名古屋(2) No.149

名古屋(其の二)[新しくなる伝統]

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ネオポリス名古屋

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 「愛・地球博(2005年日本国際博覧会/愛知万博)」の会場風景。3月25日から9月25日までの185日間、名古屋東部丘陵で開催。自然の叡知をテーマにした会場に、人々が集う。

 名古屋には、新しい建物や施設がどんどん生まれている。
 朝、ホテルから愛知県美術館に向かう途中、栄の交差点の角で見かけないものに出合った。宇宙船が少し傾いたような形の、大きな円盤状の屋根である。近づいて、下を覗きこんでみて驚いた。吹き抜けの地下にアンツーカ色をした路面が見え、しゃれた地下街を人が歩いている。
 平成14年にできた、オアシス21という立体公園である。地上にあるのは展望台を兼ねた「水の宇宙船・地球号」、地下街には30を超すショップがあるという。
 大都市の中心街に、こんな施設が新たにできる。東京では考えられないことだ。
 そのオアシス21に隣接した美術館のある建物、愛知芸術文化センターにも圧倒された。大きな吹き抜けスペースを内蔵する大建築は、鉄腕アトムでも飛んできそうである。
 名古屋の街ではまた、セントレア(中部国際空港)のうわさがしきりだった。展望風呂などが話題を呼んで、飛行機に乗らない人がどっと押しかけている。「愛・地球博」(9月25日まで)を成功させたのも、この名古屋を新しく変えているパワーなのだろう。

味は朦朧体(もうろうたい)

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 徳川美術館。尾張徳川家の重宝、いわゆる「大名道具」を収蔵。徳川家康の遺品を中心に、国宝「源氏物語絵巻」をはじめ、国宝9件、重要文化財55件などが展示公開されている。隣接して、家康の蔵書を中心に収蔵する名古屋市博物館分館「蓬左文庫」がある。

 大都市が新しい活力を持つと、不思議にそこにある伝統的なものも注目される。徳川美術館もリニューアルされたが、お菓子もその一つだ。
 明治35年の『新小説』という雑誌の中に「名古屋見物」という戯文があり、こういう会話が出ている。
 「(解らず屋)薬を食はせられるは恐れます。(菓子屋)いや、小田原の外郎とは違ひます。こちらのは結構な菓子で、赤いのと白いのがあるのですよ。(書生)ハゝア、妙に歯ごたへのあるやうな、ないやうな。少し朦朧体じや。」
 この記事から、明治35年に「ういろう」はすでに名古屋の名物菓子だったことがわかる。「朦朧体」は当時の流行語だが、「ういろう」の味をいい得て妙だ。
 名古屋「ういろう」の代名詞といってもよい「青柳ういろう」の店、青柳総本家も明治に生まれた。
 青柳総本家は、代々名古屋で綿問屋を営む豪商であった後藤利兵衛が、菓子屋に転じ、「青柳」の屋号を尾張藩主徳川慶勝公から贈られて、明治12年(1879)に大須観音の門前で開業した。以来、「ういろう」の製法に力を注ぎ、淡泊で上品な風味を持つ「青柳ういろう」を完成したのである。

芸術家社長

 今、青柳総本家の社長は、昭和30年生まれの後藤敬さん。敬さんは、現在の青柳総本家をつくりあげたのは、先代社長の後藤敬一郎であるという。
 敬一郎は前衛写真家と菓子屋という二足のわらじをはいた珍しい人物だが、写真も余技程度では満足せず、家業にも力を注いだ。日本有数のシュールレアリスム系の写真家として名を残す一方、「青柳ういろう」をグレードアップしたのである。
 「正直、おやじはこわかったですよ。家族にさえ社長と呼ばせました。それだけ、自分に仕事への自覚を持たせようとしていたんでしょうね」
 敬一郎は芸術家としての感覚、人脈を家業にも応用した。名古屋テレビ塔の地下街にアールヌヴォー調の喫茶を開き、「青柳ういろう」の意匠を画家杉本健吉に依頼するなど、経営戦略は大胆にして緻密。棹もののういろうを食べやすい一口サイズにしたのも、敬一郎の時であった。
 「青柳ういろう」を全国版にする上では、昭和44年頃から流した「ポポポイのポイ」で始まるCMソングが、子どもたちに愛唱されたのが大きかった。
 今、偉大な5代目を継いだ敬さんは、「コーヒー1杯の値段といっていますけれども、もともと大衆菓子であったういろうの価格を抑えることに使命感のようなものを感じています」と言う。
 敬さんが創案したういろうのバリエーションに、「名古屋かるた」がある。若い層にも、食べやすさでアピールしようとするもので、これも大衆菓子の発想である。

熱田神宮とともに

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熱田神宮。三種の神器の一つ草薙神剣を祀り、皇室から伊勢神宮に次ぐ崇敬を受け、武家の帰依も厚かった神社。現在も、年間1千万人近い参詣者がある。

 名古屋の神社といえば、なんといっても真っ先に思い浮かぶのは、草薙神剣を祀る熱田神宮である。
 その熱田神宮の門前に、古風な店構えの「きよめ餅総本家」がある。
 天明5年(1785)頃、熱田神宮の西門近くに、参詣の人々がお茶を飲んで疲れを休め、参詣の身じたくなど整えるために、「きよめ茶屋」が設けられた。茶屋はいつしかなくなったが、これにちなんで売り出されたのが「きよめ餅」である。今では、熱田参りの名物として、なくてはならないお菓子になった。
 「きよめ餅」は、こし餡を求肥で包んだ、やわらかくて上品な味のお菓子である。
 現在の「きよめ餅総本家」社長は、4代目の新谷武彦さん(昭和22年生まれ)である。
 「うちに、古い熱田名物を復興した『藤団子』というお菓子があるんですが、静岡の宇津ノ谷峠というところにも、『十団子』というお菓子があるんだそうですね。音が同じで、混同される方もありますが、まったく別ものなんです」
 「藤団子」は、平安時代末期、熱田大宮司が藤原氏になった時、それを祝って作られたものだというから古い。それをさまざまな資料によって復元したのが今の「藤団子」だが、茶会などでとくに評判がよいという。
 いろいろうかがった話の中では、戦後の配給パンの流れで、この店が昭和39年頃まで「きよめパン」というパンを作っていた時代もあったというのに驚いた。今でも、熱田神宮で行われる結婚式などの需要に応じて、洋菓子も作っている。
 新谷武彦さんのお話をうかがっていると、熱田宮という大樹がありながら、これから、という創業者のような姿勢がみえて好ましかった。
 久しぶりに熱田宮の境内を歩いてみて、ふと「信長塀」という立て札が目についた。ここには、織田信長が寄進したという、漆喰で瓦を重ねていく式の築地塀がある。思えば、日本の歴史に冠たる信長の破壊と家康の建設は、いずれも愛知県人の仕事であった。

青柳総本家(大須直営店)

名古屋市中区大須2−18−50 TEL・FAX 052(231)0194

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    カエルまんじゅう。ふんわか可愛いカエルのお菓子、中味はおなじみ「こし餡」風味。柳に飛びつくカエルのマークにちなんで作られた焼き菓子。   名古屋かるた。手軽に開けやすい、かるたの形のういろうで、なめらかな舌ざわりと弾むような歯ごたえが楽しめる。

きよめ餅 総本家

名古屋市熱田区神宮3−7−21 TEL 052(681)6161 FAX 052(681)6160

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    きよめ餅。こし餡を求肥で包んだ、色、形ともにまことに清楚な餅菓子である。味は上品で、熱田宮参拝の土産にふさわしい。   藤団子。5色の蒸し砂糖菓子のリングを一つに束ねた菓子。藤の花の形に似せたとも伝えられ、形状のおもしろさとともに風情も豊か。

名古屋(1)・岡崎 No.148

名古屋(其の一)・岡崎[昔の往来、旅の味 ]

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城下の面影

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名古屋城。金の鯱をもつ名古屋の象徴として親しまれてきた城。徳川家康の命で、慶長17年(1612)に天守閣が完成した。築城には旧豊臣の家臣だけが当てられ、とくに加藤清正が活躍したことが知られる。戦災で焼失、昭和34年に天守閣が再建された。

 名古屋は戦災で市街のほとんどを焼失し、戦後、新しい都市計画によって蘇った町である。だが、それでも、江戸時代の城下の原形はどこかに残っているようだ。現在の中区、名古屋城から熱田神宮(宮の熱田)にかけての帯状の地域は、栄を中心に繁華街の集中するところだが、昔も商家が軒を並べる目抜き通りだった。
 なぜ城と宮の熱田かといえば、皇室、武家から篤く崇敬された熱田神宮の門前は、宮の宿と呼ばれ、東海道の宿場町でもあったからである。東海道の旅人は、宮の宿と桑名の間は「七里の渡し」を船で往来したが、名古屋へは、宮の宿が入口になつていた。
 今でも、東照宮、東西両本願寺などの社寺が、この南北に延びる街の中にあるのも、ここが名古屋の城下街の原形であった名残である。名古屋の「浅草」と呼ばれる大須観音界隈には、都市の庶民の歓楽の匂いがあり、万松寺などもどこか華やぎのある寺だ。

