資料に見る和菓子 第一回 No.196

双六

 虎屋文庫は、和菓子に関する資料収集や調査研究を長く続けてまいりました。今号から始まる連載では、これまでに出会ってきた資料をご紹介しつつ、歴史の中の和菓子の姿を見ていきたいと思います。
 菓子をめぐる資料は、木型や焼印などの製造道具、製法書、見本帳(デザイン帳)、錦絵、広告や器など多岐にわたりますが、今回は双六をとりあげます。 
 江戸時代、双六は身近な娯楽のひとつで、旅や出世を代表に、役者や食べ物など、さまざまな題材で作られました。菓子屋が正月に配るため、著名な画工や作家に依頼して、趣向を凝らすことも。現在は、デジタル画像を公開している図書館や博物館も多く、居ながらにして膨大な数の作品を眺めることができます。探してみると、子どもをテーマとした双六に、菓子をほおばる子の姿が見られたり、鳥尽くしの双六に、鳩のはじけ豆売りの姿があったり、思いがけないところにも菓子が見つかるものです。
 菓子が多く登場する題材といえば、やはり「名物」でしょうか。

 ここに紹介する「新板大江戸名物双六」もそのひとつ。右下の振り出しから左上の上がりまで順番に進んでいく「回り双六」です(出た目によって次の場所が決まるタイプを「飛び双六」といいます)。
 では、さいころを振って駒を進めるつもりで、登場する江戸の甘味をたどってみましょう。

 このほか淡島屋の軽焼、名店・鈴木越後の羊羹、淀橋の水飴があって、38マス中、菓子関係が9個と、江戸の庶民の暮らしが、菓子なくしては語れなかった様子がうかがえます。皆で遊んでいるうちに、きっと食べたくなったことでしょう。現代版全国銘菓双六などを作っても楽しそうですね。    (研究主幹 今村規子)

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された株式会社虎屋の資料室。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、展示の開催や機関誌『和菓子』の発行を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。
HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03-3408-2402 FAX:03-3408-4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第二回 No.197

引札

「引札」は江戸〜大正時代、新商品の宣伝や開店の披露などに用意された刷り物で、現在の広告ビラ、ちらしに相当します。
 上の図は江戸時代の引札です。浅草雷門内にあった人気店、船橋屋織江が、このたび日本橋にも出店することになったと戯作者の仮名垣魯文が七五調のリズムのいい文章で綴っています。「風味ハ勿論お直段まで成丈骨を折詰」(骨を折る=苦心する、と、菓子の折詰を掛けている)に、「七重のひだを八重成の汁粉の御披露混交て」ご挨拶を申し上げるとあり、これは「七重の膝を八重に折る」(非常に丁寧に頼み込むこと)ということわざと、八重成(緑豆)汁粉を掛けたものです。
 
  このように洒落や掛詞を用い、菓子名を織り込むなど、「読ませる」工夫がなされた引札の口上書(挨拶文)が多く作られました。山東京伝、式亭三馬ら文筆のプロが小遣い稼ぎに引き受けることもあり、彼らはコピーライターの先駆けといえるでしょう。
 図の左側、品書きの木札を模した枠には菓子名が列記されています。「極製煉羊羹類」「上製玉あられ」など特別感を強調しており、江戸随一の商業地に支店を出すという意気込みが感じられます

 さて、次は明治時代のかき氷屋のもの。氷金時、リモ氷(レモン氷)、氷ぜんざいなどのメニューの数々が目を引きます。器が入った小粋な岡持ちが描かれていて、思わず出前を頼みたくなりますね。日付は入っていませんが、「例年之通 来ル十五日より」店を開くとあり、この引札を受け取った人は「また氷の季節がきた」と心躍らせたことでしょう。

 上の図でご紹介する引札は、また雰囲気がガラッと変わります。明治時代以降に作られるようになった「絵びら」とも呼ばれる色鮮やかなタイプのもので、主に年始の挨拶回りの際、お得意様に渡したといわれます。定型の図案に、あとから住所や店名などを入れるかたちをとっており、現在の社名(店名)入りカレンダーと似たような位置づけになるでしょうか。美しい絵だけでなく、長く飾ってもらえるように暦や時刻表を入れたものも残っています。

