日本橋 No.203

松江

 橋の南側には新装なった日本橋高島屋新館、東京日本橋タワー、コレド日本橋。北側には三越日本橋本店新館、コレド室町1・2・3、YUITOに日本橋三井タワー……。
 明治44年(1911)に完成した国の重要文化財の石橋をはさんで林立する超高層ビル群は、いずれもここ15年ほどの間に都市再開発の一環として竣工したものだ。

川面からの視点

 その高層ビル群の足元、日本橋の南詰めにある船着き場から、ほぼ毎日、浅草や湾岸エリアを行き来するクルーズ船が発着している。
 船から日本橋を見上げると、空は首都高速でさえぎられているが、欄干を彩る獅子や麒麟のレリーフがいくつか、こちらを見下ろしている。川面からの視点を重視したという、明治のデザインの証だろうか。
 日本橋川から隅田川、東京湾へと船が進むと、見えてくるのはウォーターフロントにそびえ建つ高層マンション群。このマンション群や日本橋界隈が属する東京都中央区の人口は、最近20年間で7万人余から16万人余へと倍増した。都心回帰の傾向も後押しして、高層ビル街となった今も、日本橋にはどことなく人々の暮らしの匂いが漂う。

老舗の力

 日本橋が「橋らしい橋」の形で架けられたのは、徳川家康が江戸に入って間もない慶長8年(1603)とされる。江戸から明治大正にかけては、日本橋川沿いに魚河岸が賑わい、威勢のいい掛け声が飛び交っていた。
 界隈には魚河岸とつながりのある様々な店が生まれた。鰹節、つくだ煮、おでん種、お茶、海苔、包丁……。数えきれないほどの店が、関東大震災を機に魚河岸が築地に去ったのちも、時を超え、老舗として生き続けている。
 菓子屋として創業した「井筒屋」時代から数えて二百年を迎えた榮太樓總本鋪も、そうした老舗の一つだ。
 かつぎ屋台で、魚河岸で働く人たちに金鍔を売っていた3代目細田安兵衛(幼名栄太郎)が、幼名にちなんで屋号を「榮太樓」と改め、日本橋西河岸町(現在の榮太樓總本鋪のある場所)に店を構えたのは安政4年(1857)のこと。現社長の細田眞さん(1954年生まれ)は、 「金鍔もうまかったのでしょうが、3代目の栄太郎は、病身の父親を助ける孝行息子という評判を味方にしたり、店をわざと小さくして行列を作らせ賑わいを演出したり、歌舞伎の演目の中で店の名を言ってもらったりと、機知に富んだ工夫をした人だったようです」と言う。
 この創意工夫の精神は、以来、店の伝統となった。
 酸っぱくないのに梅干しに似た形から、しゃれ好きな江戸っ子に名付けられた「梅ぼ志飴」、皮が硬いため赤飯以外には使い道がなかったササゲ豆を使った甘納豆の元祖「甘名納糖」、菓子には珍しい本わさびを材料にした「玉だれ」……。いずれも、昔ながらの職人の手作りの味を保ちながら、「提供の方法」「容器」「場面の作り方」に、斬新なアイデアがあふれている。

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橋の北詰め東側にある「日本橋魚市場発祥の地」記念碑。 魚市場は17世紀の初めに開設され、関東大震災で被災して築地に移転するまで300年間にわたって江戸・東京の食生活を支えた。   日本国道路元標。 江戸時代から五街道の起点だった日本橋が、 日本中の国道の起点であることを示す。 橋上の道路の真ん中に埋め込まれているため、 橋の北詰め西側にレプリカが置かれている。

人真似はしない

 榮太樓總本鋪では今、いくつもの菓子ブランドを展開している。
 リップグロス・タイプのなめられるチューブ入りや、アルファベットや絵文字で思いを伝える飴など、ブランドジュエリーや化粧品そっくりの華やかで夢のある飴菓子が並ぶのは「あめやえいたろう」。「にほんばしえいたろう」は飴、かりんとう、豆菓子などの和のおやつを、すべて200円の小袋に収めたシリーズ。糖質を抑えた羊羹やポリフェノールを含んだあずき茶など、健康志向を強調した「からだにえいたろう」。そのほか、量販店向け、都内数か所にある甘味処の特製品、昭和の銘菓を引き継いだ「ピーセン」もある。

 関東大震災や戦災、バブル崩壊などを乗り越え、いまや売上60億、従業員250人。全国に販売網を展開している。

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日本橋本店は喫茶室「雪月花」を併設。その入口付近に、茶道具を展示するミニギャラリーがある。細田家は代々、江戸茶道「宗流時習軒」の家元を務める。

日本橋とともに

 榮太樓總本鋪を出て日本橋界隈を散歩していると、折から宝田恵比寿神社の参道で秋の風物詩、べったら市が開かれていた。
 師走には歳の市、年が明ければ初春の七福神巡りや初売り。榮太樓の店の前では鏡開きが行われ、餅入りお汁粉のおふるまいに人々が並ぶ。3月には桜フェスティバル、初夏には神田祭や山王まつり、7月には橋洗いと、界隈では今も街の人々が支える行事が続く。
 首都高速の将来の撤去も決まり、日本橋の空は、文字通り明るくなりそうだ。

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榮太樓總本鋪 Eitaro Sohonpo

東京都中央区日本橋1-2-5
TEL : 03-3271-7785

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日本橋のたもと、
江戸生まれの菓子屋です。
心を豊かにする菓子作りに
励んでいます。

