赤坂見附 No.214

たゆまず5世紀、菓子作り

四ツ谷駅近くから赤坂見附方面を見た風景。間に邪魔をする建物がなく、都心でありながら空が広い。

都心の広い空の下

 その昔、江戸城には外濠・内濠に沿って36の見附があったという。見附とは見張を置いた城門のことで、地下鉄の駅名で広く知られる赤坂見附も、その一つ。立派な城門は明治時代に取り壊され、今は赤坂見附交差点北側の弁慶橋近くに石垣の一部を残すのみだが、一帯には他にも多くの歴史の痕跡が見られる。
 例えば、ホテルニューオータニは彦根藩井伊家の中屋敷跡に建てられたもので、外濠に囲まれた日本庭園に往時の面影を宿す。また、上智大学のキャンパスは尾張徳川家の中屋敷、赤坂御用地も紀州徳川家の上屋敷があった場所だ。
 都心にあって緑が多く、空が開けたこの街に、とらやの赤坂店がある。
 建物は2018年秋に改築された全面ガラス張りの4層。店内には吉野のヒノキが潤沢に使われ、2階が売り場、3階が菓寮。地階のギャラリーでは和菓子をテーマにした企画展が随時開かれている。ここに、とらや18代目、黒川光晴さんを訪ねた。

とらや18代

──室町後期の創業、東京に出店されてからでも150年。日本を代表する老舗ですね。
黒川「5世紀にわたり、和菓子屋を営んでいます。古くから御所の御用を勤めていて、東京遷都に伴って明治2年、当時の12代目が京都の店はそのままに東京に進出しました。
 それ以降、黒川家は東京に居を構えていますので、私も赤坂生まれ赤坂育ちです。高校1年の時に留学して7年間はアメリカで生活しましたが、大学卒業とともに帰国して、とらやに入社しました」
──就職先は迷われずに?
「とらやの社長になるのが子どもの頃からの夢だったので、迷いはありませんでした。とらやの菓子をおいしいと思って毎日食べていましたし、夏休みは工場でアルバイト。とらやを継ぎたいという気持ちが自然に育っていました。
 入社して数年は、東京工場。それから御殿場工場や京都店。パリ店の厨房も経験しました。もちろん製造以外の部署もまわって、いろいろな人に教わり、父のやり方も間近で見てきました。社長就任は2020年の6月です」
──コロナ禍が始まってすぐですね。会長のアドバイスもたくさんあったのでしょうか。「社長交代以降もアドバイスはしてくれていますが、『こうしたほうがいい』などと口出しすることは一切ありません。好きなように思う存分やれ、と後押ししてくれているのかなと感じています」

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とらやを代表する商品、
小倉羊羹「夜の梅」。
「とらや」社長、黒川光晴さん。
  1985年、東京生まれ。

羊羹と生菓子

 ──ところで、とらやと言えば羊羹と生菓子です。どなたに差し上げても喜ばれます。
「ありがとうございます。現在、羊羹は売上の約7割を占めていますが、元禄8年(1695)に綴られた菓子見本帳にも羊羹や棹菓子の意匠が多く残されていて、人気ぶりが伺えます。
 また、江戸から大正時代に作成された菓子見本帳に数百も描かれている菓子の意匠は圧巻です。その菓子の一つに『雪餅』という真っ白なきんとんがあるのですが、おいしく召し上がっていただけるのが数時間という、まるで本物の雪のようにはかない菓子なのです。そうした繊細な情感も含めて、昔の人と私たちが菓子や文化を共有できる。すごいことだと思います」
──和菓子の持つ力ですね。
「はい。ですから伝統の菓子は、その時々の当主の好みで変えてはいけないと思っています。羊羹の『夜の梅』なども、そうです。長く作り続けられている菓子は私たちのものであると同時に、お客様の菓子でもありますから」