 定番の図案として、美人や恵比寿・大黒などのほか、こうした店頭風景がありました。きれいな女性に目が行きがちですが、「和洋御菓子 仏事婚礼膳部菓子」を扱う菓子店の様子を示す貴重な風俗史料といえます。江戸時代に発展した刷り物の高度な技術を駆使し、近代の鮮やかな染料を使った引札は、100年以上昔のものながら、宣伝物として今見てもインパクトがあるのではないでしょうか。  より有効な宣伝をしようと先人たちが工夫を重ね、読ませるものから視覚に訴えるものへと変化していった引札。膨大な数が現存しており、画像公開をしている博物館や史料館もあります。眺めるだけでも楽しいので、ご興味のある方はぜひ検索してみてください。

(研究主任 所 加奈代)

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された株式会社虎屋の資料室。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、展示の開催や機関誌『和菓子』の発行を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。
HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03-3408-2402 FAX:03-3408-4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第三回 No.198

菓子木型

 落雁などを作るのに欠かせない道具といえば、菓子木型があげられるでしょう。菓子木型が広まったのは江戸時代のことで、以降、四季の草花や、吉祥文様である松竹梅、鶴亀をかたどったものなど、さまざまな菓子が作られてきました。今回は、珍しいものをいくつかご紹介します。
 尾張徳川家の御用を勤めた名古屋の両口屋是清には、熱田神宮から宮の渡しを眺めた光景や名古屋城の天守閣を映したもの、四季の花々を取り合わせたものなど、江戸時代の精緻な木型が数多く伝えられています。

 下は、蝶の意匠で「花の友」という名の木型。紀州徳川家の御用菓子屋であった和歌山の総本家駿河屋のものです。同店には十代藩主徳川治宝お好みの菓子が多数伝わっており(註1)、この木型にも、、治宝のお好みであることを示す「西浜様御好」(註2)と、「天保十四年卯十月」の書き入れがあります。

註1 「花の友」ほか総本家駿河屋の木型の多くは、現在和歌山市立博物館に収蔵されている。
註2 「西浜様」とは治宝の住まいであった、西浜御殿に由来している。

 木型職人については、木型に名前が残されている事例もありますが、詳細不明であることがほとんどです。しかし、職人のなかには名工と謳われた人もいます。時代は下りますが、大正から昭和にかけて活躍した渡邉三次郎・俊夫氏親子は、東京屈指の木型職人として知られ、菓子屋からの信頼も篤かったそうです。
 「神徳」は銀杏の葉と実を映したもの。丸い実を巻き込むように葉を重ねたデザインはため息がでるほどの優美さです。もう一つは、ガス燈が立つ日本橋を表したモダンな意匠。江戸時代の木造の橋がアーチ型の石橋に架け替えられたのは明治四十四年(一九一一)のこと。木型は大正時代以降に作られたものでしょう。日本橋界隈の菓子屋などから受けた注文で制作されたものだったかもしれませんね。

 昭和の後半以降、慶弔用の落雁の需要低下により、残念ながら大ぶりの菓子木型が作られることは少なくなりました。しかし、近年は多様なデザインが注目され、博物館の企画展などで目にする機会も増えています。こうしたことがきっかけになり、研究が進み、木型の素晴らしさを知っていただければと願っています。

(研究主査 森田 環)

*両口屋是清と総本家駿河屋の木型については、虎屋文庫発行の機関誌『和菓子』二十四号にて、猪原千恵氏にご寄稿をいただいています(「江戸時代後期の菓子木型から見た大名家の交流―尾張藩御用と紀州藩御用の菓子木型を中心に―」)。詳しくはこちらをご参照ください。

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された株式会社虎屋の資料室。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、展示の開催や機関誌『和菓子』の発行を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。
HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03-3408-2402 FAX:03-3408-4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第四回 No.199