       細田 眞

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大垣 No.202

松江

交通の要衝として栄えた大垣の船町湊跡。大垣城外堀のこの川湊から運河などで海へ通じていた。

 赤・橙・黄・緑・青。直径4センチに満たない薄い半透明の円盤が各色2枚ずつ、白い紙箱の中に並んでいる。これが菓子だと聞かなければ、何だと思うだろう。菓子だと聞けば、どんな味を想像するだろう。岐阜県大垣市の柿羊羹で知られる「つちや」が2015年に創り出した「みずのいろ」は、その美しさと斬新さで菓子好きや和菓子業界を驚かせている。
 「水は無色透明ですが、様々な景色や季節を映して、その色を変えていきます。それを菓子に映してみたいと考えました」
 赤は湖面に映った紅葉、橙は山粧う木々の色……など、栞の言葉は9代目の槌谷祐哉さん(1971年生まれ)が書いた。「水都」大垣で育ち、水とともに菓子を作ってきた思いがこもっている。

商品開発が命

 槌谷さんは、生まれた時、祖父の7代目に数珠で頭をなでられたという。後継者となる長男誕生を祝う家のしきたりだ。大きくなると、「海外を経験させよ」という祖父からの申し送りに従いイギリスの大学に留学。帰国すると、家業を継ぐため北海道の有名菓子メーカーへ修業に出た。
 しかし、毎日がおもしろくない。ある日、修業先の社長に言われた。「つちやの社長には誰でもなれるぞ」。家を継ぐのはわけはないが、本物の経営者になれるかどうかは別の話という意味だ。これで目が覚めた。
 24歳で大垣に戻って家を継ぎ、病気がちだった8代目の父親に代わり、29歳の若さで社長に。スケールメリットを求める経営方針を転換し、18店あった店舗を12まで減らしていった。父親とは衝突し続けたが、目指したのは「お客様に店に足を運んでもらえるエンタテインメント性のある菓子屋」だ。
 店の未来が新商品開発にかかっていると考えた槌谷さんは、「菓子の供養塔を建てなきゃならない」ほど、新商品を作っては葬る試行錯誤を繰り返した。その中で生まれたのが「みずのいろ」だ。制作のヒントは、フランス菓子のマカロン。売れ行きが鈍っていた羊羹の色や形を考え抜き、代々受け継ぎ高めてきた羊羹作りの技で薄く丸い形を作り、ハーブティーなどで上品に色付けした。
 ほのかな香りとともに、ほろほろ溶ける不思議な食感。日本茶だけでなく、コーヒー、紅茶、ウイスキーなんでも合う。その繊細さから10日以上前に注文し、店舗でしか受け取れない「幻の菓子」だ。

豆腐の上の町

 「地下は、水ばかり。豆腐の上に街が乗っている」と槌谷さんは表現する。木曽川、長良川、揖斐川、三つの大河が流れ、縦横に運河が通じる大垣。井戸を掘れば自噴するほど豊かな水の恵みも、ひとたび豪雨や洪水の形で牙をむけば、暮らしの難儀は、過去にも現在にも枚挙にいとまがない。子どもの頃の槌谷さんは、「道路が川みたいに水につかった」記憶をはっきり持っている。旧市街はいわゆる輪中という堤防で囲まれ、消防団ならぬ水防団組織があって、水と闘ってきた。
 その歴史の中で育まれた独特の身内ファースト「輪中根性」は、明治の御一新の後、力を発揮した。城下町の殿さまが東京に移り、芯の抜けた町を再建するために、町衆がお金を出し合って水力発電所を建設。豊富な工業用水も相まって、当時の国の基幹産業だった紡績工場誘致に成功し、昭和の時代まで大垣の経済は潤った。
 明治29年に建った「つちや」の堂々たる店構えには、その時代の華やぎがうかがわれる。大看板の「KAKIYOKAN」のローマ字が珍しい。進取の気性に富んだ6代目が紙に書いて職人に渡したKの脚が長すぎる文字も、そのままに作られたという。「つちや」の象徴のようなこの看板、将来、店舗を建て直しても保っていきたいと槌谷さんは言う。

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つちやの大看板   街の総鎮守・八幡神社の境内にある湧水場。大垣では市内各所で湧水が見られる。

「奥の細道」結びの地

 「親父の子どもの頃には、本店から川湊を出ていく帆船の帆が見えたそうです。今も、街中に古い水路がたくさん残っています」
 さらさらと、かすかな水音を聞きながら、その水路の一つ水門川に沿った遊歩道「四季の道」を歩いた。約40分の道のりの所々に、松尾芭蕉の奥の細道の句碑がある。
 芭蕉は「笈の小文」の旅以来、大垣と縁を深め、親しい門人も多数いた。「奥の細道」の旅では、最初から「結び」の地を大垣と思い定めていたらしく、東北・北陸の歌枕を巡ったのち、この地に2週間滞在した。門人たちの手厚いもてなしは、旅に疲れた芭蕉に「蘇生のものにあふがごとく」の感を抱かせた。その後、伊勢へ向けて水門川の川湊から船出し、「蛤の ふたみに別 行秋そ」と、門人との別れを惜しんでいる。
 川湊にはいま、静かに和船が浮かび、岸には奥の細道結びの地記念館が建つ。
 「大垣の繁栄は、店の礎。町への協力を惜しむな」
 代々の教えに従って、槌谷さんも地元の祭りに関わり、大垣の良さを発掘して地元の人に体験してもらう講座などにも力を入れてきた。そして、4代目が作り出した看板商品「柿羊羹」にも負けない「感動を提供できる菓子」の創出を目指している。