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アイデアが生まれる会社

──一方で、最先端のお菓子も次々と。ピエール・エルメ・パリとのコラボでは、餡にフランボワーズやバラ、ライチなどを合わせた羊羹や生菓子も話題になりました。
「和菓子は中国やポルトガルの影響を受けて完成し発展してきましたが、技術が発達した現代は、さらにその可能性が広がっています。また、急速に変化しているお客様の味覚にも応えねばなりません」―そのアイデアはどこから生まれるのですか?
「商品開発などの部署がありますが、実は毎年、全社員に向けて、翌年の干支と宮中歌会始のお題にちなんだ菓子のアイデアを公募しています。多い年は千点を超す応募があり、審査を勝ち抜いた菓子が新年に販売されるのですが、そこで使われなかったアイデアが別のところで生きることも多々あります」
──いい企画ですね。

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赤坂店3階にある虎屋菓寮。
吉野産ヒノキをふんだんに使った空間が窓の外の赤坂御用地の緑とゆるやかにつながっている。
あんみつなどの甘味のほか食事メニューも。
 
 
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とらやの生菓子から羊羹製「手折桜」(左)と、きんとん製「遠桜」(右)。

菓子がすべての中心に

──昨春、御殿場でフレンチレストランを始められました。
「おかげさまで順調で、とらやとして新しいことができたという達成感もあります。
 ただ、これでレストラン事業をさらに展開していこうという考えはありません。料理を監修してもらっている小林圭シェフと、餡を使った菓子作りがしたいという想いが形になったのがあの店なのです。フランス料理と和菓子の出合いが創り出すものを、この先、見つめていきたいと思っています」
──すべてはお菓子のために。
「はい。菓子はすべての中心です。菓子によって私も社員も生活が成り立っていますし、生産者様、お客様、社会とのつながりも菓子から生まれています。
 だからこそ菓子を磨きたい。磨くほど、自分も他も良くなる。とらやの菓子を中心に、みんなに喜びや幸せが届くといいなと思っています」(了)

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〈とらやの想い〉

なによりも品質優先。
おいしい菓子のために
最大限の努力を
続けています。

とらや(赤坂店)

東京都港区赤坂4−9−22
TEL :03 -3408-2331

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松山 No.215

歴史の銘菓を次の時代へ

道後温泉では「いきるよろこび」をテーマに、多彩な作品が展示されている。蜷川実花さんの『道後温泉別館 飛鳥乃湯泉中庭インスタレーション』も圧巻の美しさ。 ©mika ninagawa,Courtesy of Tomio Koyama Gallery/dogo2021

名湯湧く城下町

 波穏やかな瀬戸内海に面する四国最大の都市、愛媛県松山市。市街地は、標高132メートルの城山に築かれた松山城を中心に広がっている。
 城山の南麓を歩けば、大正ロマンの香り漂う洋館・萬翠荘(国の重文)や司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』に描かれた3人の主人公を紹介する「坂の上の雲ミュージアム」などの見どころが続く。
 さらに路面電車に乗れば日本最古の湯の一つ、道後温泉へも15分ほどで到着。木造三層楼の壮麗な道後温泉本館は2024年まで一部営業しながら保存修理工事中だが、「道後温泉別館 飛鳥乃湯泉」ができて賑わっている。源泉かけ流しの名湯に浸かれば、松山生まれの俳人・正岡子規に負けぬ一句も浮かぶかも。
 湯上りには、土産を探して道後温泉商店街を歩こう。目につくのは「タルト」の文字。スポンジ生地で餡を巻いた松山の郷土菓子だ。その昔、松山藩主・松平定行公が、長崎でポルトガル人から教わった、ジャムを巻いたカステラ菓子を工夫したと伝わる。
 なかでも抜群の知名度を誇るのが、「一六タルト」。この銘菓を作る一六本舗に、社長の玉置剛さんを訪ねた。

