菓子街道を歩くNo.136 川越

川越[江戸より古い小江戸の味]

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商人の残した町

 川越は「小江戸」と呼ばれる。しかし、じつは川越が町として栄えたのは江戸よりもはるかに早い。『伊勢物語』では「三芳野の里」と呼ばれ、鎌倉時代以降は、河越氏、上杉氏、北条氏といった、関東きっての実力者たちがここを拠点とした。
 江戸に幕府を開いた徳川家康も、川越を重視し、藩主に側近や親族を送り込んだ。江戸時代を通じて、ここから、大老が二人、老中が六人も出ているといえば、川越がいかに重要な藩であったかがわかるだろう。
 一方では、家康の信任あつい天海僧正が、五百石の御朱印寺・喜多院を興し、川越は門前町としても栄えることになった。
 天海は家康から家光まで徳川三代に仕え、幕府の政治宗教顧問と目された人物。とくに将軍家光が、天海を崇拝していたことはよく知られている。
 商業も栄えた。市街の南を流れる新河岸川から荒川、隅田川へと通じる舟運によって、江戸との間を物資が往来したのである。現在、川越を訪ねると、武家の隆盛を偲ぶ遺跡は案外に少ないが、川越商人の実力を物語る蔵造りの商家が軒を連ねる。観光客が今の川越でなつかしむ「江戸」は、商人の「江戸」だ。今回、「菓子街道」でめざすお菓子屋さん・亀屋も、その蔵造りの町並みの中にある。

明治の傑物四代嘉七

 亀屋の初代嘉七が現在地に菓子屋を創業したのは、天明三年(一七八三)。二代、三代と着実に店の基礎をかためて、三代目のときから、御用商人として川越城への出入りを許されるようになった。
 四代目山崎嘉七(のち豊翁)は、スケールの大きな実業家であった。江戸の菓子屋で修業し、店も商品も江戸風に一新したが、明治維新後の激動期には、広く地域の経済活動に乗り出した。第八十五国立銀行、川越貯蓄銀行(埼玉銀行をへて現あさひ銀行)を創業、頭取となり、川越商業会議所(現商工会議所)の創立に参加して、初代会頭に就任している。
 四代目はまた、地域文化への関心も深く、川越藩の絵師の家に生まれた橋本雅邦を支援し、画宝会を通じて多くの雅邦作品を蒐集した。現在、亀屋本店横の山崎美術館で公開されているのは、四代目の雅邦コレクションを中心とする絵画である。

世の進歩に順ずべし

 次いで五代目は、地域の名産を取り入れた新しい商品を開発した。川越名物の甘藷に注目し、明治三十六年、「初雁焼」を考案している。薄く切った芋を、煎餅の技法を用いて鉄板の間で焼き、糖蜜と黒胡麻をまぶしたお菓子。初雁とは川越城の雅称「初雁城」にちなんだ名、散らした黒胡麻は雁の姿を写したものという。
 六代目は戦争に遭遇して八年間も菓子屋を休業せざるを得なかったが、よくもちこたえて再開した。これを継いだ七代目は、事業を拡張。東京にも積極的に進出し、一時は直営店だけでも四十店舗を数えた。
 現在、亀屋の当主は八代目、昭和三十四年生まれの山崎嘉正さんである。嘉正さんは事業の規模をひきしめ、経営の効率化を推し進めてきている。
 「私どもの家訓なかに、『家業は世の進歩に順ずべし』というのがあります。時代の変化に対応しながら商売をやっていけ、ということで、私の一番好きな言葉です。この本店はアナログの代表ですし、お客様へのサービスはアナログでいいと思うんですが、商品管理など、デジタル化できる部分はデジタル化して、経営のロスを少なくしていくことも必要です」
 しかし、嘉正さんにとって、合理化即縮少ではない。来年蔵造り通りの一角に誕生する祭り会館のそばに、一足早く今年四月、休憩もできる「もち亀屋」という新しい店をオープンする。川越最大のイベントは、華麗な山車がくり出す川越まつり(十月第三土・日曜)。祭り会館は必ず観光客の立ち寄る場所になる。
 中身に芋ペーストを用いたシュークリーム「川越いもシュー」を開発して大ヒットさせたのも、糖蜜を塗らない素焼きの「初雁焼」を工夫したのも嘉正さん。八代目は快調に世の進歩に順じている。

生活する博物館

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川越の蔵造り。たび重なる火災に学び、江戸日本橋あたりの商家にならって、明治になって行われた建築。黒漆喰が特色。

 亀屋を出て、蔵造りの町並みを北へ向かう。なんだかいきなり本物の江戸の街に飛び出したような感覚だ。山崎嘉正さんも強調していたが、ここは江戸村風のレジャーランドと違い、代々人が生活している街だから、生きた魅力がある。
 川越有数の素封家が資料を公開している服部民俗資料館、万文という煙草元売捌所の店蔵を復元した蔵造り資料館、現役の民芸品などを売る店で、国の重要文化財に指定されている大沢家住宅、それに時の鐘など、この通りに見どころは多い。時の鐘は、最初に建てられたのは寛永年間(一六二四〜四四)と古く、何度も建て替えられているが、全国でも珍しい建造物で、今でも自動ながら鐘を鳴らしている。
 古い町並みは札の辻で終わるが、ここから西へ真っ直ぐ一キロばかり行くと川越城跡。見ものは川越城の玄関と大広間にあたる本丸御殿である。正面に唐破風のついた横長の大きな建物だ。
 川越でもうひとつ、はずせない見どころは喜多院である。本丸御殿から南へ一キロほどのところにあり、五百羅漢も名高いが、書院に面した遠州流の庭園が見事。
 主な観光スポットはこんなところだが、川越の街は少し範囲を広げて、ぶらぶら歩くと、もっと楽しい。大正や昭和初期の古い建物が点在しているし、地元の人が通う粋な食べ物屋なども見つかりそうである。

イメージ時の鐘。寛永年間(1624〜44)、酒井勝によって建てられたといわれる。現在のものは明治26年の再建。今は電動式で、日に4回鳴らされる

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菓子屋横丁。蔵造り通りの北のはずれにある、駄菓子などを売る店の集まる一角。蔵造りの町並みとともに観光客が集まる人気のエリア。

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喜多院。平安時代から続く無量寿寺の北院を、天海僧正が住職となって喜多院と改めたもの。現在の建物の多くは、徳川家光による再建。境内の一画に農民出身の僧志誠が造り始め、彼の死後、遺志を継いだ人々が50年の歳月を費やして完成した五百羅漢がある。

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龜屋

埼玉県川越市仲町4-3 TEL:049 (222) 2051

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初雁焼。川越特産のさつま芋「紅赤」を焼きあげた亀屋を代表する銘菓。6つのバリエーションがある。

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川越いもシュー。さつま芋とカスタードクリームを混ぜ合わせた、芋の形のシュークリーム。川越芋と種子島紫の2種類がある。

菓子街道を歩くNo.134 札幌

札幌[日に日に新しい北の都] 

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森の街 札幌の夏

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北海道庁旧本庁舎。明治21年(1888)建設。国指定の重文。

 初夏の札幌を訪ねた。どこへ行ってもアカシアの白い花が咲き乱れ、ライラックやハマナスも咲き残っていた。木々はむせかえるばかりの新緑である。緑豊かなこの町では、人間も若葉の季節には若葉のような気分になるらしい。街路樹が、街の建物に負けないくらい、のびのびと葉を広げている。
 北海道庁旧本庁舎、大通公園、豊平館、北海道大学キャンパス、植物園。札幌はどこへ行っても、林の中、森の中。札幌のシンボルといわれる、あの狭い敷地に立つ時計台さえ、木々の緑に囲まれていた。

老舗といわれるより新たな挑戦を

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時計台。明治11年(1878)建設の札幌農学校の演武場に明治14年、付設された。現在、館内は歴史館。国指定の重文。

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北海道大学キャンパスのポプラ並木。北海道大学の前身は、明治9年(1876)に開設された札幌農学校。「少年よ大志をいだけ」の言葉をのこしたクラーク博士の像も、広いキャンパスの一角にある。

