大原松露饅頭 No.155

大原松露饅頭

はるか高麗の風味

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 唐津は、風雅な陶器・唐津焼の産地として知られる。その唐津焼をもたらしたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、秀吉軍に同行して日本に渡ってきた高麗の陶工たちであった。
 大原老舗の「大原松露饅頭」も、高麗の人々によって伝えられた焼饅頭を起こりとする唐津市の銘菓である。
 江戸末期、創業者の惣兵衛は「阿わび屋」の屋号で海産物商を営んでいたが、妻かつは高麗風の焼饅頭を焼く名手だった。燃料に炭を用いた時代、饅頭を焼く銅版の下の燃料炭の調整が難しく、海産物店の店番をしながらかつが焼く饅頭は評判だったのである。
 幕末維新の激動期を迎え、海産物商の仕事が行き詰まった時、この妻の腕前が生きることになる。嘉永3年(1850)、惣兵衛は海産物商をやめ、菓子屋に転業した。折しも唐津は石炭景気に沸き、菓子を買える人々も増えていたのである。
 焼饅頭に創意工夫をこらした惣兵衛は、唐津藩主小笠原侯に献上して御意にかない、唐津の名所虹の松原の松露にちなんで、「松露饅頭」の菓名を賜った。松露は、松林で採れる球形の茸のことで、「大原松露饅頭」はまさにあの松露の形をしている。
 惣兵衛の子孫はその後大原氏を名乗り、現在は6代目を大原潤一さん(昭和35年生まれ)が継いでいる。
 15個入りの「大原松露饅頭」を開いてみよう。白地にデザイン化されたさまざまな松の模様がモスグリーンであしらわれた包装紙は、実に目にさわやかで、松風の音が聞こえてくるようである。
 包装紙をはずすと、化粧箱の表面に美しい絵が印刷されている。この絵は、明治16年に元唐津藩お抱え絵師富野淇園が、唐津の豪商の依頼で描いたもの。巨大な唐津の曳山と祭礼の行列は、江戸時代の風俗である。
 箱を開けると、15個をきっちりと収めた容器ごと真空パックされた「大原松露饅頭」が出てくる。散り松葉が描かれた個包みがまた美しい。個包みを解いて出てくるのは、松露の形の真ん丸い饅頭。
 さっそく一ついただくと、もちっとした腰のある薄いカステラ生地の皮のなかに、さらりとした甘さの餡がたっぷり詰め込まれている。ぽんと口に入れてはもったいないので、割りながら食べた。

 文/大森 周
写真/太田耕治

大原老舗

佐賀県唐津市本町1513―17
TEL 0955(73)3181 FAX 0955(73)3184

麦落雁 No.156

麦落雁(むぎらくがん)

簡素にして古雅

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 群馬県の館林(たてばやし)市は、茂林寺(もりんじ)の分福茶釜で名高いが、少し歴史をひもとくと、あの4代将軍徳川綱吉(家光の4男)が、将軍になるまでは館林城の城主であった。つまり、館林は、将軍の子弟を置くような、きわめて格の高い城下町だったのである。そうした伝統というものは、時を経てもなかなか失われないものだ。 
 その館林から、まことに風雅なお菓子「麦落雁」が届いた。製造は館林の老舗・三桝屋總本店で、創業は文政元年(1818)。「麦落雁」も創業者与兵衛が創製したものである。
 与兵衛は、大麦を皮つきのまま焙って粉末にする麦こがしの香ばしさに目をつけ、これに和三盆糖を加えて干菓子にした。「三桝紋」の型も、与兵衛が独自の工夫をしたものである。「麦落雁」の香ばしさと上品な甘さは、茶の湯の菓子として館林城主秋元侯の御意にかない、さらには将軍家にまで聞こえるところとなる。その趣は、文人墨客にも好まれるようになった。
 三桝屋の現社長は6代目の大越正禎さん(昭和17年生まれ)。正禎さんは「焙ってひいた麦粉を固めるのが難しいんです。水気が少なすぎても固まりませんし、水を入れ過ぎるとカチカチになってしまいます。ですから、今でも型に詰めるのは手作業です」と製造のカンどころを話してくださった。
 スタンダードな45個入りの「麦落雁」。包装紙は東郷青児のアトリエで、岡本太郎、西村龍介と、3人の画家が会した席で生まれたとか。「麦落雁」の香りがバラの香りに似ていることから、バラの花と中間色の亀甲を組み合わせたデザインは、主として西村龍介画伯の手になった。
 包装紙を取ると、箱は大名行列の彩色画である。側面の説明書きで、館林城主秋元侯の行列であることがわかった。 
 箱のなかには、「麦落雁」がぎっしり。一つ口に入れると、麦こがしの香りが甘さとともにさっと口のなかで溶け出す。簡素にして古雅。これこそ、古来ものさびた名所を指す〈落雁〉の名にふさわしいお菓子だと思う。「麦落雁」には、少林寺達磨寺の献茶式の際に創案された茶席菓子「利休復元」もある。

