軽羹 No.130

軽羮

透かしの紋、抜きの桜島

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 鹿児島といえば軽羮。土地を代表する名産菓子としては全国でも屈指の知名度をもつ。今回は、その軽羮の元祖明石屋の逸品を、しずしずといただいてみることにする。
軽羮が一棹入った箱は28cm×8cmとやや大ぶりで、品のよい包装紙で包んである。
この包み紙、利休鼠のような色とアイボリーの2色を四つに区切って市松に刷ったものだが、明石屋の名前と松の紋が4ヵ所、透かしで入っている。
透かしの文字や紋が、箱をつつんだ状態でもほのかに見えるところが、なんとも奥ゆかしい。人から贈られたりして、「あら、なんでしょう?」と思い、透かしが目に入ったところで、「あ、明石屋の……」と気がつくしかけである。
包装紙をはずして現れた箱には、蓋に商品名その他を印刷した凝った絵紙がかけられている。凝っているのは、印刷文字の背景をなす桜島の絵の見せ方。茶色のマット紙の全面に白い和紙のような材質の紙を貼り、桜島の絵だけを茶色の色抜きで出している。
箱の蓋そのものには、白地に藍を刷り、文字や絵柄を白抜きにしている。軽羮の文字と、裾に絣の柄を組み合わせた模様。蓋を開けると、透明な密封を透かして、量感もしっとりと白い軽羮が見える。
明石屋の初代八島六兵衛は播州明石の人。江戸で菓子屋をしていて、島津斉彬公の知遇を得たことから、鹿児島に移ったという。ときに安政元年。菓子舗明石屋を創業、薩摩の良質な山芋に着目し、これとうるち米を用いて、苦心の末に軽羮を創案した。現在の当主が六代目である。
軽羮の風味は、淡白にして美味。味わい深い名品である。

 文/大森 周
写真/太田耕治

明石屋

鹿児島市金生町4の16
TEL 099 ( 226 ) 0431

特製五三焼カステラ No.132

特製五三焼カステラ

異国情緒の粋

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 福砂屋は、老舗のお菓子屋さんであるというだけでなく、長崎を代表する名所でもある。
 長崎の町には、異国情緒が深くしみこんでいる。だが、長崎で実際に見られるものには、幕末から明治にかけての旧跡が多く、もっと古くからの異国との交流を伝える名所は案外に少ない。
 福砂屋は、江戸初期の寛永元年(1624)、ポルトガル人にカステラ作りを学んで創業し、長崎の中心街で延々と手作りのカステラを焼き続けてきた。この店に比較できる歴史をもつところは、長崎でも、崇福寺や興福寺といった唐寺(からでら)だけではないだろうか。福砂屋が長崎きっての名所だと思うゆえんである。
 唐人屋敷跡や花月への途次、福砂屋の軒先の形のよい行燈(あんどん)を見上げ、カステラの匂う店内に飾られた長崎ビードロなどを見ると、つくづく長崎にいる実感に包まれる。
 福砂屋の「特製五三焼カステラ」を開ける。包装紙はごく薄いえんじの紙に、表に紅殻色のベタ、裏に紅殻でランプや昔の福砂屋のラベルなどを散らした絵を印刷したもの。この包装を解くと、掛け紙は茶の熨斗に、グレーの線だけで表した蝙蝠(こうもり)の絵。蝙蝠は、中国で慶事、幸運を表すことにちなむ、福砂屋の登録商標である。箱の蓋はアイボリー、二本のカステラを詰めた箱の外側は紅殻。カステラに直接巻いた厚紙の包装も、表はアイボリー、裏が紅殻、少し折り返して裏の色を見せているところが、おしゃれだ。
   全体に、紅殻とアイボリーを基調とするこのパッケージは、どこかに異国情緒をにじませたシックな装いである。
 「五三焼」の「五三」の意味には定説がない。このカステラの特色は、砂糖と卵を多くし、小麦粉を少なめにしていること。甘さにコクがあり、ざらめ糖もシャリシャリと、深みのある、大人のおいしさである。