 札幌きっての老舗のお菓子屋さんに、三八がある。明治38年の創業は、札幌の歴史を考えれば、たいへんに古い。現社長は六代目の小林孝三さんで、昭和13年生まれ。
 「老舗ということにはなるんでしょうが、私自身の考え方は、暖簾を守っていくというのとは違います。特に札幌というところは、老舗の暖簾だけで商売をしていくのは難しいし、もうそういう時代でもないと思っています」
 「札幌では、老舗が重んじられないんですか」
 「札幌というところは排他性が薄いんです。関東のものでも関西のものでも、よいもの、新しいものがあれば、どんどん受け入れる。それだけに、名門意識みたいなものも薄いと思います。うちには立派なものがあるから新しいものは不要、というところはないんじゃないでしょうか」
 小林さんのみた札幌人気質。札幌の街を散歩しているだけでは、こんなお話は聞けない。
 「私のところは、カッコよくいえば挑戦と開発の繰り返し。その時代、その時代に合わせてお菓子を作って今日まで……。よくもやってこられたものだと思いますよ」
 初代が「時計台」の商標登録を取り、北海道産の材料で落雁を作って以来、ヒット商品はたくさん出したが、それらは今、どれも製造をやめたり、縮少したりしている。現在は「三寸餅」という新商品に力を入れている。ねらいは、お餅と小豆あんの単純なおいしさ。
 新製品を工夫する一方で、10年ほど前、小林さんはもっと思い切った時代への対応策に踏み切った。三八とは別に、「菓か舎」という、まったくイメージが違う菓子ブランドを立ち上げたのである。このブランドを代表する菓子が、「札幌タイムズスクエア」。菓子も店舗も、洋風で、モダンで、レトロ。知らなければ、三八の経営だとは誰も思わないに違いない。すすきの店のほか、札幌駅や千歳空港に売り場がある。

若者の街 T字ゾーン

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豊平館。明治13年(1800)建設の、北海道開拓使直属の洋風ホテル。明治天皇をはじめ、3代の天皇が宿泊している。国指定の重文。

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サッポロビール園。サッポロの食といえば、ジンギスカン。できたての生ビールと一緒に食べれば格別。
(写真協力:サッポロビール園)

 千秋庵でも、熱い話題が待っていた。
 ここも大正10年創業の老舗。「山親爺」「ノースマン」は全国に知られる銘菓だ。南三条の駅前通りに面した千秋庵本社の前に立つと、8階建てのビルがまるごとお菓子屋さんなのに驚かされる。これだけ大きなお菓子屋さんは見たことがない。時計塔には、時報を告げると扉が開き、札幌にちなむ偉人たちの人形が次々に現れるからくり時計もある。まさにお菓子のデパート、1階売り場では数えきれないほどの種類の和洋菓子が売られている。
 社長は就任5年目という岡部一衛さん。昭和28年生まれである。
 「うちの前を走っている駅前通りと北側の南一条通りがつくっているT字ゾーンが、今、すごい勢いで若者の街に変わりつつあるんです。パルコや東急ハンズをはじめ若者向けのショッピングビルが次々にできて、最近はスターバックスの札幌1号店もできました。そこで、うちでも地下に若者向けの新しいお菓子の店をオープンします。SENSYUAN Come Mixという店で、包装紙や紙袋はもちろん、店の内装や店員のユニフォームまで、新しくコーディネートしました」
 お話を伺っていると、岡部さんの、この仕事に打ち込む気持ちに圧倒される。
 岡部さんは、北大を卒業してからウィーンで2年半、みっちり洋菓子の修業をしてきた。作るお菓子はもちろん、芸術の都での体験は、これからいろいろな面で生かされていくに違いない。

札幌名物3億トンの地下水

 岡部さんのお話で驚いたのは、千秋庵が、札幌という大都市のど真ん中にあって、深さ90mから汲み上げる地下水でお菓子を作っているということだ。
 「このあたりには、以前は造り酒屋が5軒もあったんです。もともと、札幌というところは、あちこちで地下水が自噴していた土地で、地名もアイヌ語で泉の湧くところといった意味らしいです。札幌の地下には、豪雪地帯の山からの雪解け水が、日本一大きいダムの3倍にあたる、3億トンも貯蔵されているというんです」 
 札幌は森の都、食の宝庫、加えて地下水の貯蔵庫である。翌日も私たちは、藻岩山の展望台で札幌市街を一望したり、大倉山のジャンプ台に登って肝を冷やしたりした。贅沢な街めぐり。帰り道は、かしましく、札幌賛美がつきなかった。

千秋庵製菓

札幌市中央区南三条西3丁目17

TEL:011 (251) 6131

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山親爺。山親爺とは北海道では熊のこと。道産のバター、牛乳、卵を生かした煎餅。

 

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ノースマン。パイで小豆餡を包んだ洋風和菓子。

三八菓舗

札幌市中央区南一条西12丁目 TEL:011 (271) 11381

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札幌時計台。ミルクとチーズの香りが楽しい洋風饅頭。(菓か舎)

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三寸餅。北海道産の小豆の風味と餅のおいしさ。

菓子街道を歩くNo.133 岡山

岡山・吉備路[鬼のいない桃太郎の旅]

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岡山、おおらか

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後楽園と岡山城。岡山藩主池田綱政が貞享4年(1687)から元禄13年(1700)まで、14年間かかって完成した林泉回遊式の庭園。後楽園と呼ばれるようになったのは、明治4年 (1871)以降。岡山城は池田家31万5千石の居城で、烏城とも呼ばれた。天守閣は昭和41年の再建。

 岡山という土地には、明るくおおらかな印象がある。
 今回、吉備団子の廣榮堂を訪ねて岡山に行き、やはりそういう印象を受けた。市街の東側を大きく流れている旭川の岸に立っただけで、ああ、やっぱり岡山だなと思う。
 ともあれ、後楽園に向かう。
日本3名園の一つ。ここがまた、広々、ゆったりした庭で、
景観を見せよう見せようとするせせこましさがない。池のまわりなどには、惜しげもなく広い芝生のスペースがとってある。それでいて、歩いてみると、茶亭あり、中国趣味の見せ場あり、なかなか変化に富んでいるのだ。
 夏は蓮の花もあり、流店に涼むのもよい。流店とは、流水をはさんで対座し、盃を流して詩を詠むための亭舎。7月には井田(中国古代の田租法を試みた田)で、お田植え祭りも行われる。公園では、どこからでも烏城の雅称をもつ岡山城が見えた。
 吉備団子の元祖・廣榮堂は、後楽園の下流500mばかりの京橋を東に渡った、中納言町にある。町名の由来は、小早川秀秋の通称・金吾中納言。店は旧山陽道に面して、古風な、老舗の構えをみせていた。

桃太郎になった初代

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廣榮堂の吉備団子。右は「むかし吉備団子」、左は「元祖きびだんご」「海塩入りきびだんご」「黒糖きびだんご」の3種セットで、パッケージデザインは五味太郎さん。

 廣榮堂の現社長・武田修一さんは昭和6年生まれ、4代目に当たる。武田さんが語る初代の話。
 創業は安政3年(1856)、初代は武田浅次郎である。
 明治18年、明治天皇が岡山へ行幸された折、浅次郎は吉備団子を献上し、「日の本にふたつとあらぬ吉備団子むべ味いに名を得しや是」という御製を賜っている。浅次郎はこの頃、きび主体の生地を求肥に変えて、今日の吉備団子に近いものを完成させていたようである。
 明治24年、山陽鉄道開通時に岡山駅での立ち売りで成功したのも大きかったが、次の逸話は浅次郎の面目躍如たるものがある。
 明治27・28年、浅次郎は日清戦争の凱旋で湧きかえる軍都・広島に乗り込み、なんと自ら桃太郎に扮し、「日本一吉備団子」の大幟を片手に、「鬼が島を征伐した桃太郎の皆さん、国への土産は岡山駅の吉備団子を」と大宣伝を展開した。岡山名物吉備団子が全国に知られたのは、この時からだといわれている。

やさしくて強い

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吉備路文学館。昭和61年の開館。岡山の生んだ近代の文学者の資料を展示している。特に正宗白鳥、内田百 、井伏鱒二、坪田譲治などに関する資料が充実している。

 岡山では、人の気風もまた、おだやかで、優しい。だが、表面からだけでははかり知れないところがある。行動力も粘り強さもあるのだ。
 そんなことを考えつつ、武田修一さんに連れられて訪ねたのが、岡山駅の北にある吉備路文学館。まず玄関前で目を奪われたのが、折しも満開だったうこん桜。これは、黄金色に咲き、散るときはピンクという珍しい桜である。
 正宗白鳥、井伏鱒二、坪田譲治、木山捷平、岡山出身の文学者はずいぶんいる。竹久夢二も岡山の人だが、やはり岡山人の本質は優しさかな、と思う。優しいために、時に偏屈だったり、辛辣だったりする。
 内田百間しかり。天才的なユーモアを隠した、気むずかしげな顔。きっと百間さんも優しかったのだ。
 百間が廣榮堂の吉備団子を夏目漱石に送ったことがある。
吉備団子は経木を格子に組んで折に詰めてあったが、なにせやわらかい。「岡山名物吉備團子を夏目漱石先生に贈ったところ、請けとったと云ふお禮の手紙を戴き、その中に、團子は丸いとばかり思ってゐたが、吉備團子は四角いのだねとあった。経木の棧の格子の中で四角くなってしまったのである」。有名な逸話だ。