昭和に老舗の底力

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名古屋テレビ塔。昭和29年に建設された、日本で初めての電波塔と展望台を併せもつ塔で、地上180メートル。近代都市名古屋の象徴である。

 城と宮の熱田を結ぶ地域を南北に走る大通りには、西の伏見通り、東の大津通りなどがあるが、江戸時代に最もにぎわったのは真ん中の本町通りである。
 名古屋一古いお菓子屋さん、両口屋是清の本店は、その本町通りから東へ、杉の町通りを入った左側、丸の内3丁目にある。戦前までは本町通りに面して建っていた。
 両口屋是清は寛永11年(1634)創業、ざっと370年の歴史をもっている。初代猿屋三郎右衛門は大坂から名古屋に移り、饅頭屋を開業。評判を得て、尾張藩2代藩主徳川光友公から、両口屋是清の看板をいただいた。以来、現在の社長大島規よ志さん(昭和11年生まれ・「よ」はにんべんに予という字)まで 12代を数える。
 両口屋是清の銘菓として知られているものの多くは、昭和9年に社長に就任した11代大島清治の時代に生まれた。
 千成り瓢箪の焼き印が特色のどら焼き「千なり」、可憐な干菓子「二人静」(ににんしずか)、大納言小豆を用いた「をちこち」など、いずれも風雅なお菓子である。
 御三家ながら目立たないことで安泰だった尾張藩では、城下にもその知恵が行き渡っていたのか、両口屋是清も、明治・大正までは秘めていた底力を、昭和になって見せたというところであろうか。

天覧の「旅まくら」

 両口屋是清は多くの菓子を作っているが、「よも山」「旅まくら」「志なの路」などの焼き菓子に特色がある。
 とりわけ「旅まくら」は、小形ながら、非常に味に深みのある茶通だ。これは昭和25年の愛知国体で天皇が名古屋に行幸された際の献上菓子で、菓銘は茶の湯の花生け「旅枕」の形からとられている。御旅行中の天皇をお慰めする菓子に「旅まくら」とは、にくい命名だ。
 大島さんは、全国130余か所に展開する店舗を支えながら、新しい時代への対応にも余念がない。また、名古屋は「茶どころ」とも言われ、茶会用の季節の生菓子にも力を入れている。
「名古屋のお土産のお菓子は、重いものが多かったんです。舌にも重いし、実際に目方もある。そこで、少し工夫したカステラ生地に紅色の羽二重餅をはさんで、紅茶やコーヒーにも合うお菓子を作ってみました」
 それが「紅の花」。名古屋に欠けているもの、という発想に、大島さんの名古屋での枢要の位置が表れている。

逸品「上(あが)り羊羮」

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大須観音。正式には宝生院だが、名古屋市民に「大須の観音さん」として親しまれてきた寺。参道は浅草の仲見世を思わせる。

 伏見通りの西側、丸の内1丁目には、「上り羊羮」で知られるお菓子屋さん、美濃忠の本店がある。両口屋是清の大島さんとも親しかった美濃忠5代目の伊藤健一さんは、昨年、惜しくも62歳で早逝された。今は、夫人の伊藤好子さんが当主である。
 かつて名古屋に、桔梗屋という慶長創業の古い菓子屋があった。美濃忠はその桔梗屋で働いていた伊藤忠兵衛が、安政元年(1854)に独立した店である。忠兵衛は桔梗屋が店を閉めたあと、桔梗屋特製の「上り羊羮」を復興した。
 この「上り羊羮」は、羊羮中の逸品である。時間と手間をかけて作る蒸し羊羮で、4日ほどしか日持ちしないが、やわらかく、舌にとろける上品な味は、一般の羊羮の概念とはかなり違うものだ。
「上り羊羮」は傷みやすい夏場を避け、9月10日から5月25日まで販売される。ほかに、この羊羮のバリエーションで、淡いピンクの「初かつを」があり、こちらの販売はもっと季節限定で、2月10日から5月25日まで。
 美濃忠は、現在の場所で「上り羊羮」を主力に手堅い菓子作りをしてきたが、健一さんが、夫人と力を合わせて一気に経営を拡大した。門構えと大きな軒灯をもつ本店社屋、総合和菓子店としての品揃え、名古屋10か所での店舗展開は、いずれも5代目の事業である。
 5代目夫妻が創製してヒットした銘菓に、ほっこりした黄味餡が特徴の紅白の饅頭「雪花の舞」がある。
「夫は健康を顧みずに働きました。それが残念でなりませんが、私はこれから、健康に良い菓子ということを考えて参りたいと思っています」
 そう語る伊藤好子さんは、健一さんの没後、くるみ、渋皮栗、ごま、だったんそばなどを材料に、チョコレート菓子「おたいくつ」を作った。「おたいくつ」とは、武士が素読などに励んでいる時、奥方がお茶をいれて夫にかける言葉、「おたいくつしましょう」からとられたもの。まさに、好子さんが亡き健一さんを思う心そのものである。

「あわ雪」の宿場

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岡崎城。元亀元年(1570)、家康が浜松に移るまで、徳川家の本城があったことで知られる。江戸時代の岡崎は5万石。代々、徳川譜代大名の居城となった。

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真福寺。聖徳太子の時代前後に物部真福によって創建されたといわれる三河最古の寺。境内の杉と竹林の道は、嵯峨野を思わせる。

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旧藤川宿の松並木。藤川は、岡崎より一つ江戸寄りの東海道の宿場。松並木が残っている。

 名古屋から40キロ南東に、岡崎の町がある。JRや名鉄でも約30分の距離だ。
 徳川家康ゆかりの岡崎では代々の城主が徳川譜代として幕閣に参与したが、東海道要所の城下町であり、街道の宿場町としても繁栄した。
 その岡崎に、備前屋の「あわ雪」という菓子がある。江戸時代の街道茶屋の名物「あわ雪豆腐」にちなむ菓子で、現在は岡崎の代表銘菓になっている。
「あわ雪豆腐」は、古書にも「其製潔清風味淡薄にして趣あり」とあり、「東海道往来の貴族賢輩といえども必ず輿を止めて賞味したもう」とあるように、当時、大評判であったことが推測できる。形状は茶碗を伏せたような半円型で、上にあんかけ(葛にたまり醤油で味付け)したものだ。銘菓「あわ雪」は、明治になり、備前屋の3代目当主が消えていく宿場名物を惜しんで創製したものである。
  備前屋は天明2年(1782)の創業、天保9年の町並み図を見ると、店の間口が5間とあり、宿場の中ほどにあって、かなりの繁盛店だったことがわかる。
 現在の当主は、8代目の中野敏雄さん(昭和8年生まれ)。菓子の歴史・郷土史などに興味を持ち、古文書等の収集、著作、講演等を行いながら、商売関連の趣味としている。当然、発案創作する菓子にも歴史研究が反映し、古実にちなむ菓子の商標登録は70件にも及んでいる。
 代表銘菓「あわ雪」、薄焼き煎餅で大福をはさんだ東海道の幕府公印「駒牽朱印」、三河最古の名刹にちなむ、白玉に漉し餡をからめた「真福もち」、果実を3重包餡した「非時香菓」、小豆餡をパイ生地で包んだ「手風琴のしらべ」などなど。菓子の修業で名古屋で若き日を過ごした中野さんには自ら菓子のイメージを作り出せる強みがある。
また、菓子の展開も見事だ。 代表銘菓「あわ雪」は、「あわ雪豆腐」、「玉ゆき」、「あわ雪茶屋」、「雪まろげ」、「杣みちの雪」、「山里の雪」などに展開。一つの菓子を縦横に使いこなし、それぞれ特徴のある菓子を複数演出している。
 これだけ郷土の歴史に愛着をもち、それを製品作りのベースにしてきたお菓子屋さんも少ないだろう。
 東京まで旧東海道をたどって帰りたくなったが、そういうわけにもいかず、東岡崎駅から名鉄に乗り込んだ。

両口屋是清(八事店)

名古屋市天白区八事天道302 TEL 0120-052062

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    春の生菓子。お菓子のなかに菜の花と桜の花が咲いているような、華やかな春の生菓子。   旅まくら、志なの路、よも山。皮が玉子味の「志なの路」と「よも山」、ごまの風味をきかせた茶通「旅まくら」、いずれも深い味わいの焼き菓子である。