 文/大森 周
写真/太田耕治

三桝屋總本店

群馬県館林市本町1―3―12
TEL 0276(72)3333

とこなつ No.166

とこなつ

万葉の雪

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 高岡の町歩きはおすすめである。鋳物を特産とした高岡には、大勢の鋳物職人が住んでいた。その鋳物職人の工房と住まいであった千本格子の家並みが、金屋町に今も静かなたたずまいをみせている。 
 高岡商人の繁栄を伝える、土蔵造りや明治・大正の洋風の建物が立ち並ぶ木舟町の通りも見事である。
「山町筋」と呼ばれており、平成12年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。毎年5月1日には国の有形・無形文化財である7基の御車山も曳きまわされる。
 こういう高岡の町が生まれたのは、加賀藩の2代藩主前田利長が隠居後、ここに一時城を築き、京都風の町づくりを行って以来である。城は廃止されたが、その後も前田家に庇護され、商工業の町として栄えた。
 しかし、高岡はさらに古い歴史を誇りとしている。市内北部に当たる古い湊町・伏木は、古代には国府や国分寺が置かれ、越中の政治・文化の中心であったところだ。万葉歌人大伴家持は天平18年(746)、28歳の時に越中守に任ぜられ、ここに赴任した。家持に、立山を詠んだ次のような歌がある。

 立山にふりおける雪をとこなつに見れども飽かず神からならし

 今回、高岡を代表する銘菓として紹介する大野屋の「とこなつ」は、この歌にちなんで作られたものだ。
 大野屋は、高岡市木舟町にあって、天保9年(1838)創業という老舗だ。祖先大門屋は醤油の醸造業であったが、大門屋吉四郎の代に菓子屋に転じた。吉四郎を初代として、のちに大野姓を名乗り、現在の当主は9代目の大野隆一さん(昭和23年生まれ)である。
 「とこなつ」は明治末から大正初期の創案。精選した備中白小豆餡を求肥でくるみ、和三盆糖をふりかけた小ぶりなお菓子だ。和三盆糖は家持の歌の雪に見立てたものであるとか。甘さは上品そのものだが、後口にほのかに蜜のような味の余韻が残る。
 届いた24個入りの菓子箱。包装紙は両面印刷の凝ったもので、表は特色に金粉のような散らし入り、裏は一色である。四季で使い分け、春は桜色(裏黄緑)、夏は水色(裏薄紫)、秋は黄色(裏柿色)、冬は茶消し炭色(裏赤)。包装紙を解くと、掛け紙は上質な紙に王朝色紙ふうのデザインで、控え目に「とこなつ」のロゴが入っていた。
 箱をあけるとまた箱。というのは、24個入りには12個入りの箱が2個収められている。それぞれの箱を和紙風の袋で密封しているのが、丁寧である。
 大野屋の「とこなつ」、万葉にちなむ菓名のごとく、味はもとより、一箱のもてなし方に至るまで、まことに風流であった。