新たなる「創業」

 昭和37年、武田修一さんは大学を卒業して、銀行に勤めていた。ところが、そういう時期に、廣榮堂は深刻な経営危機に陥った。戦中戦後の打撃に加え、修一さんの父、3代目の早逝が原因である。もう店をたたむしかないと言われ、修一さんは銀行をやめて岡山に戻った。
 当初、店での現金売り上げ1日1万円をめざした修一さんは、1万円売れなければ夜になっても店を閉めなかった。あと500円が売れないと、「どうかあと500円売らせてください」と、通りに出て、手を合わせて拝んだという。
 通りかかった酔っ払いが怪しんで、「お前、なにやっているんだ」。    
 結局、その人が500円分買ってくれたりする。 
 現在の廣榮堂は昭和37年に改めて創業し、大きく成長したといってもよい。平成7年の阪神大震災直後、修一さんは1400食の汁粉を神戸に運び込み、何度も被災者に振る舞った。そんなところにも、新しい経営の考え方が顔を出している。 
  めざすお菓子は、「絶対に安全で、健康的で、クリーンな菓子」。今年完成した廣榮堂の新工場は、無菌化、無人化を徹底して、「安全」を最優先したものだ。

吉備路、古代の夢

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吉備津神社。古代に起源をもつ日本有数の古社。入母屋を2つ並べた吉備津造はこの社の特色で、足利義満の造営になる現在の本殿・拝殿は、いずれも国宝。本殿の西斜面に300mにわたって続く美しい回廊も名高い。

 翌日、私たちは武田さんと一緒に岡山市街を出て、吉備路へ向かった。
 最初に訪ねた吉備津神社は、古代吉備国の謎を秘めた古社である。拝殿、本殿の入母屋造を横にまわって見た瞬間は、感動的だった。神さびた美しさとは、こういうものをいうのであろうか。吉備団子も、もとはここに備えられた供物であったという。
 本殿西側の長い回廊を歩き、御釜殿で「鳴釜の神事」の説明を聞いたのも印象深かかった。釜の鳴る音で吉凶を占うとか。なにやら恐ろしい。
 だが、吉備路のおだやかな景色は、そんなおどろおどろしい「鳴釜」も、明るく包み込んでしまう。
 次に訪ねた備中国分寺は、五重塔を中心に花咲く田野が広がり、ふと大和の飛鳥あたりを歩いているような錯覚に陥るほどであった。
 吉備路はまだまだ続くが、私たちはここから引き返した。さて、誰が桃太郎やら家来やらわからぬ一行、岡山に戻って瀬戸内の海の幸を「うまいうまい」と頬張り、ちっとも鬼に出会わない旅を終わったとさ。

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御釜殿と鳴釜の神事。吉備津神社本殿の回廊の途中にある。黒光りした御釜殿の内部で釜を炊き、釜の鳴る音によって吉凶を占う。上田秋成の『雨月物語』に出てくることでも有名。
 イメージ 岡山の寿司。ご当地名物「ままかり」をはじめ、いずれも瀬戸内海の美味。 イメージ 備中国分寺。天平13年(741)、聖武天皇によって各国に置かれた国分寺の一つ。古代の建物は兵火その他で失われ、現在の建物はすべて江戸時代のもの。五重塔は文政4年から15年にかけて藩主蒔田氏が再建、国指定の重文である

廣榮堂

岡山市中納言町7−23 TEL:086 (272) 2268

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廣榮堂本店。
中納言は廣榮堂創業の地。

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廣榮堂倉敷店。
美観地区の一角にある。

菓子街道を歩くNo.132 東京・上野

東京・上野[広小路から谷根千界隈へ]

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上野の和菓子といえば?

 上野、といえばなにを思い浮かべるだろうか。上野駅、上野公園、西郷さんの銅像、上野動物園、不忍池、アメ横、それこそ人それぞれに違いない。だが、上野の有名な和菓子屋さん、といったら、おそらく十人が十人、答えは「うさぎや」である。
 今回の「菓子街道」は、まず湯島天神に立ち寄り、不忍通りを北へ、根津から谷中へと足を伸ばしてみることにした。公園周辺をさしおいて選んだ、この谷根千(谷中・根津・千駄木)界隈、東京の街歩きでは、かなり前から人気なのである。そして、帰り道に「うさぎや」へ。しかし、話は「うさぎや」から始めることにしよう。

芸術家たちに愛された初代

イメージ 「花ぶさ」の料理。うさぎやに近い料亭「花ぶさ」は池波正太郎が通った店として知られる。味つけは京風の薄味。

イメージ 湯島天神の絵馬。大学受験をはじめ、各種受験の合格祈願と合格のお礼参りにくる人が多く、納められる絵馬の数は全国屈指である。

 「うさぎや」の創業は大正二年。創業者は谷口喜作、二代目は弥之助で喜作を継ぎ、三代目は紹太郎。二年前に紹太郎が急逝し、弟さんが急遽四代目を継いだ。現在の「うさぎや」社長、谷口宏輔さん(六十八歳)である。紹太郎の嗣子拓也さん(三十七歳)の五代目までが決まっている。
 現社長谷口宏輔さんは洒脱そのもののお人柄、話しぶりが、おもしろい。早口の東京言葉で、失礼ながら落語か漫談を聞いているような楽しさだ。お話をうかがった席は、池波正太郎が愛した料亭「花ぶさ」。「花ぶさ」と「うさぎや」の思い出を、池波は『散歩のとき何か食べたくなって』にさらりと書いている。
 初代喜作は富山県の出身。同郷の安田善次郎(安田財閥の祖)とのつながりから、金融関係の仕事をしていたが、早くから川上音二郎の劇団に関係し、尾崎紅葉のもとにも出入りするなど、文士、画家、役者などとのつき合いの広い人であった。
 一時横浜にいた喜作は、塗り薬や西洋ろうそくを商う店を、夫人にさせていたが、そのときから「うさぎや」を名乗っていた。喜作自身のえとにちなむ屋号である。「うさぎや」の名物になっている軒のうさぎの像も、当時から飾られていたとか。
 上野に出した菓子屋「うさぎや」は、すぐに軌道に乗った。喜作が、菓子づくりの名人・松田咲太郎と親しかったことも大きかったといわれる。初めはせんべいを主にし、やがて最中で当てた。
 喜作の各方面への顔の広さも、生きてくる。梶田半古や小林古径ら一流の画家が、掛け紙のデザインをし、高名な俳人河東碧梧桐が「うさぎや」の看板文字を書いてくれた。

「どらやき」を残した二代目

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根津神社。須佐之男神などを祭る古社で、前身は千駄木にあったが、現在地に創建し、社殿を造営したのは、5代将軍徳川綱吉。社殿はすべて重要文化財。境内に、鳥居が立ち並ぶ稲荷神社がある。

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谷中銀座商店街。意識的に昔風の町並みを保存し、再建している商店街で、しかも土産物店ではなく、周囲の住人の日常を賄っている。

 二代目喜作を継いだ弥之助は、「うさぎや」を代表する銘菓「どらやき」を創案した人である。
 ところが、一方で、弥之助は、初代よりももっと密接に文士たちとつき合った。十五歳のとき、父に連れられて河東碧梧桐に入門したが、句友に芥川龍之介の装丁をしていた画家の小穴隆一がいたことから、晩年の芥川を知り、昭和二年、芥川が自殺したときには、弥之助は葬儀一切の世話をしている。志賀直哉や永井荷風のもとにも出入りした。
 弥之助は俳句のほか、文章も書けば書も巧み、自ら本の装丁も手がけるという多芸の人だった。瀧井孝作や深田久弥など親しい作家の著書のなかには、「谷口喜作装丁」のものが何冊かあるという。
 それでいて、弥之助は「うさぎや」に、昭和十年代の第一次全盛期とでもいうべき繁盛をもたらしたのである。

 

ベネチアン・グラスのうさぎ

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うさぎやの「どらやき」。つくりたてを食べてもらうために、店の地下に工場を備えている。

