日本の文化−四季のうつろい(十一)節分 熊倉功夫 No.183

節分 熊倉功夫

福枡 静岡のあるホテルの中の茶店で、とてもシャレた焼きものの鉢をみつけました。外側は鬼の面なのですが、内側はお多福の面になっていて、まさに鬼は外、福は内、そのままなのです。節分の菓子器にしたら面白いと思って買い求めました。
 この焼きものは賎機焼という静岡市中の山の麓で焼かれていた窯のもので、昔は浅間神社の土器などを焼いていたのでしょうが、のちに日用雑器も作り、その古い趣向の一つが鬼は外、福は内の鉢とか盃でした。一度廃絶した窯を今、再興して焼いていて、私が買ったのもそのコピーです。
 節分といえば豆まき。豆まきといえば鬼がつきものですが、実際の豆まきには鬼は登場しません。われわれは見えない鬼を追い払うわけで、なんだか心もとないのですが、しかしやらないと気持ちが悪くて、わが家でも寒夜に窓や戸をあけて豆をまくことにしています。

鬼は外、ひいらぎ どうして豆ぐらいで鬼が逃げるのか、よくわかりません。豆鉄砲を喰らって驚くのは鳩ぐらいのものでしょう。ですから、豆まきは、もともとは春になって、畑に豆を蒔く姿を写したものだという説もあります。
 室町時代(15世紀)から豆打といって節分の夜に豆で鬼を払うようになりました。鬼は外、福は内という掛け声も当時の記録にありますので、いわば節分を年の暮れと考えて、季節の変わり目の厄払いの豆打と、新しい年の豊作を祈願する豆まきが一緒になったのが節分の豆まきではありますまいか。
 節分は立春の前日です。立春は新年とは別に二十四節気の一つです。ところが、先に述べましたように、節分と立春があたかも歳暮と新年の行事のようになりました。年の暮れには一年の厄を払わなければいけません。まず鬼を近づけぬこと。その一つは邪鬼がいやがるものを並べてバリアーをはりめぐらせようという仕掛けです。

お多福 節分というとイワシの頭を柊の枝にさして門口に立てるという風習が思い出されますが、これはまさに鬼がいやがる魚の匂いと、目つぶしと言われる鋭いとげのある柊を一緒にして鬼を入れまいという魂胆です。

 なかには髪の毛やネギ、さらにトベラという悪臭を発する木の葉を燃やしたりする地方があるそうです。とにかく悪臭が厄払いになるというのは妙なもので、案山子の語源もここにあると言われています。つまりカカシは「嗅がし」のなまりで、悪臭をたてて鳥や獣を追い払った行事の名残りということでしょう。こうなると、節分は悪臭プンプンということになりそうですが、そうとばかりはいえません。

お福煎餅 厄払いを頼んで神社にお参りする人が、大阪では思い思いに変装したそうです。節分の参詣となると一種のお祭り。お祭りであれば仮装が約束です。顔をお面をかぶって隠したのが、とりどりの衣裳の変装にまで及びました。現代でいえば、ハロウィンの仮装のようなもの。京都の花街にある「お化け」もその一つです。芸妓さんが狂言の男の役に扮装したり、なじみのお客が芸妓さんの衣裳を借りて女装したり、とにかくいろいろに"バケ"て大騒ぎをします。そのまま厄落としに神社に出かけたり、芸妓さんは衣裳のまま、あちこち座敷をまわったり大忙し。あげくの果てに雑魚寝などという乱痴気騒ぎをするのも、節分ならではの楽しみでした。
 節分のお菓子もいろいろありますが、さすがにお化けの趣向のお菓子はなさそうです。