郷土菓子から銘菓へ

——一六本舗は来年、創業140年を迎えるそうですね。
玉置 「はい。初代が明治16年(1883)に、松山一の繁華街・大街道に菓子店を開いたのが始まりです。私で5代目になります」
——一六タルトは、いつから作られているのですか。
「タルト自体は、団子や饅頭、しょうゆ餅などと並んで初代の頃から作っていたようです。ただ、その菓子が郷土菓子から独自のものになったのは、戦争で廃業された、タルトで知られた菓子店の職長さんが2代目を頼って来られたのがきっかけです。この方と菓子作りを担っていた2代目の次男が味に磨きをかけ、看板商品にしていったのです。
 さらに、3代目を継いだ祖父・一郎が、当時珍しかったラジオ広告を出すなどして愛媛銘菓に押し上げ、4代目の父・泰が俳優の伊丹十三氏を起用したテレビCMを展開して、いよいよ知名度を上げました」

一六タルトの写真

一六本舗を代表する商品「一六タルト」。食べやすい大きさにスライスされている。桜や栗などの季節ものも人気。

玉置剛さんの写真

「一六本舗」社長、玉置剛さん。1981年生まれ。早稲田大学商学部卒。座右の銘は「考動(こうどう)」。

おいしさの工夫

——いまや一六タルトは全国区の菓子ですね。
「本当にありがたいことだと思っています。一六本舗は饅頭もクリスマスケーキも作るおやつ菓子屋ですが、現在も主力は一六タルトです。季節物なども含めますと年間で約100万本を作っています」
——それほどの人気を集める菓子、味の秘密は何ですか?
「柚子餡は、皮をむいた小豆と白ざら糖をじっくり炊き上げ、仕上げに細かく刻んだ県内産の柚子を加えて作っています。また、スポンジ生地は、高温でさっと焼き上げ、軽く叩いて生地を落ち着かせます。このスポンジ生地に柚子餡をのせ、一つひとつ手で巻いて形を整えます」
——手巻きによって、断面が美しい「の」の字になる。
「はい、熟練の職人の仕事なのです。巻き上げたタルトは、ひと晩寝かせ、生地と餡をなじませてから出荷します」

家業を継ぐ

——ところで、店を継ぐことは幼い頃から考えておられたのですか?
「長男でしたので、子どもの頃から家業を継ぐことは意識していましたが、決断したのは、大学卒業が決まって、父から進路を聞かれた時です。どうしたいかと問われ、『菓子をやりたい』と答えて人生が走り出しました。
 そして北海道の『六花亭』で3年半学ばせていただいて松山に戻り、一六本舗に入社しました。ちょうど、新工場建設の話が持ち上がっていた時です。
 実は、松山市は建築基準が厳しく、工場は建て替えさえ難しいのです。そのため多くのメーカーが別の市に工場を移転したのですが、タルトは松山で生まれた菓子ですから、松山で作りたい。父と経営のことを話すことはほとんどなかったのですが、これは二人同じ思いで、懸命に市内に土地を確保しました。工場の設計では、六花亭での様々な経験が生きました。
 社長就任は入社から11年目を迎えた2019年です。父が70歳になるタイミングでの交代でした」

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道後本館前店の2階にある「一六茶寮」。銘菓とお茶のセットなどが味わえる。
一六タルトの天ぷらも大人気!
 
 
坂の上の雲包装 坂の上の雲中身

「坂の上の雲」

しょうゆ餅

「しょうゆ餅」

コロナ禍に学ぶ

——その社長就任から半年後、コロナ禍が始まりました。
「街から人の姿が消えました。ゴールデンウィークに見込んでいた数千万円の売上はゼロ。途方に暮れましたが、すぐにやれることをやろうと腹をくくりました。
 例えば、帰省ができない方々に向けて「愛媛の仕送りセット」を作りました。一六本舗の菓子も含めた愛媛のソウルフードをぎゅっと詰め込んだ企画商品です。また、地元農家とコラボしておいしい農作物を直送で届けてもらい、新たなスイーツを創りました。
 さらに朝、注文をいただけばその日のうちに無料でご家庭に菓子をお届けするサービスも始めました。
 こうして必死で考えた新事業は、予想外に利益を出しました。その上、新たなつながりを創り、お客様のありがたさを改めて実感する機会にもなりました。
 店は、地元の方々に支えられています。それに応えられる企業になりたい。苦難の中でこそ得られた学びだったと思います」