菓子袋

 今回は、江戸〜明治期にかけて作られた、美しい絵入りの菓子袋をご紹介したいと思います。まずは上図をご覧ください。
 菓子を囲んで談笑する三人の老人が描かれています。一番左は、釣竿、玉手箱、竜宮城などからお分かりの通り、浦島太郎です。この菓子袋が作られた明治の頃は、玉手箱を開けたあと鶴になり、最後は乙姫と再会する話として知られ、おめでたいイメージで親しまれていました。
 中央の盃を手にした人物は、平安時代の武将・三浦大介義明。八十九歳まで生き、その十七回忌に源頼朝が「(義明の)身は果てても今日まで生きている」と語ったとされ、「鶴は千年、亀は万年、三浦の大介百六つ(八十九+十七)」という祝い詞もあります。
 右側で「寿」の字を掲げているのは、中国前漢の文人・東方朔。西王母という仙女から、不老長寿をもたらすとされる桃を盗んで食べたという伝説のある人物です。いずれも長寿の象徴で、定番の組み合わせだったのでしょう、錦絵ではしばしば三人セットで扱われています。

 上の菓子袋は、江戸時代に流行った疱瘡(天然痘)の見舞い用に使われたもの。病気や災いを祓う色とされる、赤一色で刷られています。いかめしい顔つきで立っているのは、平安時代、弓の名手として知られた武将・源為朝です。疱瘡の神を追い払う力があると信じられていました。背後を固める達磨たちにも、「病床からの起き上がり」の意が込められています。横を向いていたり、為朝の腕と刀の間から顔を覗かせていたりと、どこかユーモラスでもあります。
 当時は現在のような印刷技術はなかったため、これらの菓子袋は、木版や印判で刷られていました。長方形の袋の下側に寄せて刷られているのは、菓子を入れて口の部分を折り返した時に、絵が隠れないよう配慮したものでしょう。折り返した部分に水引を通したり、紐で持ち手をつけたりすることもあったようです。

 面白いのは、空になった菓子袋が掃除の際の被り物などに再利用されたらしいこと。黄表紙『紙屑身上噺』(一七八一)にその様子がうかがえます。これは、様々な紙が自身の身の上を語るという体裁で書かれたもので、菓子袋も登場します。本来は見舞い状や礼状に使われる格式ある紙であるのに、袋に仕立てられ、煎餅などを詰められたことを嘆き、「からのふくろになりてよいとおもへば、すゝはきに引きだし、はいりもせぬさいづちあたまへ、むりにくちのさけるをもかまわずおしこみ、すゝだらけになったしまいが、此とをりにまるめられました」とのこと。つまり最後は、煤払い時の被り物に使われ捨てられたというのです。現在残っている袋を見ても、厚手の上質な紙で作られたものが多いので、丈夫さが重宝されたものと思われます。そのほか、薬などの保管袋として使われることもありましたが、こちらは綺麗な絵柄が捨てがたい気持ちにさせたのかもしれません。

 さて、デザインに話を戻しましょう。名所を描いたもの、古典文学や歌舞伎に題材を取ったもののほか、鶴亀や七福神、宝船といった縁起物も好んで取り入れられています。
 現在の菓子パッケージにも劣らず華やかな菓子袋の数々。最終的には捨てられるはずだったものと思うと、贅沢に感じられるほどです。絵柄に惹かれて菓子を購入してしまう人もいたのでは。今でいうパッケージ買いが、昔も案外多かったかもしれませんね。

(研究主事 河上可央理)

*参考文献:浅野秀剛「菓子袋・菓子箱と商標」(『和菓子』十九号、虎屋、二〇一二年)

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された株式会社虎屋の資料室。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、展示の開催や機関誌『和菓子』の発行を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。
HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03-3408-2402 FAX:03-3408-4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第五回 No.201

菓子袋

夏の風物詩、団扇。江戸時代には涼を取るための必需品で、菓子袋(199号参照)同様、北斎や広重をはじめとする有名絵師の手によるものも作られました。錦絵を扱う店で売られることもありましたが、「団扇売」が夏の季語にもなっているように、大量の団扇を担いで売り歩く行商人の姿が江戸の町でよく見られました。団扇は消耗品のため、現物としてはほとんど残っていないものの、貼る前の絵は見ることができます。

 「名酒揃」の「しら玉」に描かれるのは、大きな染付けの鉢に泳ぐ白玉団子。紅をさした白玉は今では珍しいと思いますが、幕末から明治時代頃まで、よく作られたものでした。杓子で白玉をすくい上げる女性の嬉しそうな表情に、こちらの頬も緩みます。鉢にたっぷり張られた砂糖水や器の色、肩にかけた手拭いなど、見るからに涼しげで、夏にぴったりです。背景を変えた絵も残っているので、人気の団扇だったのかもしれません。
 酒が主題にもかかわらず、あえて甘味を持ち出すところが国芳らしい洒落っ気でしょう。同シリーズの「剣菱」にも、菱餅と有平糖(飴細工)が描かれています。

