熊本 No.192

親切な街のごちそう菓子

市電の走る熊本市のメインストリート、通町筋。電停に降り立ち顔を上げると、熊本城の天守閣が目の前に。

熊本人の「親切」

 明治29年、一人の英語教師が熊本の旧制五高(現熊本大学)に赴任してきた。後の文豪夏目漱石である。
 漱石はここ熊本で結婚し、父親となり、イギリス留学に旅立つまでの4年3カ月を過ごした。その日々のことを後年尋ね られて、まず熊本の街を「森の都」と称賛し、熊本の人々が驚くほど“親切”であること、さらに五高生の礼儀正しさに触れて、「熊本の家庭には武士道精神が残っている」と語った。誠に良い気風だ、と。
 文豪がたたえたその街は、現在、人口74万人を擁する政令指定都市となっている。
 一番の繁華街は、市電が行きかう通町筋から南北に伸びる上通りと下通りのアーケード街周辺で、昼も夜も地元の人や観光客で賑わっている。
 そして通町筋の突き当りにそびえるのが熊本のシンボル熊本城。肥後熊本藩主・加藤清正が7年の歳月をかけて築いた名城である。

 多様な魅力を持つ街、熊本。今回の旅は、熊本土産の定番「誉の陣太鼓」で広く知られるお菓子の香梅を訪ねた。

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水前寺成趣園。熊本藩主細川家が年月をかけて造園した桃山式回遊庭園。園内の「古今伝授の間」(県重文)から見る景色は絶景。   熊本城の「武者返し」の石垣。攻め手が登れないよう、上に行くほど勾配がけわしくなるように石積みされている。   阿蘇山。世界最大級のカルデラを持つ活火山。水道水もすべて地下水でまかなっている熊本市の水源でもある。

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熊本市現代美術館。繁華街の中心にあり、建築と一体化したアートがいたるところに。   夏目漱石 内坪井旧居。熊本滞在中6回の転居を繰り返した漱石の5番目の家。現在は市指定史跡の記念館となっている。

台湾で始まった菓子修業

 お菓子の香梅の創業は、戦後間もない昭和24年(1949)のこと。現在、当主を務める副島健史さん(昭和40年生まれ)が3代目になる。
「創業者は副島梅太郎、私の祖父です。佐賀の生まれですが、大正7年、8歳の時に家族と共に台湾(当時は日本統治時代)に渡り、12歳で一六軒という菓子屋に奉公に出ました。後に明治、森永と並んで三大製菓といわれた新高製菓の前身です。
 店主は森平太郎という人で、作家の北方謙三さんの曽祖父にあたる方。梅太郎は森さんを生涯の師と仰いでいました。菓子作りと共に、人生哲学も教えていただいたようです」
 終戦まもなく、一家は台湾から引き揚げた。一旦、人吉に身を寄せるが、梅太郎はすぐに熊本へ出て、昭和24年に現在の本店がある場所に副島菓子店を開業。翌年には、藤崎宮の宮司につけていただいた「香梅」を屋号にした。
「創業時から和菓子だけでなくシュークリームなどの洋菓子も手掛けていました。そうしたなか、当社の出世作となったのが “肥後五十四万石”です。漉し餡を求肥で包み、薄種ではさんだ菓子で、今もずっと大切にしています」 
 薄種に押された焼印は、細川家の九曜の紋。城下町・熊本の華やぎと気品を写した菓子は、茶の湯の盛んな熊本の人々が待ちかねたもの。現在も人気は劣えず、店の看板商品の一つだ。

みずみずしい菓子

「そして昭和33年(1958)に、代表銘菓の誉の陣太鼓が誕生しました。やわらかい求肥を、すっきりとした甘さのふっくらみずみずしい小豆餡で包んだ菓子です。それまで求肥で餡を包んだ菓子はありましたが、餡で求肥を包んだものは無く、逆転の発想が評判となりました。
 ところが、当初はすべてが手作りだったため1日70個が精一杯。それで機械を入れることにしたのですが、手作りに比べると求肥や餡の水分がうまく保てないのです。
 試行錯誤を重ねて、納得いくものができるようになったのは11年後。紙缶詰と呼んでいる密封包装の機械を開発しました。これで保存料も食品添加物も使わずに、砂糖、大納言小豆、麦芽糖、餅粉、水飴、寒天、食塩だけで作るこの菓子が、みずみずしさを保つことができるようになりました。また、その副産物として、60日の日持ちも可能になりました」
 金色の包装紙ごと、同封された紙ナイフで切ると、作りたてのように艶々と輝く求肥と小豆餡が現れる。現在、誉の陣太鼓の売り上げは、総売 り上げの7割以上を占めているそうだ。
「初代は“お菓子は平和の使者”という言葉を信念として掲げていました。また、“孫に食べさせられない菓子は作らない”ともよく申しておりました。その教え通り、安心で安全な、食べて笑顔になるような菓子しか作らないというのが我が社の基本です。厳しい目で材料を吟味していかなければ、次代につなげていけません。
 一方で、昔作った菓子が古く感じないように商品力を高めていくことも重要です。さらに、時代をとらえた新しい商品を開発できる職人が育つ土壌、社風をつくっていかなければならないと思っています」

くつろぎのごちそう

 初代から3代続く真っすぐな経営姿勢は、文化支援事業やメセナ活動の原動力ともなっている。
 たとえば熊本の観光名所である水前寺成趣園の中にある「古今伝授之間」は細川家初代・幽斎公ゆかりの由緒ある建築物だが、その維持管理を引き受けて15年になる。
 また、熊本出身の優れた女性芸術家を支援する「香梅アートアワード」の創設や、プロバスケットボールチーム「熊本ヴォルターズ」のスポンサー。さらに、県内各地にある直営店のうち4店舗には、お客様がアート作品を展示したり演奏会が開けるスペースをつくっている。
 お菓子の香梅の企業理念は「くつろぎのごちそう」。一所懸命に働いた後のほっとした時間に、心の満足が得られるような菓子を作っていこうという姿勢を言葉にしたものだ。
 柔らかいが、強い決心を秘めた言葉に、夏目漱石が感動した「熊本人の親切」を思い出した。

お菓子の香梅 Okashi no kobai

熊本市中央区白山1-6-31  TEL 096(366)5151

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「菓子屋の基本は、
誠実な菓子作りをすること、
それに尽きます。」
         

副島健史

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仙台 No.193

親切な街のごちそう菓子

仙台七夕まつりは8月6〜8日の開催。© 仙台七夕まつり協賛会

杜の都の七夕まつり

 入道雲が湧く夏空の下、今年も仙台の街がひときわ賑わうハレの日がやって来た。仙台七夕まつりである。
 毎年、8月6日から8日の3日間、市街中心部の繁華街に豪華絢爛な七夕飾りが並び立ち、緑陰の道にも民家の軒先にも人々の願いを込めた「七つ飾り」が揺れて、仙台は夏の盛りを迎えるのだ。
 仙台市は108万人の人口を抱える東北最大の都市である。古くからひらけていたが、17世紀初頭に伊達政宗が広瀬川の河岸段丘に建設した城と城下町が、現在の仙台の土台となっている。
 政宗公の騎馬像が建つ青葉城跡に登れば、緑あふれる仙台の街が一望できる。市街地を蛇行しながら流れるのが広瀬川。その流れに沿うように、国宝「大崎八幡宮」や政宗公の霊廟「瑞鳳殿」など由緒ある見どころが点在する。
 夏の七夕だけでなく、武者行列が練り歩く春の「青葉まつり」や冬の「光のページェント」などの催しも、さすが“伊達者”の伝統を受け継ぐ街ならではの華やぎがある。  今回は、この美しき杜の都に、延宝3年(1675)創業の菓子店「九重本舗玉澤」を訪ねた。

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定禅寺通り。杜の都・仙台を象徴するケヤキ並木。夏の「ジャズフェスティバル」などイベントも盛ん。   伊達政宗公の騎馬像。青葉山の山上に残る青葉城(伊達城)趾に建っている。眼下に仙台市街がひろがる。   瑞鳳殿。仙台藩祖・伊達政宗が眠る豪華絢爛な霊廟。七夕まつり期間中は参道百段や本殿周辺に竹灯籠がともる。