菓子製作:越乃雪本舗 大和屋(新潟県長岡市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。

日本の文化−四季のうつろい(十二)和の季節 熊倉功夫 No.184

節分 熊倉功夫

福枡 日本からユネスコ(国際連合教育科学文化機構)に提案した「和食:日本人の伝統的な食文化」が、無形文化遺産に登録されました。その第一報が入ったのが昨年十二月四日の深夜。私は推進役の一人でしたから、思いがけず「時の人」になって取材ぜめにあいました。
 和食が世界の無形文化遺産になった、といって、よく質問されたのは、スキヤキは和食ですか、トンカツは、ラーメンは、タコヤキは、といったたぐいの和食の領域に関わることでした。そのたびに私は「今回の登録は、個々の料理を言っているのではありません。和食という伝統的な食文化が登録されたのです」と答えます。一つ一つの料理について議論していたら、本質が見失われます。
 もちろん和食の基本はご飯です。ご飯が主食。ご飯をおいしく食べるための味噌汁、お菜、漬けもの。この四つの要素からなる献立が、和食の基本です。とはいえ、麺類もお餅も入りますが、基本の基本だけはしっかり頭に入れておいてください。
 しかし、もっと大切なことは和食の食べ方です。日本人はそれぞれの素の味を大切にします。刺身は魚の新鮮なうま味、歯ごたえを楽しむものですから、全く味つけをしていません。食べる時に、刺身に醤油をつけ、わさびを溶き、口中でそれぞれの味が一体となる瞬間を楽しみます。それだけではありません。続いて淡白な味わいのご飯を一口食べて、おいしく食事が進むのです。

鬼は外、ひいらぎ 日本の自然環境は、食材の宝庫です。モンスーン気候の中にあって四季がはっきりと変化し、平均雨量一七〇〇ミリの豊かな雨は国土の七〇%に及ぶ山地を駆け下りて清流となって平野部に注ぎます。山、里、川の豊富な食材が生まれます。四周を取り囲む海には暖流と寒流が交錯し、四〇〇〇種という魚が棲み、ミネラルいっぱいの海藻が成長します。こうした自然の恵みが和食の食卓に届けられるのです。
 アメリカ人の学者とテレビで対談した時、彼が言ったことは、日本に来て食卓に並ぶ料理が四季に変わることに驚いた由。アメリカでは一年中、ほとんど食材が変わらないと言っていました。
 季節の食べものを楽しむのは、和食の特色です。旬の食材を使うのはどこの国でも同じでしょうが、日本人は旬だけを楽しむのではなく、出始めの初物を楽しみます。それを"はしり"とも言いましょう。そして一番の盛りの"旬"。さらに季節の終わりに味わいが変化したところを楽しむ"名残り"。落ち鮎とか秋茄子など、嬉しいものです。

お多福 和食といえば、なんといっても和菓子とお茶です。和菓子は自然の恵みと季節の変化を最大限いかした日本独自のお菓子ですから、和食の提案書にも一言ですが書き加えました。和食の特長が動物性油脂をあまり含まぬ健康に良い点にあると書きましたが、和菓子も同じです。和食文化は日本人のコミュニケーションの場であり、地域や家族の絆であると記しました。和菓子もまた、味わいだけでなく、その姿や趣向を通して、幸せを祈る心を伝える大切な文化です。梅から桃へ、桃から桜へ、桜から藤へと移り変わってゆく花暦に合わせて、美しいお菓子が季節をまとって登場してきます。こんな繊細な感性を持ったお菓子がどこの国にありましょうか。
 先日、大阪にある「暮しのミュージアム」へ参りました。ここには年間三万人からの外国のお客様がみえますが、彼らの一番の人気スポットは「和服の着付けコーナー」です。日本の着物が外国で大変な人気です。どうやらこれからは「和の季節」が始まるのではないでしょうか。アメリカで日本酒のフェスティバルを開催すると、何千人という日本酒ファンが集まります。今、日本茶も輸出に向けて出動中。みな、和食ブームのおかげです。