 三代目の紹太郎は、初代や二代目とはまったく違った時代に、「うさぎや」を支え、発展させてきた。そして華々しくも、初めてのヨーロッパ旅行に出かけ、ベニスで病死したのである。
 「父は出発前、友だちにベニスに死す、なんてふざけて言っていたんです。そしたら、本当にベニスで死んでしまいました」と拓也さん。
 「でも、もともと大学ではフランス文学でしたし、父も内心はあちらに惹かれていたのかもしれません。サン・ミケーレ島で父を火葬したんですが、とてもいいお葬式でした」
 今、「うさぎや」の軒に飾られているうさぎはベネチアン・グラス製で、ベニスの巨匠の作品である。これを作らせたのが三代目だったのも、えにしというべきだろうか。
 上野のお菓子屋さん「うさぎや」に、こんな人と歴史の物語があった。

湯島の梅根津のツツジ

 宏輔さんの思い出話。
「私が子どものころは、湯島天神で隅田川の花火を見ましたよ。ぱっと花火が見えて、しばらくしてドンと音がしました」
 その湯島天神で、いつものことながら、合格祈願の絵馬の数に圧倒される。上野の春といえば桜だが、一足早いここの梅も見逃せない。梅の数ではなく雰囲気なら、湯島は日本一の梅の名所だろう。見ごろは二月下旬から。
 根津へ向かって、不忍通りか、一本西寄りの道を歩く手もあるが、ほとんどの人はここは歩かずに、地下鉄千代田線で湯島からひと駅乗り、根津で降りて、根津神社に直行してしまう。不忍通りの車の多いのが嫌われるのだろう。
 根津神社は、ツツジの花の名所である。見ごろは五月の上旬からで、桜より少し遅い。ツツジが満開になると、稲荷社のぎっしりと立ち並ぶ赤い鳥居がまた、独得の彩りを添える。神社の南側も、根津教会のある風情のある町並みだが、不忍通りをはさんだ東側は、明治まで遊廓のあったところとして知られている。

団子坂から谷中銀座へ

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朝倉彫塑館。朝倉文夫のアトリエを公開したもので、遺作500点を展示する。月曜・金曜(祝日の場合翌日)休館

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駄菓子横丁。日暮里駅前にある駄菓子類の問屋街で、なつかしい昔グッズがなんでもそろっている。かつては倍以上の規模の問屋街だったという。

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いせ辰の江戸千代紙。いせ辰は江戸時代から続く千代紙の版元で、大正時代に谷中へ移ってきた。竹久夢二の千代紙を売り出したのもこの店。

 根津神社を北へ抜け、不忍通り沿いに進むと、四百メートルばかりで団子坂である。西側が団子坂で、坂の上に建つ鴎外記念本郷図書館は、かつて森鴎外が住んだ観潮楼の跡。庭先から海が見えたところから、観潮楼の名がついた。
 団子坂下は、千代田線千駄木駅である。団子坂につながる東側は、坂の名前が変わって、三崎坂。この坂が散歩コースの目玉で、千代紙のいせ辰があったり、お茶の飲めるいい店がある。
 三崎坂よりさらに百メートルばかり北で、三崎坂と並行している通りが、谷中銀座商店街だ。谷中でいちばんの繁華街で、町並みに趣があり、東の突き当たりが石段になっている。これを夕焼けだんだんと呼んでいる。
 この夕焼けだんだんを上って、すぐの道を右に入ると、朝倉彫塑館。彫刻家朝倉文夫のアトリエを公開した美術館で、美術のメッカ上野に近い谷中らしい見どころだ。彫塑館の前をどんどん南へ行けば、また三崎坂に出る。
 夕焼けだんだんを上って真っ直ぐ行くとJR日暮里駅。ここから駅三つ南に戻れば、「うさぎや」に近い御徒町駅である。

うさぎや

東京都台東区上野1丁目10−10 TEL:03 (3831) 6195

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うさぎやの軒に飾られたうさぎ。何代目かのうさぎで、ベネチアン・グラス製。

菓子街道を歩くNo.131 金沢

 金沢[甘味をめぐる古今人物誌]

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ひがし茶屋街。浅野川の東側、卯辰山の山麓一帯で、紅殻格子の茶屋の街並みと、50を超す寺社が集まる区域。金沢の情趣を色濃く残している。

犀川を渡るとき

 金沢駅前からタクシーで南へまっしぐら。犀川を渡る。河床を二筋に分かれて流れる水は、豊かとはいえない。
「ダムができるまでは、水がたっぷりあったんですけどね。いい川でしたよ。雨のあとなんか、怖いくらいでした」
 と、運転手さん。
 かつての犀川の風景がまざまざと見えてくる。いい人がいるな、さすがは金沢だ。
 ちらりと見えた河畔の桜並木は、ねじれたような老木ぞろい。室生犀星の、あの独得の風貌が思い浮かぶ。

木の葉の柴舟

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銘菓「柴舟」(柴舟小出)。生姜の香り、くせになる風味。

 金沢市横川の柴舟小出本社に着いた。JR西金沢駅に近いところである。
 初代小出定吉が野町に菓子製造の店を開業したのが、大正11年。これを継いだ2代弘夫が優れた人物で、今日の柴舟小出を築いた。昭和25年、昔からあった加賀の菓子、柴舟に独自の改良を加えて売る。
 柴舟は、小麦粉生地の煎餅に砂糖と生姜の摺り蜜をつけ、乾燥させる。ただ、従来の柴舟は、砂糖が高価なために飴を使い、蜜をつける際もどぶ漬けだったのを、弘夫は損をしても白砂糖を使い、蜜は何倍も手間をかけて1枚1枚刷毛で塗った。
 俳人の中村汀女は、弘夫の「柴舟」を「木の葉になぞらえた煎餅に、見事な白砂糖の化粧引。口にふくむと強い生姜の味が花のようにひろがって、砂糖にとけ合い、そして霧散する」と『婦人朝日』で絶賛した。
 現在の社長は3代目の進さん。昭和24年生まれ。弘夫の遺産を、時代に合わせて充実させてきた。蒸しカステラの「山野草」などの傑作がある。

菓子道起き上がり

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銘菓「愛香菓」(浦田甘陽堂)。溶けて、シナモンの名残。洋風和菓子。

 旧市街の方に引き返し、御影町の浦田甘陽堂へ。
 浦田甘陽堂は、先代の浦田一が昭和11年に創業した。金沢のパン屋で修業後、28歳で独立。ゼロからの出発だったが次第に軌道に乗せ、戦後はパン屋から土産菓子を扱う店に転換していった。
 昭和36年に2代目の浦田一郎が新潟で修業して帰ってきた。2年後には全商品を自家製とし、和菓子専門店となる。事業は順調に伸びていった。ところが昭和40年、隣家の火災から新工場が全焼するという試練に遭遇する。
「もう一度、父親の笑顔が見たい。土壇場の今こそ頑張りどころ」と奮い立った一郎さんは、巨額の借金に苦しみながらも、「安くて、おいしく、品質のよい大衆菓子」をモットーに、顧客本位の経営に徹して成功した。浦田を、金沢有数の店に育てたのである。
「自分は初代の後で3代目の前、と思ったとき楽になった」と言う一郎さん。3代目の若い東一さんとともに、「愛香菓」などに代表される新しい菓子作りに取り組んでいる。

最高の材料を守る

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武家屋敷跡。香林坊の西、鞍月用水と大野庄用水にはさまれた長町界隈で、中級武士の屋敷が多かったといわれるところ。

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銘菓「長生殿」(森八)。味と口解けの秘密は、素材のよさ。

 森八の店名と、干菓子「長生殿」を知らない人は少ないだろう。
 森八の本店は、金沢で最も古い商人の町、尾張町にある。寛永年間の創業で、現在の社長中宮嘉裕さんが18代目。375年も続いた老舗である。
 18代の女将、中宮紀伊子さんに話をうかがった。紀伊子さん、意外にも、東京は下町の生まれ。
「金沢では、関東のように緑茶は飲まないんです。棒茶という、ほうじ茶を飲むんですね。でも、抹茶は普段から仰々しい点前などなしに、自分でたてて、よく飲みますよ」
 抹茶に合う「長生殿」が生き続ける所以である。
 「長生殿」の創案には小堀遠州もかかわり、表面に刻まれた「長生殿」の文字は、遠州のデザインだ。今見ても、モダンで、いい文字である。
 材料は、初めからずっと阿波徳島の和三盆、紅色は山形県最上の紅花。特色は、最高の材料をひたすら守ってきたこと。
 ただ、変化もあり、20数年前に、それまでは注文生産品であった小型の「長生殿中墨」を発売したところ、食べやすさで当たった。18代目の大ヒット作である。
 和菓子の世界だけでも、これだけの歴史、これだけの人物。金沢の奥深さに打たれつつ浅野川を渡って、夕暮れになった。

