登り鮎 No.141

登り鮎

香魚のお菓子

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 かれこれ10年ほど前、NHKの大河ドラマ「信長」関連の取材で岐阜を訪ねたことがある。そのとき、街を歩いていて、1軒の和菓子屋さんの前を通りかかり、なんとも古風で好もしい店構えに惹かれるまま、思わず足を踏み入れた。それが「登り鮎」で有名な玉井屋本舗であった。
 岐阜は織田信長の本拠地であったことはよく知られているが、江戸時代になっても、この地の商業は尾張徳川家によって保護されたために、どこかゆとりのある町の風情がはぐくまれた。
 そういう岐阜の観光は、清流長良川と鮎、鵜飼の夜に長良川温泉の宿が屋形船を出すという、都雅な風物詩の世界である。鮎をかたどった和菓子もそのひとつ。
 玉井屋本舗の「登り鮎」の装いは2種類。包装紙はどちらも同じ、淡い藤色と白の流水模様のなかに、無数の泳ぐ鮎が代赭色と若緑で表された、明るく、清々しい絵柄である。
 ひとつは包装紙をはずすと、箱の蓋に和紙風の厚紙を表面3分の1ほどのところにタテに折り込みをつけて、きっちりとかぶせ、その折り目にお菓子の「登り鮎」をかたどった栞がはさんであった。厚紙に描かれた緑の流水と、栞の濃いカステラ色が実によく合う。
 もうひとつは、杉材で作った変わった形の器に、本物の葦のスダレで蓋をし、鵜篝をあしらった掛け紙をした上から、これも本物の細縄を十字にかけ、栞と水引きをはさむという豪華なもの。この杉の器は、鵜飼のときに鵜が獲った鮎を受ける道具で、モロブタと呼ばれる道具をかたどったものであるという。
「登り鮎」は、カステラ生地で求肥を包み、鮎をかたどった焼菓子だが、目と口と鰓が焼きゴテかなにかで、ちょんちょんとつけてあるのがかわいい。口に入れるときにカステラのいい香りがして、このお菓子を食べるたびに、鮎の別名「香魚」を思い出す。
 玉井屋本舗は明治41年(1908)創業。「登り鮎」のほかにも、「やき鮎」、「利久松風」などの銘菓がある。

 文/大森 周
写真/太田耕治

玉井屋本舗

岐阜市湊町42
TEL 058(262)0276
FAX 058(262)6893

マロングラッセ No.143

マロングラッセ

お菓子の神戸シック

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 もう昔の話になるが、神戸の御影に洋画家・小磯良平先生を初めて訪ねたとき、無口な先生が、「神戸にはおいしいお菓子があるから、食べていきなさい」と言われた。
 そのあと、私は憧れの元町をぶらつき、神戸風月堂でウエハス2枚にはさまれたアイスクリームを食べたが、そのおいしかったことが忘れられない。当時は、「風月堂」と間口いっぱいに看板のある店だった。
 マロングラッセは、東京の米津風月堂がすでに明治25年頃から製造していたようだが、今では、神戸風月堂の製品がとりわけ知られている。本場フランスでも高級品とされているこのお菓子、神戸というシックな町の雰囲気に実によく似合う。神戸風月堂では、国産の銀寄栗という稀種だけを用い、イキな国際都市にふさわしい重厚なマロングラッセを作りあげてきた。
 明治30年、吉川市三が米津風月堂の暖簾分けを受けて独立した神戸風月堂は、オリジナルのゴーフルで名をあげ、めざましい発展を遂げてきている。
 神戸風月堂のマロングラッセの箱は、全体が品格のあるゴールド系。表面にMGの文字のカリグラフィがデザインされ、日本語の文字はどこにも入っていない。アクセントに、上蓋に明るいゴールドの帯がかけてある。「はい、パリのおみやげ」といっても、そのまま通用しそうだ。
 箱の蓋を開くと、仕込まれた容器にひとつずつ、やはりゴールドの包装に黒い帯のかかるマロングラッセが現れる。その宝石でも出てきそうな包みを解き、驚くのは栗の大きさ。おもむろに口に入れると、甘く、ねっとりと歯にからみつくようにおいしい。
 マロングラッセの「グラッセ」は「糖衣をからめる」という意味のようだが、それは仕上げのことで、糖蜜に長時間漬け込んで作る。
 しおりにも、「稀少果といわれる国内産銀寄栗の鬼皮と渋皮とをひと粒ひと粒丁寧に手剥きし、バニラの香り高い糖蜜にじっくりと漬け込み、糖衣をからめて仕上げました」とあった。