お福煎餅 こんなすばらしい和の文化の価値を、すっかり見失っているのが、われわれ日本人です。和室も和の食器も生活の中から急速に消えつつあります。おいしくて安全な日本の食べものを食べないで、今や食料自給率は四〇%を割っています。これこそ和食の危機です。家庭では和食は面倒とか高くつくとか、子どもが嫌いといって作る回数が落ち込んでいます。急須のないお家が増え、和菓子もお漬けものも食べたことのない若者があらわれているのが現状です。
 その和の文化に、外国の人々の目が集まっています。和食の無形文化遺産登録は、こうした国内外のギャップを埋めるよい機会です。
 国内では伝統を次世代に伝え、新しい和の文化を創造することが求められましょう。外へは、本当の和の文化を知ってもらう努力がさらに必要です。遺産登録はゴールではありません。和の季節のスタートなのです。

菓子製作:越乃雪本舗 大和屋(新潟県長岡市)

熊倉功夫

1943年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)、『茶の湯日和』(里文出版)ほか多数。「和食」文化の保護・継承国民会議(平成25年7月に「日本食文化のユネスコ無形文化遺産化推進協議会」から名称改変)会長。

日本の文化−四季のうつろい(十三)冠婚葬祭のお菓子 熊倉功夫 No.185

冠婚葬祭のお菓子 熊倉功夫

紅白饅頭 第二次世界大戦後まもなくは、甘いものが極端に少なくて、私などは降る雪を見て、これが砂糖だったらどんなによいだろう、などと思ったものでした。母方の祖母が亡くなったのは、ちょうど私が小学校へ行く前でしたから、昭和二十三年頃の、そんな時代でした。
 祭壇が設けられ、飾りつけられたその中に、白と緑の打菓子が一つ一つ和紙に包まれて台の上に何段にも盛り上げるように供えられていました。とてもおいしそうに見えたものですから、葬式が終わってお供物が片づけられる時に、ワクワクしながら取り出して口に入れました。それが大失敗。なるほど甘い餡まで入っている上等なものなのですが、強烈なお線香の匂いで、とても食べられたものではありません。思わず吐き出してしまいました。
 私が育った関東では、なぜか不祝儀のお菓子は緑色のものが多かったように思いますが、葬式饅頭は茶色の焼き印が押してありました。模様は檜葉の形で、小判形で平たい饅頭でした。それにしても緑と白の打菓子も葬式饅頭も、近頃は全く見ることができなくなりました。

焼きまんじゅう 結婚式の菓子も様変わり。結婚式に限らず入学式とか卒業式とか祝いごとの日には、必ずといってよいほど紅白の饅頭が配られたものです。先日も同年輩のメンバーが集まった時、紅白の饅頭が懐かしいね、と嘆いたものです。
 紅白の饅頭も嬉しいものですが、京都へ来て、旧家の結婚式に出るたびに頂戴する「蓬莱山」にはいつも驚かされます。山のように大きな薯蕷饅頭の餡の中に小さな饅頭が五つ入っていて、それぞれ紅、黄、緑、紫といった色とりどりの餡なのです。大きな饅頭を切りますと中から五色の饅頭の断面が見事にあらわれるという不思議なものです。お菓子屋さんによって銘も異なるようですが、とらやでは「蓬が嶋」と呼んで名物にしています。中山圭子さんの『事典 和菓子の世界』によれば、これは、江戸時代のお公家さんの命銘で、当時は小饅頭が二十個も入っていたといいます。本当に山のように大きかったのでしょう。