柴舟小出

金沢市横川7の2の4 TEL:076 (241) 1454

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浦田甘陽堂

金沢市御影町21の14 TEL:076 (243) 1719

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森八

金沢市大手町10-15 TEL:076 (262) 6251

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菓子街道を歩くNo.130 秋田

秋田「米・酒・美人・そして秋田諸越」

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秋田の地名は「秋の田んぼ」。この地を代表する風景は、秋田平野の水田風景である。

撮影/春日井 出 写真協力/秋田県総務部広報課、濱乃家

秋田流もてなしの心

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銘菓「炉ばた」(かおる堂)。日もちがよく、抹茶にも合う。

 「秋田が好きになってもらえればいいんです」と言って、秋田の人は心から旅人をもてなしてくださる。だから、たいていの人は秋田が大好きになってしまう。
しかし、実情は、「好きになったからって、あんまりやたらに訪ねてもらっても困るんです。仕事にならない。と言っては、またそういう人をもてなしてしまうんですよ、秋田の人は」
笑いながらこんな本音を吐いている秋田人は、銘菓「炉ばた」で知られるかおる堂の社長藤井明さん。大学卒業後、外で働いた経験もあるから、秋田を外側から見る目ももっているのだろう。
秋田空港でお会いした藤井さん、秋田市のご自分のお店より先に、「まず、秋田のいいところを見てもらわないと」と、角館へ連れていってくださった。

角館に残る秋田藩時代の気風

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角館の武家屋敷・青柳家の玄関。

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角館・安藤家の煉瓦造りの蔵。明治24年の完成で、東北最古の煉瓦建築。

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角館・安藤家製造の漬物。きゅうりやうりの粕漬け、ふかし茄子、詰め物をして輪切りにした千枚漬など。

 角館は檜木内川沿いだけでなく、武家屋敷のあたりもおびただしい桜である。花の見事さはもちろん、秋の桜紅葉の頃も美しいに違いない。
代表的な武家屋敷のひとつ青柳家に入って、邸内の広さに驚いた。同家に伝わる武器や武具を展示する武器蔵など見どころも多いが、樹木と季節ごとの草木の花が豊富な庭には、京都・嵯峨野の一角でも歩くような風情があった。
芦名氏、佐竹北家という名族がつくりあげた城下町の香りは、今も残っている。
角館の伝統工芸・樺細工の殿堂ともいうべき角館町伝承館をへて、角館きっての豪商安藤家へ。安藤家はもともと地主で、江戸中期から始めた味噌・しょうゆの醸造を今も続けている。ここでつくっている各種の漬物がまた、知る人ぞ知る逸品だ。

ブルーノ・タウトが会った初代かおる堂

 秋田市川尻町のかおる堂本社工場を訪ね、お菓子を作っているところを見学させていただいた。工場の白衣の人たちが、どこへいってもにこやかに挨拶してくださるのが、うれしい。
諸越は小豆粉と和三盆糖を混ぜたものを、木型に入れて作る。職人さんは粉を型にサッと入れてちょっと押し、とんとんと型をたたいて、ぽんと出す。
銘菓「炉ばた」は、昔からある秋田諸越を食べやすいように軟らかくし、小型化して、口溶けをよくするために和三盆糖の純度を高めている。白、こがし、抹茶、焼きの4種類。改良したのは藤井馨氏で、明さんの祖父に当たる。馨氏は秋田市の開運堂での修業をスタートとし、大正11年、自身の名前を店名に、秋田諸越専門の店としてかおる堂を創業した。
昭和初期に秋田を訪れたドイツの著名な建築家で親日家のブルーノ・タウトが、「冬の秋田」(『日本美の再発見』/岩波新書)のなかで、「秋田の銘菓“諸越”製菓所(かおる堂)を見学した際、そこの主人は、“ただ勝った、勝った!”とばかり教え込む学校の教育方針はよくないと言っていた」と、藤井馨氏の気骨を伝えている。

伝統の菓子を守る銘菓哲学

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きりたんぽ鍋(濱乃家)。秋田を代表する郷土料理。新米の出る9月から2月頃までが旬。

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秋田竿燈まつり。8月4日から4日間行われる東北三大祭りのひとつ。230本を超える竿燈、1万個の提灯が秋田市の竿燈大通りを揺れ動く。

 かおる堂の二代目は現会長の藤井茂さん。長年、秋田県菓子工業組合理事長も務め、抜群の経営手腕を発揮して、秋田県菓子業界での売り上げ1位、利益1位、法人納税1位という目標を立て、20年前に見事それを達成した。初代、二代の時代には、翁屋開運堂、杉山壽山堂という秋田菓子業界の老舗の名が消えるのを惜しみ、吸収合併する余裕もみせている。
三代目を継ぐ身としては、重圧を感じるところである。
ところが、明さんは、早くから菓子作りの道にはいった弟の潤さん(現・翁屋開運堂店主)が家業を継ぐものと思って、大手スーパーの各地の支店で腕をふるっていた。呼び戻されたのは時代の要請である。
明さんは7年前、「一乃穂」という秋田米だけを使用する商品を販売する新業態店を創出した。秋田の良米をベースに豆がき、紗舞玲、最中などに仕上げた一連の菓子を「秋田粢菓子」と称している。粢とは、本来は水に浸した生の米を搗き砕いて固め、神前に供えたりしたもの。「一乃穂」はヒットし、秋田米の用途拡大という面でも注目されて、今やかおる堂グループのエースの座に就きつつある。
しかし、明さんは一方で、三代の銘菓「炉ばた」を守りたいという気持ちを強く持っている。
「昔からの商品は、お客様が離れるより先に、売る側が、もう古いから駄目だと決めつけておろそかにし、売れなくしてしまうのがほとんどです。しかし、うちにはこれしかないという店は、古い商品でも時代時代に合わせながらなんとか売ろうと努力をするから、続いています。守ることも大事。お客様の新しい好みだけを追いかけていたら、何も残らないですよ」
これが、かおる堂の銘菓哲学である。

露天風呂で聞く清流の音

 秋田市では平野政吉美術館で縦3.65m、横20.5mという藤田嗣治の大作「秋田の行事」
を見た。藤田が平野翁の友人として当地で描いた傑作である。ここにはセザンヌ、ゴッホ、ピカソなどの作品も揃っている。
 夕食は市内の料亭「金茶」で秋田の幸をいただき、車で40分くらいのところにある協和町の唐松温泉に一泊した。唐松温泉は自然がいっぱい、露天風呂の下を清流が走る別天地だ。
この宿泊地まで送り届けたくださった藤井さんのもてなしは、やはり秋田流である。

(株)かおる堂本社工場

秋田市川尻町大川反170-82

【代表】018 ( 864 ) 4500 【Fax】018 ( 823 ) 8379

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かおる堂大町店(秋田市大町4丁目)の店内。前面が円形の建物で、内部も高い天井に円形の白いラインを見せた、高級洋菓子店の雰囲気。

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青柳家の邸内にある「一乃穂」の売店。
     

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開運堂(秋田市楢山登町)の外観。かつて川反通りにあった老舗を移し、高級和菓子中心の店として経営している。

菓子街道を歩くNo.129 佐賀

佐賀[こんぴーどんが喜ぶ]

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吉野ケ里遺跡。昭和61年から3年間の発掘で発見された。弥生時代後期の環壕集落としては、これまでに発見された最大のもの。物見櫓跡、大規模な甕棺墓列などがある。佐賀県・神崎町。

撮影/中村善信

『葉隠』の城下にハイカラなお菓子

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丸芳露

 飛行機から見下ろした佐賀市付近の農地は、緑の絨毯を敷きつめたようだった。
麦畑である。
ビール用の大麦も多いというが、なかには、これから訪ねていくお菓子屋さん「北島」の、あの丸芳露の原料に使われる小麦も混じっているのかもしれない。ほどなくこの絨毯が黄金色に染まって、麦秋を迎え、次いでまた水田の早苗の若草色が、平野を覆いつくすのであろう。
一面の青麦のなかを、たっぷりと水をたたえて走る水路。あちこちに、ぽつんぽつんと立つ美しい若葉の楠。なんだか、この畑をたどって行くと、吉野ケ里遺跡の弥生人が、ひょっこり現れそうな景色である。そんな風景のなかを走って、静かな佐賀市街に入っていった。
佐賀といえば、「武士道といふは死ぬ事と見付たり」で始まる、峻烈な尚武の書『葉隠』を思い出す。だが、一方で佐賀は明治以降、大隈重信や江藤新平のような先覚者を数多く輩出し、ポルトガル伝来のハイカラなお菓子、マルボーロの佐賀版も生んでいる。
鍋島藩の閉鎖的な城下町だったようにみえる佐賀は、じつは、当時最も新しい情報の流れる、一本の道に貫かれていたのだ。古くから長崎・江戸間の往来として栄えた旧長崎街道である。
銘菓丸芳露で知られる「北島」の本店は、城下を東西に横切るその旧長崎街道と、城跡とJR佐賀駅を結ぶ現代のメインストリートとの交差点にある。店はまさに旧長崎街道に面していた。