美濃忠

名古屋市中区丸の内1-5-31 TEL 052-231-3904 FAX 052-231-1804

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おたいくつ。くるみ、渋皮栗、ごま、だったんそばなど、体に優しい素材で作ったチョコレート菓子。
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初かつを。上質の葛をふんだんに使った、淡桃色の蒸し羊羮。春季限定発売。

備前屋

岡崎市伝馬通2-17 TEL 0564-22-0234 FAX 0564-25-1829

イメージ  イメージあわ雪。岡崎宿名物「あわ雪豆腐」にちなんで作られた、卵白、寒天、砂糖が主原料の、きめ細かで上品な菓子。  イメージ手風琴のしらべ。大正モダンのイメージで作られた、皮むき餡をパイ生地で包んだ和風パイ。

京都・洛中 No.147

京都 洛中(其の一)・[おいしさは文化]

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京都御苑の周辺

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珍しく雪景色になった冬の御所。紫宸殿などがある京都御所内部や、大宮御所、仙洞御所は普段は非公開だが、事前申し込みをするか、4月と10月の特別公開期間に拝観することができる。(写真協力:土村清治)

 烏丸通に面した長い築地塀を見て、筆者などはその中が全部御所だと思っていた。実際には、築地塀の内部にはさらに築地塀に囲まれた、普段は非公開の御所があり、ほかの大部分の敷地は京都御苑として一般に開放されていることを知ったのは、何度も京都を訪ねてからである。
 今、開放されている緑の芝生と樹木の茂る部分は、かつては宮家や公家の屋敷が建ち並んでいたところだという。縦横に走る玉砂利を敷き詰めた道を歩いていると、京都市街にはこれほど広々としたスペースがほかにないことに、改めて気づかされる。
 その京都御苑から東へ門を出ると、梨木神社、盧山寺、同志社大学の創立者新島襄の旧邸などがある。染井の井戸の名水と萩の名所で知られる梨木神社、紫式部の住居跡として名高い盧山寺は、それぞれに趣の違う静けさにひたることのできる場所だ。

そばはお菓子だった?

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梨木神社(上京区染殿町)。三条実万・実美父子の業績を称えて建てられた神社。境内の染井の水は、京都3名水の一つ。

 京都御苑の南は普段の暮らしをする町々で、京都の素顔にふれる散歩が楽しめる。
 そんな町の一角に、今回の旅の目的の一軒があった。
 烏丸通に並行して一本東の車屋町通に、室町時代の寛正6年(1465)創業という、そば菓子とそばの老舗、本家尾張屋がある。見るからに古風な店構えだが、入りやすい町のおそば屋さんでもある。
 現在の当主は15代目の稲岡傳左衞門さん(59歳)。菓子とそばの両方を扱っていることを、稲岡さんはこう語る。
「おそばが禅僧の修行僧を通じて中国から入ってきたとき、町でそば作りを引き受けたのが、実は菓子屋なんです。粉を水でこねるというのが菓子屋の技術でしたし、そのための道具や材料も菓子屋には揃っていました。うちも、もともとは菓子屋ですが、そばもやるようになったんです。ただ、そば切りは江戸時代以降のものですから、初めはそばがきですね」
「すると、そばがきはお菓子だったんですか?」
「初めは、お菓子感覚だったかもしれませんね」
 江戸中後期になると、江戸を中心に麺になったそば、そば切りがどっと普及する。「うちがお菓子でもそば粉という素材にこだわったのは、これだけお菓子屋さんがある京都で、競合するよりは特色を出して、ということがあったんでしょう」
 この店の銘菓の双璧は「そば餅」と「そば板」。そばとともに540年を歩んできた本家尾張屋は、そばがヘルシーな食品として見直される現代を迎えて、脚光を浴びている。
 おもしろいのは、稲岡さんが香の老舗・松栄堂と共同で開発したそばのお香「傳」。
「今でいう、コラボレーションですわ」と、稲岡さんは、そばの可能性をどこまでも追求する構えだ。

今も、西陣

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首途八幡宮(上京区智恵光院通今出川上ル)。鞍馬山を抜け出した牛若丸(源義経)がここから旅立ったとされる。旅の守護神として参拝者が絶えない。

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晴明神社(上京区堀川通一条上ル)。平安時代の天文陰陽博士・安倍晴明を祀る神社で、本殿北寄りの晴明井の水は、悪病を癒す霊水であるといわれる。

 車屋町通から、西陣に移動した。西陣は地名ではなく、応仁の乱のとき、西軍の大将山名宗全がここに本陣を置いたことから起こった俗称である。その西陣がのちに京都織物産業の中心地になったことはよく知られていよう。
 西陣の地は、西に北野天満宮と上七軒の花街、北に大徳寺、東に表千家・裏千家の邸宅と、京の文化圏に囲まれた一帯である。おそらく西陣織の隆盛も、この文化圏と密接にかかわっていた。
 銘菓「京観世」でおなじみの老舗、鶴屋吉信の本店は、200メートル上手に山名宗全の屋敷跡、100メートル下手に西陣織会館があるという、西陣の表玄関にある。享和3年(1803)創業、現当主は7代目の稲田慎一郎さん(43歳)。
 「京都のお菓子は、宮中のお菓子、神社仏閣で盛る菓子、それにお茶の世界で用いる菓子といったものがあって、お菓子屋さんが互いに切磋琢磨するというか、競争しながら、文化と一体になってお菓子作りをしてきたということが基本にあると思います」
 京都のお菓子とは? という問いに、稲田さんはこう答えた。鶴屋吉信の銘菓「柚餅」の、小型のやさしい形と味わいなども、洗練された文化を背景に生まれてきたものとみてよいのだろう。
 鶴屋吉信の本店2階には、吹き抜けの庭を中心に、一角に茶室もあるゆったりとした「お休み処」と、カウンターで菓子職人が目の前で作る生菓子がいただける「菓遊茶屋」がある。日も射せば雪も降る坪庭が2階の床面と同じ高さにあるために、そこが2階であることを忘れてしまう。
「年をとったら肉よりも魚が食べたくなる、ある程度の方はそうなるでしょうが、これからは違うという気がします。今、スナック菓子を食べている若い人たちが、年をとってみんな和菓子を食べるようになるとは思えないんです。菓子屋はよい和菓子を作る一方で、和菓子に親しんでいただく努力も欠かせなくなってきていると思いますね」
 「ヨキモノを創る」が鶴屋吉信のモットーだというが、稲田さんの話をうががっていると、「ヨキモノ」の中には、日本人の「よき和菓子への趣味」も入りそうである。
 西陣の一角には、陰陽師ブームで話題の安倍晴明を祀る晴明神社や、源義経が牛若丸と呼ばれた少年時代、ここから金売り吉次とともに奥州へ旅立ったといわれる首途八幡宮がある。今年も、この界隈は若い旅人たちでいよいよにぎわいそうだ。

本家尾張屋

京都市中京区車屋町通二条下ル TEL 075(231)3446 FAX 075(221)6081

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   そば餅、そば板。上質の北海道産小豆で作った漉し餡を、そば粉たっぷりの上皮で包んで焼き上げたそば餅と、うすく伸ばしたそば生地を、甘さをおさえ、丹念に手焼きしたそば板。

鶴屋吉信

京都市上京区今出川通堀川西入ル TEL 075(441)0105 FAX 075(431)1234

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柚餅。求肥に青芽柚子の香りを込め、極上の阿波和三盆糖をまぶした風味豊かなつまみ菓子。
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福ハ内。赤杉桝の容器にお多福豆をかたどった桃山製(白餡の焼き菓子)の銘菓を盛り、年越しを祝う縁起菓子として喜ばれている。

銀座 No.146

銀座[明治の人、今の味]

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新しいにぎわい

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和光の時計塔。繁華街銀座の中心地、銀座4丁目の象徴となっている。現在の建物は昭和7年建設のもの。

 東京の繁華街のなかでも、銀座は大人の街として、独得の落ち着いた雰囲気をもっている。とりわけ、銀座を包んで広がるオフィス街のOLたちの華やかな姿が、今やこの街で最も目につく存在になった。彼女らが、今銀座に集まる人々のなかで、いちばん若い世代である。
 新宿の勢いに押された時期もあったが、銀座を一大ターミナルとする地下鉄網の整備などで、銀座はまた新しいにぎわいの時代を迎えている。  江戸後期まで、貨幣鋳造所の銀座はあったが、銀座という名称の街はなかった。銀座1丁目から4丁目までが正式町名になったのは、明治2年。明治生まれの繁華街である。したがって、老舗といえども、銀座の有名店には明治の創業が多い。天金の主人が屋台で天ぷらを揚げ、和光の主人が夜店で時計や貴金属を並べていた時代があった、といわれている。