 文/大森 周
写真/太田耕治

神戸風月堂

神戸市中央区元町通3−3−10
TEL 078(321)5555

あわ雪 No.146

あわ雪

宿場名物の風味を偲ぶ

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 旧東海道の岡崎宿跡は、現在の国道1号より1本北寄りの道にあたる。島町交差点を北に入り、道なりに東へ曲るあたりが、旧岡崎宿の中心部、伝馬通り。戦災にあった岡崎では、旧街道の家並みも戦後のものだが、それでもどこかに、宿場の面影をほのかに残している。
 岡崎名物の銘菓「きさらぎ」「あわ雪」で有名な、備前屋もこの一角にある。天明2年(1782)創業といえば、今日まで続いている東海道の名店としては、屈指の老舗といえるだろう。現在の社長、中野敏雄さんが8代目。備前屋の屋号は、江戸初頭に岡崎で善政を行った伊奈備前守忠次という家康の忠臣にちなむものではないかと、中野さんが随筆で書いておられる。
 銘菓「あわ雪」は、3代目が明治初期に創製したものだが、古書にも「三州岡崎東の駅口に茶店あり 戸々招牌をあげて豆腐を賣る其製潔清風味淡薄にして趣あり 東海道往来の貴族賢輩と雖も必輿を止て賞味し給ふ 東海道旅糧の一好味と謂ふべし」と記されている、江戸時代に岡崎宿の茶屋で供していた「あわ雪豆腐」がなくなるのを惜しんだ3代目が、菓子にその名を残したものだという。
 「あわ雪」の4種類(スタンダードな茶山、純白、桃花の3種と鹿の子)詰め合わせは、清流の浅瀬の底の小石を描いたような模様の包装紙で包まれている。
 包装を解くと、堂々たる桃色の菓子箱に、掛け紙は広重の東海道五十三次の「岡崎」をモノクロで刷り、朝顔のちぎり絵をあしらって格調高い。箱の中には、さらに1種類ずつ、それぞれ色を変えた色紙の短冊を斜めに貼ったような模様の箱におさめた「あわ雪」の棹が4本、きっちりと詰まっている。
 「あわ雪」の製法は、新鮮な卵白に、寒天と砂糖で作る錦玉液を溶かし込んで、泡だてるというもの。「茶山」は抹茶、「純白」は白双糖、「桃花」は桃の果汁、「鹿の子」は蜜づけの北海道小豆粒で、それぞれ味つけをしている。いずれも実にきめ細かで、上品な味だ。
 「あわ雪」の食べ方は人それぞれだと思うが、冷やして食べると、一段とおいしく、それぞれの味も際立つようだ。