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元禄2年(1689)秋、大垣で「奥の細道」の旅を結んだ芭蕉は、船町湊から伊勢へとまた旅立った。

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つちや Tsuchiya

岐阜県大垣市俵町39
TEL : 0120(78)5311

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大垣に住んでいるのは
幸せなことです。
この街にいるからこそ
思いつく菓子を
創っていけるのですから。

       槌谷祐哉

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松江 No.201

松江

小船に乗って松江城下をゆっくりとまわる「堀川めぐり」。今年は船内でお茶が楽しめる「茶の湯 堀川遊覧船」も出ている。

 松江藩第7代藩主、松平治郷。号は不昧。松江の茶道文化の礎を築いた茶人として知られ、文政元年(1818)に68歳で没した。
 200年後の命日にあたる4月24日、松江は雨に煙り、宍道湖には墨絵のようにシジミ漁の船が浮かんでいた。
「ええ日にいらしたなあ。松江には雨が似合います」。
 平成27年に天守閣などが国宝に指定された松江城址の堀端で、土産物雑貨店の女主人が穏やかな笑顔を表に向けた。

みずみずしい松の緑

 城の周辺には松江藩家臣の上・中級武士が住まった屋敷が、まだ相当数、その面影を残している。明治時代にラフカディオ・ハーンが住んで、数々の幻想的物語を着想した小さな庭を持つ屋敷も、記念館になって大勢の外国人観光客を呼んでいた。築地塀越しに松の緑がみずみずしく、松を大事にする文化が根付いていると感じさせる。そう、松江は松と水(江)の都なのだ。
 狭い歩道を後ろから急いできた高校生に道を譲ると、かかとをそろえてきちんとお辞儀し、「ありがとうございました」と礼を言って追い越してゆく。
 坂道を上り、不昧公ゆかりの茅葺き茶室「明々庵」のある丘に登ると、向かいの小山に松江城の天守閣がぽっかりと浮かんでいた。

しっとりまとまる寒梅粉の食感

 お城の南側、寺院の多い街並みにある風流堂本店の奥座敷。生菓子と抹茶をいただきながら、4代目当主・内藤守さんの不昧公への思いを伺う。

 風流堂が作る日本三大銘菓の一つが「山川」。不昧公の茶席に供されたと伝えられ、明治以降、その製法がすたれていた幻の味を、百年忌の大茶会を機に2代目が再現した。
 材料に使う寒梅粉を、内藤さんが手のひらに乗せてくれた。米の粉を一度せんべいに焼いてから粉砕したもので、少し湿り気を与え指先でもむと、しっとりとまとまる。この硬すぎず軟らかすぎずの程よい食感が、「山川」の命だ。
 「百年忌の大茶会では大変な評判になって製造が間に合わず、まだ粉が熱いうちに席に出したと聞いています」。
 「和菓子屋としては大変お世話になっていますが、じゃあ不昧公好みとはどんなものかと聞かれると、一口には難しい」と、内藤さん。スケールの大きな、多面性を備えた君主だったようだ。

たたら製鉄の恩恵

 記録によると不昧公は17歳で藩主になって以来、度重なる大凶作、飢饉、虫害などで危機に瀕していた藩財政をリストラと殖産振興で立て直した。江戸藩邸の経費を節減し、藩士の役職料を減らし、金利不払いなどで借金を整理する強面の手法の一方、朝鮮人参、木綿、たばこ、ハゼ蝋など米以外の商品作物の生産を奨励した。
 なかでも地元の砂鉄によるたたら製鉄は、当時全国の8割を超える生産量で藩財政を支えたとされる。砂鉄と炭を炉に投じて純度の高い鉄を取り出す日本古来の製法だ。
 「三日三晩焚き続けるから、めちゃくちゃ炭がいる。従事していた人は俗にたたら十万といわれて、その8割がたは木こりと炭焼きだった。できた鉄は宍道湖畔に運んで船で松江へ。いい鉄は兵庫の三木や新潟の三条へ運んで刀や刃物にし、質の悪いものは地元で鍬などにした……」。 
 和菓子屋の内藤さんが鉄について語る口調が熱いのは、それが松江の茶道文化、菓子文化を支えた根っこだからだろう。
 不昧公は参勤交代で国入りするたび「国見」と称して、鉄師と呼ばれるたたらの元締めの家を回った。鉄師の家では、不昧公のおめがねにかなうよう絵師や工人を招いて京都や江戸に引けを取らないかけ軸、屏風、椀皿、菓子などを整えた。それらは後に村人に披露され、庶民の間に目利きが生まれるもととなった。

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松江藩主松平家の菩提寺・月照寺。広大な境内に、初代から9代までの藩主の廟所が並んでいる。   宍道湖。朝な夕なに、街なかから漁をする風景が見られる。