 上の「六菓煎」は、六歌仙と菓子の煎餅をかけたシリーズ名で、「芝口の唐まつ」は、江戸芝口(現新橋)にあった蟹屋という菓子屋の名物、唐松煎餅をさしたものです。絵が残っており、現在の麩焼煎餅、あるいは瓦煎餅のように、型を使って焼き上げるものだったことがうかがえます。当時煎餅といえばこうした甘いものが主流で、塩煎餅ではありませんでした。
 六菓煎の団扇絵は、ほかに「遠月堂の辻うら」「猿若の姿見」「船ばしやの窓ノ月」の三枚を確認しています。「辻うら」は煎餅に占いの紙を挟んだ遠月堂の名物、猿若町(現浅草)の「姿見」は役者の似顔絵が入った手鏡形の煎餅と思われます。「窓ノ月」は四角い最中なので「煎餅」に含むのは不思議な気がしますが、この頃は最中の生地も麩焼煎餅と同様に捉えられていたのでしょう。残る二枚の候補としては、竹村伊勢の巻煎餅(196号)や、歌舞伎の助六に出てくる朝顔煎餅・羽衣煎餅などがあげられそうです。

 こうした団扇は宣伝のために作られたものと考えられますが、もっと直接的なのが神田の桔梗屋甘司の団扇。店の成り立ちのほか、名高い菓子屋も自分の店が卸売りした干菓子を使っていることなどが長々と説明されています。現在のOEM(相手先ブランド名による生産)にあたるでしょうか。商売の形を伝える史料として興味深いものですが、使う側からすれば、文字だけよりも、綺麗な絵のついたものの方が嬉しかったかもしれませんね。

今村規子(虎屋文庫 研究主幹)

*参考図書:『蒐める楽しみ 吉田コレクションに見る和菓子の世界』虎屋、2012年

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。
虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、展示の開催や機関誌『和菓子』の発行を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03-3408-2402 FAX:03-3408-4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第六回 No.202

菓子袋

 看板娘、看板商品という言葉があるように、看板は店の顔でしょう。社会が安定した江戸時代には、商業が盛んになり、広告・宣伝の分野が伸長。美しい彩色摺りの引札(第2回参照)が配られ、店先には人目を引く看板が飾られました。
 明治18年(1885)刊『古今百風吾妻余波』所収の「東都看 版譜」は、東京の街中にある看板を描いたもので、8ページにわたり200種類以上の図版が掲載されています。江戸時代から使われているものだけでなく、玉突き(ビリヤード)や西洋料理といった新たな商売に関するものも見え、江戸から明治への大きな時代の変化を感じさせます。

 今回は、菓子に注目していくつかご紹介しましょう。①の「うづ飴」。渦巻き模様は飴売りのトレードマークで、飴売りに扮した役者の着物の柄にも使われています(A)。③は菓子を入れて運搬するための容器、井籠を模した菓子屋の看板です。江戸時代後期の風俗を記した『守貞謾稿』によると、このタイプの看板は路上に置かれるもので、京都や大坂にはなく、江戸でのみ見られたといいます。

 さて、とげとげした⑨は、いったい何の看板でしょう? 大森貝塚の発見で有名な動物学者エドワード・モースが日本滞在中に記した日記に、これとよく似た看板のスケッチが見えます。そして次のような記述も。

 モースは日本人の生活風俗に強い関心を抱いていましたが、なかでも看板には興味を引かれたようで、いろいろな図柄を絵に残しているほか、なんと数百点の実物を本国アメリカに持ち帰りました。それらは今もマサチューセッツ州のピーボディ・エセックス博物館に保管されています。

 ⑦のおたふく豆や⑧の浅草名物・雷おこしの看板は文字の一部を絵に置き換えたもの。お福さんのニコニコした顔がお客さんをよく呼び込んだことでしょう。江戸時代の黄表紙でも、雷おこしの店の左端にちゃんと雷様の看板が下がっています(B)。こちらの雷様はずいぶん強そうですね。