 文/大森 周
写真/太田耕治

備前屋

愛知県岡崎市伝馬通り2–17
TEL 0564(22)0234
FAX 0564(25)1829

つきいれ餅 No.147

つきいれ餅

甘くやわらかく日向の味

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 宮崎市は古くて新しい町である。神話の国・日向の中心地である宮崎には、神武天皇の宮居があったという伝承が、すでに奈良時代から行われていた。江戸初期までは宮崎城があって栄えたが、徳川の世にさびれ、明治を迎えて県庁所在地になってから、再び息を吹き返したのである。
 市の南寄りの大淀川を北へ、橘橋を渡ると、宮崎市のメインストリート橘通りである。日向の銘菓「つきいれ餅」の金城堂本店も、この橘通りに面して建っている。
 創業は明治13年、現在の当主は3代目の堀場道さん。初代堀場甚兵衛は名古屋の出身で、金城堂の名は、金のシャチホコで知られる名古屋城にちなむとか。
 「つきいれ餅」は宮崎に古くからある菓子で、起源には次のような伝承がある。神武天皇が東征の旅に出ようとして、美々津浜で風待ちをしているとき、住民は壮途を祝って餅を献じようとしていたが、急に船出が早まったため間にあわず、餅と小豆をつきまぜて献上した。これを「つきいれ餅」と呼んだというのである。
 金城堂本店の「つきいれ餅」の製法は、もち米、小豆、水飴を原料とした白色の求肥の中に、小豆を散らし込む。スタンダードな12個入りのを開いてみよう。
 まず包装紙は、2色を巧みに使いこなした茶屋辻文様で、デザインのよさに目をみはった。包装紙を解くと、箱には、天地にあざやかな赤色の帯を刷り込み、右下には海辺の神社と沖の船を、左上には雲に乗った天孫降臨の神々を白描であしらってある。古風だが、いかにもこの餅のいわれにふさわしい。 
 箱の中には、大納言入り、漉し餡入り、日向夏蜜柑入りの包みがそれぞれ4個ずつ、きれいに並んでいる。個包みは、左右の端にややくすんだ赤色をきかせた美しいもの。24個入りは、上等な奉書を用いている。
 包みの中からは、小さく切った餅が2つずつ出てくる。ほどほどに甘く、やわらかく、口にもおなかにも、食べた重さがまるで残らない餅であった。

 文/大森 周
写真/太田耕治

金城堂本店

宮崎市橘通東2の2の1
TEL 0985 (24) 4305
FAX 0985 (22) 5768

特製誉の陣太鼓 No.148

特製誉の陣太鼓

太鼓の中身は、やさしい味

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 銘菓「誉の陣太鼓」で知られる「お菓子の香梅」は、創業者の副島梅太郎さんが大正12年、弱冠12歳で台湾の一六軒に見習い奉公に出て、森平太郎氏に師事。昭和21年に熊本に引き揚げてきて創業した店である。先頃、梅太郎さんは相談役に退いたが、90歳を越えていよいよお元気だ。
 現在の当主は、息子さんの副島隆さん(昭和17年生まれ)。
「誉の陣太鼓」とは、熊本らしい勇壮な名前である。優雅なネーミングが多い和菓子のなかでは、珍しい。ちょうど今の季節なら、男の子の節句などに贈るのにぴったりのお菓子である。
「誉の陣太鼓」は従来、直径5.5?ほどの大きさだが、お菓子の香梅では、平成13年、直径4?ほどの小型にして、小箱に2個ずつ入れた「特製 誉の陣太鼓」を発売した。この小型の方を食べてみると、正直食べやすい。食べる側に配慮した革命的な工夫で、早晩、「誉の陣太鼓」の主流になるのではないだろうか。
 その「特製 誉の陣太鼓」10個入りを前に、まず包装紙に見とれた。江戸時代のお菓子屋さんの店先を本格的に描いた風俗画だが、看板を見ると、「御菓子司 香梅庵」となっている。これは、初代が、江戸時代にでも創業していたら、こうもあろうか、という思いで画家に描かせたのだ。
   中央に岡持ちを持って立つ羽織の人物が、梅太郎さんによく似ているというのも、おもしろい。この絵も、初代のお菓子にかけた心意気の一つであろう。
 包装を解くと濃い小豆色の箱が現れ、蓋を取ると10個整然と並んだ赤銅色の小箱が、ぱっと目に入る。横で開く小箱から転がり出る2個の太鼓形のお菓子の個包みは、見事な金色。食べるのがもったいなくなるような、重厚で美しい包装である。
「誉の陣太鼓」は、大納言小豆で求肥餅をくるんだお菓子だが、小豆は十勝で栽培させて厳選したものを使い、水も阿蘇の伏流水を用いているという。それだけに、求肥の味わいも、粒餡の口溶けもまことによく、気がついてみると、小箱3個をいつの間にか食べてしまっていた。
 陣太鼓と名前こそ勇壮だが、中身はやさしい洗練されたお菓子である。

 文/大森 周
写真/太田耕治

お菓子の香梅

受注センター:
熊本県阿蘇郡西原村大字小森3590-3
TEL 0120(37)5081
FAX 096(279)4506
*受付時間 9〜17時(日曜休み)