200年祭を記念し「薄霞」を創作

 寛政から文化文政にかけ不昧公治世下の40年間、藩経済は高度成長を続け、人口も増え続けた。年貢は安く、庶民の暮らしは楽だった。他藩への輸出を目指して栽培が奨励された茶は、藩内の豊かな農民や町人の消費に回り、「あぜ道で漬物をつまみながら抹茶を飲む」ような普段着の茶道文化をもたらした。
 「茶禅一味」で利休に帰ることを唱え、厳しい美意識に沿って天下の茶道具を収集した不昧公。その膝下で松江の人々は、時に藩から出される贅沢禁止のための茶の湯禁令にもあらがい、隠し茶室まで作って茶を楽しんだ。
 現在も松江市は世帯当たりの抹茶の消費量日本一、人口当たりの和菓子店数日本一という。
 今年の「不昧公200年祭」を記念して市内の和菓子店が腕を競った「不昧菓」で、風流堂は、不昧の茶会記に見える菓子銘「うすがすみ」をテーマに社内コンペを行い、煉り切り「薄霞」を創作した。パステル調の色合いが若々しい菓子だ。こうした新たな動きの中に、数年前から次女で5代目を継ぐ予定の内藤葉子さんが立ち働く姿が目立つようになってきている。
 雨の松江で、松江城天守閣、ハーンがしばしば立ち寄った城山稲荷神社、不昧公の廟のある月照寺を巡った。不昧公の廟は歴代の中でもひときわ小高い場所にあり、松の枝越しに天守閣が望める。あたかも、今も松江を見守っているかのようだ。

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風流堂 Furyudo

島根県松江市寺町151
TEL : 0852(21)3241

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伝統を忘れることなく、
新時代に合わせていく。
「不易流行」の言葉を胸に、
ゆったり松江流で
菓子を作っています。

       内藤 守

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奥州 No.199

奥州

正法寺(しょうぼうじ)。1348年開創。日本一の茅葺屋根をのせた本堂(法堂)は間口約30m、奥行き21m、高さ26m。文化8年(1811)、伊達家により再建された。惣門、庫裏とともに国指定重要文化財。

 東京駅から3時間弱。東北新幹線水沢江刺駅の周りには広々とした田園風景が広がっていた。
 水沢江刺駅は、昭和60年(1985)に自治体や地域住民が当時の国鉄に請願して開設された駅で、総工費35億円のほとんどを地域の人々が出資したのだという。駅名にある「水沢」と「江刺」は、ともに平成18年(2006)に5つの市町村が合併して誕生した奥州市のもとの2つの市の名だ。
 水沢は交通の要衝で、“みちのくの小京都”とも称された商業の街。黒石地区にある「正法寺」は、永平寺、総持寺に連なる曹洞宗第三の本山といわれる古刹で、日本一の茅葺屋根が圧巻の本堂などが国の重要文化財に指定されている。
 一方、江刺は江戸時代に仙台藩の北辺の要害として栄えた地で、さらに遡れば鎌倉時代にはすでに山城の岩谷堂城が築かれていた。
 奥州藤原氏初代・清衡生誕の地でもあり、岩谷堂城のすぐ近くには古代から中世にかけての東北文化を体験できる「えさし藤原の郷」がある。大河ドラマや映画などのロケ地としてもよく使われる人気の観光スポットだ。

羊羹を“焦がす”

 水沢江刺駅から車で数分のところに、岩手県を代表する銘菓「岩谷堂羊羹」で知られる囬進堂がある。広い駐車場には観光バスが何台も停まれるようになっていて、店舗の2階には添乗員用の休憩室も設けられている。
「田んぼの真ん中のような場所に本店と工場をつくったのは、地域の人たちの生活に配慮してのことでしたが、水沢江刺駅を発着する新幹線の車内から、『岩谷堂羊羹』の看板がよく見えるんです」
 囬進堂の3代目当主、菊地清さん(昭和30年生まれ)が、駅から出たばかりの、ゆっくりと速度を上げていく新幹線の雄姿を眺めて顔をほころばせた。
 岩谷堂羊羹の始まりは17世紀後期の延宝年間で、三百有余年の歴史がある。その時代から数えると菊地さんは12代目になるが、囬進堂では、饅頭から飴まで何でも作っていた店を、昭和2年(1927)に羊羹に特化した菓子屋とした菊池さんの祖父を初代としている。この初代の英断が当たった。
 その祖父の跡を継いだ父の菊池寛さんは、皆が歩いている時代に自転車を買い、皆が自転車に乗り始めるとオートバイを買い、皆がオートバイに乗り始めた頃には自動車に乗っていたという先見性をもった人で、店を継ぐとまたたく間に販路を拡大していった。お得意様は全国に1200軒。ハワイにまで羊羹を売りに行ったそうだ。
 そして菊地さんはというと、高校受験失敗を機に、いずれ店を継ぐと決めて15歳で東京の製菓学校へ。卒業後も東京の菓子屋で修業を続けていたところ、「販路を広げ過ぎて、羊羹作りが間に合わない」という父からのSOSが届いた。この時、30歳。
 帰郷すると、店の全権を任せてもらえるなら跡を継ぐと談判。約束を取り付けると、すぐに経営改革に乗り出し、販路を整理。2年後には新工場を建設。さらにその後、材料保管のための100トン冷蔵庫も設置して、経営を盤石なものとした。いま、囬進堂は、人口3万4千の町にあって、年間7百万本もの羊羹を製造している。
 岩谷堂羊羹は、普通では焦がしてしまうほどの強火で煉り上げて作られている。
「ですから、うちでは羊羹を煉ることを“焦がす”という言い方をします。実際に焦がしてはいけませんが、そのくらい水分を飛ばして仕上げます。日本一、水分がない羊羹。だから、よく歯にくっつくと言われます」
 代表格は昔ながらの製法と味を現代に伝える「本煉」と、波照間島産の黒糖を使った「黒煉」の2つ。かつて「本煉」は鋳物の鍋で煉っていたので、鉄分が出て真っ黒な色をしていたが、銅鍋に代わると黒くならなくなったため、創製当時の色を伝えるために黒糖を使った「黒煉」を作ったのだそうだ。