心を込めた仕事で次代へ

——どんな未来を描いていますか。
「人の心を癒したり豊かにすることができる菓子を仕事にできているありがたさを、今しみじみと感じています。
 お客様に愛される店を目指し、おいしい菓子を心を込めて作りながら、従業員と共に前を向いて進んでいく。
 そして、この店を次につなげていくのが、私の使命だと思っています」(了)

一六本舗道後本館前店の写真

道後本館前店

一六本舗

愛媛県松山市道後湯之町20−17
TEL :089-921-2116
https://www.itm-gr.co.jp/ichiroku

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大垣 No.216

田中屋せんべい総本家 煎餅の「未来」を創る

大垣城の外濠ともなっている水門川は、昭和初期まで年間1万隻もの舟が行き来した。その川湊を照らす住吉燈台は今、「水の都」大垣のシンボル。川のほとりに「大垣市奥の細道むすびの地記念館」も立つ。

文化が集まる町

 大垣市は、地下水が豊富なことから「水の都」の異名でも知られる岐阜県の城下町。町の中心部にある大垣城は、関ケ原の戦いで石田三成の本拠地ともなった名城で、外堀の川は揖斐川を経て海に続いている。また、美濃路と中山道という2本の主要な街道も通っており、町は古くから人とモノが行き交ってきた。5月の大垣まつりで巡行される13両の見事な軕は、水の都を潤してきた富と文化の何よりの証しだ。
 この町に、安政6年(1859)の創業から煎餅を作り続けてきた「田中屋せんべい総本家」がある。美濃路の脇本陣跡に建つ風情あふれる本店に、6代目の田中裕介さんを訪ねた。

原材料を選び抜く

——代表銘菓の「みそ入大垣せんべい」を焼くいい匂いがしています。創業時からのお菓子ですか?
田中 「創業から9年目、明治元年(1868)に完成したと聞いています。

——継続のための布石と。
「はい。味噌も8年ほど前から変えました。こちらは市内の味噌店のものを使っていたのですが、品質が変わってきたと感じて、自分で作ることにしました。地元の減農薬・特別栽培米のハツシモで糀を作って……」

「材料は、安定供給ができて自分で選び抜いたものを使うという考えです。
 砂糖も、昔は上白糖と中ザラ糖を使っていましたが、今は奄美大島の洗双糖と北海道のてんさい糖をブレンドして使っています。甘味がやわらかくなり、カドがなくなったと思います。そして水は井戸水、大垣の名水です」

みそ入大垣せんべいの写真

田中屋せんべい総本家を代表する商品。「みそ入大垣せんべい」。 袋の菓子銘の字は、大垣が生んだ日本画家・守屋多々志氏の筆によるもの。

田中裕介さんの写真

「田中屋せんべい総本家」社長、田中裕介さん。 1974年、大垣生まれ。青山学院大学経済学部卒。大学時代からスキーのエアリアルの選手としても活躍。3児の父。

煎餅の「ツヤ」

——みそ入大垣せんべいを手焼きしている様子が通りからも見えますが、とても丁寧な作業に驚きました。
「単純作業に見えて集中力が必要です。焼き台に載せる型は14丁から16丁ですので、職人が休まず焼いても1日千枚は焼けません」
——製造過程で一番のポイントは何ですか?
「朝一番に行う、焼き型のツヤ付けです。焼き型に刷毛で油を塗っては焼く作業を3、4回繰り返した後、余分な油を刷毛でスッと吸い取る工程です。ツヤ付けがしっかりできたら、あとは油を差すことはありません。そして、夕方にはツヤを苛性ソーダできれいに取って、一日の仕事が終わります」