文/大森 周
写真/太田耕治

大野屋

富山県高岡市木船町12
0766(25)0215
http://www.ohno-ya.jp/

あんころ餅 No.159

あんころ餅

夢枕の味、今も

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 いつの間にか、松任市がなくなっていたのには驚いた。平成17年2月、松任市は周囲の2町5村と合併して白山市となったのである。俳人、加賀の千代女の故郷として知られた松任の地名が消えることは、余所ながら惜しまれる。
 かつては物産の集散地として栄えた商人町で、北国街道の宿場町でもあり、現在の国道8号線沿い、旧松任市成町あたりに旅籠、茶店などが軒を連ねていた。
 その成町に、元文2年(1737)創業の老舗がある。あんころ餅で有名な圓八だ。元文は8代将軍吉宗の治世で、たいへんに古い。代々圓八を襲名し、現当主の村山圓八さん(昭和22年生まれ)は11代目に当たる。
 「あんころ餅」の創製には、次のような話が伝えられてきた。
 「村山家二世のあるじが、何を思ったのか、裏庭に羅漢柏の苗木を植え、『わが願いがかなったら、大きく茂ろ』と深く祈り、翌日の夕方、妻子を残して行方不明になったという。妻子は生活苦に悩まされたが、その年の秋の真夜中、妻の夢枕に天狗になった夫が立ち、『私は京都の鞍馬山で天狗について修行している。今おまえに教えることがある。これこれの作り方で餅を餡に包んで食べれば無病延命、商売繁盛となろう』と告げて姿を消した……」(圓八の説明書より)
 ちなみに、羅漢柏とは、アスナロの木のことである。
あんころ餅は直径3センチほど、一口で食べられる大きさだ。これが9個、竹の皮に包まれているのがスタンダード。ほかに24個入りの箱などがある。
 箱の包装紙は小豆色の地に白抜きで、北国街道の宿駅の代表的な旅籠や茶店を紹介した道中記が刷り込まれたもの。道中記には、もちろん「休 村山や圓八」の文字も見える。包装を解くと、箱にはあんころの製造のさまが、職人図絵的なコマ絵で散らしてある。 
 竹の皮といい、包装紙といい、歴史ある街道名物の趣を今に伝える。しかし、昔の茶店の味、旅気分を味わわせてくれるのは、あんころ餅そのものだ。
 水は霊峰白山の伏流水。もち米はその清らかな水で育つ無農薬の契約栽培。餡は直火で煉るのではなく、皮を除いた生餡を高圧蒸気で1時間ほど蒸す。こうするとデンプン質が粒子のまま残り、さらっとした舌ざわりに仕上がるという。餅もやわらかければ餡もおいしくて、あっという間に9個くらいは食べてしまう。 
なるほど、昔懐かしい素朴な味わいだった。

