店蔵が軒を連ねており、今回、特別に内部を見せていただいた「マルタニ」は山形で五指に入る紅花商だったとのこと。来年、山形市の肝いりで観光施設としてオープンの予定で、母屋と9棟あったという土蔵のうち5棟を使って、山形名物の蕎麦を供したり、観光情報を提供したりする施設になるそうだ。山形豪商の財力に度肝を抜かれた。
 洋風建築では、文翔館(旧県庁。大正5年築)、山形市郷土館(旧済生館。明治11年築)、教育資料館(旧山形師範学校。明治34年築)が、国の重要文化財に指定されている。文翔館の内部などは、ヨーロッパの宮殿を見るようであった。
 山形聖ペテロ教会(明治43年)、六日町教会(大正5年)なども、それぞれに美しい。ほかにも昭和初期頃までに建てられたとおぼしい魅力的な建物をあちこちで見かけた。
 「建物でもなんでも、時代を超えて残ってきたものを大事にする、そういう気持ちが大切ですね。世の中にそれがなければ、乃し梅もとっくに忘れられていたと思います」  市内散歩をご一緒した佐藤社長がふと口にした一言が、耳に残っている。

イメージ   イメージ
ルタニ(歴史的建造物)。
市内に数多く残る店蔵のなかでも最大規模を誇る。
2009年に観光施設としてオープンの予定。
  山形市郷土館。
明治11年に県立病院済生館として建てられた、
3層楼の擬洋風建築。「霞城公園」内に建つ。

イメージ   イメージ
立石寺。
860年、慈覚大師が開山した天台宗の霊場で、
通称「山寺」。
芭蕉が奥の細道の旅で訪れ「閑かさや岩に
しみ入蝉の声」と詠んだことでも知られる。
  蔵王。
山形市の南東部にそびえる連峰。
活火山で、裾野には数多くの温泉や
スキーゲレンデがある。冬の樹氷も有名。

乃し梅本舗 佐藤屋

山形市十日町3−10−36 TEL 0120(013)108

「山形で、山形ならではのお菓子を、と思って作り続けています。ぜひ、この町においでください。
本当にいいところですから。」 佐藤松兵衛
イメージ  イメージ
乃し梅本舗 佐藤屋(本店)   山形銘菓「乃し梅」
     
イメージ   イメージ
まゆはき   梅しぐれ

博多 No.171

博多「世界が匂う街」

福岡の中心部を流れる那珂川は、河口近くで二手に分かれ、また合流する。その真ん中部分が繁華街「中洲」。昔は、商人が集まる中洲の東側を博多と呼び、武士が集まる西側を福岡と呼んだ。

博多の空気

 博多の街に降り立つと、東京とはまったく違う空気が流れていることが、はっきりとわかる。明るい開かれた街ということもできるが、要するに博多は、古くから開けた街でありながら、伝統で煮詰まってしまった重苦しさがないのだ。だから、博多では心も体もふわっとする。
 銘菓「鶴乃子」のお菓子屋さん、石村萬盛堂の本店にも心地好い博多の空気が流れていた。店内に木の長椅子とテーブルがいくつか置いてあり、ちょっと一休みできるようになっている。お年寄りの多い時代、さりげない親切だ。

マシュマロの卵

 石村萬盛堂は明治38年(1905)の創業、創業者は石村善太郎。現在の社長は3代目となる石村&#20688悟さん(昭和23年生まれ)である。石村さんが「和菓子の話ですから、ここでしましょう」と言って、売り場の奥のテーブルで話をしてくださった。
 「創業者の善太郎は私の祖父ですが、宮大工の棟梁の長男に生まれながら、10代の頃から菓子屋を志して何軒かの店で修業をしたようです。明治38年にオッペケペー節で知られた新劇の祖・川上音二郎の生家の長屋を借りて、自分の店を出しました。音二郎の夫人は、パリでも有名になった女優の川上貞奴ですが、戦争で焼けるまで川上貞という表札が残っていたとのことです」
 創業の店の写真を見ると、角地にあり、どこが長屋かと思うような立派な店である。
 「当初は主に鶏卵素麺を作っていましたが、あの菓子は卵の黄身しか使いませんから、残った白身をどうにか利用できないかものかと考えて生まれたのが鶴乃子の始まりです。中身を抜いた卵の殻に白身で作った淡雪と餡を詰めた菓子でした。これは珍しがられはしたものの、手間がかかり過ぎます。試行錯誤の末に、明治40年代になって出合ったのが、ゼラチンを使うマシュマロの技術でした。
 当時、日本でマシュマロ作りの技術をもっていたのは、アメリカで製菓を学んだ森永製菓の創業者、森永太一郎だけでした。祖父はその森永さんからマシュマロの技術を直接、教えてもらったようです」 そして黄身餡をマシュマロでくるんだ鶴乃子が誕生した。「祖父はなんでも自分でやってしまう人で、鶴乃子の卵形の箱も考案しましたし、箱の表に描かれている鶴の絵も祖父の作です。引退後も柔道着を着て、箱の蓋を膝にあてて茶碗の底で丸みを出していた姿が思い出されます」
 善太郎は、常々「競争はするな、勉強はせよ。人が四角いものを作ればこちらは丸いものを作れ」と言っていたそうだ。