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広瀬川。蛇行しながら仙台の市街地をゆったりと貫流する一級河川。奥羽山脈に発し、名取川との合流地点まで約45キロにわたり流れる。この清流と深い緑が、仙台を際立って美しい街にしている。   大崎八幡宮。伊達政宗公の命によって造営された神社。社殿は安土桃山文化を伝える遺構として国宝に指定されている。毎年小正月に行われる松焚祭の裸参りが有名。

手技が生む菓子

 九重本舗玉澤の当主は、14代目の近江貴生さん。昭和51年(1976)生まれで、ちょうど40歳を迎えたところだ。
 「当店は、菓子職人だった初代の玉澤伝蔵が、茶道が盛んな仙台藩に近江(今の滋賀県)から招かれ、国分町に店を構えたのが始まりです。 戦後、仙台駅に近い南町通りに本店を移転したのですが、近年、都市再開発のために移転を余儀なくされ、現在は本店は置かずに百貨店などに直営店舗を出しています」
 市街地から少し離れたところにある本社・工場を訪れると、一室に初代の木像が置かれ、作り立ての上生菓子とお茶が供えられていた。目を引くのはその菓子の美しさ。品の良い意匠はさすが御用御菓子司の暖簾を掲げてきた老舗ならではである。
 さらに、玉澤の代表銘菓といえば、店名ともなっている「九重」だろう。水を注ぐとコップの中で小さな粒が動き出し、次々と表面に浮かび上がってくる。
「九重は明治34年に生まれた銘菓です。餅を薄く伸ばして霰状に切り、銅鍋に入れて火にかけます。水飴と果汁などを加えて3〜4時間、手で混ぜながらコーティングして作ります。  簡単に言えばジュースの素ですが、なかなか手のかかる菓子なんです。飲むとほっとするような菓子になればと、日々、丁寧に作っています」
 九重は柚子味、ぶどう味、挽き茶味の3種類。夏には氷水を注いで涼むも良し、冬は熱々で温まるも良しだ。

菓子職人として生きる

 玉澤には、手技の極みのような銘菓がもう一つある。初秋から初夏まで期間限定で販売されている「霜ばしら」だ。
 化粧缶入りの菓子で、粉雪のような上南粉をかき分けると、半透明の飴菓子がまさに霜柱状にぎっしりと並んで現れる。一つつまんで口に入れると、途端に甘味だけを残してスッと溶けていく。
「材料は砂糖と水飴だけです。それを合わせて空気を含ませながら幾度となく手で引き伸ばして作るのですが、この作業が本当に難しいんです。湿気が大敵なので、蔵王から吹き降りる乾いた西風の通り道に専用の工場を造っているのですが、それでも微かな湿度や温度の違いで飴の状態が変わってしまう。例えば海から東風が吹く日は飴がべたつき、透明感が出なくなる。その日の気象と相談しながら、一瞬も気を抜かずに作っています」
 実は、近江さんは昨年春に代表に就くまでは20年余、この菓子一筋に生きてきた菓子職人なのである。今も1年のうち9カ月ほどは毎日深夜1時過ぎに自宅を出て工場に向かい、2時半から午後1時頃まで休憩なしで仕事をしているのだそうだ。
 「深夜から午前中にかけて仕事をするのは、午後よりも湿度や温度が安定しているからです。この菓子は途中で寝かす工程が無いので、手を休めることができません。しかも熱い飴を扱うので室温は40度。水分だけを補給しながら、10時間、作り続けます」
 技術と経験はもちろん、忍耐力も体力も必要なきつい作業を、信頼できるスタッフたちと息を合わせてこなしていく。美しく繊細な菓子の秘密が、ここにあった。

牛歩確進

 近江さんが1年半前に若くして社長に就任したのは、先代で父である近江嘉彦氏の急逝によるものだ。
 何の引き継ぎもなく、突然渡されたバトン。わからないことだらけの状況で、近江家に代々伝わる家訓が、一つの道しるべになったという。
「“牛歩確進”という言葉です。牛のようにゆっくりとした歩みでも、ともかく確実に前に進め、という意味です。
 私を盛り立ててくれている弟や、営業関係を仕切ってくれている番頭をはじめとする頼りになる社員たちがいるのですから、あとはよい菓子を作って行くだけ、と前を向きました。  
 菓子が何のためにあるかというと、私は人の心を和らげるためにあるのだろうと思っています。東日本大震災を経験して、改めてそのことを実感しました。明治に生まれた“九重”や昭和の“霜ばしら”は、まさにそれに応える菓子だったと思います。それに続く平成の菓子を、私も作りたいと思っています」
 5年前の東日本大震災や、先代の急逝など、度重なる試練を乗り越えてきた若き当主が、未来に続く夢を明るい真顔で語ってくれた。
 願いと祈りの七夕の星祭りが、今年もやってくる。

九重本舗 玉澤 Kokonoehonpo Tamazawa

仙台市太白区郡山4-2-1(本社)  TEL 022(246)3211

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「どこにもない、
ここにしかない
菓子を作っていきたいと
思っています。」
         

近江貴生

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松山 No.194

親切な街のごちそう菓子

道後温泉本館。道後温泉の温泉共同浴場。神の湯本館棟などが国の重文。

湯の街、ことばの街

 人口52万を数える四国最大の街・松山には、伊予の国らしく、みかん色に塗装された路面電車が市中をのんびりと行き交っている。時折、この軌道をゴトンゴトンと鉄輪の音を響かせて走ってくるのが、蒸気機関車を模した、その名も「坊っちゃん列車」。行先は、夏目漱石が小説『坊っちゃん』で主人公が毎日通っていると綴った道後温泉だ。
 道後温泉は『日本書紀』にも登場する古湯で、今も18本の源泉からなめらかな湯が汲み上げられている。近年は斬新なアートイベントでも話題を集め、海外からの観光客も急増しているという。
 温泉街のシンボルは、ご存じ、道後温泉本館。風格あふれる玄関前は、湯浴み前に記念撮影する人でいつも順番待ち状態だが、松山の旅で、ここははずせない。
 ちなみに、松山ならではの撮影ポイントで、もう一つおすすめがある。道後温泉本館の軒先にもある松山市観光俳句ポストだ。俳句の革命児・正岡子規の生誕の地が松山ということで、松山城や坂の上の雲ミュージアム、萬翠荘といった観光名所をはじめ市内90余箇所に設置されている。一句浮かんだら、どうぞ気軽に投句してください、というわけだ。
 松山市では今、「ことばの力」をキーワードとしたまちづくりが行われている。夏には、全国の高校生が俳句の腕を競う「俳句甲子園」が開催され、街を歩けば、いたるところで一般の人が投稿した様々な「ことばのメッセージ」に出合う。
 湯と言葉が湧く街・松山に、羊羹の名店として知られる薄墨羊羹を訪ねた。

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松山城。天守閣など21棟が重文。山裾から8合目までロープウェイとリフトが運行している。   坂の上の雲ミュージアム。正岡子規、秋山好古・真之兄弟という松山出身の三人を主人公に日本の近代を描いた司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』をテーマにした博物館。建築は安藤忠雄、開館は2007年。

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  萬翠荘。大正時代に旧松山藩主の子孫にあたる久松伯爵が建てたフランス風洋館。外観やロココ調のインテリアに大正ロマンが香る。  

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観光俳句ポスト。誰でも自由に投句できるポスト。2か月ごとに開函され、優秀作は折々に発表される。   商店街に掲げられている「ことばのタペストリー」や路面電車の車両、空港の階段など、いろいろなところで「ことば」に出合う。「松山や…」は子規の句。