花菜っ子 No.149

花菜っ娘(はななっこ)

明るく、気風(きっぷ)よく 千葉の味

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 私ごとで恐縮だが、筆者は若い頃、毎夏、館山へ海水浴に行っていた。当時、『ひまわり』や『それいゆ』で有名な画家の中原淳一さんが館山で療養生活をされていたが、淳一さんの息子さんと友だちだった筆者は、彼のでかい外車に乗せてもらって出かけたのである。
 千葉県人には、男女を問わず、明るくて気風のよい人が多い。夏ごとにお世話になった民宿の奥さんの、息子でも迎えるようなカラッとした温かさが、忘れられない思い出になっている。今回の房洋堂が館山のお菓子屋さんと知って、なつかしさのあまり昔話になった。 
 房洋堂は大正12年に材木商だった初代が菓子屋に転じたのが起こりで、名物饅頭やびわ羊羮などを製造していた。 
 現在の社長は、三代目の高橋弘之さん(昭和14年生まれ)。早稲田大学を卒業後、不二家に勤め、昭和52年に房洋堂に戻り、社長に就任した。主力商品の「花菜っ娘」の創製をはじめ房洋堂を盛んにしたのは、この人である。
 高橋さんは、「千葉の農産物の質が上がり、それを素材に私どもがよい菓子を作るのが理想」と語っている。
 「花菜っ娘」は、房総の風物詩となっている菜の花にちなんだお菓子を、という鴨川市営フラワーセンターの要望で作られた。当初は蒸し饅頭だったが、今は手亡豆に牛乳とバターを加えた餡を、アルミホイルで巻いて焼いたホイルケーキである。ホイルケーキの利点は、バターなどをたっぷり使っても形くずれしないことと、約30日間と、日持ちがすることだという。
 14個入りは、包み紙からして、古代風の紋様を白抜きにした菜の花色である。「千葉の豊かな恵み 人に思いをつたえる時に」という、房洋堂のキャッチコピーが刷り込んである。
 包装を解くと、箱は、菜の花の花びらの輪の中に、かわいらしい女の子をあしらったもの。この子は個包みにも登場する。個包みは袋になっているから、ちぎって、アルミホイルのままのお菓子を取り出す。ホイルを開くときは、お菓子がホイルにくっつかないよう、そっと開くとよい。 
 さっそくいただいてみると、甘すぎず、くどくなく、口溶けのよい、実に千葉県人に接するような味であった。

 文/大森 周
写真/太田耕治

房洋堂

千葉県館山市安布里780
TEL 0470(23)5111

娘娘饅頭 No.150

娘娘万頭(にゃあにゃあまんじゅう)

気立てよし、加賀娘

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 芭蕉は「奥の細道」の長い旅の途中、東と西で2箇所だけ温泉に泊まっている。東は福島県の飯坂温泉、西は石川県の山中温泉であった。
 飯坂ではまんじりともしなかった芭蕉だが、山中温泉ではゆっくりとくつろげたようだ。
 「温泉に入った。ここの温泉の効能は有馬温泉に次ぐといわれている」と書き、
  山中や
   菊もたおらぬ湯の匂(にほひ)
 と詠んでいる。
 その山中温泉の名物菓子といえば、山中石川屋の「娘娘万頭(にゃあにゃあまんじゅう)」である。
 山中石川屋は、明治38年、山中温泉に湯治客相手の土産物店を開いたのに始まり、昭和初期には銘菓「河じか」を創製、戦時中も軍に羊羮をおさめるなどして、のれんを守り続けてきた。
 「娘娘万頭」を誕生させたのは、昭和34年、2代目の石川外次郎である。「にゃあにゃあ」とは若い娘を指す加賀言葉だという。現在の当主は3代目の石川光良さん。山中石川屋の近代的な経営を進めた人だ。
 「娘娘万頭」12個入りを開いてみる。ベージュの落ち着いた包装紙を解くと、こけしの娘さんがにっこり笑っている箱。蓋をあけて、ずらりと並ぶ小判型のまんじゅうを見ると、個包みには、かわいらしいかんざしがあしらわれていた。4個ずつケースに入れて、しっかりとパックしてある。土産物などに使われる菓子だけに、安全性に留意していることがよくわかる。
 一ついただいてみて、おや、このなつかしい味はなんだったかな。しおりの説明を読んで、皮に味噌が使われていることを知り、納得した。黒糖と味噌の香り、この皮は絶品である。餡はあっさりと甘すぎず、口に溶ける漉し餡。 
 これが加賀の娘娘(にゃあにゃあ)の気立てのよさか、と感心しつつ、いつの間にか2つ、3つと。