 文/大森 周

福砂屋

長崎市船大工町3-1
TEL 095(821)2938

わかさいも No.133

わかさいも

湖から生まれた「いも」

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 今年の3月31日の新聞に、「有珠と共生願い道産子踏ん張る」という見出しで、有珠山噴火から一年後の現状が報じられていた。今、洞爺湖温泉では、お客さんが噴火前の8割くらいまで戻ったという嬉しい話題がある反面、いまだに1370人もの方が仮設住宅暮らしを続けているという、つらい状況もある。そんななか、洞爺湖温泉の人々は、さまざまに知恵をしぼり、再建に取り組んでいる。
 その洞爺湖温泉で生まれ、全国に知られた銘菓に、「わかさいも」がある。いもとはいっても、いもは使わず、主原料に地元特産の大福豆を用い、いもの風味を出したお菓子だ。さつまいもの繊維を感じさせるために、北海道らしく昆布の筋を入れたところなど、出色の工夫である。表面につけた焼き色もみごと。
 創案者は、わかさいも本舗の創業者でもある若狭函寿。菓子一筋に生きて、「わかさいも」をヒットさせた立志伝中の人物である。彼はまた、郷土を洞爺湖をこよなく愛し、「私は洞爺湖に生かされた」という名言を残した。
 さて、その「わかさいも」の装い。包装紙は、北海道の道南地方のおおまかなイラストマップを、札幌出身のおおば比呂司が描いたものだ。おおばさんといえば、かつて超売れっ子だった漫画家。さすがに洋風で開放的な北海道の風土感を出している。
 包装紙を取ると、「天下一品 わかさいも」という文字を中央に入れた、洞爺湖の絵を印刷した箱である。これもおおば比呂司。文字の左下に大きく描かれた、「わかさいも」の行灯を下げた荷車の屋台を引く人物は、おおばさん得意のキャラクターだが、どこか創業者の面影を連想させるところもある。
 箱をあけ、真空パックの袋を切って、まず一つ。「これはうまい!」と思わず唸ってしまい、「わかさいも」の味には初手から降参であった。

 文/大森 周
写真/太田耕治

わかさいも本舗

北海道虻田郡虻田町
字洞爺湖温泉町108番地
TEL 0142(75)3111

カエルまんじゅう No.134

カエルまんじゅう

昔、カエル・コール
今、カエルまんじゅう

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 出張帰りのお父さん。
「いま、名古屋駅だけど、これから帰るよ」
 これは、カエル・コール。
だが、待っている奥さんやお子さん、コールだけじゃつまらない。お土産もほしい。
 そんな時にぴったりのお土産が、名古屋にある。青柳が売り出して評判の「カエルまんじゅう」だ。こんな宣伝文句で知られている。
ふんわか可愛いカエルのお菓子/中味はさわやか「こけもも」風味/楽しいカエルの語呂あわせ/旅行・ドライブ 無事カエル/努力の柳に とびつきカエル/幸福・大吉 福カエル/みんなで楽しく召しあがれ

「努力の柳に とびつきカエル」は、平安時代の書の名人小野道風が、とび移れるまで何度でも柳にとびつくカエルを見て不屈の精神を学んだという有名な逸話。念のため。
 その「カエルまんじゅう」、包装紙は青柳の色とカエルの色に通じる明るめのモスグリーンで、大小のカエルののんきな顔が散らしてある。これをはずすと、やはりグリーンの箱に、白抜きでカエルの顔が大きく一つ。箱の中のカエルたちは、素焼きの焼物を思わせる焼き色をしている。
 箱の蓋の裏側には、「カエルまんじゅうの箱でお面をつくろう」とあり、作り方が出ている。つまり、箱に描かれているカエルが、お面になるのだ。サービス満点。
 青柳総本家は、初代の後藤如休が明治初年に尾張藩主から「青柳」の屋号を賜ったという老舗のお菓子屋さん。戦後、名古屋在住の日本画の大家・杉本健吉氏が、青柳のマーク、柳にとびつくカエルをモチーフにデザインした。このカエルとの出会いを新しい感覚で生かそうとしたのが、この菓子。腸の働きをよくするオリゴ糖も入っている。
 味は? おいしさの決め手は、ほのかな「こけもも」の酸味。あっという間に、箱からカエルがいなくなった。

 文/大森 周
写真/太田耕治

青柳総本家

名古屋市守山区瀬古1-919
TEL 052 (793) 0136

御城之口餅 No.142

御城之口餅(おしろのくちもち)