花びら舞う羊羹

 薄墨羊羹の本店は、松山随一の商店街・大街道と、いよてつ松山市駅から続く銀天街という二つのアーケード商店街が交わるあたりにある。古くからの繁華街だが、最近になってこだわりの店などが増えて、再び注目エリアになってきているという。その中で、薄墨羊羹の店構えは、ひときわ斬新で人目をひく。
 当主は、1年余り前に父の中野英文さんから店を引き継いだ中野恵太さん。昭和56年生まれ。35歳の若さだ。
「私で7代目になります。当店の創業は、空襲で古い史料を焼失していて正確ではないのですが、明治初期の新聞に支店の記事が載っていることや他の古文書などから江戸後期だろうと推察しています。
 代表銘菓の薄墨羊羹も初代の創案で、松山の桜の名所・西法寺の薄墨桜にちなんだ菓銘が評判となって今日まで続いています」
 薄墨桜とは、天武天皇の妃が病気療養で道後温泉を訪れた折、西法寺に平癒祈願して全快したことから、天皇より賜ったと伝わる名桜。その名をいただいた薄墨羊羹は、切り分けると羊羹に散らした手亡豆が風に舞う桜の花びらのように浮かび上がる。
「素材がシンプルなだけに、砂糖は甘さのくどくないザラメを使い、小豆と糸寒天も最上級のものを選び抜いています。自社で製餡のプラントを持っているので、商品それぞれに合う餡をブレンドできるのが当店の強みです」

「餡」のファン

 その餡にこだわる老舗で新しい挑戦が始まったのは、今から3年ほど前のことだ。
「それまでも水羊羹と錦玉羹を2層にした『三笑』や『愛媛みかん羊羹』などの新しい商品を作ってはいましたが、どうしても羊羹は進物用の菓子という印象が強く、顧客が広がりませんでした。そこで、気軽に羊羹を楽しんでいただけるように、餡ファンというブランドを立ち上げて、新商品の展開を始めました。
 例えば『ウスズミキューブ』は、切る手間がいらない一口サイズの羊羹です。チョコレートやキャラメルなど様々な洋の素材ともマッチさせて、餡のおいしさを知っていただこうという発想で作りました。
 また、和菓子という先入観なく手に取っていただけるよう、すべての菓子のパッケージ・デザインを一新しました。そして、同時期に店舗も改築。ここにも若々しいデザインを取り入れました」
 店の半分は、お菓子を包む間に、「一服してください」と、お茶とお菓子でもてなすスペース。ここでどら焼きや最中などで餡のおいしさをあらためて知り、店のファンになる人が増えている。

一度きりの人生

 実は、中野さんは28歳の時に心臓に重い疾患が見つかり、生死をかけて大手術を受けた過去を持つ。人の一生について考え続けた時間の中で、当たり前に過ごしていた日々が、かけがえのない一日一日であったこと、そしてどれほどの愛情に包まれて育ってきたかということに気づいて、人生観が一変したと言う。
 中野さんが社長に就任して作った社員手帳に、こんな言葉がある。
 「朝起きて、仕事のできることに感謝し、家族・同僚との絆を大切にし、同じ時代に生きる縁の不思議さと喜びを共有して、多くのお客様や関係する方々が応援してくれる会社にします」
 誰にも、命の限りがあることを知った人の言葉はシンプルで力がある。
「今、いろいろな仕掛けが動いています。例えば、薄墨羊羹をJAXAに宇宙食として提案したり、アートと薄墨羊羹のコラボを企画したり…」
 こうしたものが付加価値となって、店のブランドイメージを上げることにつながれば、という思いだそうだ。
「病気から復活して5年、社長に就任して2年がたちました。毎日、“私が先頭に立って汗をかいて働きたい。皆さんのご協力をお願いします”という気持ちでやっています」
 ことば幸(さき)わう城下町の一角で、今朝も真摯な菓子作りが始まっている。

薄墨羊羹 Usuzumi yokan

愛媛県松山市大街道1-2-2  TEL 089(943)0438

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「一度きりの人生です。
小さな野心をずっと持って
いたいと思っています」

中野 恵太

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札幌 No.211

札幌 北の大会で「創業」100年」

地上約90mの「さっぽろテレビ塔」展望台から中心部の街並みを眺める。足下の大通公園は通常、夏にはビアガーデンに。ジャズイベントも開催される。

開拓で生まれた街

 抜けるような青い空に綿雲が浮かび、碁盤目状の広々とした街並み。彼方になだらかな稜線。あっ、その中に一直線の緑。あれは、大倉山ジャンプ場だ。さっぽろテレビ塔の展望台で札幌の街の広大さと美しさに息を呑み、そして今回の旅が始まった。
 テレビ塔が立つのは、街の真ん中に位置する大通公園だ。幅105メートルものグリーンベルトが1.5キロも続く。人口約200万人の大都市なのに、この開放感。素晴らしい。
「島さんのおかげです」とベンチでランチ中のOLが言った。
 今も多くの市民に「さん」づけで呼ばれる、町づくりの第一の恩人・島義勇(よしたけ)は、明治2年(1869)に札幌に来た開拓判官。街を南北に分け、北を官庁街、南を住宅・商店街とする計画を立て、防火帯として幅100メートル超えの大通公園を設けたそう。
 その大通公園の周辺に開拓使の遺構が点在する。
 札幌市時計台は札幌農学校(北海道大学の前身)の演武場として明治11年(1878)に建てられた。アメリカ中西部の開拓期に流行したコロニアル建築風の佇まいが有名だが、館内に入らなければ。2階の演舞場は空間を広く取るために、柱や梁を使わない造りで、洋風建築技術を手探りで学び設計した開拓使工業局の技師たちの苦心が偲ばれる。
 赤れんがの北海道庁旧本庁舎はアメリカ風ネオ・バロック様式。出窓上部に見られる装飾「五稜星」は、北極星をモチーフとした開拓使のシンボルだ。

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設計当時の姿で時を刻み続けて140年、日本最古の塔時計だ。時計機械は米ボストンのハワード社製で、札幌を流れる豊平川の玉石を動力に用いた振り子式。毎正時に、鐘が鳴り響く。 円山公園にある北海道神宮は、大国魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遅神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)、明治天皇を祀る。開拓者を励ます目的で創建されたことから仕事運や勝負運が上がるとされ、参拝者が絶えない。

今年で創業100年

 札幌駅からまっすぐ南に延びるメインストリート・大通には、百貨店、専門店、レストランなどが集積している。銀座と遜色ないが、札幌ならではの店に出会えるのが嬉しい。
 「札幌千秋庵」もその一軒だ。2020年に竣工したビルの1階。レンガとスモーキーなガラスの外観にギャラリーと見紛いそうだが、北海道を代表する和菓子の老舗だ。
 店内に足を踏み入れると、あら? 水の音が聞こえる。地下90メートルから湧く水が心地よい音を醸していたのだ。迎えてくれた社長の庭山修子さん(昭和31年生まれ)が、 「弊社の菓子作りも、ずっとこの水を使っています」とおっしゃる。ミネラルたっぷりの天然水が隠し味なのだろうか。
 ロングセラーの洋風煎餅「山親爺」、看板銘菓「ノースマン」、色とりどりの季節の菓子などが品良く並ぶ店内の壁に、年季の入った干菓子の木型が飾られている。はたまた創業以来の本店の建物や工場で働く初代と2代目のモノクローム写真が並ぶ一角もある。老舗を身近に感じさせる仕掛け。しゃれている!
 札幌千秋庵は今からちょうど100年前の大正10年(1921)、庭山さんの祖父、岐阜県出身の岡部式二さんが創業した。明治の終わりから東京で修業し、腕利き職人となって名を馳せていた式二さんを、小樽千秋庵(当時)の主人が招聘したのだ。「来年、1918年に北海道開道50年記念の北海道博覧会が札幌で開かれる。出品するのに、あなたの力を借りたい」と。
 1年くらいならと旅行気分ではるか北の大地にやって来たが、首尾よく博覧会が終わっても、各方面から「残ってください」コールが止まず、札幌で店を構えるに至ったのだ。
 式二さんが作る、ときに洋菓子のエッセンスも加えた菓子が「新しもの好き」の札幌人の心をつかんだ。店はにぎわい、昭和5年(1930)に新築した店には、いち早く喫茶店を併設。バターとミルクをふんだんに使った「山親爺」は、この新しい店の誕生を記念して作った菓子だ。戦争中は辛酸を舐めるも、戦後を長男卓司さん(庭山さんの父)と二人三脚で駆け上がる。
「祖父は職人たちが作った上生菓子の出来が悪いと、拳骨でつぶしていました。売らせなかったんです」
 式二さんの職人気質は、昭和39年(1964)に売り場面積日本一の店舗となり、従業員が増えても変わらなかった。試行錯誤し、新たな菓子も開発。お使いものに、ハレの日の我が家用にと、千秋庵の菓子は札幌の家庭に大いに受け入れられた。