イメージ
櫛田神社。757年の創建と伝わる博多の総鎮守。毎年7月に行われる勇壮華麗な祭り「博多祇園山笠」は、この社の奉納神事。

2代目と「仙厓」

 2代目は石村善右。この人の残した銘菓のなかに「仙厓 もなか」がある。善右は学業優秀だったが、家業のために進学をあきらめ、仕事のかたわら、夜は聖福寺の幻住庵僧堂に通って座禅と書を学んだ。聖福寺は、意表をつく警句と奔放な書画で知られる仙厓和尚が、かつて住職をつとめた寺である。
 2代目はのちに、仙厓を研究し、百点以上におよぶ仙厓の書画幅を収集した。没後、&#20688悟さんが遺稿を『仙厓百話』として出版している。また、コレクションの方は「なまじ知らない者が持っていて、散逸させてしまってはいけないので」と、あっさりと福岡市美術館に寄贈した。
 「仙厓もなか」は、仙厓の印章の輪郭をそのまま最中の形にして、「仙厓」の文字の焼き印を押したもの。数ある人名にちなむ銘菓のなかで、あやかる程度のものではなく、深い傾倒から生まれた、特筆すべき逸品だ。

守・破・離でゆく

 マシュマロの和菓子、銘菓鶴乃子が誕生して、百年余が過ぎた。
 「これからも、マシュマロの技術を磨いていきます。そこからいろいろなものが生まれてくると思っています。おそらくマシュマロの技術では、今、私のところが世界一だと思いますよ」
 と、石村さん。“世界一”が、少しも自慢に聞こえないから不思議だ。
 「武道などで守・破・離ということを言いますが、これを座右の銘にしています。守は流儀に従って学ぶこと、破は他流を研究すること、離は独自の境地を開くという意味ですが、離からまた守に戻るところが、この言葉の神髄です」
 昭和28年に先代が始めた洋菓子部門を、石村さんが半生タイプの洋菓子専門店「ボンサンク」と改めて成長させた。さらにホワイト・デーを発案し、バレンタイン・デーのチョコレートのお返しに、チョコレートをマシュマロでくるんだものを贈ることを考えた。
 これはさしずめ、「離」であろうか。「守・破・離」などと難しいことを言っても、一向に重くならないのが、博多の人なのである。

中洲の右岸

 にぎやかな川端通り商店街を歩いて、商店街の南の端にある櫛田神社へ。「オッショイ、オッショイ」の勇壮な掛け声とともに街を駆け抜ける博多祇園山笠は、この神社の祭礼だ。巨大な飾り山笠が展示してあり、一日中、参詣人が絶えない。
 博多山笠の起こりと関係があるという、承天寺も訪ねた。開いていた門を入ると、「御饅頭所」の碑が建っていた。方丈と石庭が驚くほど広壮で、鎌倉寺院の鋭さがある。
  仙厓和尚のいた聖福寺は、仏殿の修理中であった。美濃生まれの仙厓和尚が、あれだけ破天荒な坊さんになれたのは、博多の空気を吸ったからだと思う。
 博多の空気には、東京や大阪よりもどこか香港やマカオあたりを思わせる匂いがある。日本で、おそらく世界にいちばん近い街なのだ。

イメージ   イメージ
博多塀。戦国時代に焦土と化した博多の町を秀吉の太閤町割りにより復興する際、瓦礫を埋め込んで土塀が作られた。現在も櫛田神社や聖福寺などで見ることができる。   承天寺境内の饅頭碑。この寺を開山した聖一国師が大陸から製粉技術の記録を持ち帰ったことで、日本に麺類や饅頭が広まったと伝わる。
 
イメージ   イメージ
聖福寺は、お茶を日本に伝えたことでも知られる栄西禅師が創建した日本最初の禅寺。江戸末期の住持、仙崖和尚は禅画で知られる。   下町情緒が香る川端商店街の北端に「川上音二郎」像がある。台座にはオッペケペー節の一節が刻まれている。