一代一菓

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歌舞伎座。歌舞伎に縁の深い木挽町に、明治22年に建てられた。現在の建物は震災後の大正13年に建設されたもの。

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数寄屋橋の碑(数寄屋橋公園)。かつてここに外堀があり、数寄屋橋が架かっていた。戦後、菊田一夫のラジオドラマ「君の名は」の舞台となって有名になる。

 銀座4丁目から晴見通りを東銀座に向かって歩くと、道がちょっと盛り上がっているところがあり、三原橋と呼ばれている。今は埋め立てられてしまったが、ここを三十間堀が南北に流れていた。三原橋は、実際にここに架かっていた橋の名前である。
 明治・大正といわず、戦前までは、銀座はこの三十間堀以西がにぎやかで、ここを東へ渡った木挽町一帯は、ぐっと閑静な地域だった。明治以降、料亭街として知られたところである。
 今は銀座7丁目になったが、この木挽町で創業し、銀座屈指のお菓子屋さんになったのが、清月堂である。
 初代・水原嘉兵衛は鹿児島生まれ。西南戦争で焼け出されて上京し、学校を出てないのだから手に職をつけよという同郷の明治政府の要人・前田正名の助言で、日本橋の菓子店・三はし堂で修業した。木挽町に井戸のある路地を見つけて独立したのが、明治40年。地元の料亭との取り引きをひろげる一方、前田正名を通じて薩摩出身の多くの政府要人の贔屓を受け、働き者で創意もあった嘉兵衛の店は順調に伸びていった。
 大正11年になると、丸ビルに出店する。当時、丸ビル出店は一流店の証しだった。それからは御茶の水へ、品川へと、支店をひろげる。
 「祖父は一代一菓ということを申しておりました。大震災、戦災といろんな時代をくぐったせいでしょうが、清月堂は初代の菓子を守っていく店ではない、それぞれの代が時代に合った菓子を作れ、ということを言い残しましたね」
 とは、3代目で現会長の水原正一朗さん(昭和11年生まれ)のお話である。正一朗さんは、今、清月堂を代表する銘菓となっている「おとし文」を創製した人だ。2代清一の時代には、半生菓子の「江戸好み」などがある。
 さらに4代目の水原康晴社長(昭和40年生まれ)は、昨年、「蓬の峰」という焼菓子を創製した。
 「私どもは昔から生菓子を得意としてきたんですが、私は以前から日持ちがして、存在感のあるお菓子がほしいと思っていました。うちがしてきた仕事を否定するのではなく、その延長線上でどういうものができるか、ということで考えたのが、このお菓子です」
 と康晴さんは語る。
 銀座のお菓子屋さんの老舗2軒には、それぞれに明治の物語があった。それは語り継がれて、今のお菓子作りにも生きている。
 銀座はまだまだ、明治の先人たちがにらみをきかせている、明治生まれの街なのだ。

清月堂本店

東京都中央区銀座7-16-15 TEL 03-3541-5588 お問い合わせ 03-3455-3250

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蓬の峰。小倉餡をしっとりとしてやわらかな生地で包み、ていねいに焼き上げた。ふりかけた和三盆糖が古雅である。
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おとし文。黄味餡を漉し餡で包んで蒸した、一口で食べられる口溶けのよいお菓子。

十勝帯広 No.145

十勝・帯広[お菓子開拓物語]

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柏の森の中に

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どこまでも広がる十勝平野。十勝は日本で唯一食糧の自給自足が可能な地域だという。

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中札内美術村の小泉淳作美術館。小泉淳作は、京都・建仁寺法堂の天井画を、旧中札内小学校体育館で描いた日本画家。

 飛行機が高度を下げて、眼下に、緑と黒土のモザイク状の十勝平野の広がりが見えてきた。わずか百二十―百三十年前に入植者たちが飢えや寒さと闘いつつ切り拓いた土地だが、世界でもこれだけ美しい農場風景はそうはないだろう。 
 空港から車で向かったのは、中札内村にある中札内美術村。広大な敷地は三分の二が自然のままの柏の林、三分の一が歩きまわれる芝生になっている。葉のある季節の林の中は、暗く感じるほどだという。十勝の原野が、かつて一面、柏の樹海だったということも、ここで初めて知った。
 三つある美術館は、すべて林のなかにある。建物がまたおもしろく、相原求一朗美術館は帯広の共同浴場だった「帯広湯」を移築、坂本直行の絵を展示する北の大地美術館は、北大構内の牧牛舎をモデルにした建物、といった具合。坂本直行は、六花亭の包装紙の、あの赤いハマナスの絵を描いた人だ。ほかに小泉淳作美術館があり、林の中や芝生の広場に置かれた彫刻も楽しい。
 美術村一の人気は、レストラン「ポロシリ」である。野菜たっぷりのカレーや、じゃが芋のなます、手亡を使ったグラタン風の料理など、メニューは十勝の新鮮な農産物を使ったものばかりだ。

菓子一筋の人生

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帯広百年記念館(緑ヶ丘公園内)。十勝の自然、古代遺跡、開拓史などを総合的に展示している博物館。

 美術村の推進者は、六花亭現社長の小田豊さん(昭和22年生まれ)である。豊さんは、創業者の父小田豊四郎さんのもとで副社長をつとめたあと、平成7年に社長に就任した。中札内美術村について、
 「企業メセナなどとは考えていません。やがてそっくり引き取ってくれるところがあったら、それでもかまわないと思っています。要は、美術村自体が社会的資産になってくれればいいと思っています」
 と、語る。
 帯広市の郊外にある本社工場の大きな建物のなかにいると、六花亭はお菓子屋さんというより製菓会社なのだと思う。父豊四郎さんを語る豊さんの口調には、経営者であり生涯菓子職人として働いた父への尊敬がにじむ。 
 小田豊四郎さんは大正5年、函館に生まれ、北見の旧制中学を卒業後、札幌の千秋庵菓子店の店員となった。帯広千秋庵を経営していた叔父が病気になり、経営を引き継ぐことになって、昭和12年、豊四郎さんは帯広に移る。戦争中、中国へ出征したが、以来昭和52年まで帯広千秋庵を経営し、同年六花亭と社名を変更した。 
 豊四郎さんは菓子の工夫に打ち込み、昭和20年代には「ひとつ鍋」、30年代には「らんらん納豆」、「十勝日誌」、「大平原」、40年代には「万作」と、次々にヒットを飛ばしてきた。のれん返上の年には、「マルセイバターサンド」を発売している。

郷土に根ざして

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旧愛国駅と旧幸福駅。廃線となった広尾線の駅で、「愛の国から幸福へ」の流行語を生み、現在も多くの観光客を集めている。

 小田豊四郎さんのお菓子の名前は、いずれも十勝の歴史と深いかかわりをもっている。「ひとつ鍋」は、明治初期に十勝開墾を企てて苦闘した依田勉三の句「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」からとり、「十勝日誌」は幕末に北海道を探検した松浦武四郎の日誌名そのまま、というふうに、ひとつとして十勝に無縁な命名はない。「らんらん納豆」も、十勝小唄の囃子ことばからとられたものだという。
 郷土に根ざし、伝統を生かそうと思えば、北海道には浅い開拓の歴史しかない。大正5年生まれの豊四郎さんには、開拓のきびしさは昨日のことだったであろうし、おそらく彼自身、前世代から受け継いだ開拓魂を、菓子作りという仕事に発揮したのである。
 人との出会いを求め、人に素直に学んで、よいと思ったものをどんどん吸収した。この態度も、開拓者のものといえるだろう。菓子作りはやりがいのある尊い仕事だという信念と、そのためにはあらゆる機会をとらえて知識と新しい発想を学ぼうとする態度を、豊四郎さんは生涯つらぬいた。 
 豊四郎さんが第二世代の開拓者だとすれば、豊さんの開拓精神は第三世代で、中札内美術村がそれを象徴しているようである。残せるときに、六花亭の財産を、生きて活動する形で残していく。その活動が六花亭にも地域の文化にもプラスに作用すればなおよい、ということであろうか。しかし、二代にわたり、きびしい経営のポリシーを持ちながら、お菓子の楽しさを少しも失っていないところが、六花亭の大きな魅力である。

十勝平野の風

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紫竹ガーデン遊華。広々とした敷地の中に2000種以上の草花が咲き乱れるフラワーガーデン。開園期間は4月下旬から10月末。