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女性の目線で

 時は流れる。多くの同業他社の台頭、スイーツの多様化。8年前、突然、社長に指名された当時はひどい経営状態だったと明かす庭山さんはこう話す。
「これから必要なのは、お買い物をしてくださる女性目線での菓子作りだと思ったんです」
 大改革が始まった。パイで小豆餡を包んだ銘菓「ノースマン」に、女性好みのかぼちゃ餡やメロン餡など季節限定バージョンを加えてヒット。並行して、「山親爺」を始め、すべての菓子のパッケージデザインの見直しを行った。
「当店の菓子のシンボルにもなっている子熊のキャラクターも表情を変えたんです。目をぱっちりと愛らしく明るくして」
 そうした大改革の集大成が、このしゃれた店だったのか。
「いえ、『伝統と革新』をテーマに、まだまだこれからです」
 店内の一服スペースでそんな話を聞き、焼き立てのノースマンを頬張る。しっとりした餡とサクサクしたパイの和洋混合の口当たりが、なんとも味わい深い。
 千秋庵をあとにし、北海道の総鎮守・北海道神宮に足を延ばした。杉がすっくと伸びる境内を歩いていると、末社に間宮林蔵ら北海道開拓の功労者が祀られているのが目にとまった。
 札幌は、岡部式二さんが菓子を出品した大正7年の北海道博覧会を機に、市街地に電車が通り、道や商店、宿泊施設が整備され、都市として飛躍した。市民に「札幌に対する誇り」も生まれたとも語られる。
 開拓時代の人たちが拓いた札幌の地に、式二さんほか無数の人たちがさまざまな文化を運び込んだおかげで札幌の街が造形されたのだと、確として思った。

札幌千秋庵(本店)

北海道札幌市中央区南3条西3丁目
TEL :011(205)0207

千秋庵のお菓子を1人でも多くの方に知っていただきたい。
だから、もっとおいしくもっと親しみやすく !
前を向いて、こつこつ努力していきます。

       庭山修子

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店内   焼立てノースマン
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山親爺   好きです。sapporoチーズクッキー

文・井上理津子(ノンフィクションライター)

*バックナンバーも、このサイトでご覧になれます。
ぜひ、おいしくて心にしみる「菓子街道」の旅をお楽しみください。

名古屋城界隈 No.195

親切な街のごちそう菓子

名古屋城の隅櫓(右)と天守閣(左)。加藤清正が築いたとされる石垣のカーブが美しい。

本丸御殿の復元佳境

 見上げれば、まばゆく光る名古屋城の金のしゃちほこ。「尾張名古屋は城で持つ」という伊勢音頭の歌詞にも納得がいく豪華なシンボルは、第二次大戦の空襲で天守閣とともに焼失。昭和34年(1959)の再建の際、大阪造幣局で金88キロを貼って復元された。その足元で、今、本丸御殿の復元作業が佳境を迎えている。
 初代藩主・徳川義直の住居・政庁として建てられ、三代将軍家光の上洛の際、宿舎として拡充された本丸御殿は、狩野派の豪華絢爛な襖絵や装飾金具で、京都の二条城とともに、武家風書院造りの双璧とされる国宝だった。焼失後、半世紀以上たった平成20年(2008)から、3期10年の計画で復元作業が進められている。
国産のヒノキなどを使って、旧来の材料や工法で寛永期の姿を再現しようとする工事の総事業費は、ざっと150億円。50億円以上を民間の募金でまかなうという。

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保護用の建物「素屋根」ですっぽり覆われた本丸御殿の復元工事現場。昔ながらの工法を、間近に見学できる。大屋根や破風の下地を見られるのも、今のうち。   徳川園。2代藩主・光友公の隠居所を起源とする池泉回遊式庭園。隣接する徳川美術館、蓬左文庫とともに尾張徳川家の歴史と文化を今に伝える。

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  市政資料館は内部も重厚なつくり。ステンドグラスからの外光が、柔らかな陰影を作る。明治22年(1889)市制施行以来の市政に関する公文書などを収集・保存している。  

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オレンジの屋根瓦が目をひく二葉館。円形ソファなど往時の政財界・文化人のサロンの面影が残る。   文化のみちは、車の通行も少ない緑豊かな散歩道。丹念に歩けば、あちこちに見どころが。歴史的建造物と、現代のマンションが軒を接しているのも一興。

気さくに茶を楽しむ風土

 名古屋市内の東山動物園近く、両口屋是清東山店は、モダンな大屋根と木を多用した和風の店構えが溶け合う落ち着いたつくりだ。設計は歌舞伎座などで時の人の隈研吾氏。1階は上生菓子、焼菓子などが並ぶ店舗、2階にはカフェ喜蝸庵、4階には茶室もしつらえられている。
 両口屋是清の初代猿屋三郎右衛門は、寛永11年(163 4)、御三家筆頭・尾張藩の城下町名古屋が発展を始めた頃に、摂州大阪から移ってきたとされる。饅頭を武家や商家に商いながら、藩の御用菓子処を目指した。
 初代の夢は、2代目三郎兵衛が2代藩主・徳川光友公から「御菓子所 両口屋是清」の表看板をいただき、現実となった。以後、3代目・喜十郎から8代目・喜十郎の江戸末まで、納戸役の菓子御用や嘉祥の祝いの御用を務め、お城とのご縁は、まことに深かったのだ。
 12代目に当たる現会長、大島喜十郎さんは、「尾張藩には、駿河から殿様についてきたといわれる鶴屋久七や桔梗屋又兵衛などの古い菓子屋もありました。尾張の城下では、野良茶といって農作業の合間に田んぼの脇で茶を点てる風習もあって、身分を超えて幅広く気さくに茶と菓子に親しんだ風土です」と言う。

新店舗での挑戦

 現在では、全国で店舗数約110軒、従業員400人を超える大店となった両口屋是清では、季節感豊かな月替わりの上生菓子を始め、11代大島清治が戦前に庭の草花から考案した「二人静」、はるかな山の眺めを意匠にした餡村雨製の棹菓子「をちこち」など多彩な銘菓を生み出してきた。
 先祖伝来の花入れを模した焼菓子「旅まくら」は、「志なの路」「よも山」とともに手土産の定番。昭和25年(1950)の愛知国体の際、天皇皇后両陛下の旅のつれづれを慰めるため考案された。
 どら焼き風の「千なり」は戦前からの商品だが、機械メーカーの本場・愛知の技術を導入して製造の機械化に成功。昭和25年秋に、東京の日本橋三越本店で開かれた『第1回 全国銘菓展』で、当時珍しかった実演販売を行った。のれんを守りつつ、進取の気性に富んで幅広く、という両口屋是清の菓子作りの礎といわれる。
 一方、茶席の上生菓子は、いまも席主からの注文に応じ、調製する。時には「海外の抽象絵画」「クリスマス」など、伝統的な菓銘にはないテーマを言いつかることもあるが、「お客様の様々な要望に応え続けることが店や職人の勉強になり、ありがたい」と、専務の大島千世子さん。
 昨年は東京・新宿に、時代や国境を超えた出会いをテーマにした新店舗『和菓子 結』を開店した。餡たっぷりの焼菓子をチョコレートでくるんだ「ふゆうじょん」や、切る場所によって異なる季節を表現する「あまのはら」。一見、実験的だが、伝統の餡や木型を使い、女性向けにかわいらしく仕上げている。
 「見せ方は変えているけれど、中身は王道のお菓子作りだねと言われます」と、千世子専務はにっこりする。