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えさし藤原の郷。ここをロケ地に、歴代の大河ドラマからヒーロー物まで多くの作品が生まれている。馬の産地だけに、戦国の合戦シーンなども得意中の得意。   天台宗の古刹・黒石寺(こくせきじ)は、藤原基衡が寄進した仏像など貴重な文化財を所蔵。毎年2月に開催される「蘇民祭」は、夜半から早暁にかけて行われる炎の裸祭りとして知られる。

“恵まれた地”で

 それにしてもなぜ、奥州の地で「羊羹」なのか。その答えは、この地にあると菊地さんは言う。
「江刺はアイヌの言葉で“恵まれた土地”を意味するそうです。その名の通り、ここには北上川がつくった肥沃な大地があります。総面積は東京都のおよそ2分の1と広大で、冬は冷え込みますが雪は少なく、日照時間の長さは日本有数です。ですから、小豆がとれ、昔はビートで砂糖もつくっていました。冬には寒冷な気候を生かして寒天作りも。原料の海藻は北上川の舟が運び、寒天を作る技術は正法寺の禅僧が教えたことでしょう。つまり、いい羊羹をつくる材料と技術が、すべてここにあったのです。」
 今も、地元の契約農家3百軒が小豆を育て、収穫すると囬進堂にトラックに満載して届けにくる。
「その農家さんも、自分の畑の小豆だからこの店の羊羹はうまいんだと言ってお客さんになってくれています。こうしたドラマが、信頼と、うちの羊羹の味わいを創っているのだと思います」
 菊地さんは、1年の半分は地元を離れ、全国の顧客に会いに行く旅の空の下にいる。材料の産地へもこまめに顔を出し、毎年1月は波照間島のサトウキビ畑を飛び回っているそうだ。羊羹のルーツを訪ねる中国・中央アジアへの旅も十数年前から続けている。
 奥州には、義経が生きて大陸へ渡り、モンゴル帝国を創ったチンギス・ハンになったという伝説があるが、羊羹はその昔、大陸から日本に伝わり、羊肉のスープから小豆の菓子へと姿を変えた。この地には、志大きなロマンの話がよく似合う。

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囬進堂 Kaishindo

岩手県奥州市江刺区愛宕字力石211  0197(35)2636

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「この地で三百年育てられました。
その恩返しの意味でも、
地元の素材を使い、人を雇用し、
この菓子の味を変えず
守っていきたいと思っています」

       菊地 清

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小布施 No.198

小布施

北斎館の前から高井鴻山記念館に通じる「栗の小径」。時代を感じさせる建物に挟まれ、道脇の樹木の中には、小布施の象徴のような栗の大木も。

 栗の間伐材を敷き詰めた、足にやさしい「栗の小径」。緩やかな起伏の先は、鍵の手の曲がり角になっている。立ち止まって、道の脇を流れる水路をのぞき込みたくなる。周囲を囲む土蔵造りや黒瓦の建物の一つに、英語で「Welcome to My Garden」の表示がある。誰でも自由に庭に入れるオープンガーデンの家だ。遠慮なく、でも、そっとお邪魔する。手入れの行き届いた樹木を楽しみつつ庭を抜けると、車の行き来する表通りに通じていた。ちょっとしたラビリンス(迷路)を抜けた気分だ。

複合性の楽しさ

「年をとってリタイヤしたときに、車を使わなくても生活しやすいように」
 ひとことで言えば、それが、小布施の街づくりのねらいだったと、小布施堂当主の市村次夫さん。小布施堂は宝暦年間(1751〜64)から地元で酒造りなどをしている市村家が、明治になって始めた栗菓子の老舗だ。
 市村さんは40年前、会社員をやめて故郷へ戻り、志を同じくする現町長のいとことともに「町並み修景事業」を始めた。その際、会社員時代の転勤先での体験が頭にあった。工場地帯と住宅地区のゾーニング。3年住んで「とんでもない」と思った。
「工場も住み家も店舗もみんな一緒のところにある、その複合性が楽しいのに」
 その考え方は「10年後になってやっと、建築界でも『混在性』などという言葉ができて認められた」。それを、40年前、自分たちで考え実行した。

新旧の建物が調和

 町並みの軸になるのは、市村家のかかわる小布施堂や桝一市村酒造場のある一帯。手狭になりつつあった菓子工場を、あえて郊外へ移転させなかった。隣接する地権者や信用金庫、行政と、それぞれが対等な立場で話し合い、お互い納得のゆく土地交換や賃貸契約を行って修景事業の基礎を固めた。江戸や明治の古い建物を生かしつつ、他所から古民家を移築し、雰囲気を壊さない新しい建物も建てた。
「小布施は京都のように町家の密度が高い町ではなく、屋敷建築と町家建築が混在しています。外部空間を塀で区切らず建物で囲み、庭を回遊のために使う。広い意味の住空間の充実を図りました」
 古い町並みに戻すのではなく、新旧の建物が調和しつつ、甍の波の下、暮らしている人が楽しい「味わい空間」をつくる――これが、小布施の修景事業だった。
 出来上がったのが昭和62年(1987)。「小布施方式」として全国から注目された。新しい住空間は「北斎館」などの開設も相まって観光客にも喜ばれ、年間100万人を超す人々が訪れるようになった。