縁高折 蓬莱といえば、正月の蓬莱飾りが連想されます。「蓬莱に聞かばや伊勢の初だより」(芭蕉)というように、神仙のユートピアである蓬莱島を新年の床の間に招き入れる趣向です。結婚式は人生の正月元旦のようなものですから、めでたさの象徴たる蓬莱山を饅頭で表現してみせたのでしょう。いかに甘党の私でも「蓬が嶋」を食べきるのはちょっと難しいくらいたっぷりしたものです。
 甘いものは贅沢の象徴でしたから、結婚式の引出物には必ずお菓子がつきものでした。簡単な紅白の薯蕷饅頭の一対というものから先の「蓬莱山」まで、饅頭がまず第一の祝儀のお菓子でしょう。
 これも最近ほとんど見なくなりました生菓子の詰め合わせも楽しいものでした。松竹梅などの意匠を凝らした大きな羊羹がデンと置かれて、手前に練り切りで梅とか竹を形どった大きなお菓子が二個入って、杉の立派な角切りの縁高に紅白の紐がかけられている豪華極まりないお菓子です。時として梅、竹の形の練り切りの代わりに、求肥製の鶴とか卵とか、まことにおめでたい意匠のもので、菓子帖にはすばらしいデザインが残されています。子どもの頃は、このお菓子が何よりも嬉しくて、今でも杉の木箱の香りが鮮やかに蘇ります。もっとも今これを頂戴したら食べ切れないで困ることでしょう。ですから結婚式の引出物から消えてしまいました。もうちょっと小ぶりにして復活したいものです。

蓬が嶋 地方にも独特の祝いのお菓子があります。金沢で出合ったのは、糸巻きのように千筋に化粧した紅い練り切りと白のそれを市松に箱に詰めたお菓子でした。銘は「友白髪」とも聞きました。とても品のよいもので、昭和時代の早い頃、結婚式の引出物にしたとも伺いました。
 甘いものといえば、お菓子ではありませんが、砂糖を鯛の形に固めた「芽出鯛」という引出物も使われたものです。これも今では考えられぬほど砂糖が貴重だったからで、結婚式の帰途、引出物の重さに思わず顔をしかめる原因の一つにもなりました。
 冠婚葬祭という人生の一大事。昔風にいえば一生に一度のことですから、何もかも張り込んで贅沢にと思えばこそ、甘いお菓子がその主役の一角を担ったというわけです。そして意匠に、たっぷりとお祝いの気持ち、あるいは弔意を表すことができるのも、日本のお菓子ならではの特徴でした。

写真協力
焼きまんじゅう:菓子舗 間瀬(静岡県熱海市)
紅白饅頭、縁高折、蓬が嶋:とらや(東京都港区)
 

    

熊倉功夫

1943年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)、『茶の湯日和』(里文出版)ほか多数。「和食」文化の保護・継承国民会議(平成25年7月に「日本食文化のユネスコ無形文化遺産化推進協議会」から名称改変)会長。

日本の文化−四季のうつろい(十四)ふるさとの名物 熊倉功夫 No.186

ふるさとの名物 熊倉功夫

紅白饅頭 名物というと、昔から「名物にうまいものなし」という言葉が言われてきました。名物にいちゃもんをつけるつもりは全くありませんが、何となく納得してしまうところにこわさがあります。そもそも名物とは何でしょう。
 名物、名所は、有名なもの、有名な所ということです。というわけで名物と名所は結びつくことが多いのです。
 たとえば塩釜というお菓子があります。古いお菓子で、すでに江戸時代からありました。みじん粉の打菓子ですが、甘味の中に塩がきいていて、口中でもろもろと溶けてゆく感触が何かとても懐かしさを感じさせます。塩のかたまりのような白さと塩の味わいから塩釜の名ができたのでしょうけれど、いつの頃からか陸奥国一の宮として尊崇されてきた名所・塩竃神社のあたりの名物菓子となっています。

焼きまんじゅう 「名物にうまいものなし」と同じ言い方に、「名所に見所なし」という言葉があります。名所というのですから絶景であるとか、歴史上有名であるとか、見ごたえのある名作があるとか、何かなければならないはずですが、古代の名所はまさに名ばかりで実体もないような所も少なくありません。
 その典型が歌枕です。たとえば青森の善知鳥などは藤原定家の和歌にも詠まれ、謡曲の題名にもなっていますが、実際に北辺の善知鳥神社を参詣した古代・中世の文芸家はいなかったでしょう。歌枕は、いわばバーチャルな名所です。でも、バーチャルであるからこそ、さまざまなイメージが広がって文芸や絵画のテーマになりました。
 名所には由緒がついてきます。その所にまつわる物語です。この物語が日本人は大好きです。むしろ実体よりも物語好きといってもよいでしょう。名物も同じこと。いわく因縁、故事来歴といいますが、長々とした由緒書がついている名物菓子も少なくありません。由緒を読みますと、厄除けの功徳があるとか、長寿が保てると書いてありますから、お菓子も一段とおいしく感じられます。