伝統と時代の調和

 大島会長は「主人が餡や饅頭を作り、奥さんが店頭で売るのが和菓子屋の基本。毎日全部の作業が自分でやれます。店は多くなりましたが、いいことばかりとは言えません」と言う。職人教育は“まっさらな人”に来てもらって、餡作りなど各部署を回る。時には店頭で、販売も経験する。一人前に育つまでに10年はかかる。
 小豆や小麦粉などは、なじみの雑穀商や製粉会社を通して両口屋是清好みの品質を確保しているが、温暖化により産地が北上しているものもあり、将来に不安を抱える。伝統と時代の要請の調和は、和菓子の世界では、ことに重い。

面影を伝える道

 名古屋城から東の徳川園に至るエリアは、「文化のみち」と呼ばれ、名古屋の近代化の歩みを伝える数々の歴史的建造物が保全・公開されている。
 重要文化財の市政資料館は煉瓦の外壁が重厚な元裁判所庁舎。静かな住宅街に建つカトリック主税町教会には、明治時代の瀟洒な礼拝堂。さらに、発明王・豊田佐吉の弟、豊田佐助の旧宅は、鶴にトヨタの文字をかたどった通気口のデザインが美しい。「日本の女優第1号」川上貞奴が、福沢諭吉の婿養子で木曽川の水力発電を開発した福沢桃介と大正時代に暮らした文化のみち二葉館(移築復元)。そして、徳川園の日本庭園、徳川美術館、蓬左文庫では、尾張徳川家の文化と歴史の厚みを体感できる。
 名古屋の街の成り立ちに思いを馳せながら、ゆったりと散歩したあとは、和菓子と抹茶も素敵だろう。

両口屋是清(東山店)Ryoguchiya Korekiyo

愛知県名古屋市千種区東山通4-4-1  TEL 052(782)1115

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「町なかから八百屋が消えても、和菓子屋はまだある。
創造が、継続の力になっていると思います。」

       大島喜十郎

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岡山 No.208

岡山 桃太郎の国の和菓子店

吉備津神社。壮麗な本殿・拝殿は、吉備津造りとも呼ばれる独特の建築様式。

 「桃太郎さん、桃太郎さん、おこしにつけたきびだんご、一つ私にくださいな」
 桃から生まれた桃太郎が犬、猿、キジに「きびだんご」を与えて家来にし、鬼を退治する物語は、誰もが知っているおとぎ話だ。
 物語発祥の地をうたう町は全国にあるが、最も有名なのは岡山市だろう。根拠は、岡山が昔から桃の名産地であること。かつては吉備国と呼ばれた地であること。そして古代、吉備で暴れまわっていた百済の王子・温羅を大和朝廷の王子・吉備津彦命が倒し、この地を平定したという伝説があること……。
 では、「菓子街道」の旅も鬼退治の話から始めよう。

桃太郎も、鬼もいる

 岡山駅からJR桃太郎線(吉備線)に乗車。田園風景の中を走って4つ目の駅で下車。松並木の参道を歩き、急な石段をのぼると、吉備津彦命を主神として祀る吉備津神社の豪壮な社殿が現れる。
 拝殿と本殿がひと続きになった巨大なお社は室町時代の建造で、国宝。手前の拝殿には「平賊安民」、つまり賊を平らげ、民を安らかにしたという意味の巨大な扁額が掲げられている。まさに、桃太郎の話そのものだ。
 おもしろいのは、本殿内に討ち取られた側の温羅も祀られていること。さらに、本殿と長い回廊で結ばれている「お釜殿」にある釜の下、地中深くには、温羅の首も埋められているという。
 毎日のように行われている鳴釜神事は、火にかけられた釜の中に米を入れると、鬼の声のような音が鳴り始め、その音で吉凶を占うというもの。家内安全、良縁、受験合格と様々な願いが占われるが やはり音が大きいほど喜ばれるそうだ。

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岡山後楽園。およそ320年前に岡山藩主、池田綱政が造営して以来、歴代藩主が手を加えてきた大名庭園。江戸時代の美意識を現代に伝えている。*

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岡山駅前の広場に立つ桃太郎像。犬、猿、キジを従えた、りりしい姿。*   鬼ノ城。温羅が拠点にしたとも大和朝廷が築いたともいわれる古代の山城。約2.8kmにわたり城壁や土塁が巡らされていた。西門などが再現されている。

「きびだんご」が生まれた場所で

 さて、いよいよ次は「きびだんご」だ。岡山駅前から路面電車で約10分、中納言電停の前に立つ廣榮堂の本店を訪ねた。
 安政3年(1856)に菓子屋の暖簾を揚げた創業の地に立つ本店は、昨年12月に改築オープンしたばかり。店内は、木材をふんだんに使って日本建築の粋を凝らす一方、吹き抜けや坪庭から外光を巧みに取り入れた斬新な造り。高級感あふれる和の空間の随所に、モダンアートが配されている。
 ところが、菓子売り場の一番目立つ場所に並んでいるのは、菓子職人が作る季節の上生菓子や棹物、あるいは「調布」や「きび大福」といった普段使いの和菓子で、看板商品の「きびだんご」は、正面とは反対側につつましく置かれている。
 五代目当主、武田浩一さん(1963年生まれ)に話を聞いた。
 「それは、この廣榮堂の本店が、まず地域の和菓子屋でありたいと考えているからです。きびだんごが生まれた創業の地で、地域の人々に愛される和菓子屋として、『おいしい』『楽しい』を提供する。それが私たちの仕事だと思っています」
 その想いを進めるために店の上階には、これまでにない全く新しい菓子を開発するためのラボや茶室などの施設も造ったのだと言う。
 「なぜなら、和菓子というカテゴリーに将来性を感じていますから」

革新の家系

 そして、武田さんも平成18年に社長に就任して以来、会社を大きく変革してきた。
 例えば、本店に併設された茶房「ひねもす」では、目の前で「調布」や「どらやき」を焼き上げてくれる。この楽しいスペースのアイデアも、できたての菓子を載せるシックな平皿も、社員の提案や意見が実現したものなのだ。
 ちなみに、菓子とともに味わうコーヒーも、コーヒー愛好家の社員が豆選びから抽出まで担当している。つまり、店中に社員のアイデアがあふれているのだ。
 「社長の仕事は、社員が輝ける舞台をつくることだと思っています」

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全部、ほんまもんで

 廣榮堂の本社に、社長室はない。新店舗のコンセプト作りも、新しい菓子のアイデアも、すべては社長と社員が平場で議論を重ね、提案者が先頭に立って実現していく。こうした開かれた仕事のやり方で、廣榮堂は年商を伸ばし続けている。ただし、信頼性や安全性を掲げた社是は不動だ。
 「変な儲け方をしても意味がない。全部、ほんまもんでやっていく。それで160年、続いてきたんですから」
 本店の北側には日本三名園の一つ、岡山後楽園がある。およそ320年前に岡山藩主の池田綱政公が作らせた広大な回遊式庭園だ。
 なるほど。桃太郎には、こんなのびのびとした風景がよく似合う。

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*印の写真提供:岡山県観光連盟

廣榮堂 Koeido

岡山市中区中納言町7-32(中納言本店)
TEL :086-272-2268

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私の仕事は、
社員が輝ける舞台をつくること。
社員と共に、食べる楽しさを
追求していきます。

       武田浩一

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むかし吉備団子   季節の上生菓子

東京 上野 No.207

松江

東京国立博物館。日本を中心に東洋の国々の美術品や考古遺物などを保存、公開している。
本館、平成館、法隆寺宝物館など6館があり、写真は表慶館。

 朝から賑わう東京・上野の「うさぎや」店頭。「どらやきは本日中にお召し上がりください」と、店員のお願いの声が聞こえる。ちょっとびっくりした顔をしたり、納得したようにうなずいたりするお客たち。うさぎやのどらやきは、できたてが一番おいしいですよと、店員は自信をもってお勧めしているのだ。