石村萬盛堂

福岡市博多区須崎町2-1 092-291-5090

イメージ  
「当店のこれから、ですか?
 “守”を磨いていくだけです。」
石村 &#20688悟

イメージ   イメージ
銘菓 鶴乃子   仙厓もなか

関 No.212

関 宿場町とともに三八〇年余

三重県亀山市関町のメインストリートには、旧東海道の家並みが続く。観光地でよく見られる商業施設は一切なく、この風景が日常。東西1.8kmが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

宿場町で三八〇年余

 亀山市関宿。その町に一歩足を踏み入れると、タイムトラベルした気分になる。
 通りの両側に並ぶのは、江戸後期から明治中期にかけて建てられた200軒余りの町家。出格子に虫籠窓。店先には、ばったり床几、馬をつないだ環金具。屋根には職人が技を凝らした漆喰細工や細工瓦……。歩くほどに、商家の豊かさと遊び心が伝わってくる。
 なかでも、瓦屋根付きの庵看板をあげる風格あふれる建物が、寛永年間(1624〜45)創業、銘菓「関の戸」で知られる「深川屋 陸奥大掾」だ。看板の金文字は京都側から見ると「関能戸」、江戸側から見ると「関の戸」と書かれている。旅人に方向を教える粋な工夫だ。
 ここに14代目当主、服部吉右衛門亜樹さんを訪ねた。

ご先祖様は、忍者?!

ーー素晴らしい風景のなかにお店がありますね。
服部「ここ関は、江戸時代に整備された東海道の47番目の宿場町でした。西の入口『西追分』で大和街道が、東の入口『東追分』で伊勢街道が分岐しています。当時は参勤交代や伊勢参りの人々で大変な賑わいだったと思います」
ーー宿場町で380年余り。大変な歴史ですね。
「実は、我が家が伊賀忍者・服部半蔵の親戚筋の家系だということが最近、わかってきました。歴史学者の磯田道史さんがうちに残る古文書を読み解いてくださったのですが、先祖が江戸で徳川の忍びを務めていたことや、数年後に故郷に戻り、菓子屋を始めたことが記されていました。
 その菓子屋の場所がここです。東海道に面していて、真向かいは徳川家康の御殿。街道を行き交う人々の様子も自然に監視できます。また、今の金額で一つ千円もする高価な菓子を作っていたのも、位の高い人に近づくためのもの。そんなことを考えていくと、菓子屋は忍びの隠れ蓑だったのではないかと思われるんです。 
 それで先日、うちから向かいに通じる秘密の通路が残っているんじゃないかと、ネット通販で地中探査機を買って調べてみたんです。何も見つかりませんでしたが(笑)」

イメージ イメージ
「銘菓 関の戸」。赤小豆の漉し餡を求肥餅で包み、和三盆をまぶした一口大の餅菓子。江戸時代の寛永年間から作り続けている。 「深川屋 陸奥大掾」当主、服部吉右衛門亜樹さん。

「関の戸」を作り継ぐ

ーーその歴史的な菓子が、関の戸。上品な餅菓子ですね。
「漉し餡を求肥で包み、和三盆をまぶして作っています。今も分量はキログラムではなく、何貫何匁の単位で量るんです」
ーー服部さんも製造に携わっておられるのですか?
「朝3時半に起きて、4時に窯の火を入れて求肥の餅を炊き始めます。同時進行で、餡職人と一緒に、前日から水に浸けておいた小豆も炊きます。でも、この餡は後日の分。その日使うのは、前日か前々日に作って寝かせておいた餡です。8時に餅と餡を包餡の担当に託したら、やっと朝食です」
ーー餅は「関の戸」の命。だから当主の担当なのですね。
「はい。実は2009年に、突然父が倒れて、私一人で餅を作らなければならなくなったんです。それまで毎日、父と一緒に作っていましたから大丈夫だろうと思っていたんですが、何度炊いても餅が餅にならない。
 結局、この日は店を閉めて餅を炊き続けました。
 ようやく餅らしくなったのは夕方5時過ぎです。情けなくて涙が出ました」
ーー数年、そばで手伝っていても、「関の戸」は作れない。
「ええ。関の戸の作り方は、それまでは全部口伝で、経験や勘がすべてでしたから。でも、この経験から、次の代に伝えていくにはマニュアルが必要だと確信しました。そこで、それから2年間、糖度計や赤外線温度計を使ってデータを取り続けました。
 そして分かったのは、代々継承してきた手法が実に理に適っていたということです。あらためて先人たちの偉大さを思い知りました」