 軒に吊るすタイプや紙貼りの行灯形。布製ののぼりもあり、実に多種多様な看板。「目立つ」「伝える」ために工夫された造形は遊び心があって面白く、今日でも十分通用するものではないでしょうか。

所 加奈代(虎屋文庫 研究主任)

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。
虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、機関誌『和菓子』の発行や展示の開催を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03-3408-2402 FAX:03-3408-4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第七回 No.203

菓子見本帳

 菓子見本帳とは、菓子のデザイン帳のことで、手書きの意匠に菓子銘などが添えられたものを主に指します。江戸時代には、得意先に預けたり、店内に常備したり、商品カタログのように用いられました。
 歴史ある菓子店では、昔の菓子の姿を伝える史料として大事に保管しているところも多いため、「秘蔵のお宝」という印象があるかもしれません。しかし、意外にも、図書館や博物館、資料館で所蔵しているものもあるのです。

 「絵糕紋 打物菓子雛形」は、主に落雁が描かれている菓子見本帳。全十二頁で絵図の数もそれほど多くありませんが、繊細な色づかいは特筆すべきといえるでしょう。写真の右頁は、寿の文字や梅、蓑亀、菊(左頁もあり)といっためでたい意匠、左頁には、「花の王」の名で親しまれた牡丹、波を背景にして魚籠・釣竿・玉手箱が描かれています。浦島太郎を題材にしたものでしょう。落雁になったところを想像すると、心が躍ります。
 残念ながら、「絵糕紋」には菓子屋の名が書かれていません。ただ、江戸幕府の御用をつとめた金沢丹後や、紀州藩御用菓子屋だった和歌山の駿河屋ほかの菓子見本帳でも、同様の美麗な落雁の意匠が見られるので、大名や公家などに出入りをしていた店が作ったものかもしれません。
 次にご紹介する「御蒸菓子図」は、大坂の高麗橋にあった虎屋伊織の菓子見本帳です。全八十頁に羊羹等の棹物、饅頭、きんとんほか、四八八種類もの意匠が色鮮やかに描かれています。どの頁の意匠も、大きさを揃えて類似のデザインでまとめられているので、洗練された印象を受けます。脇には「小夜衣」「未開紅」といった優雅な菓銘が。生地や餡、製法が書き込まれたものもあり、当時の菓子の味わいを想像させます。

 「御蒸菓子図」を作成した虎屋伊織は、大坂を訪れる旅行者の観光スポットにもなったほどの名店でした。饅頭を名物としていましたが、こうした色とりどりの菓子の意匠からも、賑わう店の様子が伝わってくるような気がします。
 最後にご覧いただくのは「船橋菓子の雛形」。深川佐賀町にあった船橋屋織江が、明治十六年(一八八三)に作成した二冊組の菓子見本帳です。煎餅、落雁、有平糖などの干菓子のほか、慶事に用いられる三つ盛や五つ盛が目を引きます。

 松竹梅・菊といった吉祥や季節の果物をかたどった菓子に、羊羹を組み合わせたりしたもので、一部には、折箱の見本も描かれています。こうした三つ盛や五つ盛の図案は、近代以降の見本帳によく見られます。西洋画風に陰影をつけて、立体的に見えるよう描かれた意匠は、重さすらも感じさせるようなリアルさです。
 最近ではインターネット公開をしている館も増えており、誰でも手軽に史料の画像を見られるようになりました。皆さんも是非ご覧になってはいかがでしょうか。
*「御蒸菓子図」と「船橋菓子の雛形」は、所蔵館のウェブサイトで閲覧できます。

森田 環(虎屋文庫 研究主査)

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。
虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、機関誌『和菓子』の発行や展示の開催を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03-3408-2402 FAX:03-3408-4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第八回 No.204

井籠

 せいろう(せいろ)と聞いてまず思い浮かぶのは、シューマイ、肉まんなどの中華料理や、野菜を蒸す際に使う、調理器具の「蒸籠」でしょうか。ここでいう「井籠」は、江戸〜明治時代の初め頃にかけて、菓子屋が饅頭や生菓子を届ける際に使った容器のことです。「外居(行器)」とも呼ばれます。