本店は伝統的に

 うさぎやのどらやきの特徴、やわらかな粒餡に使っているのは、北海道・十勝産の小豆。長年の付き合いの卸業者が、豆を選別して納入する。それを職人が、さらに選り分け、朝6時半から餡を焚き始める。その餡を包むのが、サクッとした食感に焼き上げたレンゲの蜂蜜入りの皮。店の地下の工場で作り、できたそばから店頭に出して、夕方までには売り終える。 作るのは、十数人の職人たち、売るのは5、6人の店員。
「(今日でなく)明日食べられるのは悔しい、と言い始めたら、うちの店員さんになったなと思います」と話すのは、4代目当主の谷口拓也さん(1963年生まれ)だ。
 25歳から10年間は工場で働いて店の伝統の技を身につけ、社長になって15年。うさぎ年生まれの56歳は、本店1店舗にお客様に買いに来ていただくことで、どらやきの「生もの」のおいしさを守っている。
 あえて店舗は増やさない。どらやきと並ぶもう一つの看板、創業者の名を冠した「喜作最中」や羊羹、上生菓子、焼き菓子などを揃えて伝統的な和菓子屋の姿を保っている。

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国立西洋美術館。昭和34年(1959)の開館。
平成28年(2016)に、本館の建物が「ル・コルビュジエの建築作品」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。
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西郷隆盛の銅像。大日本帝国憲法発布に伴って西郷の「逆賊」の汚名が解かれ、明治31年に建立された。   上野の山は休日をゆったりと過ごすにも、もってこい。背後の建物は旧東京音楽学校奏楽堂。

挑戦はCAFÉで

 対照的にちょっと前衛的な試みをしているのが、本店から徒歩数分のところにおいしい餡のデザートを出したいと2015年に開いた「うさぎやCAFÉ」だ。BGMはハワイアン、片隅に「ハワイウォーター」の給水器、壁には抽象画が飾られている。
 メニューを見れば、「うさどらフレンチ焼き」や「うさ志る古フロマージュ」、「日本酒うさ氷」…どんな味がするか、想像力を刺激される。開店時間の午前9時から10分間だけ供される「うさパンケーキ」というのもある。
 一見、突拍子もない素材の組み合わせに見えるメニューにも、由来と根拠がある。6年前、ハワイの日本領事館に招かれて、どらやきと日本茶でもてなすイベントに参加した時に出合ったのが、現地の天然水「ハワイウォーター」。超軟水で、口当たりが素直、のど越しまろやか。その場でほれ込み、カフェのコーヒーや日本茶、「うさ氷」の素材に使っている。
 そのハワイで日系人から勧められたのが、どらやきを使ったフレンチトーストだ。「あんこが入ったままやるんだよ」と言われてやってみると、バターと餡の相性が抜群だった。
 温めたどらやき用の餡と最中の皮をセットにして、餡を皮にのせたり、皮を餡に割り入れてスプーンで食べたりするのが、「うさ志る古」。その餡にさらにチーズを加えると「うさ志る古フロマージュ」。こちらは、谷口さんが卒業旅行で行ったブラジルの日系人から教わった、羊羹とチーズを一緒に食べるやり方をアレンジしたもの。チーズの塩味が餡の甘みを一層引き立てる。
 カフェ専用の煎茶、ほうじ茶、玄米茶は、ハワイのイベントで出会った狭山茶の製造・加工元にブレンドしてもらい、「うさ餡みつ」に使う寒天は、谷口さん好みのやわらかめのものを卸元に発注している。
 というわけで、「うさぎやCAFÉ」のメニューは、いわば谷口さんの幅広い人脈と活動、それに遊び心の産物だ。工場の職人たちも、普段はやらないことに取り組んで経験を積む。伝統と革新が、本店とカフェ、二つの店の異なる性格を際立たせ、両立させている。

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本店の軒に飾られている「うさぎ」は、先代がベネチアで
注文したガラス製。

宝の山・上野

 うさぎやから歩いて5分の上野の山。入口には明治以来変わらず高村光雲作の西郷隆盛像がそびえているが、一帯は今や歴史と美術と科学の粋が一堂に会する一大「文化エリア」だ。
 20世紀を代表する建築家の一人、ル・コルビュジエが設計した世界遺産の国立西洋美術館。日本と東洋の文化財を収集し、国宝・重文数知れずの東京国立博物館。シロナガスクジラの原寸大模型が目を引く国立科学博物館。ジャイアントパンダが生まれて育つ上野動物園。オペラやバレエの公演ができる音楽の殿堂・東京文化会館。いつもどこかに入場待ちの行列ができている。
 ほかにも東京都美術館、下町風俗資料館、東京藝術大学美術館……。まだまだあるが数えきれない。この上野の山を「お宝鑑定団」で丸ごと評価したら、一体いくらになるのだろう。文字通り、上野の山は宝の山だ。
 これらの文化施設が連携し、上野の潜在力を一層高めようとの構想が、東京オリンピックを前に進んでいる。文化庁が旗振り役の「上野文化の杜」構想で、アートディレクター・日比野克彦氏を総合プロデューサーに、周辺の町を含めて支えあい社会を目指す「UENOYES」プロジェクトを展開、文化施設共通入場券を発行している。
 リニューアルされた旧東京音楽学校奏楽堂や国際子ども図書館。新たに設置された屋外彫刻。施設が軒を連ねる道端におしゃれなカフェもできて変わりつつある上野の山は、銅像の西郷さんの目に、どう映っているだろう。

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うさぎや Usagiya

東京都台東区上野1-10-10
TEL :03-3831-6195

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職人が丁寧に、真摯に
炊き上げているあんこを、
最高の状態でお客さまに
召し上がっていただきたい。
その想いだけです。

       谷口拓也

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どらやきと喜作最中   うさぎまんじゅう

神戸 No.206

松江

異人館が立ち並ぶ北野町から眺める神戸の街。グルメもショッピングもハイセンスな港町だ。

 「神戸で方角を聞かれたら、山か海かで答えるねん」
 生粋の神戸っ子の友人がそう言っていた。たしかに神戸のデパートに行くと、案内表示に「山側」「海側」と書かれている。神戸は、北の六甲山地と南の大阪湾に挟まれた東西に広がっている街だから、東西南北で言われるより、この方がずっとわかりやすい。
 山と海に加えて、もう一つ神戸の街をつくっている要素が「風」だ。著名な作詞家の松本隆が東京から神戸に移り住んだのも、この街に吹く風にひかれたからだとか。「風立ちぬ」を松田聖子に歌わせた人だ。

 さらに、阪神タイガースの有名な球団歌は「六甲おろし」。
 街のすぐ近くに山があって、海があるから、清々しい風が生まれる。

120年の歴史

神戸港は昨年、開港150年の節目を迎えた。日本有数の港の間近にある元町商店街は、長さ1キロ余りも続くアーケード街。交通の便が良い上に、中国料理店がひしめく南京町やヨーロッパの都市のような街並みが続く旧居留地、さらにカフェや雑貨店が点在して若者に人気の乙仲通りなども隣接しており、いつもにぎわっている。
 全国区の人気を誇る銘菓「ゴーフル」で知られる神戸凮月堂の本店は、この元町商店街の中ほどにある。
 当主は7代目の下村明久さん(昭和46年生まれ)。大学院卒業後、フランスに渡り、7年間にわたって菓子と料理を学んで帰国。昨年6月に社長に就任したばかりだ。
 神戸凮月堂は明治30年(1897)の創業。初代は東京の米津凮月堂で洋菓子を修業した後、現在の元町本店のある場所に店をオープン。その際、凮月堂の総本店から暖簾分けの印として「凮月堂」の名をいただいた。そして、  「おかげさまで、平成29年に創業120年を迎えました。歴史の重みを感じながら、どこに向かって進んでいくべきかを日々考えています」と下村さん。
 看板商品のゴーフルも、洋行帰りのお客様が「こういう菓子を作ってはどうか」と焼き菓子を持ち込んだのをきっかけに試作が始まり、昭和2年に商品化された歴史を持つ。サクサクと香ばしい薄焼きの生地にバニラ・ストロベリー風味・チョコレートのクリームがサンドされ、口の中でほろほろと溶けていく独特の食感が人気。いろいろなデザインの「ミニゴーフル」やコーヒー・紅茶・抹茶のクリームをサンドした「ゴーフル・オ・グーテ」などの姉妹品も好評だ。
 しかし、「もっとおいしく」と試作は続いている。20代を菓子作りに捧げた若き当主は、今も時間を作っては工場に入っているという。