イメージ

オキテ破りの新商品

ーーその「関の戸」だけを作り続けてきた店が2012年に『お茶の香 関の戸』を出されました。
「370年ぶりの新商品でしたから大騒ぎでした(笑)。地元への恩返しができたらと、亀山産の伊勢茶を石臼挽きして和三盆と合わせ、関の戸にまぶしたらどうかと考えたんです。関の戸は、求肥のもち米は滋賀県産、餡の小豆は北海道産、和三盆は徳島県産で、地元の食材が何も使われていない菓子でしたので。
 ところが、深川屋には『関の戸の味変えるべからず』という掟がありましたので、父は激怒して3カ月、全く口をきいてくれなくなりました。その後、県知事の後押しなどもあって……最後には、伊勢茶と和三盆の配合を父に頼んで決めてもらうことができました。おかげさまで好評です」

イメージ
 
 
イメージ   イメージ
お茶の香 関の戸   御室御所へ「関の戸」を納める際に使った螺鈿(らでん)の井籠(せいろう)

軸はぶれずに地元一番で

ーープロフィールを少しご紹介ください。
「1964年生まれです。ここ関で生まれ育ち、漠然と将来は跡継ぎになるのだと感じながら大きくなりましたが、一度は家を離れたいと、高校2年から6年間、カナダのトロントへ留学しました。帰国後は、日本橋三越で2年半勤めました。これでやりたいことは全部やったという満足感を得て、店に入ったんです」
ーー抜群の行動力や柔軟な発想も、そうしたキャリアの中で磨かれた。
「この2年間はコロナで大変でしたが、だからこそ町を元気にと、三重県の土産物を揃えた『関見世 吉右衛門』をつくり、ポップアートを眺めながらコーヒーを楽しんでいただける「茶蔵茶房」をつくりました。古い町で、こんなやんちゃをさせてもらえるのも、町の人が深川屋を認めてくださっているからこそです。
 祖母が『13代だ、14代だと言われとるけど、ほんまに続いとんのは、お客様の方なんやに』といつも言っていました。私も肝に銘じています。
 次男が後継ぎとして修業を始め、娘と娘婿も深川屋に入ってきました。ぶれることなく『関の戸』を作り続けていてさえくれたら、あとは子どもたちがすることを黙って見守っていこうと思っています」

文・宮崎周文子 

イメージ  

〈深川屋 陸奥大掾の想い〉

「地元一番!」

       服部吉右衛門亜樹

深川屋 陸奥大掾

三重県亀山市関町中町387
TEL :0595-96-0008

*バックナンバーも、このサイトでご覧になれます。
ぜひ、おいしくて心にしみる「菓子街道」の旅をお楽しみください。

岡崎 No.213

家康生誕の地で二四〇年備前屋

徳川家康は、1542年に岡崎城内で生まれた。少年期は織田・今川氏の人質となり他国で過ごしたが、19歳の時に今川氏が敗れると、ここを拠点に天下統一の基盤を固めていった。天守の前に、家康の「遺訓碑」が建つ。

家康公の生まれ故郷

 岡崎の旅は、名鉄東岡崎駅から始まった。昭和レトロな風情の駅舎と、駅からつながるデッキに建つ徳川家康の騎馬像、さらに真新しい複合施設「オト リバーサイドテラス」が岡崎という町の現在、過去、未来を一気に見せてくれる。
 岡崎は、徳川家康の生誕の地だ。悠々と流れる乙川沿いの遊歩道を西に歩けば、まもなく家康が生を受けた岡崎城が見えてくる。三層五重の天守閣は1959年の復元で、5階の展望台からは岡崎市内が一望。一帯は岡崎公園として整備され、春には多くの花見客で賑わう桜の名所だ。
 城郭の北には、旧東海道が東西に走っている。岡崎は徳川の譜代大名が治める城下町として発展すると同時に、東海道五十三次のなかでも屈指の規模を誇る宿場町として繁栄した。そこで、街道の道筋を「二十七曲り」も屈折させて城下を通過させ、城の防御を固めると同時に、旅人を立ち止まらせる工夫をして経済効果を生み出した。
 240年前、その岡崎宿の真ん中、伝馬町の本陣近くに暖簾を揚げた菓子屋「備前屋」が、時を越えて今も繁盛を続けている。9代目当主、中野邦夫さんを訪ねた。