九代目安次郎と丸芳露の誕生

イメージ 高橋。旧長崎街道の佐賀市街西のはずれ、本庄江に架かっていた橋を復元したもの。船を通すために両側を高くしてある。イメージ

与賀神社。楼門は室町期の建物。根元の太い肥前鳥居、石橋、石灯籠とも、江戸初・中期の古いものである。

 「北島」の現社長香月孝さんは、十一代目、昭和三年生まれである。物腰も言葉もやわらかな、素敵な紳士だ。
元禄九年に小城藩の牛津から佐賀へ移ったとき、香月さんの先祖はまだ香月の姓をもたず、「北島」という屋号を名乗っていた。佐賀では数珠屋から出発、業域を広げて雑穀、荒物、呉服などを扱い、やがて貿易を手がけるようになる。宝暦年間、四代目のときに藩への貢献が認められて、香月の姓を許された。
丸芳露を始めたのは八代目、香月八郎の時代。「北島」の菓子屋創業もこのときとしている。ただし、実質的に丸芳露を作り上げたのは九代目の安次郎だった。
香月安次郎のことになると、孝さんの話に熱が入る。孝さんにとって祖父に当たるこの人は、銘菓丸芳露誕生のドラマそのものなのだ。
明治八年、安次郎は八歳のときに母を失ったが、あとには弟や妹が残され、折しも時代の変化で「北島」の商売も行き詰まっていたときであった。なにか新しいことを始めなければならない。菓子屋になったのは、小さな資本で始められるということだったのだろうか。まだ八歳の安次郎が父と共に、すでに佐賀でマルボーロを製造していた横尾家に製法を習いに通った。
横尾家から許されて、安次郎は近所向けにマルボーロを作った。兄思いの幼い弟や妹は、「お兄ちゃん、これおいしかよ」と言って、安次郎を励ました。
だが、教えてもらったとおりに作った最初のマルボーロは、堅かった。近所の人から、「北島のマルボーロは、うまかばってんが、八郎さんのごと堅か」と言われたという。安次郎の父香月八郎は堅物で知られていた。

サックリと歯ごたえサラリと溶ける

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大隈重信旧宅。早稲田大学の創立者としても知られる明治の政治家、大隈重信が生まれ、少年時代を過ごした生家。

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佐賀城跡の鯱の門。江戸時代の佐賀城は、火災と佐賀の役によって焼失し、わずかに鯱の門だけを残している。

イメージ有明海の珍味。前菜から「めかじゃ」と「むつごろうの蒲焼き」、煮物は「くちぞこ(舌平目)

 佐賀弁で子どものことを「こんぴーどん」という。安次郎は、マルボーロを、本当に「こんぴーどんが喜ぶごた(喜ぶような)」菓子にしなければならないと思った。
もともと新しいものを作りだすことに優れていた安次郎は、工夫に工夫を重ね、グルテンの高い山に近い土地でとれた粉とグルテンの低い海に近い土地でとれた粉を配合し、焼く前の生地に胡麻油を塗るという画期的な方法をあみだした。この改良によってマルボーロの品質は一変し、やわらかくて、サックリと歯ごたえがあり、サラリと溶ける、今日の丸芳露のデリケートな味の基本が生まれたのである。
こうした安次郎の苦心を語った後、孝さんは「こんぴーどんが喜ぶごた、というのは、商品開発の原点だと思います」と、付け加えた。

旧長崎街道に並ぶ恵比寿さま

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旧長崎街道の石像恵比寿。佐賀の市街地だけでも、旧道沿いに10体くらいはあり、時代は新旧さまざま。写真のものは寛政5年 ( 1793 ) 造立。

 孝さん自身は大阪大学を卒業して父善次を継いだ。善次は厳しい人だったが、京都の二楽庵堀内嘉広、山口の大谷琢亮といった優秀な技術者を招いて指導を仰ぎ、「北島」の丸芳露以外の菓子作りの基礎をつくっている。
二楽庵との出会いは、佐賀の高等学校時代に、学校に講演に来た高木市之助博士の話に二楽庵のことが出てきたのを孝さんが聞き、父に知らせたのがきっかけだった。
そうしたこともあって、孝さんは、父からはもちろん、二楽庵や大谷琢亮という名人の薫陶を受けて菓子の修業をしてきたのである。
とてもこの短文では書き切れないお話をうかがいながら、西日が色づくころ、孝さんに佐賀の名所を案内していただいた。
肥前鳥居と石橋の見事な与賀神社、鍋島家と龍造寺家の墓がずらりと並ぶ高伝寺。それに、孝さんの思い出のなかの旧長崎街道沿の町並みである。孝さんは「変わってしまいましたね」を繰り返されたが、私たちにとって珍しかったのは、旧長崎街道沿に沿って、百メートルか二百メートルおきくらいに、石像の恵比寿さまが石仏のように祀られていたことである。
締めくくりは、ニューオータニ佐賀の「楠」で有明海の珍味をいただいた。「ムツゴロウといふは食べるものと見つけたり」である。

北島本店

佐賀市白山2-2-5 TEL:0952 ( 26 ) 4161

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旧長崎街道とシンボルロードの交差点にある、シックな外観の北島本店。

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香月孝社長

菓子街道を歩くNo.128 山口

山口[中国路の武家物語]

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桜咲く一の坂川

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名菓舌鼓と山口の名物菓子ともなっているういろう。

 山口市は、かつて西の京と呼ばれ、文化の花咲く西日本一の都だったと聞いている。しかし、それは室町時代、明国(明時代の中国)と盛んに貿易をして大金持ちになった大内氏という領主が、山口にいたころの話である。四百五十年も前のことだ。
今、山口はひっそりと静かな町である。
旧市街は桜並木のある一の坂川に沿っている。さほど大きな川ではないが、ここが西の京と呼ばれた時代には、京都の堀川だか鴨川だかに比べられたようだ。橋の上からでも川底がはっきり見えるほど、澄んだ水が流れている。
山口の銀座通りともいうべき米屋町、中市町界隈の繁華街は、一の坂川の南側に、川と並行して伸びる落ち着いた感じのアーケード街だ。今回お訪ねした「名菓舌鼓」で名高い山陰堂の本店も、このアーケード街の中にある。木造瓦葺きの広い間口をもつ山陰堂は、白い漆喰をみせる店頭のたたずまいが美しい。

山陽路にある山陰堂

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瑠璃光寺五重塔(国宝)。嘉吉2年 ( 1442 ) 、大内盛見が兄大内義弘の菩提を弔うために建立した。

 「山口は山陽の古都なのに、なぜお店の名前は山陰堂なのでしょうか」
山陰堂で竹原文男社長、竹原茂副社長のご兄弟にお目にかかって、そんな話が出た。 思いがけず、山陰堂以前の竹原家の歴史をうかがうことになったのは、それがきっかけである。
山陰堂は、明治十六年の創業、現在の社長が六代目である。初代竹原彌太郎は士族の出で、この人が「名菓舌鼓」を考案した。
じつは彌太郎の父岩治郎正直のときまで、竹原家は津和野藩の食客という立場の武士で、平川という仮の姓を名乗っていた。なぜかというと、竹原家はもともと、現在の広島県竹原市の領主だったが、毛利氏と戦って領地を奪われた。そこで執拗な毛利の追及を逃れるため、名前を変えたのである。山陰の鳥取で身を寄せた反毛利の亀井氏が、徳川時代に津和野藩主になったのに伴い、平川(竹原)家もいっしょに移ってきたというわけだ。
明治を迎えるまで、何百年にもわたって仮の姓を名乗っていた――いかに中国路が、大内、尼子、毛利の争いの遺恨の深い土地であったかを物語る事実である。
竹原家の墓は、竹原市にも津和野町にもある。