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ツヤ付けをした焼き型に、そっと生地を流し込み、そっと閉め、焼き台に乗せる。
乱暴な金属音が一切しない、丁寧な手焼きの工程。

百年残る菓子

——菓子作りは、どこかで学ばれたのですか。
「名古屋の美濃忠さんで3年間修業させていただいて、うちに入社しました。27歳の時です」
——家業に就かれて、いかがでしたか?
「店に入って初めて内情を知りました。売上が大きく落ち込んでいる上に借金がある。なにより看板商品である煎餅を、うちで修業して独立した人から買っていました。そこからは、父とバトルの日々です。
 結局、入社から7年かけて洋菓子店と喫茶、ファミリーレストランを閉店し、煎餅を自分の店で作るようにしていきました。そして、一方で高品質な煎餅の開発を進めました」
——その代表が「まつほ」。

——「玉穂堂」のシリーズも評判がいいですね。
「革新的な煎餅だと思っています。香料を全く使っていませんが、食べていただくと爽やかなミントの香りや、しっかりしたコーヒーの旨味がします。

——お菓子自体は玉穂堂と同じで、パッケージなどを子どもやお母さん向けの仕様にされたのですね。
「ええ。パッケージデザインは、この十数年ですべて整理し、ばらばらだったロゴも統一しました。ただ、どのデザインも昔使っていた意匠から取ったものなのです。過去には何の資産も無いと思っていましたが、実は宝物がたくさんありました」

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「まつほ」   「せんべいびー」
 
 

継続は「好奇心」から

——成果が出るにつれて、先代も安堵されたのでは?
「いや。父は6年前に他界しましたが、最期まで親子でやりあっていました。
ただあとでわかったことですが、新商品が出ると、そこら中で配って満足そうにしていたそうです。地元と僕をつないでくれていたようで、本当に感謝しています」
——未来も楽しみです。
「実は、大垣の山奥に里山カフェを創ろうとしています。これまでやってきたことが活かせる店。そこで米や麦も作りたいと考えています。
 この事業も、まったく新たな発想ではなく、何があっても店が継続できる状態を作っておくという考えから生まれたものです」
——田中さんを動かしている原動力は何ですか?
「センス・オブ・ワンダー、好奇心です。お煎餅をもっと深く知りたいとか、こうしたらどうなるんだろうといった好奇心で動いている。そういうことを続けていくことが、生きがいや人生の楽しさにつながると思っています」(了) 

田中屋せんべい総本家

岐阜県大垣市本町2−16
TEL :0584(78)3583
http://tanakaya-senbei.jp/

田中屋せんべい総本家の写真

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富山 No.217

月世界本舗ロマンあふれる「銘菓」を伝えて

 富山は、江戸時代に越中前田家が治めて本格的な城下町を形成し、発展した街。「富山の薬売り」で知られる製薬・売薬業も2代藩主が推進したものだ。薬を入れる薬瓶から、ガラス製造業も栄えた。*写真協力:富山市観光協会

立山を仰ぐ環境都市

 富山県富山市。人口約41万人の県都は、南に標高3千m級の立山連峰を仰ぎ、北に水深3千mを超える富山湾を抱いている。旅の目的は雄大な自然と豊かな海山の幸……そんな想いで富山駅に降り立った観光客は、改札を1歩出たところで目を見張るだろう。駅構内の、すぐ目の前から色とりどりの路面電車が次々に発着しているのだ。
 実は、富山は「公共交通を軸としたコンパクトなまちづくり」で国内外に知られた環境先進都市。交通網を整備して、住みやすい街づくりを進めている。
 もちろん、観光客にとっても、このシステムはありがたい。駅の南にある繁華街や富山城へも、北前船交易で栄えた豪商の屋敷が建ち並ぶ海沿いエリアへも路面電車で一本。さらに川や運河を行く観光船や24時間利用できるシェアサイクルなど、様々な乗り物で巡る旅は、楽しく快適だ。
 建築ファンなら、日本一美しく居心地がよいとウワサの富山市立図書館もおすすめ。目の保養をしたあとは、すぐ近くの月世界本舗へ。富山土産に「月世界」は、はずせない。
 アーケードの下、大きなガラス扉を開けて、当主の土井聡人さんを訪ねた。