四季うぐいすの味

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 大和郡山市は、一度訪ねて、忘れ難い町である。市街地の小高い場所に、木立ちに囲まれて建つ豊臣秀長の墓・大納言塚には、えもいわれぬ風格があった。古い町並みも至るところに残っている。江戸時代は柳沢氏の城下となったが、この町は、豊臣秀吉の弟で桃山時代にここを治めた人格すぐれた名将、秀長の思い出を大切にしていた。
 大和郡山の名物といえば、日本一といわれた金魚・錦鯉の養殖、秀長が創始したといわれる茶陶・赤膚焼、それに「御城之口餅」である。
 「御城之口餅」は、そもそも、秀長の城を太閤秀吉が訪ねたとき、菊屋治兵衛の献上した菓子が太閤の御意に叶い、「鶯餅」の名を賜ったものであるという。それがお城の入り口で売られたところから、いつの間にか城之口餅と呼ばれるようになった。以来、現当主の菊屋英壽まで25代にわたって作り続けられている。
 その「御城之口餅」の20個入りの箱を前に、さすがと思った。小さな箱をきっちりと包んでいる包装紙は、渋いベージュの地に郡山城を描いた古版画をグレーで刷ったもの。包装した上に、金色がかった細い鶯色のリボンを十字にかけてあるのも、好もしい。大和の小京都のみやげとして、いかにもふさわしい風情である。
 包装を解いてみると、横13センチ余り、縦16センチあまりの箱は、これまた渋いブルーグレーの地に、渇筆で描いた菊の絵を絶妙のバランスで反転白抜きにした、秀逸なデザインであった。菊の花は菊屋の屋号にちなむこと、いうまでもあるまい。箱の蓋を取ると、一つずつ入る容器が仕込んであって、黄粉の色も鮮やかに20個の「御城之口餅」がきれいに並んでいた。
 ひと口で食べられる大きさ。つぶし餡を薄い求肥餅で包み、黄粉をまぶしているが、口のなかで材料がぜんぶ溶け合い、なにか懐かしい、餅菓子の原点を思わせる味がする。
 これを太閤が「鶯餅」といったなら、まさに至言だ。姿だけではない、味がどこかうぐいすなのである。

 文/大森 周
写真/太田耕治

菊屋

奈良県大和郡山市柳1―11
TEL 0743 (52) 0035
FAX 0743 (52) 3026

玉椿 No.135

玉椿

名城に咲く薄紅色の花

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 姫路といえば、姫路城である。名城の誉れをほしいままにしてきたこの城も、世界遺産に登録されて、世界の姫路城になった。
 城下町に城にちなむ銘菓多しといえども、姫路の「玉椿」ほど、城の人々とえにしの深いものも少ないだろう。
 江戸中期、酒井家が姫路藩主となった。三代藩主忠道公の時代、逼迫した藩財政を立て直し、名家老としてその名を今に伝えられている河合寸翁に命じられ、当時の伊勢屋本店の主人新右衛門が献上したのが、「玉椿」だという。茶に造詣の深い藩主と寸翁が、「江戸や京都に劣らない菓子を」と望み、その御意にかなったものとして、「玉椿」は姫路城下に伝えられたのである。
 伊勢屋本店の創業は元禄時代と古く、「玉椿」を創案したのは、五代目の新右衛門である。
 「玉椿」の製法は、簡単にいえば、白小豆にゆでた卵黄と白砂糖を加えた餡を薄紅色の求肥で包み、粉糖をふりかけたもの。まず目で見て、まことに可憐で美しい上生菓子である。
 その銘菓「玉椿」、十個入りの箱を開けてみよう。
 包装紙は、上品なピンクの和紙風のもみ紙に、紅白の椿の絵を散らした明るいもの。「玉椿」という肉太の文字に、小さく「姫路名産」の文字をあしらったマークは、古くからのものらしく、開こうとする寸前の椿のつぼみを連想させる。
 包装を解くと、長細い箱に、掛け紙は、白地に包装紙と同じ手の椿の絵。この掛け紙をはずして、ぜひ見てほしいのが、箱そのものである。抹茶色の和紙の地に、やわらかく白抜きしてあるのが、「玉椿」の文字の入った大小のマークと「伊勢屋本店」の文字。じつに古雅な趣の箱である。
 さて、薄紙をはずして直径4センチほどの「玉椿」をいただいてみると、驚くほどやわらかく、口のなかでふわっと溶けて消えてしまうようである。忠道公や寸翁がうなずくさまが、目に見えるようだ。