総理大臣の一言

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湯田温泉は約800年の歴史を誇る山口の奥座敷。30軒あまりの宿が軒を連ね、土地の美味でもてなす。

 竹原家が、菓子屋を開くに当たって、津和野から、毛利よりも大内氏を慕う山口へ出たのは、やはりえにしというべきだろう。
彌太郎は、当然のことながら、商人になることをいさぎよしとしなかった。そういう彼を菓子屋にさせたのは、茶道に造詣の深かった母イシ、妻マツという女性の存在だったようである。イシやマツには茶席の菓子を手づから作る心得があった。文男社長によれば、「名菓舌鼓」の考案にも、マツが相当に関与しているのではないかという。
「名菓舌鼓」は、求肥まんじゅうの一種だが、時間がたっても皮が硬くならず、下に垂れないという、求肥の欠点を克服した画期的な銘菓である。しかも、求肥と中身の白餡のしっくりしていることは無類で、食べて求肥と白餡のさかい目がまったく感じられない。彌太郎ははじめ「舌鼓」と名づけたが、山口出身の総理大臣寺内正毅がこの菓子の味をほめ、「名菓舌鼓」にせよといったことから、今の名前になったというエピソードが伝えられている。

スポーツマン兄弟

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常栄寺庭園。大内政弘が文明年間 ( 1469〜87 ) 、雪舟に築かせたといわれる池泉回遊式庭園。イメージ

山口サビエル記念聖堂の内部。平成10年 ( 1998 ) 完成。外観は全体が三角錐の斬新なデザインの建築。

 現社長文男さんの父で、四代目にあたる竹原二郎は、東大法学部を卒業後、安田銀行(現富士銀行)に入り、コロンビア大学にも留学したという逸材だった。こういう人物が菓子屋を継ぐかどうかは、本人も周囲も悩んだうえでのことであったことはいうまでもない。
「おやじが山口で菓子屋を継がなければ、私たちもずっと東京で暮らしていたかもしれない。でも、私は山口で暮らせてよかったと思っています」
文男社長がそう語るそばで、茂副社長もうなずいている。文男さんは四男坊だが、兄の五代目社長竹原哲史氏が亡くなったために店を継いだ。茂さんは五男。お二人とも山口高校時代はサッカー選手で、全国大会にも出場している。今は、ゴルフ。山口で働き、この土地と人を愛している方々だ。

大内氏の夢の跡

 ところで、山口市の見どころは、ほとんどが室町時代の大内氏ゆかりの遺跡である。最も有名な瑠璃光寺の五重塔(国宝)はもちろん、常栄寺の雪舟庭園も、大内氏がつくらせたものだし、フランシスコ・サビエルに布教の許可を与え、ここにサビエルの名を残したのも大内氏だった。
お二人に案内していただいて、最初に訪ねたのが、常栄寺。かつて島根県益田市で二つの雪舟庭園を見たが、筆者の最も惹かれるのは、常栄寺庭園である。
考えてみれば、大内氏の庇護のもと、山口から津和野をへて益田へと旅をしていった雪舟の道は、そのまま竹原家が逆行してきた道でもある。
いつ見ても見事な瑠璃光寺の五重塔から、サビエル記念聖堂へ。サビエル記念聖堂は、平成三年の火災の後、以前とはまったく違うスタイルで新築されていた。聖堂の向かい側が小高い亀山公園で、山陰堂にはここにちなんだお菓子、「亀乃居」もある。
湯田温泉へ。山口市郊外に位置するこの名湯には、ここで生まれた詩人中原中也の記念館がある。
山陰堂湯田店で、先代が数寄をこらしたという茶室を見せていただいた後、湯田の割烹旅館「きむら」で食事をいただく。舌つづみをうちながら、山口の旅は湯田温泉で夜を迎えるのが定番である。

 

山陰堂本店

山口市中市町6-15 TEL:0839 ( 23 ) 3110

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竹原文男社長(左)と竹原茂副社長

菓子街道を歩くNo.127 仙台

仙台[伊達の文化、今も脈々]

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大崎八幡神社。平安時代に源義家が八幡宮を祭ったのが初めとされる。「大崎」は伊達氏以前、陸前一帯を治めていた支配者の名。社殿は慶長12年 ( 1607 ) 伊達政宗の建立で、国宝。

もうひとつの政宗名所

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青葉城(仙台城)跡にある土井晩翆の銅像と「荒城の月」詩碑。

 仙台は伊達政宗がつくった町である。だから仙台の名所といえば、政宗の城であった青葉城、政宗の墓がある瑞鳳殿。政宗の……。だが、それなら、政宗が守り神とした神社は? と聞かれてとっさに答えられる人は、仙台にも少ないのではないだろうか。大崎八幡神社である。
武の神様である大崎八幡は、伊達家の守護神。政宗が建てた社殿が今も残っていて、仙台市内唯一の国宝建造物になっている。板張りの外壁全体が黒漆塗りであるところへ、彩色された彫刻や金具がくっきりと映える、シックな美しさをもった建物だ。
毎年一月十四日、氏子たちが松明を手に裸で練り歩く大崎八幡の「どんと祭」は、冬の仙台の風物詩として知られている。
ここに連れていってくださったのが、白松がモナカ本舗の社長白松一郎さん。さすがに仙台通である。
昭和十六年生まれ、働き盛りの三代目は、しゃれを飛ばしながら、行くところ可ならざるはなしといった勢いの人だ。白松さんと歩きながら、政宗ってこんな人だったのかしら、と思ったりした。

「が」の入った最中と土井晩翆

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名菓「白松がモナカ」

 大崎八幡の前は天童へ抜ける旧街道で、仙台味噌の庄子屋醤油、造り酒屋の天賞酒造など、古い建物を残したまま営業している店がぽつぽつ残っている。ここも白松さんに案内していただいた。
道々、白松さんから、こんな昔の話を聞いた。
「荒城の月」の作者として有名な明治の詩人土井晩翆は、仙台に生まれ、仙台に住んでいたが、この人も、「白松がモナカ」が好きだった。
白松がモナカの創業者白松恒二は、それまで白松最中といっていた商品名を、「白松が最中」に変えようとしたとき、晩翆に相談した。
店に立ち寄った晩翆に、初代は「先生、どうでしょうか」と、白松と最中の間に「が」を入れる案を示した。
「どうかな、考えておく」
言っていったんは店を出ていった晩翆、すぐ引き返してきて、「そうしろ、そうしろ。君が代、とも言うし、おらが春とも言う。白松が、にしろ」と言ったという。「最中」が「モナカ」になったのはもっとあとだが、「が」という文字、まるで最中のあんこのようではないか。

評判の胡麻あん じつは小豆が主体

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仙台らしいもてなしをする「布沙子」の料理。銘酒「天賞」に添えて、かれいの干物、仙台味噌の田楽、小芋と豚肉の汁、おからなど素朴な肴が並ぶ。

 白松さんによれば、最中のおいしさは、あんこと皮のハーモニーではあるが、やはり決め手はあんこだという。
昔は生菓子の売れ残りを練り直して最中のあんこに用いていたような時代があった。その後、どの店も最中専用のあんこを工夫するようになって、最中がおいしくなった。 白松がモナカにも、中のあんこには、大納言、大福豆、栗、胡麻とあるが、なんといっても特色をなしているのが胡麻あんである。白松さん自身、「売り上げは胡麻が四割」といっていた。この胡麻だけでできているように見える胡麻あん、じつは小豆の割合のほうが多い。味には秘密があるということだ。「布沙子」という店で、仙台の家庭風の肴をいただきながらうかがった話である。

明治天皇の行幸と「九重」の由来

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名菓「九重」

 午後、九重本舗玉澤に近江嘉彦社長を訪ねると、ここでまた、伊達政宗とはこういう人だったのではないか、と思ってしまった。
昭和二十二年生まれと若い近江さん、落ち着いて重厚な人である。仙台人の気質は?
とうかがってみると、「地味ですよ」なんておっしゃる。なにかこう、にじみ出てくるようなお人柄が、政宗的だという気がするのだ。
結局、白松さんと近江さんの雰囲気の、両方をあわせもっていたのが、政宗だったのかもしれない。
それはともかく、九重本舗は、延宝三年創業という、気の遠くなるような老舗である。延宝三年といえば江戸も初期、仙台ではあの伊達騒動が片づいたばかりであった。近江嘉彦さんは十三代目。
ただし、名菓「九重」が生まれたのは明治である。明治天皇が仙台大演習に行幸された際、玉澤では先々代がまだ名前のない試作品を献上した。
菓子の名が九重になったのは、天皇が菓子の名前を尋ねられたとき、お付きの人が名前がないとも言えずとっさに「九重と申します」と答えてしまったことによる。玉澤にさっそく使いが飛び、「この菓子は必ず九重という名で売り出すように」と厳重に言い渡されたという。