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晩年に小布施を愛し4度も逗留した浮世絵画家・葛飾北斎。北斎館は男浪・女浪の怒涛図など、その肉筆画40余点を収蔵する。   市村家の先祖で、江戸末期、豪農・豪商の当主だった高井鴻山。北斎を小布施に招くとともに、自らも絵・書・和漢詩を良くした教養人だった。記念館には北斎のためのアトリエ・碧漪軒(へきいけん)や 書斎兼サロンの翛然楼(ゆうぜんろう)など。

地場産のショールーム

  小布施堂本店のレストラン。春はアスパラガス、夏は丸なす、秋は栗、それぞれの季節の地元の特産品が和のメニューにのぼる。修景された味わい空間は地場産品のショールームでもあるのだ。「地場とはいってもレベルに達しないものはダメ」。産品の質、加工品の質にこだわることで、中央に負けない生活文化を築き、さらには消費情報もあふれている状況をつくろうとしている。それを市村さんは「産地から王国へ」の運動と位置付けている。
 その際のキーワードは、情報だ。もともと、小布施は情報感度の高い町だった。市村さんの5代前の当主、高井鴻山は、小布施へ葛飾北斎を招いた人だが、その時代の交流は北斎のみならず、幕閣の勝海舟や雄藩の松平春嶽、山岡鉄舟らの文人墨客、大阪や松代の商人、佐久間象山、大塩平八郎まで多岐にわたった。
 明治に建てた市村家の本宅は、7割が客用の座敷で占められている。外から来る人をもてなし、外部から刺激と情報を手にする仕組みが、伝統として生きている。アメリカ人女性のセーラ・マリ・カミングスさんを取締役として迎え入れたのもそんな流れの中でのことかもしれない。彼女の突破力を生かして、木桶仕込みの酒の復活や、多彩な分野の識者を講師に招いた「小布施ッション」、小布施の町を楽しみながら走る「小布施見にマラソン」など刺激的な企画が次々実行され、観光客は120万人を超えた。
 そのカミングスさんはいま、県内の別の場所に去り、小布施は、ゆったりした時間を探し始めているように見える。小布施堂では、この春、「三つ栗」のついた墨色と栗餡色に、化粧箱を一新した。原点に戻って生菓子を軸に、新商品づくりに力を入れている。

栗の香り漂う

 新栗が採れる9月の半ばから10月半ばまでは、本店と市村家の本宅座敷で超人気菓子、「栗の点心 朱雀」が提供される。採れたての栗を蒸して皮を除き、そうめん状に裏漉ししたものを栗餡に盛る。
 普段は、本宅の蔵を改装したカフェ「えんとつ」で、洋菓子の「モンブラン朱雀」が味わえる。土産品でも、定番の「栗鹿ノ子」「栗羊羹」「楽雁」に加え、「栗あんせんべい」「青竹水栗羊羹」「くりあんケーキ」など、これまでの殻を破る新製品が目白押しだ。
 この春、小布施町の「北斎館」が収蔵する葛飾北斎の肉筆画など13点が大英博物館で展示され、好評を博した。改めて外国人の旅行者などに北斎人気が高まる兆しがある。
「北斎館」から「高井鴻山記念館」を経て、「おぶせミュージアム・中島千波館」へ。野の花が咲く穏やかな田舎道に、子どもたちの遊び声も聞こえる。国道と町の機能を一体化させる「市庭通り」委員会が、関係者総出で進んでいる。
 味わい空間は、今も少しずつ前進している。市村さんは、「ぜひ現地で、五感で味わってください」と言う。あえて残した菓子工場からは、いつもかすかな栗の香りが町に漂う。

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小布施堂 Obusedo

長野県上高井郡小布施町808  026(247)2027

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「暮らす人が楽しい町、
小布施の町並みを
五感で味わってください」

       市村次夫

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鎌倉 No.197

京都御所界隈

鶴岡八幡宮。康平6年(1063)、奥州を平定した源頼義が、ご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に祀ったのが始まり。現在の本殿は徳川家斉の造営によるもの。

古都鎌倉

「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」。鎌倉幕府成立を問われて、こう答えるのは昭和の人間らしい。諸説あるようだが、いまどきの受験対策では「いい箱(1185)つくろう」と教えるそうだ。
 神奈川県鎌倉市。三浦半島の付け根に位置する街は、南に相模湾を配し、東西と北の三方を山に囲まれた天然の要害だ。源頼朝が東国支配の拠点にこの地を選んだことも納得がゆく。
 今、鎌倉は日本を代表する観光都市の一つとなっている。若い人でにぎわう小町通り。鶴岡八幡宮へと参道「段葛」が延びるメインストリートの若宮大路。住宅街に足を踏み入れても、しゃれた飲食店や雑貨店が次々に現れて、鎌倉は散歩が楽しい。
 どこの家も庭木がよく手入れされていて、山の木々の間からは鳥の声が聞こえてくる。海が近いからか、空も明るい青をしているように感じられる。そんな町なかに、古寺名刹が点在している。古都という言葉がこれほどしっくりとくる街は、そうないだろう。