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中国料理店や雑貨店などが軒を連ねる「南京町」。秋の中秋祭や新年の春節祭などイベントも多彩。   ウォーターフロントの風景も美しい神戸。夜景もロマンティック。
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挑戦者のDNA

 歴史の重みを感じながらも、伝統にとらわれない挑戦者の気概こそが神戸凮月堂の「伝統」かもしれない。
 初代は神戸から東京へ洋菓子を学びに行き、下村さんの父で、3代目の下村光治氏はホテル事業などに挑戦。母で4代目となった下村俊子さんは音楽イベントをはじめとして神戸の街を活性化させる様々な事業にボランティアで取り組んだ。そして当代が、今、模索を続けているのが、「食糧としての菓子」のあり方だ。
 たとえば災害時、菓子を食べることで元気になっていただけるのではないか。そうしたときに必要とされる菓子はどんなものなのか。それは阪神・淡路大震災を経験したからこそ浮かび上がった課題であり、戦争を体験した母・俊子さんが「平和でないとお菓子は作れない」と、折に触れて言い続けてきたことへの答えにもつながる挑戦だ。
 「つまり、菓子屋としてどう社会へ貢献できるか、ということです」

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戦後活躍した、電気式手焼き用ゴーフル焼き機

神戸に「凮月堂」あり

 就任して1年余りだが、すでに下村さんが主導した新しい菓子が誕生している。
 昨年秋から期間限定、本店限定で売り出したのが「抹茶『玉雲』と和栗のパウンドケーキ」。同じ元町に店を置くお茶の老舗「放香堂」の最高級抹茶をふんだんに使った商品で、しっとりとした生地の中に大粒の和栗が丸ごと入って贅沢な味わい。
 また、百貨店のイベントでは和菓子部門の職人と洋菓子部門のパティシェがコラボした創作菓子が大評判になった。
 「お客様が喜び、菓子を作る者たちも喜ぶ菓子を創っていきたいですね。東京の凮月堂総本店はもうありませんが、そもそも江戸時代に和菓子屋として世に認められた店でした。その暖簾を継いでいるという誇りも込めて、現代の人々にもっと和菓子に注目していただけるような挑戦をしていきたいと思っています」
 元町本店の店内には、洋と和の菓子が仲良く並んでいる。そして今、神戸凮月堂の菓子はアメリカやアジアに出荷され、国を超えて多くの人の心をつかんでいる。
 元町本店を出て山側へ歩く。旧居留地と北野の異人館街を結ぶトアロードの坂道周辺には、しゃれたレストランやブティックが並ぶ。
 坂を上りきると、山からの風が疲れを癒やしてくれる。振り返れば、神戸の港と海が見えるはずだ。そこは世界につながっている。

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神戸凮月堂 Kobe‐Fugetsudo

兵庫県神戸市中央区元町通3-3-10
TEL :078-321-5555

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海を向いている神戸は、
挑戦する風土、土地柄です。
「もっと、おいしい」菓子を。
そのためにやれることは
まだまだあると思っています。

       下村明久

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ゴーフル   抹茶「玉雲」と和栗のパウンドケーキ

佐賀 No.205

松江

各国から100機以上の熱気球が参加し、佐賀平野を眼下に飛行技術を競う「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」。毎年、80万人を超える観光客が佐賀市を訪れる、2019年の40回記念大会は10月31日〜11月4日開催。

 一面の麦畑の中に、一直線の道が続く。佐賀市の南、有明海に近い江戸時代以来の干拓地だ。空を舞う白と黒のコントラストが鮮やかな鳥は、佐賀県のシンボル、カササギだろうか。
 道はやがて、東よか干潟に突き当たる。遠くに無数の渡り鳥の群れ、水際には秋に紅葉するシチメンソウの群落。そして、いたるところにトビハゼやシオマネキ。ムツゴロウもどこかに潜っているのだろう。有明海ははるかに広く、麦畑も広く、空は一段と広い。この開放感が、佐賀だと実感する。
 毎年秋に、各国から熱気球が集まって佐賀で世界大会が開かれるのも、この広い空があればこそと納得できる。

ルーツは南蛮渡来

 佐賀の銘菓マルボーロは、400年近い昔にポルトガルから伝えられた南蛮渡来の焼き菓子だ。九州の各地に似たような菓子が残るが、広大な佐賀平野で材料の小麦が採れることが、佐賀をマルボーロの本場にした。
 この菓子で全国に知られる「北島」は、1696年に佐賀の城下町で数珠屋として創業した。その後、呉服や日用雑貨を扱い、4代目の時代からは佐賀藩の御用達となり、名字帯刀を許されるほど商いは大きくなった。
 しかし、明治維新で状況は一変。その時、8代目の八郎が目をつけたのがボーロだった。長崎貿易に携わったご縁から南蛮菓子の製法を伝えていた由緒ある家に製法を教わり、製菓業に転身。息子の9代目、安次郎と一緒に「うまかばってん、堅か」と言われていたボーロに工夫を重ねて、柔らかで口に入れるとサラリと溶ける「丸芳露」を完成させた
 現当主、香月道生さん(1960年生まれ)は12代目。安次郎の曾孫にあたる。
 丸芳露は、まあるい形。最近拡充した工場では、毎朝、生地を手作業で型抜きするリズミカルな音が響く。工程のほとんどが手仕事。4人の職人が1日に焼く丸芳露は、約1万5千個。毎朝、「その日、最初に焼いた丸芳露の色形を見、ひとくち食べて」、材料となる数種類の小麦粉や卵、砂糖をわずかに調整しているという。

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佐賀藩10代藩主・鍋島直正と11代藩主・直大をまつる佐嘉神社。境内には佐賀藩が保有し、戊辰戦争で威力を発揮したアームストロング砲とカノン砲が復元・展示されている。   筑後川の河口近くに架かる「筑後川昇開橋」。旧国鉄佐賀線の橋梁として1935年に竣工。列車の通過時に、橋の中央部が降下していた。日本に現存する最古の昇開橋で、全長約507m、国の重要文化財。
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東よか干潟。日本有数の渡り鳥の中継地・越冬地で、ラムサール条約に登録されている。

丸芳露を主役として

 北島は、佐賀市の中心部、長崎街道と中央大通りが交差する場所に、ポルトガル風の黄色い外壁の本店を構えている。店舗の上階にある香月さんの自宅で、不思議なものを見せてもらった。見た目は少し形が崩れた丸芳露。実は、ボーロ・デ・ジェンマ(卵の菓子)という名のポルトガルの菓子だという。大学卒業後に勤めたデパートを退職し、1年間ドイツに渡った香月さんは「丸芳露にそっくりな伝統菓子がある」という情報を頼りにポルトガルへ。
 「リスボンのカフェを4、5軒回って手に入れました。表面に砂糖がかかっているけれど、割った中身はマルボーロそのもの。洋の東西に分かれた菓子が、400年経って、同じような大きさや形で残っていることに感動しました。衣食住に関するものは時と場所を超えて、一定の形に収れんしていくのでしょうか」
 会社経営の原点となる様々な体験と共に持ち帰った丸芳露の“遠い親戚”は、「捨てるに忍びず」、30年にわたって香月さんの手元に保管されてきたのだ。

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丸芳露の素朴な姿と豊かな味わいは、 手作りならでは。

 帰国後に商品化した「オブリガード」(ポルトガル語でありがとうの意)は、そのボーロ・デ・ジェンマを模したもので、砂糖のコーティングにショウガの香りが爽やかだ。ほかにもアンズジャムをはさんだ「花ぼうろ」、ゴマの香りとサクサクした食感の「ごまぼうろ」、玄米と黒糖の深みのある味の「玄ぼうろ」など。ボーロの兄弟姉妹はそれぞれ個性豊かだが、
 「やはり北島の代表商品は丸芳露です。時代に合わせて新商品も作っていますが、それらは丸芳露を引き立てる脇役として育っていけばいいなと思っているんです」
 香月さんの代になって北島は包装紙やパッケージのデザイン、店名・菓子銘のロゴを変えて、より洗練し、親しみやすくして全国にファンを増やしてきた。その売り上げの半分以上は、やはり丸芳露が占めている。