*註『奥の細道』では「山中や菊もたおらぬ湯の匂」となっていますが、芭蕉が山中温泉で詠んだ原句は「菊はたおらじ」です。

 文/大森 周
写真/太田耕治

山中石川屋

石川県江沼郡山中町本町2-ナ-24
TEL 0761(78)0218
FAX 0761(76)0334

羽二重餅 No.151

羽二重餅(はぶたえもち)

お菓子に絹の風合いを

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 福井は羽二重の産地として知られた。民芸運動の指導者柳宗悦も、こう書いている。
「越前の福井は松平氏の城下。また永平寺の国。ここの名は久しくその『羽二重』を以て聞えました」(『手仕事の日本』)
 羽二重が福井で織られるようになったのは、明治20年頃のことである。30年代には機械を導入して大規模となり、海外輸出も盛んに行われるようになった。福井の銘菓「羽二重餅」で有名な松岡軒も、前身は「丸十印奉書紬(羽二重)」の製造で聞こえた絹重(淡島重兵衛)という織物業者である。
 その後、淡島恒が菓子製造業を開くにあたって、菓銘に先代の家業を伝えようとしたのが、「羽二重餅」の名の由来である。
「羽二重餅」は明治38年の菓子品評会で金賞を受賞。同時に、この時代に福井の羽二重生産がピークを迎えたため、「羽二重餅」は贈答品として空前の売れゆきをみせたという。現在、当主は4代目の淡島洋(58歳)さんである。
 さて、「羽二重餅」32枚入りの包装を解いてみよう。まず、松の枝先を大胆に組み合わせたシルエットを金泥で刷った包装紙。松は松岡軒の「松」であろう。
 それを解くと、菓子箱はさらに、モスグリーンの絵と文字が刷られた白い包装紙で包まれていた。
 中央に機織りに使う杼(ひ)を縦に描き、その中に「福井名物 羽二重餅」の文字。杼の上には「松」に「岡」の字を組み合わせたシンボルマーク。杼に寄り添って立つ古代衣装の女性は、羽二重の織姫であるという。この包装紙は創業以来使われているもので、非常に古風な趣のあるものだ。
 その白包装のなかから、杉板の箱を模した、まことに品のよい薄い箱が出てきた。短冊形の「羽二重餅」32枚が、4枚ずつ区分けして入っている。1枚を楊枝で刺して持ち上げると、しなりと垂れるほど、柔らかい。
 口に入れた時の、求肥のなめらかさ、砂糖と水飴の上品なほの甘さ。羽二重の風合いをお菓子にしたものとはこれかと、つくづく感嘆する食感だった。

 文/大森 周
写真/太田耕治

羽二重餅總本舗松岡軒

福井市中央3−5−19
TEL 0776(22)4400
FAX 0776(27)4400

三鈷峰 No.152

三鈷峰(さんこほう)