 文/大森 周
写真/太田耕治

伊勢屋本店

姫路市龍野町4丁目20
TEL 0792(92)0830

木守 No.136

木守(きまもり)

名物蘇って、銘菓を生む

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 「木守」とは、柿の実を収穫する際に、来年の豊作を祈って、木に一つだけ採らずに残しておく実をいう。俳句では「木守」のほかに「木守柿」ともいい、冬の季語として用いている。
 だが、高松市の老舗三友堂の銘菓「木守」の菓銘は、そこから直接とったものではない。「木守」という銘をもつ茶の湯の茶碗にちなんだものだ。その茶碗をめぐっては、次のような逸話がある。
 あるとき、千利休がいくつかの楽茶碗をお弟子さんたちに選び取らせたとき、一つだけ残った茶碗があった。利休はそれを、木守柿のように一つだけ残ったという意味で、「木守」と名づけたという。この利休ゆかりの赤楽茶碗は、後に高松藩主松平家に献上され、名物として名高かったが、惜しくも関東大震災で壊れてしまった。
 三友堂は明治五年創業。初代はもと高松藩につかえた人で、高松松平家とのえにしは深い。震災で失われた「木守」が、これを惜しむ人々の手で、残った断片を入れて再現されたとき、二代目が松平家の名物蘇生を祝って、銘菓「木守」を創案した。昭和の初めのことである。現在の当主、大内泰雄さんは四代目。
 「木守」は、干し柿入りの小豆餡を、糯米の薄い手焼きのせんべいで上下からはさんだお菓子。
 十二個入りの箱は、緑色の松竹梅の絵をあしらった気持ちのよい包装紙がかけられている。掛け紙は淡く描かれた枝柿ひとつで、箱はモスグリーンの和紙張り。中のお菓子は、一つ一つしっかりした紙に包まれている。包み紙には高松松平家の葵の紋と、茶碗「木守」の高台内の渦巻きを模したという模様が入っている。全体におおらかな、武家風ともいえる風格を感じさせる包装である。
 味は、柿の実の甘さを巧みに生かしているところが、自然の甘味というものを、改めて思い起こさせる。手焼きでしか焼けないという皮も、口のなかでスッと溶ける。

 文/大森 周
写真/太田耕治

三友堂

高松市片原町1-22    
TEL 087(851)2258
FAX 087(822)2936

流れ梅 No.137

流れ梅

雪国の涼感、香る

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 富士山に月見草ではないが、新潟には梅がよく似合う。酒飲みなら新潟とくれば梅の文字が入った某銘酒を思い出すが、甘党ならば、このお菓子を思い浮かべることになりそうである。大阪屋の夏のお菓子「流れ梅」。
 大阪屋は、近江出身の初代が大阪で修業し、安政5年(1858)、新潟に浪花堂大阪屋を開店創業した。
献上菓子に取り上げられるような高雅な和菓子をつくる一方で、すでに昭和初期から、パンの製造を開始。戦後もいち早く洋菓子を手がけ、和菓子と洋菓子の垣根をとりはずしてきたのが、なんといっても大阪屋という老舗の特色だろう。「 万代太鼓」はバームクーヘンにクリームを入れ、「ユーロパイ」は漉し餡をパイで包み、「明けの穂」には小倉餡にクリームを合わせて使うというふうに、この店の菓子は和と洋を融合させたものが多い。
 早くから洋に目をつけただけに経営も新しく、新潟一円に、フランチャイズ・システムによるチェーン展開をしている。現在の社長岡嘉雄さんは、50歳と若い。
 さて、「流れ梅」だが、まず包装紙を見て、なるほどと思った。和色のピンクに白抜きで雪椿があしらわれている。雪椿は新潟を中心に、日本海側の山野に自生し、豪雪地帯に可憐な花を咲かせる特色ある椿の種類だ。
 箱には、「碧き渓すゞ風流る」という色紙が刷り込まれた碧青の掛け紙。裏には「四季の新潟」という民謡のことなどが紹介されていて、この試みもおもしろい。
 宅配便だから、箱は発泡スチロール。中に透明の容器に入った「流れ梅」が6個並んでいる。ゆっくりと密閉用のフィルムをはがすと、はや梅の香りが漂う。
 くずきり風の身、果汁、青梅の実2つ。すべてが溶け合い、梅の香りと味が、涼感とともにのどを流れくだるようであった。