富山で120年余

——創業120年余。明治からの歴史をつむぐ店ですね。
「明治30年(1897)に金沢の菓子店で修業を積んだ吉田栄吉が店を開いたのが始まりです。
 当店の代表銘菓・月世界は、この初代が創った菓子で、明け方、立山の上に浮かぶ月を見て着想を得たと伝わっています。その当時はもちろんですが、今でも他に類を見ない独創的な和菓子だと思います」

——初代が創り上げた菓子を、代々の当主が磨いてこられた。
「2代目の栄一郎も、3代目を継いだ義父の栄一も、戦中戦後は大変な苦労をしたようですが、そうした中で商品を月世界だけに絞ることで、この菓子に力を注いできました」

——そして土井さんで4代目。どういう経緯で、この店に入られたのですか?
「高校の同級生と結婚したのですが、その人が先代吉田栄一の長女だったんです」

繊細!「月世界」

——誰もが憧れるご縁です(笑)。
「ただ、店を継ぐ気持ちはまったくなかったんです。それが、ある日、先代の隣で長年、店をきりもりしていた妻から『手伝ってもらえたらすごく助かる』と。
 実は、月世界の製造は門外不出で、当時は身内のみで作っていましたので、妻が意を決して口にした、店の存続をかけた相談だったのです。それで、製造なら手伝えるかな、と。
 子どもの頃から野球をやっていて、勤めていた地元の信用金庫でも社会人野球で国体や天皇杯を目指していましたから、体力だけは自信がありましたし」

——いかがでしたか?
「大変でした(笑)。月世界は製造工程がシンプルですから、頑張れば何とかなるかと思っていたのですが、これがとんでもなく繊細な菓子でして……」

―月世界は、どのように作られているのですか?
「まず、和三盆・白双糖・上白糖と寒天を煮て蜜を作ります。そこに泡立てた卵白と卵黄を加えて型に流し、冷凍庫で冷やして適度な硬さになったら、長方形に切って乾燥機に入れます。温度を微調整しながらゆっくり乾かしたら、8等分に切って出来上がりです」

―乾燥の工程が重要なところでしょうか。
「季節によって、天候によって、最初から高温にしたり、じわじわ温度を上げていったり。ここまでするのか、というほど細かく調整します。私も、もう30年この菓子を作っていますが、梅雨時などはピリピリしています。
 月世界は、口に入れた時はパキッと硬いのですが、すぐにジュワッと溶けて、消えるようになくなります。
 硬くてもだめ、軟らかくてもいけない。最近ようやく、この菓子が少しわかってきたかなと感じています」

富山を代表する銘菓「月世界」。パキッと割れるが、そのまま口の中で溶けていく。日本茶はもちろん、コーヒーにもよく合う。

土井聡人さんの写真

「月世界本舗」社長、土井聡人さん。1968年、富山生まれ。妻・まゆみさんとの間に2男2女がいる。趣味は、野球。

代を継いで

——仕事は毎朝、何時頃から始められるのですか?
「朝6時に工場に入って準備を整えて、菓子作りを始めるのが7時ぐらいから。午後1時頃に昼休憩をとって、また工場に入って4時ぐらいまで。店に出てきて事務仕事などに取り掛かるのは、それからです。
 製造一筋でやってきた工場長が、このたび、そのまま社長になったというわけです」