文/大森 周
写真/太田耕治

圓八

白山市成町107
TEL.076(275)0018 FAX.076(275)0019

白松がモナカ No.163

白松がモナカ

幽玄の味

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 仙台の伊達政宗は、黒と金の装束に統一した軍団を率いて京にのぼり、都の人々を驚かせたといわれる。
 この政宗以来、仙台というところには、奇抜で、しかも風格のある発想を生む風土があるように思われる。
 仙台は明治維新で一度精算を余儀なくされ、近年は東北新幹線の開通以後、外来資本にどっとさらされた。しかし、そういう外からの力を、うまくもてなして仙台的な発想に取り込んでいるのが、仙台の底力だと思うのである。
 極めて仙台らしいものの一つに、菓名からして特異な名菓「白松がモナカ」がある。白松がモナカ本舗の創業者白松恒二は、明治の人であった。「白松がモナカ」と、「が」の入った菓名の誕生をめぐっては、次のようなエピソードが伝わっている。
 「荒城の月」の作者として有名な詩人・土井晩翠は、仙台に生まれ、仙台に住んでいたが、当時「白松最中」という商品名であったこの最中が大好きだった。
 初代は、「白松最中」を「白松が最中」に変えようと思った時、晩翠に相談した。店に立ち寄った晩翠に、「先生、どうでしょうか」と、白松と最中の間に「が」を入れる案を示した。「どうかな、考えておく」。
 そう言っていったん店を出た晩翠は、すぐに引き返し、「そうしろ、そうしろ、君が代とも言うし、おらが春とも言う。白松が、にしろ」と言ったという。「最中」が「モナカ」になったのはずっとあとである。
 この逸話は、常務の早坂業さんからうかがった。
 さて、現在の「白松がモナカ」を賞味させていただくことにしよう。「白松がモナカ」12個入りである。
 赤い紙紐が十字に掛けてある包装紙を解くと、グレーの絞り模様の地に「白松」という細い、美しくデフォルメされた筆字が印刷されている。これは高名な女流書家・町春草さんの文字。
 解いた包装のなかから現れるのは、立派な杉の菓子箱である。箱の中には大納言、大福豆、胡麻の餡が入ったモナカがそれぞれ4個ずつ、動かないように仕切りを入れて、きっちりと並ぶ。「白松がモナカ」には4種類の大きさがある。写真の大型のモナカの直径は7センチほどで、一つひとつがとにかくたっぷりとしていて、箱を開けると思わず声が上がる。
 筆者は「白松がモナカ」はもっぱら胡麻党であったが、今回3種類をいただいて、大納言と大福豆の、胡麻とは違うおいしさを知った。また、小豆の漉し餡に、自社農園産の栗を贅沢に詰めた「栗モナカ」も絶品である。
 味の変化を楽しみながら「白松がモナカ」を交互に食べる極楽。仙台のもてなしは、これに尽きると思った。

文/大森 周
写真/太田耕治

白松がモナカ本舗

仙台市青葉区大町2―8―23
0120(008)940

山親爺 No.167

山親爺

北海道、野趣とモダン

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 北海道の人々が「札幌に出る」と言うのを聞くと、いかにも在所から町場に出てくるという印象がある。道内の人々にとってだけでなく、道外から訪れる旅人にとっても、札幌は北海道の都だ。
 その札幌のうちでも、お菓子の老舗、千秋庵のある南三条西3丁目というところは、間違いなく最もにぎやかな場所である。札幌駅から南へ真っ直ぐ下る大通りの、大通り公園とすすきのの間の一角で、もともと札幌の銀座ともいうべき街。今では、通りに面して東側に三越、パルコ、西側には4丁目プラザ、ピヴォ、コスモ、アルシュと、ファッション・ビルが集中し、若者の集まる札幌一おしゃれなゾーンともなっている。
 千秋庵は大正10年、岡部式二が創業した。8階建ての本店がまるごとお菓子屋さんで、和洋菓子合わせて年間400種のお菓子を製造している。北海道各地からやってきた数知れぬ人々が、ここでお菓子を買い、喫茶室でひと休みしたに違いない。現社長は3代目の岡部一衛さん(昭和28年生まれ)。モットーは「根深ければ枝繁し」、効率化のために品質を落とさず、本物づくりに徹するという「根」を育てたい、と語る。
 初代が昭和5年に発売して以来、製法をいささかも変えずに作り続けているのが、銘菓「山親爺」だ。北海道産の新鮮なバターとミルクに、卵をたっぷり用いた高級煎餅で、独特のサクサク感は水を一滴も加えないで焼き上げるところから生まれる。山親爺とは、北海道ではヒグマの愛称である。
 缶入りの「山親爺」をいただいた。包装紙は、現社長が7、8年前にデザインさせたという白地にハマナスの花、これを解くと、白地に緑でヒグマやクマザサの絵を散らした箱が現れた。登録商標のマークは煎餅そのものと同じ、煎餅のなかに獲物のサケをかついだヒグマが描かれているが、スキーをはいているのがおかしい。「YAMAOYAJI」という太い書き文字
が、利いている。箱から出てきた缶は、黒地に銀でヒグマや雪の結晶などが線描きされ、風格のあるものであった。
 缶を開けると、いよいよ「山親爺」が現れた。湿気を吸わぬよう5枚ずつ包んである配慮が嬉しい。食べてみると、味よりも、まずふわっと香りを食べるような軽さ。バターもミルクも卵も、みんな生きている。これはたしかに、煎餅中の逸品だと思った。北海道の野趣とモダンが、みごとに溶け合っているのである。