 実用品ですので、使ううちに傷んだり、装飾が剥げたりもしたのでしょう。その度合いによって使い分けをしたことがわかる、面白い史料があります。享保十三年(一七二八)、虎屋が関白の近衛家久邸にお月見用の菓子を届けた際の記録ですが、家久あてに納めるものは綺麗な井籠に入れ、取次ぎの部署あては特にこだわらない旨が記されています。想像にはなりますが、前者は家久用として、井籠ごと行事の場に出され、後者は別の容器に移し替えるなりして菓子のみ使われたのではないでしょうか。華やかな場で直接高貴な方の目に触れるともなれば、気を遣ったのも当然です。

 さて、次は少し珍しい井籠をご紹介しましょう。とにかく小さく、手のひらに納まるサイズです。中に饅頭の模型が入っているので、店内の飾り物として使われたか、お得意様へ記念品として贈られた可能性もあるでしょうか。第六回「看板」で、江戸の菓子屋では井籠形の看板が使われたことに触れましたが、同様に、「店の顔」という認識があったことがうかがえます。

 こうして見ると井籠は、単純に運搬容器とは呼べないぐらい、様々な役割を果たしていたことがわかります。その事実も含め、大切に伝え残していきたいものです。

河上可央理(虎屋文庫 研究主事)

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。
虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、機関誌『和菓子』の発行や展示の開催を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03-3408-2402 FAX:03-3408-4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第九回 No.205

井籠

 旅の思い出や趣味をテーマに、スクラップブック(貼り込み帳)を作る方は、今でもいらっしゃると思います。江戸時代から近代に至るまで、菓子の商標や栞の収集をよく見かけるのは、美味しいものを食べた喜びを記録したいためでしょうか。古い貼り込み帳をめくることには、タイムカプセルをあけるような楽しみがあります。 『捃拾帖』(東京大学総合図書館蔵)は、博物学者・田中芳男(一八三八〜一九一六)による、江戸時代末から大正時代まで約百冊の貼り込み帳です(図1)。収集テーマは無く、あらゆる紙が、ほぼ年ごとにまとめられています。商品のラベルやカタログはもとより、カレンダーや絵葉書、会合の招待状や入場券類、普通なら捨ててしまいそうな荷物の送り状やダイレクトメール、骨から外した団扇の紙まで。今となってはこの雑多さが、むしろ時代を伝える、貴重な史料といえるでしょう。

 面白いのは菓子の拓本が二十点以上も見られること(図2・3)。落雁や煎餅に紙をあて、柔らかな墨でこすって、形や表面の模様を写しとるので、菓子の大きさもわかります。民俗学者の山中共古も、日記に煎餅の拓本をたくさん残していますので、写真が一般的でなかった時代の学者には、珍しいことではなかったのかもしれません。

 明治時代中頃から大正時代にかけての商標類には、ローマ字などを多用したモダンなデザインも多く見られます(図4)。右上のコインのような柄は博覧会等での入賞を示すもので、これもこの時代の特徴の一つ。表彰状そのものをデザインした広告もあって、入賞が店の誇りであり、お客様へのアピールにもなったことをうかがわせます。
 珍しいのは「変味保険」と書かれた紙片(図5)でしょうか。製造年月日や賞味期限の記載が義務付けられるのは昭和になってからのことですが、明治二十四年(一八九一)に、すでにこうした試みがあったのですね。美しい商標(図6)や、パッケージの開け方を説明する味わい深いイラスト(図7)も。同じ商品のラベルが何年にもわたって貼られることで、意匠の変遷がわかることもあり、気になる史料を紹介していったら、本が一冊書けてしまいそうです。

 このほか有名な貼り込み帳に、落語家、入船扇蔵の収集による「懐溜諸屑」(国立歴史民俗博物館蔵)があります。天保から安政(一八三〇〜六〇)頃の瓦版や商標約三四〇〇点が貼り込まれた二十八冊の史料です。「商牌雑集」(国立国会図書館蔵)は酒や煙草、暦ほかジャンル別に分けた三十冊の史料。菓子は十三冊目で、砂糖・団子・汁粉などが別冊にあります。
 今回ご紹介した史料は、すべてインターネットで公開中です(「商牌雑集」は一部制限あり)。貼った人の気持ちに思いをめぐらせたり、菓子の味を想像したりしていると、時間を忘れてしまいます。
ぜひ閲覧してお楽しみください。