 市内にある緑ケ丘公園で帯広百年記念館を訪ねたら、ビデオルームで、若いカップルがひと組、熱心に十勝の歴史のビデオを見ていた。全国の資料館を歩いているが、なかなか見られない光景である。 
 帯広観光コンベンション協会を訪ね、たまたま旧幸福駅まで出かけるという職員さんの車に便乗させていただいた。広大な十勝の農地と、落葉松などの長い線をなす防風林、地平線に連なる日高連峰を眺めながら走っていると、どうも十勝は、私たちの考える観光というもののスケールを超えている。そこで、あの小さな小さな旧幸福駅が人を集めているのが、いよいよもって不思議であった。
 途中足をとめた紫竹カーデン遊華は、人気の観光花苑である。花に囲まれた屋外のテーブルでコーヒーを飲んでいると、さえぎるもののない十勝平野の風が、土の香りらしきものを運んできた。

六花亭(西三条店)

帯広市西3条南1丁目1 フリーダイアル 0120(12)6666

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マルセイバターサンド。六花亭を代表する銘菓の一つ。包装紙は、十勝で最初に作られたバターのラベルの複製。
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霜だたみ。チョコレート味のパイでモカホワイトチョコクリームをサンドしたお菓子。食べるとサクリとくずれる。

長崎 No.144

長崎[路面電車ぶらぶら]

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ランタン旅情

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大浦天主堂。元治元年(1875)、プチジャンらフランス人神父によって建てられ、フランス寺とも呼ばれた。現存する日本最古の天主堂。国宝。

 長崎空港からバスで市内に入ると、街に赤いランタンを見かけた。聞けば、旧正月を祝う祭り「ランタンフェスティバル」が行われているのだという。
 長崎駅でバスを降り、路面電車に乗りかえて、まず大浦天主堂に向かった。何度見てもやさしく美しいお堂の内外を眺め、立ち去りがたい気持ちでグラバー園へとまわる。
 洋館もいいが、ここの目あての一つは長崎港の眺望だ。一番上の旧三菱第2ドックハウス前まで登り、「鶴の港」の雅称をもつ長崎港を眼下に眺める。入り江が鶴の形なら、ここらは鶴のお尻あたりか。
 大浦天主堂を建てたのは、フランス人。グラバー園の旧主たちは、ほとんどがイギリス人。いずれも、安政6年(1859)の建物である。日本と縁の深いオランダ人たちは市中に住むことを許されなかったため、長崎に建物を残せなかった。オランダ坂にその名が残っているのはせめてもである。
 夜はランタンフェスティバルの中心会場の一つ、湊公園で「もってこーい」の掛け声で何度も引き返す龍踊りに興奮。新地中華街の路地を埋めつくす1万2千個のランタンは、息もつまるほど美しい。思えば、長崎は多くの中国人が住んだ町でもあった。

行燈と蝙蝠

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グラバー園。外人居留地だった場所に、旧グラバー邸を中心にして、旧リンガー邸、旧オルト邸など、市内各地にあった洋館を集めている。

 路面電車を思案橋で降り、右手の商店街を入って突き当たりの四辻に、カステラで名高い福砂屋がある。
 福砂屋は、軒先高く行燈を掲げ、2階の漆喰連子窓も豪快に、江戸期長崎の大店をしのばせる店構えだ。正面に垂らした「福砂屋」「カステラ」と大書した真っ白な2本の飾り暖簾が目に飛び込む。
 寛永元年(1624)に創業した福砂屋は、今年、創業380年を迎えた。当主は、16代目の殿村育生さん(昭和26年生まれ)である。殿村社長に福砂屋の歴史をうかがった。
 カステラの製法は、福砂屋が創業した頃、まだ長崎市中に住んでいたポルトガル人から学んだものと思われる。
カステラとは、ポルトガル語でスペインのカスティーリャ王国のことで、スペイン生まれの菓子がポルトガル人を通じて伝えられたらしい。ポルトガルに現在もある菓子では、パン・デ・ローがカステラに似ている。
 6代市良次のときに、引地町から現在の船大工町に移った。ここは丸山遊廓や唐人屋敷に近い、繁華の地である。
 明治に入り、12代清太郎が、福砂屋にエポックを画す。清太郎は卵白のみで作る「白菊」、卵黄だけの「黄菊」、粉を少なく、卵と砂糖の配合を多くした「五三焼」を工夫し、カステラの質の向上をはかった。「五三焼」だけは今も販売されている。
 毎年5月に行う、菓子に使う卵への感謝をこめた卵供養も、蝙蝠を商標とすることも、清太郎のときから始まった。
 福砂屋の屋号は、中国の福州の砂糖による商いにちなむものではないかともいわれているが、蝙蝠も中国ではよく「福」の意味に用いる。

手わざを命として

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浦上天主堂。各地に流されていたカトリック信者が故郷長崎に戻り、33年の歳月をかけて大正3年に完成した東洋一の聖堂は、原爆で破壊された。現在の堂は昭和34年の再建。

 福砂屋のカステラの特色をうかがうと、殿村社長はただ一つ、「手わざ」をあげられた。手作りでしか生まれない味である。
 かつて福砂屋ではカステラを炭釜(引き釜)で焼いていた。丸い竃のような釜で、中に生地を入れ、下はもちろん、蓋の上にも炭をおいて、上下から焼く。さすがに今は電気釜に変わったが、それ以外の工程はほとんど昔のままだ。 まず卵の手割りに始まり、泡立ての方法も卵と他の材料とを一緒にミキサーで撹拌してしまうやり方(共立法)をせず、白身だけを十分に泡立てたあと、黄身とザラメ糖を加えて撹拌する別立法という手間のかかる方法をとる。これに、上白糖、水飴、小麦粉と順次加えて撹拌、入念に生地を仕上げてゆく。焼き上げたあとは、一昼夜熟成させるが、
これは甘みとコクをさらに引き出すためだ。
 熟練を要する「手わざ」を用いるうえに、福砂屋では、一人の職人が全工程を一貫してみる、というシステムをとっている。製品に問題があれば、すぐに本人がチェックできる仕組みだ。
 この話で、なぜ福砂屋のカステラが福砂屋だけの味をもっているかが、よくわかる。たかがお菓子とはいわせない、モノづくりの精神である。

さまざまな長崎

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 野口彌太郎記念美術館。旧長崎英国領事館(重文)の建物の2階に、父の郷里を長崎にもち、長崎を愛した画家野口彌太郎の作品が展示されている。

 爆心地から浦上天主堂への道は、永遠に祈りの場所である。平和公園で、足もとの鉄骨の溶けた礎石が、一瞬に受刑者もろとも消え去った刑務所の房の跡と知って、胸に突き刺さるものがあった。 
 大浦海岸通りの野口彌太郎記念美術館では、長崎を愛した日本洋画を代表する画家の作品を懐かしみ、レンガ造りの美術館の建物のすばらしさにも目をみはった。旧長崎英国領事館だった建物である。 
 さらに、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランスなど異国の香り。あちらこちらに、さまざまな長崎があった。 
 そして、どの「長崎」へでも、路面電車に乗ると、すぐに行ける。

福砂屋

長崎市船大工町3-1 TEL:095(821)2938

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カステラの底にザラメ糖が残っているのが特色。しっとりとして、馥郁とした味わいは、手作りの古法を守るところから生まれる。
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上田 No.143

上田[信濃路の歴史とモダン]

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素顔の街

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雪の上田城。天正11年(1583)、真田昌幸が築いた。2度にわたる上田合戦のあと、昌幸、幸村が高野山に流され、徳川方の城となった。現在、江戸時代の3つの櫓が残っている。

 坂道になっている上田のメインストリートを上っていくと、左右に、おいしい信州そばやお焼きの店がありそうな町筋が何本も延びている。
 上田の町の印象は、明るく近代的で、戦後の町の雰囲気である。大都市と違って高い建物が少ないから、風通しがよくて、気持ちがいい。
 街には、「真田太平記」の作者・池波正太郎の名前が躍っていた。上田は、真田昌幸と、その子信之、幸村が活躍したことで知られる。だが、城跡や、北国街道沿いの柳町などに残っている昔の面影にも、真田十勇士がぬっと現れそうな色濃さはなかった。
 明治から昭和初期にかけて日本が生糸輸出に沸いた時代、上田は名だたる繭の産地として栄えた。養蚕によるこの地の隆盛は、上田紬の名に今もその余韻をとどめている。
 今、その時代も去り、町は淡々としているが、町の表情からだけでは本当の上田はわからない。なんといっても古代には信濃国分寺が置かれ、鎌倉時代には塩田平が守護の府となり、上田は常に信濃の心臓部だったのである。
 そうしたぶ厚い歴史から生まれてくる人の気質というものを、銘菓「みすゞ飴」で名高い飯島商店に飯島浩一社長(63歳)を訪ねて、改めて教えられた思いだった。