「未来」を築いた人々

 明るい日差しの注ぐ店頭に、最近、外国人客の姿が増えた。佐賀空港は、ここ数年で上海、韓国各地、台北からの航空便が定期化した。大都会・上海からでも1時間半で、緑豊かで空気がおいしい“桃源郷”にひとっ飛びで来れるのが魅力だという。
 そもそも佐賀は、幕末・明治以来、いち早く海外に目を開いた土地で、さまざまな技術や制度の先駆者を輩出した。
 有明海に近い早津江川のほとりにある三重津海軍所跡は、洋式船の修理が可能な日本最古のドライドックの跡で、「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されている。その監督を務めていた佐賀藩士出身の佐野常民は、また日本赤十字社の生みの親でもあった。
 大隈重信、江藤新平など、新時代を築いた政治家だけでなく、近代建築の先駆者・辰野金吾、近代医学の礎を築いた伊東玄朴、初の女性化学者・黒田チカなど、先進的文化人も枚挙にいとまがない。
 そうした人々に会いたければ、佐賀市の中央大通りを歩くとよい。佐賀ゆかりの25人の偉人が、歴史から抜け出したような姿で立っている。

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丸芳露本舗 北島 Marubolohonpo kitajima

佐賀県佐賀市白山2-2-5
TEL :0952 (26) 4161

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もともと丸芳露は、
先祖が他のお店に
教えていただいた菓子です。
その恩返しのためにも、
代々が努力を惜しまず、
よりおいしくと作ってきました。

       香月道生

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丸芳露   花ぼうろ

金沢 No.204

松江

兼六園。代表的な林泉回遊式大名庭園で、日本三名園の一つに数えられている。冬には雪吊りの松、春には桜、初夏にはカキツバタなど四季折々に楽しめる。*

 北陸新幹線が、長野から金沢まで延伸したのが、いまからちょうど4年前。東京−金沢間が乗り換えなしで2時間半の距離となり、訪れる人が増え、金沢の町が変わった。
「活気が出た」「企業がやってきた」「外国人観光客が増えた」という声が聞こえる一方、「ホテルの予約が取れない」「タクシーが足りない」「食材の値段が上がった」とのうわさもある。
 いずれにしても、新幹線の延伸は、これまでの他地域でのケースに比べても、はるかに明確な影響を地元に与えている。

郷土玩具をかたどり

 金沢駅の新しいショッピングモール「あんと」のレジの前は、いつも人だかりがしてにぎやかだ。
金沢の主な和菓子屋や工芸品店の商品を網羅した売り場で、市内・御影町に本店を置く金沢うら田の「加賀八幡 起上もなか」も人気商品の一つ。赤い包装紙に、ピンクのほっぺの童子の顔と松竹梅のめでたい模様。華やかでかわいい形状は、金沢の郷土人形「加賀八幡起上り」を模している。なかには7個入りの箱の真ん中に、ちょっといたずらのように本物の人形が一つ、もなかと入れ替わった楽しい詰合せも。

菓子づくり80年

 金沢うら田のホームページの会社案内欄に、『うら田今昔』と題した社史が掲載されている。創業80年の歴史を率直、平易にまとめた読みごたえのある文章だ。
 現社長の祖父にあたる創業者が金沢の町のパン屋で懸命に修業し、やがて暖簾分けでパンの販売を始め、戦前戦後の幾多の困難を乗り越えながら和菓子を作るようになり、息子、孫へと受け継いできた過程を淡々とした筆致で描く。それは、一つの家を取り巻く人々の努力の記録であると同時に、加賀百万石の城下町の歴史の一角を生き生きと物語っている。
 和菓子を本格的に作り始めた初代は、「柴舟」で知られる同じ金沢の柴舟小出の主人の示唆を受けて「加賀舞づる」を創作。昭和30年に販売を始めた「加賀八幡 起上もなか」も、郷土玩具店の「中島めんや」の主人と知り合いだったことが商品化につながった。こんなところにも、金沢の老舗同士のご縁がうかがえる。
 2代目は、火事による工場全焼からの再建を担い、今に続くロングセラー商品「さい川」を開発。さらに和菓子も洋菓子も売る店舗や大型ショッピングセンターなどへの出店と、老舗の形を整えた。

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金沢城。江戸時代に加賀藩主・前田氏の居城として築かれた。石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫(すべて重文)を残して、明治時代に火災で焼失したが、近年、櫓や門、庭などが次々に復元整備されている。写真は復元された五十間長屋。*   鈴木大拙館の「思索空間と水鏡の庭」。仏教哲学者・鈴木大拙の考えや足跡を伝えるとともに、来館者自らが思索する場として利用することを目的につくられた。設計は、谷口吉生。若者や外国人の姿も目立つ。
写真提供:鈴木大拙館

今、ここ、私

 当代の社長・浦田東一さんは、ただいま56歳(昭和37年生まれ)。座右の銘は、「今、ここ、私」だ。「先のことを考えすぎず、毎日を大切に、今、この瞬間にやらなくてはならないことにしっかりと目を向ける」という意味だという。 日々、お客様への言葉遣いや対処の仕方、店のポップの表現一つにも気を遣う。菓子作りも、手作業を大事にしつつ、最近では餡の状態などを科学的に数値化し、商品を均一化することに苦心している。
 「加賀八幡 起上もなか」の包装紙にも、一工夫をした。初代が考案して以来、人形の衣の色はずっと白かったが、ある年の贈答期、詰め合わせ用の彩りに赤い衣を着せて入れてみたところ、女性従業員たちが「普段も赤がいい」。その声を拾い上げたのが、今の形だ。結果、新幹線延伸も相まって3倍近い売り上げになり、総売り上げの4分の1を占める主力商品になった。社内の日々のコミュニケーションの賜物だった。
 歴代それぞれが看板商品を送り出してきたなか、浦田さんが創案した「愛香菓」は、アーモンドとレモン、シナモンの香りが口の中で溶け合うちょっと洋風な和菓子。パン屋から始まった「うら田」のルーツを踏まえた一品だ。  さらに新商品の「どんつくつ」は、しっとりと甘いサツマイモを使った乳菓。金沢の茶屋街で、芸妓さんが叩く太鼓の音を菓子銘にした土産菓子で、今年2月初旬に発売を開始した。

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金沢の季節を映す生菓子にも力を入れている。

「文化と食」の厚み

 新幹線の延伸効果を生んだのは、もともと金沢が「文化と食」という、人を惹きつける要素を持っていたからだとも言える。兼六園の整った美しさは、外国人も含め、たくさんの観光客が楽しんでいる。
 金沢城公園では加賀藩三代藩主・前田利常公の作庭以来、歴代藩主によって手を加えられてきた「玉泉院丸庭園」の再生整備が終わり、いにしえの姿を取り戻した。
 金沢城公園からほど近い鈴木大拙館は、金沢が生んだ仏教哲学者・鈴木大拙の足跡を伝える施設。自然の森を背景にした鏡のような池の水面に、ときおり人工の波紋が立ち、来館者を深い思索へと誘っている。
 石畳の両側に出格子の連なる「ひがし茶屋街」は、老舗の出店や趣のあるカフェが増えて老若男女でにぎわい、一方、浅野川を挟んで向かい側の主計町茶屋街は、昔のままのたたずまいを残して、しっとりとした情緒が漂う。
 金沢の夕暮れを味わいながら駅へ向かう道すがら、ふと気になる店が。赤い看板に「めんや」の文字。まさしくそれは「加賀八幡 起上もなか」の原型になった起上り人形の「中島めんや」本店。店内には、土地の神楽で使うお面などと共に、大小さまざまな起上り人形が並んでいた。

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*印の写真提供:金沢市

金沢うら田 Kanazawa Urata

石川県金沢市御影町21-14
TEL :076(243)1719

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金沢の自然と歴史と
文化に学び、
人の心をふわりと和ませる
うら田ならではの菓子を
創っていきたいと思っています。

       浦田東一

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加賀八幡 起上もなか   愛香菓