文/大森 周
写真/太田耕治

千秋庵

札幌市中央区南3条西3丁目
TEL 0120-378082 FAX 011-219-2124

小男鹿 No.164

小男鹿

風雅の味

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徳島の銘菓「小男鹿」は、全国の和菓子ファンの間に、逸品として響きわたっている。「小男鹿」とはまた、よくぞこのお菓子にこの名をつけたものだと思う。
  
さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は
露霜負ひて散りにしものを

 万葉集の時代から、「さを鹿」は恋路をさまよう若い男性の代名詞として歌われ、萩の花との組み合わせで、秋の優美なイメージをかきたてる言葉でもあった。銘菓「小男鹿」の上面につけられた渋い若草色の縞、断面に点々と小豆がつくりだす鹿の子斑は、巧みな「さを鹿」の表現といえよう。  
  しかし、なによりもこのお菓子を日本古来の心に通わせているものは、阿波特産の和三盆糖を用いてつくり出したおだやかな甘さ、ゆっくりとおなかに落ちてくるような食感である。
 徳島の老舗菓子店・冨士屋が「小男鹿」を創製したのは、明治10年頃であった。冨士屋の初代喜多傳之助は、もともと江戸で10代を数えた武士だったが、明治維新後に阿波藩主蜂須賀侯にしたがって徳島に移り、「江戸餅」という菓子屋を創業した。好調だったが、所詮は武家の商法。やがて行き詰まり、そのあと屋号を冨士屋と変えて復興したのが2代目の喜多冨士太で、「小男鹿」を工夫したのはこの人である。江戸の風流が、上方の和歌の文化と出合って生まれたお菓子といっていいだろう。現在、冨士屋の当主は喜多義祐さん(昭和20年生まれ)で、5代目を数えている。
  ずしりと手応えのある「小男鹿」2棹のセット。包装紙は本物の手漉き和紙である。はなだ色の厚手の和紙の表面に、白い和紙が薄く漉き込んであるが、小男鹿、冨士屋、貫禄などの文字と紅葉の葉が、はなだ色の抜きで散らしてあるという凝ったものだ。
  包装を解くと、紅白の水引きで結ばれた掛け紙の見事さに驚かされる。これも手漉き和紙で、鳴門の渦潮をイメージしたという渦巻きの中に、本物の紅葉の押し葉がすき込まれていた。その中央に、墨痕淋漓と「小男鹿」の文字。
  箱は淡いベージュ系の色に濃い同系色で紅葉の模様があり、蓋を開けるとさらに紋模様の透かしの入った紙包みがあって、その中から、初めて小男鹿が現れる。
  枕詞「さを鹿」は、「分け入る野」を意味するが、銘菓「小男鹿」の装いには、お菓子を求めて次々に分け入ってゆく楽しさがあった。和菓子の醍醐味の一つである。

文/大森 周
写真/太田耕治

冨士屋

徳島市南二軒屋町1―1―18
088(623)1118

おとし文 壹 No.191

銀座の「お・も・て・な・し」おとし文  壹

銀座の「お・も・て・な・し」

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 明治40年(1907)、歌舞伎座や新橋の花街で賑わう木挽町の一角に、清月堂本店が創業した。目も口も肥えた上客に鍛えられながら四季折々に季節の和菓子を創っていたが、昭和になって「おとし文」という銘菓が生まれた。
 玉子餡を漉し餡で包み、蒸気でふわっと蒸し上げた菓子で、ほろほろとしたはかない口溶けが特徴。少々小ぶりのサイズも、風趣に富む菓銘も品が良い。
 だが、この菓子の真骨頂は、一見繊細に見えて、黒文字楊枝を入れてもばらばらに崩れない絶妙の湿りにある。美しく、おいしく、食べやすい。さりげなく気が利いていること、それこそが銀座のもてなしだ。
 ここに紹介する「壹」は、「おとし文」を一まわり大きくして、個包装にした新製品。銀座発祥で最古の菓子舗から、小粋な手土産がまた一つ誕生した。