縁高折 京都の上京区にある上御霊神社は名前からして御霊とありますように、怨霊のたたりを払う信仰の神社です。その鳥居の前に小さな小さなお菓子屋さんがあって、唐板という菓子一種だけを売って商売をしています。どうということのない薄甘い煎餅ですが、何とも上品でいかにも伝統が生きている深みが感じられます。もうすでに五五〇年くらいの歴史があって、はじめは神社の神饌だったともいわれますが、今は厄除けのお菓子でもあり、茶の湯の干菓子に欠くことができない一品となっています。
 茶の湯の干菓子といえば如心松葉という名菓が、やはり京都にあります。これは表千家七代家元の如心斎が好んだという物語があって、創作されたのは一七三〇年頃です。有名人の創作名物菓子として早いでしょう。これは、所ではなく、人にまつわる物語で名物が誕生した一例です。
 というわけで、日本人の名物、名所、伝説好きはお菓子によくあらわれますが、もう一つ理屈をこねてみましょう。

蓬が嶋 名物は全国のそれぞれの土地の特産品です。そして、その多くは土産物となります。十八世紀に活躍した大坂の文人・木村蒹葭堂は実に交際の広い人で、全国から訪問客が絶えません。その人々がお土産を持ってくると、そのお土産についているチラシやラベルを手元の帳面に張り込みました。『諸国板行帖』という蒹葭堂の貼交帳の中に、たくさんの菓子のラベルが登場します。北は東北地方のアラレがあるかと思えば、南は九州のカステラがあるという調子です。
 今も我々は地方へ行くと、その土地の名菓を求めます。私はその習慣の原点は、その土地その土地の産土神の霊力をいただくことではないかと思います。産土神というのはふるさとの守り神、その地域のすべてを産み出す力の根元となる神様です。産土を逆にすれば土産。まさに産土の霊力から生まれた名物を土産にして、贈り物にもするし、自らもいただくからありがたいのではないでしょうか。
 名物は、うまいということだけではなくて、その土地独特の味わいがあって、いわばふるさとの産土の力をいただくことで元気になるところにも、大切な意義があるのではないでしょうか。

菓子:
しおがま /九重本舗 玉澤(宮城県仙台市)
あんころ餅 /圓八(石川県白山市)
カステラ
御饅頭 /鶴屋八幡(大阪府大阪市)
 

    

熊倉功夫

1943年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)、『茶の湯日和』(里文出版)ほか多数。「和食」文化の保護・継承国民会議(平成25年7月に「日本食文化のユネスコ無形文化遺産化推進協議会」から名称改変)会長。

日本の文化−四季のうつろい(十五)花鳥風月 熊倉功夫 No.187

花鳥風月 熊倉功夫

都の春  和食文化がユネスコの無形文化遺産に登録されて、早くも一年を経過しました。昨秋十一月には、ユネスコのボコバ事務局長が来日して、無形文化遺産の登録認定書を授与するセレモニーが名古屋で開かれました。
 和食文化の担い手は日本国民全員ですから、特定の個人や団体に渡すわけにはゆきません。そこで日本政府を代表して下村文部科学大臣が受け取ることになり、私も和食国民会議の会長として式に参列しました。ようやく和食文化の保護・継承の動きも本格化したかなと思わせる出来事でした。