水飴・寒天・果物

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柳町。上田市内の北国街道沿いに残る古い町並み。北国街道は善光寺への参詣道でもあった。

 明治30年、東京で大水害があり、大量の米が水につかってしまうという事件があった。この食べられない米の再利用を考えついたのが、浩一さんの祖父飯島新三郎である。飯島家はもともと、柳町で雑穀商を営んでいたが、新三郎は進取の気性に富んだ人物で、東京にも広く人脈をもっていた。
 再利用とは、水につかった米の表面を削り取り、これを原料に水飴を作ることであった。明治37年頃、水飴作りに成功した新三郎は、初めはキャラメルの原料などとして卸していたが、やがて信州の果物と諏訪の寒天に目をつけ、これに水飴を加えて、ついに天然の素材のみによるゼリー菓子の傑作「みすゞ飴」を創製したのである。
 「みすゞ飴」の「みすず」は、信濃にかかる枕詞「みすずかる」から取られている。ネーミングもゆかしいこの短冊型のゼリー、あんず、もも、りんご、ぶどうなど使われる果物によって色さまざまだが、自然の味と香りがそのまま生かされ、水飴がきいているのか腰もある。「みすゞ飴」を包んでいるオブラートは、機械では包めず、すべて手作業でしているというのには驚いてしまった。
 飯島新三郎を継いだのが飯島春三。春三の長男、浩一さんは3代目である。

愛惜のジャム

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安楽寺の八角三重塔。国宝。鎌倉後期の建築で、わが国に現存する唯一の八角堂。

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石湯。天然の岩を湯船にした別所温泉の共同浴場のひとつ。別所温泉には4つの共同浴場がある。

 飯島商店は、上田の大通りの上り口にある。洋風の建物にウインドーからもれる灯りもシックで、立ち止まって覗いてみると、そこが「みすゞ飴」の店なのだ。
 店内には古時計のコレクションが飾られ、骨董品の照明器具がやわらかな光をふりまいている。社長にお目にかかった2階の部屋は、コンサートか舞踏会でも開けそうなホールになっていて、上田の町を歩いていては想像もつかない、別世界の感があった。ここにも壁に大きな古時計と、バルビゾン絵画。木造3階建ての建物の2階と3階をぶち抜いて造った部屋だという。
 京都の大学を卒業して帰ってきた浩一さんは、信州のあちらこちらと、果物を見てまわった。そして、昔からの果物が顧みられなくなっていくのを惜しみ、ジャム作りに打ち込むことになる。多いときには、60種以上ものジャムを作り、原料の確保に苦心し、転地栽培などにもさまざまな試みを繰り返してきた。
 飯島商店には常時10数種のジャムが置いてあるが、いずれも「みすゞ飴」と同じ、原料の果物がそのまま生かされたまじりっ気のない本物だ。 もの作りに妥協のない精神、開拓心、大正・昭和初期の趣味への憧れ。戦後育ちにもかかわらず、飯島浩一さんの心には、そういうものが脈々と流れている。別所温泉で浩一さんが経営している旅館・花屋にもそれがあった。

古刹のある温泉

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常楽寺の本堂。常楽寺は北向観音の本坊。鎌倉時代の天台教学の道場であった。

 別所温泉は、湯の宿に泊まりながら、鎌倉時代の古刹めぐりが楽しめるという、全国でも稀な特色をもつ温泉場だ。上田市街とは千曲川をはさんで南西側、6キロほど入った山あいにあり、上田交通別所線というのんびり電車で30分のところである。
 美しい庭のなかを渡り廊下がめぐる宿に泊まって、温泉につかり、名物といわれる松茸や鯉の料理を賞味した翌朝、北向観音、安楽寺の八角三重塔、常楽寺などを参詣した。渓流の両側に温泉旅館が点在し、川の南側に北向観音、北側にその他の古刹がある。
 北向観音の名は、本来は南面すべき寺が、北の善光寺に向けて建てられているところからきているようだ。参詣の人が絶えず、参道にもみやげもの屋がずらりと並んでいる。安楽寺の八角三重塔は、国宝の貫禄をみせて、杉林のなかに風韻を放っていた。八角形の塔は、わが国にこれ一つしかないという。安楽寺の東の常楽寺は、茅葺きの本堂が印象に残る寺である。
 これらの古寺はいずれも、温泉の東側に広がる塩田平に、鎌倉時代、北条氏が信濃国守護を置いた名残なのだ。
 別所線で上田に戻る途中、塩田平の縁を通る電車の窓からは、果物の菓子を訪ねた旅のせいか、たわわに実った柿やりんご園の赤い華やぎが、しきりに目に飛び込んでくるのであった。

飯島商店

長野県上田市中央1-1-21 TEL:0268(23)2150

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みすゞ飴
果実と寒天と砂糖と水飴だけで作られた、香り高いゼリー菓子。

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信州高原・四季のジャム
味と香りを生かすため、季節ごとに収穫した完熟果物で作られている。

長岡 No.210

長岡 先見の城下町と「銘菓」

市内の「摂田屋」地区は、味噌や醤油、酒の蔵元が多く残る“醸造の町”。見事な鏝(こて)絵が蔵の壁を彩る「機那サフラン酒本舗」(写真上)や、味噌・醤油の老舗「星野本店」の3階建ての衣装蔵などの見どころが行く先々にあらわれる。

越後の城下町「長岡」

 東京から上越新幹線でわずか1時間20分。長岡駅までの時間距離はずいぶん近かったが、一歩降りると、北国らしい凛とした空気に迎えられた。
 江戸時代に7万4千石の城下町として栄えた町だ。まず、駅構内の観光案内所で長岡城の場所を尋ねてみる。
「ここです」
 はい?
「この駅の場所が本丸でした。立派な平城でしたが、北越戊辰戦争で焼失したので、跡地に駅が造られたんです」と窓口の女性。なるほど、駅前のメインストリートの名が「大手通り」。本丸に向かう城門・大手門につながる道だったことからのネーミングだ。
 その大手通り沿いに洒落た姿を見せるのが、「アオーレ長岡」。2012年にできた市役所・議場・アリーナ・交流スペースの複合施設で、隈研吾氏が地場産の杉の間伐材を多用してデザインしたという。なんと、ガラス越しに市職員の様子や議場の中が丸見え。「市民への可視化のため」って、ユニークだ。
 市街地を歩くと、長岡の歴史を伝える公園やモニュメントや記念館が点在する。
 幕末の北越戊辰戦争を率いた河井継之助。敗北後の窮乏時に教育の大切さを説いた(米百俵の精神)小林虎三郎。そして、近代においては長岡空襲、花火大会……。いくつものキーワードを持つ町だ。

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長岡の新しいシンボル「アオーレ長岡」。   寳生寺の木喰仏。江戸時代に全国をまわりながら、独特の微笑みをたたえた仏像を残した木喰上人。長岡でも、この寺で三十三観音像を彫り上げた。32体が安置されている。

銘菓、お殿様を癒す

 越乃雪本舗大和屋は、駅から南西へ1キロ余り、かつての商人町にあった。切妻屋根に黒板塀。入口の引き戸を開けると、陳列ケースの向こうが畳敷きだ。今では珍しくなった「座売り」形式である。
「昔ながらの製法で、永く『越乃雪』を作り続けてまいりました」と、10代当主の岸洋助さん(昭和19年生まれ)がおっしゃる。「永く」が指すのは、「もうすぐ250年」とのことで、おそれいる。
 長岡藩主になる者は江戸で教育を受ける。江戸後期、9代藩主・牧野忠精が17〜18歳でお国入りし、長旅の疲れから体調を崩した時、大和屋庄左衛門が寒ざらし粉(もち米を水挽きし、脱水、乾燥させた粉)に和三盆を加えた菓子を作って献上する。すると、ほどなく病が癒えた。〈実に天下に比類なき銘菓なり。これを当国の名産として売り拡むべし〉と忠精が絶賛し、「越乃雪」の名が贈られたと伝わる。
「落雁でありながら、落雁ではないお菓子です。お一つ、どうぞ」
 光さす雪原のように輝く越乃雪を口に入れると、舌の上でほろほろと溶け、雅やかな甘みが口中にまあるく広がった。
「大和屋はもともと長岡藩出入りの金物屋でしたが、庄左衛門は江戸遊学中に菓子屋で修業したこともあったので、作ることができたようです」
長岡藩の藩訓は「常在戦場」。「常に戦場にあるの心を以って、ことに処す」という意味だ。水田開発に励むと共に倹約を奨励するなど先を見る藩と、それに共感し、実行する人々。今の言葉で言うと「協働」の風土の中で文化的素養が重んじられ、茶道も盛んに。越乃雪は土地の茶人に愛されたばかりか参勤交代のお土産となり、全国に広く知られていく。大和屋は、やがて菓子専業となる。
 店は信濃川の支流、柿川の脇に建つが、それには訳がある。かつて和三盆は徳島から大阪を経て北前船で新潟へ、さらに信濃川、柿川と舟で運ばれてきたためだ。
 柿川沿いに大和屋の砂糖蔵があった。「子どもの頃、川から甘い香りがした」と、大正生まれの先代から岸さんは聞いている。