和菓子は日本の心と文化を伝えるものとして、掛け紙や包装紙にも気を配っている。掛け紙は季節により、桜、アジサイ、朝顔、萩、紅葉、椿と変わる。 おとし文(右)と、おとし文「壹」(左)。味の要の黄身餡は、岩手の契約農場から届けられる新鮮な卵に、徳島産の和三盆を加えて作られる。

清月堂本店

東京都中央区銀座7-16-15
TEL 03(3541)5588

今年で創業108年。新橋演舞場のすぐ近くにある本店は、1階に店舗、2階にはゆっくりお茶とお菓子が楽しめる
「清月茶房」がある。

関の戸 No.190

銘菓 関の戸

旅は「あこがれ」

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 三重県亀山市に、江戸時代の東海道の宿場町の姿を奇跡のように残した町がある。東海道47番目の宿場、関だ。その端正な町並みの中でも、ひときわ目をひくのが深川屋陸奥大掾の店構え。外観は御室御所御用の菓子司にふさわしく凛として格調高く、店内は畳敷きで和やかに人を出迎える。
 さて、この店で買えるのは、今も昔も銘菓「関の戸」ただ一つ。赤小豆の漉し餡を求肥で包み、和三盆をまぶした菓子は、鈴鹿の嶺に降る雪をうつしたと伝えられている。
 宿場町の名物菓子だが、腹の足しになるボリュームはない。ただ美しく、甘く、おいしい。都のやんごとなき方々は、この菓子に旅心をつのらせ、京へ向かう旅人はあと数日で到着する都に思いを馳せた。旅はあこがれ、旅は希望。菓子もまた同じである。

左手前の通年の箱のほか、桜(春)、空(夏)、紅葉(秋)、雪(冬)、華(クリスマス)の季節の色箱がある。江戸と現代を繋ぐ、斬新な発想とデザイン。 化粧箱は1段(10個入り)から5段(50個入り)まである。上蓋が二つに分かれ、銘々皿として使える。

深川屋 陸奥大掾

三重県亀山市関町中町387
TEL 0595(96)0008

創業370余年。天明元年(1780)の「菓子仕法控」に記された配合を守り、銘菓「関の戸」を作り続けてきた。昨年から地元の亀山茶の粉茶をまぶした「お茶の香 関の戸」が加わった。

加賀八幡 起上もなか No.189

どらやき

縁起のよい「かわいい」

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  北陸新幹線開通に湧く金沢で、「かわいい!」と大人気になっている菓子がある。「加賀八幡起上もなか」だ。金沢の伝統工芸の一つである張り子の人形「加賀八幡起上り」をかたどった最中で、愛らしく、めでたく、一度見たら忘れられない。
 聞けば、1956年に金沢うら田が市内の人形店とコラボして「金沢ならではの菓子を」と創作。その銘菓を発売から50年以上たった2010年に、あらためて味を磨き抜き、包装も正月だけの限定色だった赤色に切り替えて、大ヒットになったという。
 「先々代からの商品を育てる思い」で伝統銘菓を再生させた当主は、今も「さらにおいしく、さらに喜んでいただける菓子を」と日々、切磋琢磨。七転び八起きの縁起を伝える最中の人形が、にっこり後押ししておられる。

鮮やかな緑色の紙袋。うさぎの絵のなんと斬新なこと!しかも絵は、袋のマチの部分を通り、裏側まで続いて、1 匹のうさぎになっている。 味のある「うさぎや」の文字と、独特のマーク。それらを柔らかな線が囲んでいる。一度見たら忘れられない意匠。

金沢 うら田

石川県金沢市御影町21-14
TEL 0120(43)1719

昭和11年創業。「地元に愛される菓子作り」をモットーに、 普段のおやつ菓子からお茶の菓子、贈答用・お土産用の菓子まで様々な菓子を作っている。