 文/大森 周
写真/太田耕治

大阪屋

新潟市大渕1631の8
TEL:0120 (211) 435
FAX:0120 (211) 437

みむろ No.138

みむろ

大和ひとすじの味

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 奈良県桜井市の白玉屋榮壽は、まことに古都大和にふさわしいお菓子の老舗である。三輪山を御神体とする大神神社の大鳥居前に、弘化元年(1844)に創業。今日までそのえにしを守って本拠地を移さず、また商品は初代が考案した最中の銘菓「みむろ」のみに徹して名物の名を輝かしてきた。
 奈良の旧市街から三輪山までの道は、山の辺の道と呼ばれ、日本の歴史に登場する最も古い道である。おそらく、山の辺の道は、三輪山への道であったのだろう。
 三輪山は、古代から山そのものが神の鎮まるところとしてあがめられてきた。そのため、山を祀る大神神社に神殿はなく、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して、直接山を拝んできたのである。万葉集などでは「三諸山」と詠まれることが多かった。白玉屋榮壽の銘菓「みむろ」の名は、そういう、三輪山の雅称にちなんだものである。
 「みむろ」の包装紙は、正倉院の鳳凰その他の紋様を染め抜いた渋いデザインだ。実は、「みむろ」には菓子そのものに小型と大型があるが、50個以上の箱には、越前和紙の一枚漉きを包装に用いている。小豆色の地に白を重ね漉きして、紋様を小豆色で抜いた見事なものだ。写真の30個入りの場合は、デザインは同じだが、洋紙に印刷したものを使っている。
 包装を解くと、三輪山と白玉屋のにぎわいを大和絵風に描いた、美しく落ち着いた掛け紙。箱は大和の古地図をあしらった濃緑色の、これも渋いものであった。「創業弘化」の角印の透かしが入る薄紙を開いて、いよいよ「みむろ」にたどり着く。
 一口、最中のがさがさした感じがまったくなく、皮とあんがしっくりとなじみ、皮は口のなかでふわりと溶けた。特産大和大納言小豆と大和のお米で作られているという「みむろ」は、じつに三輪山の恵みの味である。

 文/大森 周
写真/太田耕治

白玉屋榮壽

奈良県桜井市大字三輪497
TEL 0744 (43) 3668
FAX 0744 (43) 3669

黒おこし No.139

黒おこし

ふっくらとお米のうまさ

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 黒地の包装紙いっぱいに、雄渾な書体で「黒」という文字が、白く染め抜かれている。その白文字のまわりを「森長の」という赤い文字と、金泥の「黒おこし」の文字が躍って、華やかさを添えていた。 
これは本格的だぞ、という予感がある。
 包装紙をはずしてみると、薄いベージュの箱の表面には、思いがけず、渋い朱一色で印刷された美人の顔。すてきな帽子をかぶったこの美人、どうも波の間から生まれたビーナスらしい。おこしの精か。
 上下が開く箱には、4袋のおこしが詰まっていた。1袋にふた口くらいのおこしが6個ずつ。さっそくいただいてみると、ふっくらとした米の食感と水飴の甘さ、黒砂糖の味が、口のなかで混じり合って、いいようもなくおいしく、なつかしい。時折、黒砂糖の粒にあたると嬉しくなる。なんというのか、お菓子を食べているというより、主食を食べているような安心感がどこかにある。
 日本のお菓子だ、と思う。 
 この「黒おこし」を作っている諫早市の菓秀苑森長は、寛政5年(1793)創業という老舗。「黒おこし」は創業以来の商品で、米どころ諫早の菓子を代表してきた。
 蒸した米を乾燥させ、3カ月から1年寝かせたあと鉄鍋で炒り、その乾米に沸かした水飴と黒砂糖を混ぜ合わせる。木枠に伸ばして冷やせば、「黒おこし」のできあがり。水分を飛ばしすぎないよう、しっとりと仕上げる。黒砂糖は、鹿児島や沖縄から来る板状のものを、機械を使わず、手作業で砕く。これもおいしさの秘密のひとつだ。
 砂糖を用いた菓子を南蛮菓子というそうだが、米を蒸して乾燥させるのは中国の発想。南蛮と中国の融合が「黒おこし」なら、やっぱりこれは日本のお菓子である。融合は、日本の得意芸だからだ。

 文/大森 周
写真/太田耕治

菓秀苑 森長

長崎県諫早市八坂町3-10
TEL 0957 (22) 4337
FreeDial 0120 054514