動くお菓子 コップの中の幻想

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青葉城跡の隅櫓。

 九重というお菓子は、小さなあられのような粒を適量コップに入れ、お湯を注いで飲む。その際、必ず透明なコップで飲みたい。というのは、粒つぶの上からお湯を注いだとき、世にも美しい光景が見られるからだ。
この菓子の製法は、わかりやすくいえば、非常に細かいサイコロ形に切った餅に、水飴とゆず(ぶどう、ひき茶と合わせて三種)を溶かしたものを手作業でまぶし、球形の粒にする。つまり、それにお湯を注ぐと、まぶしたものと餅が分離し、軽い餅がどんどん水面に上がっていく。その動きが幻想的なのだ。
九重本舗でとくに感じたのは、九重をはじめ、非常に洗練されたお菓子が多いということであった。
「政宗は食にうるさかったらしいですよ。お茶が盛んな土地ですからね。菓子屋も多いし、競争はどこよりも激しいんじゃないですか」
と近江さん。
お菓子屋さんが競争してくれれば、お菓子を買って食べる仙台市民は幸せである。
夏は七夕、冬は光のページェントと、お祭り好きの仙台人には、お菓子もまた暮らしのにぎわいの一つなのだろう。

白松がモナカ本舗

仙台市青葉区大町2-8-23 TEL:022 ( 222 ) 8940

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晩翆通り店。市内に17店舗あるが、とくに本店を置かない

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ご主人の白松一郎氏

九重本舗 玉澤

仙台市青葉区中央3-5-11 TEL:022 ( 227 ) 4111

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南町通りにある本店。仙台駅からも近い

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ご主人の近江嘉彦氏

 

 

菓子街道を歩くNo.126 徳島

徳島[河の滋味、海の香り]

マップ

四国八十八か所第七番札所、十楽寺(土成町)。大師堂の参拝を終えたお遍路さんたち。
吉野川を前景に眉山を望む。ふもとは徳島市街。眉山は万葉集にも詠まれた名山。

「熱狂」が眠るおだやかな土地

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岡田製糖所(上板町)にて。和三盆糖製造工程の一つ、蜜抜き(押し)。精製前の砂糖を麻袋に入れ、てこの原理を用いて重しをし、蜜を絞る。

 飛行機が着陸しようとしたとき、初めて空から徳島を見た。
何本あるとも知れない川が蛇行し、枝をのばして、陸地を島のように分断している。正直、日本にもこういうところがあったのか、という驚きさえ感じた。
吉野川という大河が押し出した肥沃な洲上の土地に、水路をきらめかせて豊かな農地と市街が営まれている。
徳島市は、江戸時代まで阿波蜂須賀藩の城下町。藍の集散と人形浄瑠璃の盛んであった歴史を持ち、今は阿波おどりが全国に知られ、お遍路さんが市内五ヶ寺の霊場をめぐって通る町でもある。
非凡な土地柄だ。その非凡さには出合いたいが、秋の風が吹き始めた徳島を車で走っていると、非凡がそうやすやすと顔を見せてくれるわけはないということに思い至る。当然のことながら、町のどこにも夏の徳島のあの沸き立つようなパワー、阿波おどりの熱狂はけぶりにも見えない。
だが、私たちは、日常の徳島のおだやかな表情と向き合いながら、いつの間にかこの土地の見えない力のゾーンに入っていたようでもある。

腰を曲げて作る阿波和三盆糖

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原料の和三盆糖。

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銘菓「小男鹿」

 まず、徳島市の北側にある上板町へ阿波和三盆糖の製造元、岡田製糖所を訪ねた。立派な茅葺き屋根の母家を本瓦葺きの建物が取り囲む、広壮な岡田邸の一角が製糖工場である。
生業を営んでいるというよりも、これをやめてしまっては困る人がいるからと、自らを励まして旧家が砂糖作りを続けている、といったたたずまいだ。
吉野川北岸の丘陵地で栽培する細いサトウキビを絞り、昔からの技法で精製されるしっとり、じわじわと甘い三盆糖。盆の上で三度「研ぐ」ところから三盆糖の名が生まれたというが、八十歳を越えた岡田製糖所の職人さんは、その作業を長年続けてきたために、腰が仕事の姿勢に曲がってしまっている。
阿波の名産を守るこの砂糖作りのハードさは、どんと胸にこたえた。
道すがら立ち寄った四国八十八か所七番札所の十楽寺で、お遍路さんたちと風のようなあいさつを交わした。お地蔵さんに赤い頭巾とよだれかけを着せた人の名が、布ににじんで書き込まれているのも懐かしい。

土佐街道に和菓子の老舗二軒

 徳島の市街は、吉野川と眉山の間に、眉山を半月形に巻くような形で広がっている。
 眉山は、300メートル弱の尾根が3キロばかりも続く横に長い山。万葉集にうたわれた名山である。ロープウェイで上れる山頂は展望がよく、徳島に住み、この地で亡くなったポルトガル人モラエス(作家/明治二十二年に軍人として初来日、のちに神戸大阪駐在ポルトガル国領事も務めた)の記念館などもある。
ロープウェイの乗り場から、まっすぐ南へ1キロばかり下ると、二軒屋町という町になる。ここは徳島が城下町になったとき二軒屋といって、土佐街道沿いに設けられた町家が並ぶ町であった。
日の出楼、冨士屋という徳島の名だたる和菓子屋の老舗が、どちらもこの一角にあるのも、町の歴史からきているといえよう。
この二軒の和菓子屋さん、共通点がたくさんある。今のご当主は、日の出楼の松村啓さん、冨士屋の喜多義祐さんとも、創業から五代目にあたる働き盛り。しかも、二軒ともに明治時代に創案された銘菓を、店を代表する菓子として守り続けている。
金比羅神社の石段下に店を構える日の出楼の銘菓は「和布羊羮」。明治四十年代に、二代目松村作太郎と三代目清三郎が協力して作りだした。阿波名産のわかめを粉末にして白餡に加え、緑の色合いとほのかな磯の香りを見事に生かしている。
わかめは阿波の名産だから、わかめ羊羮の製法や名前を独占することはないと言って、三代目が登録をしなかったという美談も残っている。
日の出楼の松村さんは代々徳島人だが、冨士屋の喜多さんのご先祖は江戸の人で、明治維新後間もなく藩主蜂須賀茂韶公に従い、徳島に移った。喜多家十代目傳之助則貞が、茶人として覚えた茶菓子作りの経験をいかして、武士の商法で江戸餅という屋号の菓子屋を始めたが、二代目の冨士太が冨士屋に改めた。
冨士屋の銘菓「小男鹿」は、その二代目が明治十年前後に創案した。山芋、小豆、鶏卵、粳米などを用いた蒸し菓子で、甘味には阿波和三盆糖を用いている。牡鹿をイメージしたという菓子で、断面に点々と浮きでる小豆は鹿の子斑。茶席でも人気の高い、しっとりとした舌触りの風雅な菓子である。

最後の清流 勝浦川の河畔にて

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丈六寺観音堂(徳島市)。国の重文。慶安元年 ( 1648 ) の建物で、中に安置されている木造聖観音坐像も重文。

 喜多義祐さんに、二軒屋町から6キロばかり南に下った勝浦川沿いの丈六寺に案内していただいた。
徳島は寺の多い町だが、丈六寺は三門、本堂、観音堂と三つの重要文化財の建物を持ちつつ厳しい禅寺の風格を漂わせている点で、別格の趣があった。喜多さんがこの寺を愛するゆえんでもあるようだ。古建築を好む人ならずとも、ここの観音堂は訪ねて拝観する価値がある。
戒律厳しいお寺を出た私たちは、勝浦川沿いをやや下って、遊多賀屋という料理屋で松村啓さんと落ち合った。勝浦川の鮎をいただこうというのだから、さっそくの殺生である。
喜多さんも松村さんも、古いお菓子を守っているだけでなく、新しいお菓子をどんどん創作している人だ。徳島に対する情熱も意見も持っている。座が盛り上がってくると、なにやらそのあたりから、徳島の非凡さが顔を出しそうな気配がしてくるのだった。

冨士屋

徳島市南二軒屋町1-1-18 TEL:088(623)1118

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南二軒屋町にある冨士屋本店。

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ご主人の喜多義祐氏。