楽しきかな、わ・が・し

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こはくのつみき
 
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越乃雪   こしひかりサブレ

 おや? ショーケースに異彩を放つ菓子が並んでいる。色は淡いピンクや黄色、水色など。形はあたかも積み木、クレパス、おはじき、万華鏡。「おさとうのまほう」と題されたシリーズである。これらの担当は、専務取締役の岸佳也さん(昭和55年生まれ)。
「2018年に日本橋三越本店で開催された全国銘菓展のテーマ『楽しきかな、わ・が・し』に合わせて考案したのが最初です。若い人たちに和菓子の魅力を伝えたくて」
 佳也さんは岸さんの次女、容子さんの夫だ。夫婦と、デザイナーの長女、高波智子さんの3人でアイデアを出し合い、職人たちと試行錯誤を重ねて出来上がった。砂糖と寒天が主原料。カワイイ!
「専務から新発想を聞いたとき、面白いと手放しで賛成しました」と岸さん。親子の信頼関係をベースに、次世代が奏功。大人気となって、定番商品に加えられたのだ。
 佳也さんの経歴がふるっている。秋田出身で、大学院ではバイオテクノロジーを専攻。「久保田」で有名な朝日酒造に勤め、同社の茶道部に入ったことから容子さんと知り合い、8年前の結婚を機に大和屋に入社した。
「まったく初めての世界でしたから、入社後2年間、夫婦で京都の老舗和菓子店へ修業に入らせてもらったんです。京都では多くの古刹や美術館を訪れて、和の感覚を学ばせてもらいました」
 そうした経験が「おさとうのまほう」シリーズを生み出しました? と聞くと、一瞬の沈黙の後、佳也さんはおもむろにこう答えた。
「たとえば、養源院の杉戸絵。俵屋宗達の白象図が強烈です。奇抜だけど素晴らしいですよね。大和屋も芯の部分に『越乃雪』があるから、遊び心のあるアイテムが加わっても揺らがないと思うんです」
 城下町・長岡は、戊辰戦争と長岡空襲で焼き尽くされたため、町の佇まいに往時の面影を求めるのは難しい。されど、先を見る気風がここにも確かに受け継がれている。
 夕刻、「越乃雪」と「こはくのつみき」を手にゆっくり歩いて駅へ戻る。その途中、新旧の民家が並ぶ街路が、茜色の見事な夕焼けに包まれた。

越乃雪本舗 大和屋

新潟県長岡市柳原町3−3
TEL :0258-35-3533

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私どもの家訓は、
「家業を楽しむべし」。
その深い意味を
噛みしめながら、
これからも
人に愛される菓子を
創っていきたいと
思っています。

       岸 洋助

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文・井上理津子(ノンフィクションライター。
近著に『絶滅危惧個人商店』〈筑摩書房〉、『葬送の仕事師たち』〈新潮社〉ほか)

*バックナンバーも、このサイトでご覧になれます。
ぜひ、おいしくて心にしみる「菓子街道」の旅をお楽しみください。

唐津 No.190

唐津「海の城下町の真ん丸の菓子」

「唐津くんち」は毎年11月2日〜4日に行われる。

ハレの日「おくんち」

  10月も半ばを過ぎ、秋空が高く澄みわたってくると、玄界灘に臨む城下町・唐津の町は、何やらそわそわし始める。
「もういっときしたら、おくんちやけんね」
 誰に聞いても、笑顔の答え。毎年11月2日から4日まで行われる唐津くんちこそ、普段は穏やかな唐津の町衆のエネルギーが爆発する日だ。
 唐津くんちは4百年近くの歴史をもつ唐津神社の秋季例大祭である。見ものは最大で高さ約6.8メートル、重さ3トンもある巨大な曳山。江戸から明治初期にかけて城下の町々が競って造ったもので、14台が今に伝えられている。
 漆と和紙で造られた獅子頭や兜などの意匠は勇壮で明るく、いかにも町人の祭りの主役。その曳山が、祭り装束をまとった曳子たちによって「エンヤーエンヤー、ヨイサーヨイサ!」の掛け声と共に町を練り歩く。
 今回の旅は、祭り囃子に導かれて、唐津を代表する銘菓「松露饅頭」ひと筋に165年の歴史を誇る菓子舗「大原老舗」を訪ねた。

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「虹の松原」。約400年前、初代唐津藩主が防風、防潮のため、海岸線にクロマツを植林したのが始まり。現在は長さ約4.5km、幅約500mの松林の中に約100万本の松が生い茂る。   「唐津城」。初代藩主・寺沢志摩守広高が慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて、松浦川の河口に築いた海城。現在の天守閣は昭和41年築。

朝鮮王朝の宮廷菓子

 大原老舗は嘉永3年(1850)の創業。現在、大原潤一さんが6代目を継いでいる。
「初代は、惣兵衛という名で、“阿わび屋”の屋号で海産物を商っていました。唐津近海でよくとれるアワビを干し鮑にして船頭に売っていたんです。船頭はそれを長崎まで運んで中国の商人に売る。干し鮑といえば高級中国料理の素材の一つ、高く売れたのです」
 このユニークな“阿わび屋”という屋号は、いまも菓子のしおりや包み紙などに使われている。
「ところが明治維新で世の中が変わると、商売が立ち行かなくなってしまいました。そこで惣兵衛の妻のカツ子が内職で焼き饅頭を作って売り始めたところ瞬く間に評判となり、これを本業にすることにしたのです」
 カツ子さんが内職で作り始めた焼き饅頭は、漉し餡を薄いカステラ生地で包んで焼き上げるというもの。朝鮮半島の宮廷料理の菓子が原型で、独特の焼型を使って真ん丸に焼くのが特徴だ。
 古来より朝鮮半島との往来が頻繁だった唐津には陶器をはじめとして様々な朝鮮の文化が入ってきたが、食文化もその一つ。その中に焼き饅頭もあった。そして、唐津周辺では祭りの時などに家庭で作られていたという。
「菓子屋となってからはいよいよ味に技に工夫を重ねていきました。松露饅頭という名は、時の藩主、小笠原公に献上したときに賜ったと伝えられています」
 ちなみに松露とは、唐津の名勝・虹の松原に自生する球形をしたキノコだが、風情ある名前によって松露饅頭は名実ともに唐津の名物になった。そして、文明開化で近代工業化が進められるなか、炭鉱のあった唐津は石炭バブルに湧き、贅沢な松露饅頭が飛ぶように売れたのである。

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「唐津焼」。多くの茶人にも愛されてきた名窯。現在、唐津市内に70もの窯元が点在している。

手仕事の宇宙

 時が経ち、やがて炭鉱はすたれたが、唐津は夏の観光地としてさらに繁栄することになった。夏になると、福岡あたりから多くの海水浴客が風光明媚できれいな海を求めて押しかけてくるのだ。
「松露饅頭は絶好のお土産として大人気になりました。そこで昭和40年頃、父・大原令光は量産化を考え、熱源を炭火からガスに変えました。これによって火加減の調節がラクになり、16個用だった焼き板を20個用にすることができました。ですが、饅頭の作り方は、今も昔も、すべて手仕事です。オートメーション化も試みましたが、成功しませんでした」
 その手仕事を見せていただいた。
 まず、直径3センチほどのくぼみ穴が縦に4つ、横に5列、計20個並んだ銅の焼き板を適温に温める。その穴にカステラ生地を少量流し入れ、その上に丁寧に丸めた漉し餡の餡玉を置いていく。
 最後の餡玉を入れ終わったら先頭に戻り、ちょうど生地が焼けてきた饅頭をハリで直角に起こし、生地のかかっていない餡の上に生地をかける。
 これを20個分やり終えると、再び先頭に戻り、饅頭を返して、生地がかかっていない餡玉に生地をかける……。この作業を3回繰り返すと、きれいな真ん丸の松露饅頭が焼き上がる。この間、約5分。
 松露饅頭は、思わず笑みがこぼれるようなほのぼのとした風情の菓子だが、菓子が生まれる5分間は、見ている者ですら息を止めてしまうほど張りつめた時間だ。
 球形の饅頭を、半分に切って断面を見ると餡玉の周囲に、カステラ生地が均一の厚さでついているのがわかる。厳しく繊細な仕事に、この菓子のルーツが家庭料理ではなく、宮廷料理にあったことを思い出した。