山うどの香りほのかに

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 大山(だいせん)という山は、西の米子側には、伯耆富士の名にふさわしい端整な独立峰の姿を見せるが、北の海岸線にまわると、うって変わって、山頂に恐ろしいまでの猛々しい岩肌を現わし、旅人を驚かす。
 かくも変化に富んだ山容に、信仰の山としての歴史、植物や昆虫の宝庫という面も加えれば、大山はまさに山陰路の華である。今回は、その大山のふもとの町・米子市から、すてきなお菓子が届いた。銘菓「三鈷峰」である。米子市のお菓子屋さん「つるだや」の製品。
 「つるだや」は、大正15年の創業。現在は4代目で、若い鶴田陽介さん(昭和40年生まれ)が社長である。
 「三鈷峰」は2代目社長(現会長)の鶴田芳一さんが、昭和29年に創製した。この土地ならではのお菓子を作るべく、当時の米子市長だった野坂寛治氏や大山山岳会の協力を得て完成、発売したものという。お菓子作りに山岳会が参加したというのは、珍しい逸話だ。菓名も、弥山、剣ガ峰などとともに大山の主稜をなす一峰で、古来霊場として崇められている三鈷峰からきている。
 製法は、毎年4、5月頃に大山で採れる天然の山うどを塩漬けで保存しておき、それを蜜で炊いて落雁に混ぜ込むというものだ。
 いただいた「三鈷峰」、包装にも雅致があった。まず包装したお菓子を杉板に似せた発泡スチロールの板(かつては本物の杉板を用いた)で両側からはさみ、褐色の紙紐で結んである。板の表面には山うどの絵が刷り込まれているが、これが野趣があってよい。うどの絵と、上にのせた「三鈷峰」の文字は、先にふれた野坂寛治氏のもの。
 包装紙は、大山の登山図であった。三鈷峰の位置もこの地図でわかる。包装を解くと現れるパラフィン紙に包まれた落雁は、17・3センチ×8・5センチの長方形で、薄緑の色がまことに美しい。一片を口に入れてみると、さっくりと溶ける甘みのなかに、山うどのほのかな香りと、かすかな苦みが感じられた。
 大山の神々しい姿と春の息吹のなかへ、思わず心が飛んでゆく。「三鈷峰」はそんな、ほんとうに風土の魅力を生かしたお菓子だ。

 文/大森 周
写真/太田耕治

つるだや

鳥取県米子市角盤町3―100
TEL 0859(32)3277
FAX 0859(32)3279

栗饅頭 No.154

栗饅頭

小倉みやげは勝栗

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 栗饅頭は今や、全国どこにでもあるお菓子である。しかし、九州・小倉の湖月堂ほど栗饅頭で名をなしたお菓子屋さんはないだろう。
 湖月堂の創業者小野順一郎は立志伝中の人物で、広島から小倉に出て菓子職人の修業をし、明治28年(1898)に独立した。その頃の小倉は日本有数の軍都であったが、小野はもって生まれた人物の魅力で師団長などに愛され、人脈と商才によってたちまち小倉の豪商の一人にのし上がったのである。
 「栗饅頭」は明治27、28年の日清戦争の折、勝栗の縁起にちなんで小野順一郎が創製発売し、一大ヒット商品となった。これも軍都ゆかりの商品だったといえよう。
 湖月堂の特異な点は、菓子のほかに食品や酒類の卸しを扱ったことである。この部門はその後、別会社として九州を代表する組織卸業として発展、代々の社長が兼営する独自の経営をしていく。
 小倉出身の作家松本清張は、子どもの頃から湖月堂のショーウインドーに憧れ、新聞社でデザインをしていた時代、この店のディスプレイを手がけたことを、終生ひそかな誇りとしていた。この一事からも、大正・昭和初期の湖月堂という店の華やかさは、おおよそ想像できよう。
 今、湖月堂は3代目、2代目小野精次郎の娘婿、本村道生さん(昭和8年生まれ)が継いでいる。
 さて、手にずっしりと来る25個入りの「栗饅頭」を開いてみよう。濃い紫色の包装紙には、白線の抜きで大小の月のマークがぎっしりと並んでいる。この湖月堂のシンボル・マークは、小さい方が天にある月、大きい方が湖に映る月を表したものだという。
 包装紙を解いて出てきた箱には、枝付きのいが栗の絵をあしらった掛け紙がかかっていた。濃い褐色の箱のふたをあけ、薄紙を開くと、ぎっしりと小判型の「栗饅頭」が詰まっている。見事な眺め!
 見た目にも皮の焼き色は栗そのもの。一つ口に入れてみると、皮と餡がしっとりと溶け合っておいしく、しかも後口が重たくない。いくらでも食べられてしまう。
 実はこの一文、「栗饅頭」にばかり手が伸びて、なかなか書くほうが進まなかった。

 文/大森 周
写真/太田耕治

湖月堂

北九州市小倉北区赤坂海岸3―2
TEL 093(541)0961
FAX 093(541)3756