守り続ける銘菓

 若宮大路の二の鳥居脇に、「鳩サブレー」で知られる豊島屋が本店を構えている。重厚な印象を抱かせる建物。白亜の壁に、鳩サブレーの文字が躍る。
 豊島屋は、明治27年(1894)の創業。初代・久保田久次郎が鎌倉で出土した瓦をモデルにした「古代瓦煎餅」を考案して人気となり、店の基礎が固まった。
 創業まもない明治30年頃、店を訪れた外国人からたまたまもらった大きな楕円形のビスケットを食べ、初代はそのおいしさに驚き、ひらめいた。「これからの子どもたちに喜ばれる味は、これだ」。
 この出会いが鳩サブレーの原点。鳩の形にしたのは、初代が崇敬していた鶴岡八幡宮の本殿に揚げられている額の「八」の字が鳩の抱き合わせになっていることにちなんだものだそうだ。それから百有余年、鳩サブレーは、鎌倉の銘菓として全国に広く知られる商品となった。
 現在の当主は4代目の久保田陽彦さん(昭和34年生まれ)。大学卒業後、銀行に4年勤めて豊島屋に入社した。
「子どもの時から、商売をしたいと思っていました。商人の父の背中を見て育ったので、自分もそうなりたいと」入社してすぐに鳩サブレーの工場に入り、それから十数年間は製造現場。平成10年(1998)に、本店・本社の建て替えに合わせて本店長に就任した。

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鎌倉五山の第一位、建長寺の国宝「梵鐘」。寺の創建当時の様子を今に伝える数少ない貴重な遺構。   鎌倉は、山あり海ありと自然に恵まれた街。夏の浜辺は首都圏から訪れる海水浴客でにぎわう。

 社長になったのは平成20年(2008)のこと。多くの現場を経験するなかで、商品に対する強い自信が培われた。
「サブレーに関しては、どこにも負けないという気持ちで作っています。だてに百年焼いていません。でも、一方で、まだまだ美味しくできるとも思っているんです」  卵を筆頭に、日々品質が変化する材料を扱いながらも、初代が試行錯誤を重ねて辿り着いた粉やバター、卵の配合率“わり”を変えず、お客様がいつ食べても同じおいしさを感じられるよう作っているという。
「よく、鳩サブレーはほとんどオートメーションで作っているんでしょと言われるんですが、工場をご覧になったら驚くと思いますよ。今でも多くの工程が人の手に依っています」機械を入れてもレシピは昔と変えず、人が機械を使いこなしている。
「でも、大事なのは鳩サブレーの味は、工場だけで作られているわけではないことです。菓子を包装する人、配達する人、店頭で売る人、いろいろな人によって守られている味なんです。
 ですから私も、企業家ではなく商人でありたい。経営者ではなく、あきんどでいたい。ずっとお客様第一で考えられる店主でありたいと思っています」鳩サブレーは、豊島屋が自信を持って作る菓子。発売から百年以上守られてきた菓子の味と形が、人々に愛され続けている。

笑顔あふれる店に

 本店は、1階が広々とした売り場となっていて、鳩サブレー以外の菓子にも目を奪われる。
「小鳩豆楽」は鳩の形の可愛らしい落雁。「きざはし」は苔むした鎌倉石の石段の趣きを写した求肥の菓子。「雪の下」「段葛」「鎌倉五山」「松ヶ岡」など、鎌倉の地名をつけた和菓子も人気だ。上生菓子も鎌倉の季節や自然を題材にしていて評判がいい。
「豊島屋の菓子は、鎌倉の歴史や地域性、和の暦などを大事にしています。和菓子ですから伝統的な製法、型を守ることに価値がある。その姿勢を崩さずに作っています」  一方、豊島屋は平成26年に駅前の「扉店」でパンの製造・販売を始め、さらに翌27年には洋菓子専門店「置石」をオープンさせるなど革新的な展開を見せている。
 また、本店の一角では鳩グッズ「鳩これくしょん」が販売されていて、これが「かわいい!」と観光客に大人気。正月に本店限定で売り出される鳩サブレーの箱は、さらに遊び心が満載で、凝りに凝ったデザインを毎年楽しみにしているファンも多いという。楽しむときは徹底して楽しむ、それが久保田さんの信条だ。
「鎌倉に住む人、鎌倉を訪れる人、鎌倉で働く人がみな笑顔になる街にするには、まず豊島屋から楽しくしなければ。わくわく仕事ができるような店にしたいと思っています」
本店の2階は鳩巣と名付けられたギャラリーで、主に先代が世界各地で集めた、鳩をモチーフにした工芸品や絵画が展示され、ほっとできる空間になっている。窓の外には、昨年改修を終えたばかりの段葛の若々しい桜が、やさしい木陰をつくっていた。

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豊島屋 Toshimaya

鎌倉市小町2−11−19  0467(25)0810

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「経営ではなく商売をしたい。 お客様第一で考えられる 店主でありたい」

       久保田陽彦

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京都御所 No.196

京都御所界隈

京都御所の承明門越しに見る紫宸殿と左近の桜。事前申し込み無しで参観できるようになったため、歴史の舞台が身近になった

 富小路通、高倉通、夷川通…優雅な名前の付いた「通」が碁盤の目のように交差する、京都御所の南の界隈。住宅や商店が入り混じり、暮らしのにおいが漂う街並みのあちこちに、さりげなく、時代を感じさせる店構えが佇む。看板に立体文字が浮き出ている家具屋さん。豆菓子の専門店。お香の店、漆器の店、陶磁器の店。散歩していて、なんだか心が穏やかになる街だ。