初音  和食文化というと、どうしても料理そのものへ目が集まりがちですが、その及ぶ範囲はすこぶる広いものです。何といっても、それを取り囲む大切な要素は、日本酒、日本茶、そして和菓子です。
 ことに和菓子は、われわれが提案した和食文化の精神にぴったりだと思います。提案のなかで、まず日本人の伝統的な食文化が「自然の尊重」という精神に支えられていると書きました。具体的に自然の尊重とはどういうことを言っているのでしょうか。
 日本人にとって自然とは、この世に存在するありとあらゆるものであり、その一つ一つに宿る「カミ」様なのです。自然とともにあり、自然によって生かされていると感じる中にカミが宿っている、といったら大袈裟でしょうか。そうした八百万のカミを福とともに招き寄せ、邪悪なカミを打ち払って、われわれは生きているわけですが、その招福攘災の願いが、和食にも和菓子にもいっぱい盛り込まれていることは、再三述べてきたところです。

春の風  花鳥風月という言葉があります。何と美しい言葉でしょう。よくよく見ると、また意味深い言葉です。
 花は桜だけを指すのではなく、植物すべてを含んでいると考えてはいかがでしょう。とすると、鳥は動物のシンボル。花鳥で、生きとし生けるものをすべて包含しています。風は天候、気候です。川の流れ、潮の流れ、地上の自然の運行は風に象徴されます。月はいうまでもなく宇宙です。ビッグ・バンによって誕生した宇宙は、人間の想像力を超えた存在です。微小な細胞から無限の宇宙まで、たった四文字で包含する言葉が、花鳥風月なのです。
 花鳥風月を友とし、モチーフにして五感を楽しませてくれる和菓子。言い換えると、和菓子は神羅万象を包み込む偉大な文化かもしれません。

秋うるわし  まず花を見ることにしましょう。自然界の花は、すべて和菓子の表現に力を貸してくれます。花をモチーフにした和菓子がいかに多いことか。そうかと思えば、能の世阿弥は「秘すれば花」と言っています。また花には年齢に応じた、その時々の花があるといいます。この花は一瞬にして姿を現し、一瞬に消えてしまう美しさです。いつも棚晒しにされていては花になりません。秘して見せないからこそ、花は花たり得るのです。隠すことで、その美を何倍にもしてみせ、ますます想像力をかきたてるところに日本の美の表現があるのかもしれません。
 鳥は生き物の代表です。鳥の中でも渡り鳥に日本人は心惹かれたようです。雁ほど歌に詠まれた鳥はないでしょう。お菓子も雁をかたどったものはたくさんあります。季節の象徴となる鳥も、春告鳥の鶯や、茶の湯の初風炉といえば、道具の意匠のどこかに必ず姿を見せるのがホトトギス。鳥は信仰の対象ともなり、その典型は烏ですが、これはなかなか菓子にはなりにくそうです。その一方、八幡様のお使いの鳩は恰好の和菓子のモチーフです。
 風と流れは合わせて風流。風はフウと読みますと、実に多彩な言葉が生まれます。風味、風合い、風情、風趣など、情感を表現するよい言葉が次々と思い浮かびます。なかには一休禅師の風狂も。風も、風から生じる雲も、水の流れも、あとに何も残しません。行雲水のような生き方を求めるのが雲水です。見えないもの、形を残さないものに価値を感じるのが日本文化でしょう。
 さて、月は。日本の詩歌の中で月を詠じたものは際限なくありますが、太陽をうたった作品は稀です。しかもその月を、皓皓たる満月で楽しむのではなく、雲の間の絶え絶えに見える月がよい、といいます。
 まさに花鳥風月こそ、日本美を象徴する言葉といえましょう。

菓子: :鶴屋吉信
 

    

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『茶の湯の歴史―― 千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)、『茶の湯日和』(里文出版)ほか多数。「和食」文化の保護・継承国民会議(平成25 年7 月に「日本食文化のユネスコ無形文化遺産化推進協議会」から名称改変)会長。

日本の文化−四季のうつろい(最終回)和菓子の未来 熊倉功夫 No.188

和菓子の未来 熊倉功夫

 4年間続いた連載を閉じるにあたって、和菓子の未来を描いてみましょう。しかし、そもそも和菓子とは何でしょうか。和菓子の定義は……。
 和菓子という言葉が定着するのは第二次世界大戦後であるともいわれますように、和菓子は新しい言葉です。ですから、和菓子の概念もあいまいなところがあります。和菓子の定義をするために、和菓子の要素を列挙してみましょう。