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「呼子」。東松浦半島の北に位置する漁港。昔は捕鯨で栄えた町で、近年は江戸時代から続く朝市と、イカの活造りがグルメに人気となっている。

家業として伝統を守る

 大原さんは昭和35年生まれ。製菓学校を卒業後、フランスのコルドンブルーでパティシエの修業に励み、帰国。神戸のレストランの製菓部でさらに腕を磨き、30歳を過ぎてから唐津に戻ってきた。
 贈答菓子として評判のよい「まつら」や「太閤松」、そして季節の生菓子やチーズケーキなどの洋菓子は、大原さんが地元のお客様の声に応えて増やしてきたものだ。
「ただ松露饅頭だけは、一つのお菓子として完結しているので、これをアレンジした商品を出すといった考えはありません。その時に手に入る最高の材料を入手して、あとは饅頭を焼くだけです。
 この店は、企業ではなく、家業。先代から引き継いだ松露饅頭という素晴らしい菓子を、家族みんなで守り、次の世代に伝えていく、それが私の役目だと思っています」
 祭りに湧く海の城下町に、真ん丸の、めでたい銘菓がある。

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「名護屋城跡」。秀吉が朝鮮出兵を企てた「文禄・慶長の役」の際、国内の拠点として築城。全国から20万人を超える武士や町人が集まっていた。

大原老舗 Ohara roho

佐賀県唐津市本町1513―17 ?0955(73)3181

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「 この店は、家業。 家に伝わってきたものを、 家の者で守り伝えて いくだけです」

大原潤一

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福井 No.191

唐津「海の城下町の真ん丸の菓子」

「一乗谷 朝倉氏遺跡」。福井市の山あい、一乗谷にある戦国時代の遺跡。朝倉氏5代が103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷など、町並みが復元されている。国の特別史跡・特別名勝。

「恐竜王国」へようこそ

 昨年3月、東京―金沢間の開業で大いに湧いた北陸新幹線が、今、5年後の福井駅開業に向けて、急ピッチで延伸工事を進めている。
 地元の福井も大きな期待を抱いて、様々な整備を進めているが、福井駅周辺で行っている事業の完成像がそろそろ見えてきた。
 まずは、駅に隣接してドームシアターなども備えた自然史博物館分館や多目的ホール、商業施設などが入る高層タワーがこの春に完成。駅前には路面電車やバスが発着する回廊が建設され、駅前商店街に続く道も美しく整う。
 一方、駅から徒歩数分の福井城址では、山里口御門の復元工事が追い上げに入っている。完成すれば、福井が68万石の城下町として全国屈指の都市だった往時の輝きを思い起こさせるシンボルになるはずだ。
 さらに、昨年、マスコミで大きな話題を呼んだのが「恐竜王国福井」をPRするために駅前広場に作られた巨大な恐竜のモニュメントと、駅舎を覆った恐竜イラストのラッピングだった。これは、近年大人気となっている福井県立恐竜博物館にあやかったもの。  また、大手通信電話会社のテレビCMで一躍、有名になった一乗谷朝倉氏遺跡には、昨秋、一流の味が楽しめるレストランが整備された。
 どうやら福井は大きな転換点を迎えているようだ。今回は、その街に、福井を代表する銘菓「羽二重餅」で知られる羽二重餅總本舗松岡軒を訪ねた。

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「養浩館庭園」。福井藩主松平家の別邸。江戸中期を代表する回遊式林泉庭園は四季折々に美しくその表情を変える。   「福井市グリフィス記念館」。2015年秋に開館した新名所。明治初期に来日し、福井藩の教師として活躍。後に日本を広く世界に紹介したW.E.グリフィス(1843〜1928年)の邸宅を復元した。   「福井県立恐竜博物館」。42体もの恐竜の骨格標本を始めとして復元ジオラマや映像など、恐竜に関する資料を展示する大人気の博物館。

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「永平寺」。曹洞宗の大本山。曹洞宗の開祖・道元禅師が寛元2年(1244)に開いた座禅修行の道場。広大な境内には大小70余りの伽藍が並び建つ。   「東尋坊」。荒々しい岩肌の柱状節理が延々1kmに渡って続く名勝。日本海の荒波が岸壁にくだける様子は圧巻。遊覧船に乗って、海からの観光もおすすめ。

絹のしなやかさを菓子に

 羽二重餅總本舗松岡軒は、福井駅から真っ直ぐに延びる中央大通り沿いにある。裏手には料亭などが点在する風情ある道が走り、さらにその裏手には足羽川が流れている。
「春は足羽川の土手が、延々と続く桜のトンネルになるんですよ」と、笑顔で話し始めたのは4代目当主の淡島律子さん。実は、長年連れ添った伴侶である3代目・淡島洋さんが一昨年の春に急逝、慌ただしく代表の座を引き継いだところだ。
 松岡軒は、明治38年(1905)の創業。前身は、福井特産の絹織物「羽二重」の製造で聞こえた織物業者だったが、繊維不況により転業。律子さんの義理の祖父にあたる淡島恒が十代で東京の菓子屋に入り、修業の末、暖簾分けしてもらって現在の地に『東京松岡軒福井分店』を開業したのが始まりだという。
「その創業時に、自分の家がかつて織っていた羽二重をお菓子に表現できないかと試行錯誤しながら作り上げたのが『羽二重餅』だったと聞いています。福井の誇りである羽二重織が銘菓になったと、まず地元で評判となり、またたく間に全国にも知られていきました」
 かげりのある白色、しっとりきめ細やかな肌、口の中で溶けていくような柔らかさ。羽二重餅は菓子品評会でも金賞を受賞し、松岡軒の土台を盤石なものにしていった。

心優しき当主の系譜

 ところで、大ヒット商品が生まれると、すぐに同じようなものが雨後の筍のように出てくるのが世の常。羽二重餅の場合も同様のことが起こったという。
「ところが祖父は、『それぞれの店が切磋琢磨してこの菓子をさらに良いものにしていけばいいじゃないか。羽二重餅が福井名物として世の中に広がるのは、むしろ良いこと、福井の力になる』と言っていたそうです。作り方のコツなども、聞かれれば何でも教えたようですよ」
 この熱い心意気とおおらかな人柄は、戦後2代目を継いだ義父の實さん、さらに亡夫の洋さんにもしっかり遺伝。いずれも明るく社交的で、地域の役職をいくつも務め、奉仕活動が多忙を極めて店の仕事の方が後回しになることもしばしばだったそうだ。しかし、そんな人柄が信頼を得て、事業も堅調に伸びてきた。

二つの名物

 店の奥の工場にまわって、羽二重餅作りを見学した。
 まず、原料は餅粉と砂糖、水飴だけ。35年前に洋さんが、より繊細な甘みをと砂糖を上白糖からビート糖に変えたが、それ以外は配合も昔のまま。添加物は昔も今も一切使用していない。
 餅粉を蒸し、砂糖と水飴、少量の水を加えて練り上げて薄く伸ばし、カットすれば羽二重餅の出来上がり。単純明快な菓子だけに、火加減や水加減など、肝心なところは長年のカンがモノを言う。
 そして、最後は、ひとひらずつを手に取って容器に詰めていく。これも、松岡軒の羽二重餅が、薄くデリケートであるがゆえの手作業だ。
 ところで、松岡軒には羽二重餅と並ぶ名物がもう一つある。夏限定の「手かき氷」だ。
 白山の伏流水で作った氷を、越前の打ち刃物でガリガリ、ザクザクとかき削り、自家製の餡やシロップを添えて店内で供する。順番待ちの行列と笑顔と歓声が、この店の夏景色である。

どこよりも美味しく

 さて、新たな当主を迎えて、この店はこれからどう変わっていくのだろうか。
「羽二重餅は福井で、この松岡軒で生まれた銘菓です。ですから、やはり、どこよりも薄く、どこよりもなめらかで、優しい甘さだと言っていただけるように、この味を守り、次の代に伝えていくことが私の義務だと思っています。
 その上で、女性ならではのアイデアも菓子に取り入れていきたいし、できればいつか新しい菓子を創ることができたら、理想です」
 織姫と機織りの杼をデザインした包装紙を開いて、羽二重餅をいただいた。白い色は雪のように温かみがあり、柔らかさは絹のようにコシがある。そして、清廉な味がした。

羽二重餅總本舗松岡軒 Matsuokaken

福井市中央3-5-19 TEL 0776(22)4400

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「 どこよりも薄く、
なめらかで、優しい甘さ。
それが松岡軒の羽二重餅、
私どもの誇りです。」

淡島律子

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