看板商品は「あわ雪」

──岡崎は40万近い人口を抱えながら、とても落ち着いた雰囲気の町ですね。
中野「山も川もすぐ近くにありますし、神社仏閣も人口比で奈良や京都に次ぐ数があります。一方で、大都市・名古屋にもほど良い距離ですから、とても暮らしやすい町ですよ」
──その町の真ん中に、江戸時代に創業されたとか。
「天明2年(1782)に、初代の備前屋藤右衛門が間口5間(約9m)の店を構えたのが始まりです。当時の場所は、今の本店から少し西に行った、通りの向かい側でした。本陣の御用もたまわる格式の高い店だったようです。
 江戸期にどんな菓子を作っていたかは、戦災で資料を焼失したためよくわかっていませんが、明治の初めに生まれた銘菓が今も続いています」
──代表銘菓の「あわ雪」ですね。
「江戸時代、岡崎宿に『淡雪豆腐』という名物があったのですが、これを出していた茶屋が明治維新後、街道を行き来する人が減って店を閉じました。それを惜しんだうちの3代目が、岡崎名物を菓子の形で残せないかと創作したのが『あわ雪』です。メレンゲを寒天で固めた菓子で、繊細な口溶けとやさしい甘さが特長です」
──まさにロングセラー商品。
「はい。間違いなく、備前屋の看板商品です」

イメージ イメージ
備前屋の看板商品「あわ雪」。 「備前屋」当主、中野邦夫さん。
  1959年生まれ。

大人気「手風琴のしらべ」

 「ただ、一番の人気商品はと言うと『手風琴のしらべ』です。114層のパイ生地で漉し餡を包んだ焼菓子で、店頭に並ぶ30種類ほどの菓子の売上の4割を占めています。
 父の代に発売したのですが、40年以上にわたり、細やかな改良を加え続けています。バターを欧州産の発酵バターに変えるなどの大きな変更も、10年に1度くらいはしてきたでしょうか」
──だからこそ、時代を超えて愛されてきたと。
「はい。伝統の菓子の改良も新製品の開発も、私は企画から味づくり、デザインや菓子銘などを決める各段階で社内の意見を聞いて回るようにしています。アルバイト学生から超ベテラン社員まで、どの年齢層の意見を重視するかで悩みますが、ヒットする製品は意外と意見がばらつかないものです。
 老舗の看板を掲げている以上、多くの人に愛されるロングラン製品を出していきたいと思っています。『あわ雪』もまもなく、まったく新しいアレンジ商品をお披露目する予定です」

イメージ

菓子作りの経験を力に

──中野さんも菓子作りをされるのですか?
「私は高校を卒業したあと、東京の日本菓子専門学校で2年間学び、さらに助手として学校に残って研鑽を積んでから備前屋に入りました。その後、菓子製造技能士1級も取得していますので、一応、菓子が作れます(笑)。ですから、試作にも立ち会って、職人と意見を交わしています。
 菓子屋は最終消費者に近い仕事ですから、時には厳しいご意見もいただきますが、おいしかったよと言っていただけるのが何よりの喜びです。深夜、誰もいなくなった会社で菓子の説明文を書いたり、新製品のデザインを検討したり……。お客様の笑顔を想像しながら仕事をしている時間が至福のひとときです」

イメージ
2020年11月にオープンした直営の岡崎南店。(写真・齋部 功)
 
 
イメージ   イメージ
新登場の「八丁すいーとぽてと」。   一番人気「手風琴のしらべ」。

町に必要な菓子屋

──コロナ禍が続いていますが、影響はいかがですか。
「お菓子は人と人との潤滑油になるものですが、人との接触が止められてしまったのですから、非常に厳しい状態が続いています。
 そんな中ですが、2020年秋に直営の路面店、岡崎南店を出しました。場所は市内の大規模な再開発地区の商業施設の一画です。
 建築は国産材を生かした家屋や家具の製造で知られる飛騨のオークヴィレッジに依頼しました。天井材はサワラ。柱は杉とヒノキ。看板も、入口に掲げたものは栗、店内ものはトチです。日本らしい清々しい佇まいで、いずれ本店の内装もこんな風にできたらと思っています」
──未来の備前屋も楽しみです。
「やはり製菓現場の経験を積んだ弟が専務として支えてくれていますし、息子も頑張っています。
 創業から現在まで、経営危機は何度もあったはずですが、今に続いているのは備前屋がこの町に必要とされているからなのでしょう。
 岡崎人の気質は質実剛健。素朴で誠実、飾り気はないが内面は充実している。そんな人々に喜んでもらえる菓子を、これからも切磋琢磨しながら作り続けたいと思っています」

イメージ  

〈備前屋の想い〉

「この町に必要とされる菓子屋でありたい」

       中野邦夫

備前屋

愛知県岡崎市伝馬通2−17
TEL :0564-22-0234

*バックナンバーも、このサイトでご覧になれます。
ぜひ、おいしくて心にしみる「菓子街道」の旅をお楽しみください。