老舗中の老舗

 この街の一角に、蕎麦板やそば餅で知られる菓子と蕎麦の老舗「本家尾張屋」の本店がある。車屋町通に面して奥ゆかしくしつらえられた入口には、白地に「寶」の文字の暖簾。明治初期の建物に、幾星霜を眺めてきたと思われる泰山木の巨木が似合う。
 ここは、老舗の多い京都の町でも、老舗中の老舗。戦国時代の始まり「応仁の乱」の2年前の1465年に、尾張から来て、菓子製造にあたったと文書にある。江戸中期、京都の禅寺で蕎麦切りが食されるようになったのがきっかけで、「練る・伸ばす・切る」の技術を持っていた菓子屋が注文を受けるようになった。1700年頃から蕎麦を商い、禅寺へ納めたり、「御用蕎麦司」として御所に納めたりした。550年の歴史を経て、今は菓子と蕎麦、どちらも店の看板商品になっている。

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京都迎賓館の「桐の間」。海外からの賓客を京料理でもてなす「和の晩餐室」だ。ときには芸妓さんや舞妓さんも彩りを添える   京都国際マンガミュージアムの開架書棚。読みたかったマンガ、懐かしいマンガ、珍しいマンガを目指して、老若男女が引きも切らない

異彩放つ女性当主

 蕎麦を始めた頃の稲岡傳左衛門を初代として、現在の16代目当主が、稲岡亜里子さん。カメラマンというもう一つの仕事を持つ40代を迎えたばかりの女性は、老舗の当主としては異彩を放つ。
 十代から海外で何かできることを見つけたいと思い、両親を説得して16歳の末にアメリカに留学した。西海岸の高校を経てニューヨークの芸術大学で写真を専攻、卒業して女性のポートレートを得意とする写真家になった。CMやファッションの世界で、順調にキャリアを築いていたが、2001年の米同時多発テロで転機が訪れる。ニューヨークに住んでいて、それまでの平和な現実が目の前で壊れるのを見た。ファッションのようなキラキラした世界が遠ざかり、ビョークの歌などを通じて好きだったアイスランドの自然に引き付けられた。そして、何年も現地に通って撮り続けた写真が本になって見直した時、ふと「京都っぽいなあ」と感じた。
 幼稚園の行き帰りに母と一緒に見た、広沢の池に山と空が映る風景。苔、石、水や、見えないけれど存在を感じる神様と先祖。宇宙の大きさにつながるようなアイスランドの自然は、故郷ともつながっていた。  両親の子供たちへの教育方針は「好きなことを見つけて仕事にしなさい」だった。家業を継ぐと思っていた弟は、海外で映像関係の仕事に就き、妹は現代アートの世界に。友人に「アメリカの歴史より古いお店だなんて。亜里子が継いだら」と言われた事も背中を押したかもしれない。
 30代を迎えて日本に拠点を移し、カメラマンの仕事を続けながら、健在だった14代目の祖父、15代目の父から仕事を学んだ。祖父と父が亡くなり、当主を継いでからもう2年以上たつ。ご主人・子供とともに京都に住み、帳場の奥からお客の様子を見守るまなざしも、板についてきた。

新しい菓子を作りたい

「祖父と父は、蕎麦に力を入れて、店を大きくしました。京都高島屋に支店を出した時は、本店と同じ水が使えるよう、わざわざ井戸を掘ってもらったそうです。そのくらい伝統の味に気を遣いました。私も、店の味は子どもの頃から食べていてわかります。
 蕎麦板は材料を硬すぎず柔らかすぎず、ごく薄く延ばさないと、ほかにはない食感と甘みを出せません。そば餅は、実際は蕎麦の饅頭ですが、京の地下水でゆっくりと餡を炊くことにより、なめらかな口当たりになっています。昔と変わらないかたちで職人さんがちゃんと仕事ができる体制でやっていきたい。
 ただ菓子は13代目で新商品が止まっています。先祖の残してくれたものに、その時代時代で何かを付け加えてゆくのが老舗のやり方。オリジナルの黒ごま蕎麦板に抹茶、ピーナッツなどの新しい味は作りましたが、私の代では時代に合った全く新しい蕎麦菓子を作りたい」と亜里子さん。  カメラマンとしての経験を活かし、アーティストの妹さんも手伝って、蕎麦粉を原料にした新しい菓子が近い将来、形になるようにと試行錯誤を続けている。
 口に含んだ蕎麦板、そば餅は、ほのかな香りと素朴な甘みで食べ飽きない。ここにどんな新しいおいしさが加わるのか、楽しみだ。

御所の界隈

 本家尾張屋から烏丸通を渡って徒歩1分の至近に、「京都国際マンガミュージアム」がある。明治2年開校の市立龍池小学校の、昭和初期に建てられた元校舎を利用し、約30万点のマンガや関連資料を集めた、珍しい博物館兼図書館。収集したマンガは単行本を中心に常時5万冊が書架で公開され、来館者が自由に手に取って読むことができる。
 マンガミュージアムから北へ10分も歩けば、京都御苑。手入れの行き届いた松の緑と、歩道に敷き詰められた砂利の感触がすがすがしい。
 御苑の北寄り中心部を占める「京都御所」は、昨年から見学の手続きが簡素化され、月曜日と年末年始、行事のある日を除いて、誰でも事前申し込みなしで入場できるようになった。入口の手荷物検査所を通り抜ければ、紫宸殿、清涼殿、小御所や御学問所などを庭から拝観できる。
 悠久の歴史の舞台をのぞいた後は、平成17年にできた東隣の「京都迎賓館」で、現代の日本建築・美術の粋を味わうのもよさそうだ。

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本家尾張屋 Honke Owariya

京都市中京区車屋町通二条下ル  TEL 075(231)3446

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「菓子は13代で止まっている。
 だから私の代では
 新しい菓子を作りたい」

       稲岡亜里子

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