田中芳男・博物学コレクション『捃拾帖』 東京大学総合図書館蔵
URL:https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/tanaka/page/home

今村規子(虎屋文庫 研究主幹)

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、機関誌『和菓子』の発行や展示の開催を通して、和菓子情報を発信しています。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03 – 3408 – 2402  FAX:03 – 3408 – 4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/

資料に見る和菓子 第十回 No.206

井籠

 ボンボニエール(Bonbonnière)とは、フランス語でボンボン(砂糖菓子)入れのことです。日本の皇室・宮家では、明治時代以降、主に銀製のボンボニエールが引き出物として用いられてきました。
今年は五月に今上陛下がご即位され、関連展示が各所で開催されているため、実物をご覧になった方もいらっしゃることでしょう。今回は、この宮中のボンボニエールを取り上げたいと思います。

 ヨーロッパでは、お祝いの際に菓子を配ったり、人生の節目に銀製品を贈ったりする風習があり、日本の皇室もそれにならったものともいわれます。明治二十二年(一八八九)の大日本帝国憲法発布式後の饗宴で下賜されたのが最初といわれ、以降、ご誕生、ご成婚、ご即位ほか慶事の際や、貴賓を招いての宴会の折に使用されてきました。
 木製、竹製、陶磁器製などもありますが、多くは銀製で、丸い容器に皇室・宮家の御紋やお印(皇族が身の回り品に用いる、個人を表す目印)が入ったシンプルなものから、一見、菓子器とわからないような凝った形のもの(図1)まで、様々です。特に後者は日本ならではといえ、施された技術の高さや意匠の美しさは美術品の域といえます。鶴亀や鳳凰、宝船、小槌(図2)といった吉祥のモチーフが多いですが、会の趣旨にあわせ、ご誕生の内宴には、お宮参りで身に着けるでんでん太鼓(図4)、外遊からのご帰朝記念には地球儀形(図5)など、遊び心も感じられます。贈られた側は、後年その意匠を見て、いただいた当時の思い出に浸ったことでしょう。図2のように海外の貴賓に贈る場合には、日本の文化と技術をアピールする役割も担ったことと思います。

 中に詰めるのは、小さく日保ちする干菓子で、金平糖が多く使われます。金平糖は、室町時代末〜江戸時代初期、ポルトガルから伝えられました。伝来当初は、貴重な砂糖を大量に使った舶来品とあって、大変高級でした。江戸時代後期には国内でも製造が盛んになり、地域差はあるものの、一般にも食べられるようになります。
 ボンボニエールが伝わった明治初め頃の金平糖について、「鉄道唱歌」の作詞で知られる大和田建樹が、自身の十一、二歳頃の思い出を綴っています。故郷の宇和島(現愛媛県)には上菓子(白砂糖を使った上等な菓子)も、金平糖を作る店もないため、数粒でももらえると嬉しく、「風月堂の西洋菓子」にも勝ると感じたとか(『したわらび紀行漫筆』)。今でこそ身近に楽しめますが、当時の田舎では、たまにしか食べられず、子供の憧れだったことがわかります。

 ちなみに、金平糖の大量生産を可能にした回転釜の特許が取られたのは明治三十六年(一九〇三)のこと。それ以前はすべて手作業で、製造には今以上に時間と手間がかかっていました。それだけに、皇室の贈り物にふさわしい特別感もあったのかもしれません。ボンボニエールに納まった金平糖は、どこか宝石をイメージさせるようでもあり、取り合わせの妙が感じられます。

参考文献:
長佐古美奈子「日本のボンボニエール十選(一)」(日本経済新聞二〇一九年四月三十日)、
同『ボンボニエールと近代皇室文化』(えにし書房、二〇一五年)

河上可央理(虎屋文庫 研究主事)

虎屋文庫のご紹介

昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、機関誌『和菓子』の発行や展示の開催を通して、和菓子情報を発信しています。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。

お問い合わせ
TEL:03 – 3408 – 2402  FAX:03 – 3408 – 4561
Mail:bunko@toraya-group.co.jp
URL:https://www.toraya-group.co.jp/