 まず挙げなければいけないのは材料。和菓子の材料は、もち米や小豆などの穀類や豆類など在来の農産物や、寒天などの海産物、砂糖や果物など、だいたい江戸時代に使われていたものが基本です。したがって、明治時代以降に入ってきた乳製品やチョコレートは和菓子の材料の外、ということになります。用いられる香りは、よもぎや柚子、肉桂などは和ですが、バニラやココナッツは外でしょう。香りづけのワインやブランデーなども和の外です。
 次に挙げるのは、発想の違いです。和菓子は四季の変化を基本として日本の花鳥風月をモチーフにします。あるいは祝儀、不祝儀の喜びと悼む心の表現が、デザインと銘に表現されます。
 もう一つ和菓子の発想で大切なのは、招福攘災――幸福を招き寄せ、災いを攘う――の祈りです。洋菓子にその要素がないわけではありませんが、そこから菓子のデザインや味わいを考えるという発想は薄いでしょう。
 また和菓子といえば、やはり焼きものの皿や鉢、漆器の食籠や縁高がふさわしいので、洋食器に盛ったのではうつりません。ナイフやスプーン、フォークもおかしい。やはり黒文字とか楊枝で頂戴するのではありませんか。和菓子のパートナーの日本茶も大切な要素です。

 このように、和菓子の要素を因数分解してみますと、基本的な要素は、すべて江戸時代に備わっていたことがわかります。では、今もそのままでよろしいのかといえば明らかに違和感があります。洋菓子の主要な要素であるはずのチョコレートでもカステラやういろうに入っていますし、バターやクリーム入りの和菓子も少なくありません。いちご大福があらわれた時はビックリしましたが今は定着したように、洋風の農産物も和の材料になっています。ベーキングパウダーはもちろん、最近誕生したトレハロースなども和菓子の製造に欠かせなくなっています。和風カフェもあちこちにできていて、コーヒーはともかく和菓子と一緒にハーブティを好む人も少なくありません。
 和菓子を因数分解してみて、明らかな和の要素をすべて備えている和菓子が今も中核となっていて、その伝統が続いているのは確かです。しかし、その周辺に、グレーゾーンというような新しい要素を加味した和菓子の世界が拡がってきているのです。
 しかし、これは和菓子の歴史を振りかえれば、けっして異常なことではなくて、かつて中国から饅頭や羊羹が入ってきて日本化しています。戦国時代以降に西欧から卵を使った菓子が入って、カステラなどの南蛮菓子が和菓子の一角を占めるようになりました。つまり、外来的要素を柔軟に取り入れることで現在の和菓子が生まれたのですから、グレーゾーンこそ、これからの和菓子の生き残りのために、必要不可欠の部分なのかもしれません。

 明治時代に和洋折衷料理が始まった当時の料理書を見ますと、およそミスマッチとしか思えないような和洋の取合せが思いつく限り登場しました。しかし、そのほとんどは消滅して、カレーライスやトンカツ、オムライスなどの料理が定着したのです。その意味で、ミスマッチを恐れず、グレーゾーンに突入する勇気が必要かもしれません。
 ただその時、定着した折衷料理がいずれもご飯を基本としていることを忘れてはなりません。つまり、折衷するときの基本は何か、です。
 先の因数分解に立ち戻ってみますと、食材・デザイン・それを支える技術はもちろんですが、和菓子に最も基本的な要素は発想ではないかと、私には思えてきました。

春のお干菓子

菓子: 鶴屋吉信
 

    

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『茶の湯の歴史―― 千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)、『茶の湯日和』(里文出版)ほか多数。「和食」文化の保護・継承国民会議(平成25 年7 月に「日本食文化のユネスコ無形文化遺産化推進協議会」から名称改変)会長。