銘菓を作り続けて

——先代が2021年に亡くなり、コロナ禍の中で社長就任。大変な時期の交代でしたね。
「従業員を一人も辞めさせたくないと、なんとか踏ん張っています。お土産需要は多少増えてきましたが、地元の方がまだまだ動き出されていない。
 そこで、店先で月世界の切れ端を売り始めました。この菓子を知らない人に、目を留めていただきたいという想いから。そして、この菓子を知っている人に、味を忘れてほしくないからです。安価で出していますので儲けはありませんが、切れ端を買われた若いお客様が再来店されて、『子どもの頃に食べたお菓子でした!』などと思い出話とともに商品を買ってくださったりすると、嬉しいですし励みにもなります。
 こうしたささやかな試みが、やがて芽吹いてくれたらと願っています。120年続いた菓子をなくすわけにはいきませんから」

——可愛らしいパッケージが本店の店頭に並んでいます。
「菓子そのものは変えずに、今の人が手に取ってくれる方法を考えて、県の助成金を利用した事業でイラストと詩を描いた6パターンの新しいパッケージを作りました」

——「月世界」がさらに多くの方に楽しんでいただけますね。
「30年前、この店に入って、初めて月世界を作った時の緊張や感動を今も忘れていません。今日も、『こうやって作って』『ここは気をつけて』と、昔教わったことを唱えるように作っていました。これからも同じです。
 この菓子で勝負をしていきたい。20年先も30年先も、変わらず、月世界を作っていたいと思っています」

6種類あるバラエティーパック。「月世界」と「まいどはや」は同じ大きさなので、自由に4つを選んで入れられる。本店だけでの取り扱い。

田中裕介さんの写真

「まいどはや」。和三盆糖のやさしい甘みが特長の、マシュマロに似た和菓子。菓子銘は富山の挨拶言葉。

和三盆糖を使った干菓子「新甘撰」。北陸新幹線開通に合わせて創られた。

月世界本舗

富山県富山市上本町8−6
TEL :076(421)2398
http://www.tukisekai.co.jp/

田中屋せんべい総本家の写真

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日本橋人形町 No.218

三原堂本店東京の下町の心意気

 水天宮。文政元年(1818)、久留米藩主・有馬頼徳が、国元で信奉している水天宮を江戸藩邸内に分祀したのが始まり。毎月5日に限って一般の人々にも参拝を許すと、「なさけありまの水天宮」という洒落が流行語になった。明治に入り、青山を経て明治5年(1872)に現在地に遷座した。

東京の粋な下町

 東京都中央区日本橋人形町。ハレの街・日本橋から地下鉄でひと駅、人形町駅で降りると、気取らぬ下町の景色が広がっている。
 人形町は、江戸時代には芝居小屋が集まる江戸随一の歓楽街として栄え、その後も都心の商業地であるとともに、賑やかな商店街、そしてグルメの街として発展してきた。今も週末になると、下町情緒を味わいに多くの人が街歩きにやってくる。
 なかでも、子授けや安産の神様として知られる水天宮は定番の撮影スポットだ。九州の久留米藩・有馬家の私社を江戸後期に9代藩主が江戸屋敷に分祀したのが始まりだが、ご利益にあやかろうと屋敷の外から賽銭が投げ込まれるようになったため、毎月5日に限って門を開け、一般の参拝を許したという。
 その毎月5日以外に参拝に訪れた人々のために、水天宮に代わって「御守」を分けていたという逸話が残る和菓子店・三原堂本店が、水天宮前の交差点の角で繁盛を続けている。
 ひっきりなしにお客様が入っていく暖簾をくぐって2022年に5代目を継いだ三原田宗子さんを訪ねた。

三原田宗子

「三原堂本店」社長、三原田宗子さん。1952年福井県若狭生まれ。

若狭とのご縁

——創業は明治10年(1877)だそうですね。
三原田 「はい。初代は福井県の若狭の人で、三原田宗元と申します。その娘のタケと夫が2代目・3代目。4代目が先代で私の夫の三原田敏です。敏が亡くなりまして私が跡を継いだわけですが、実は私は宗元の生家の娘なんです」

——すると、若狭から嫁いでこられたのですか。
「ええ。四姉妹だったのですが、タケさんの希望もあって私がご縁をいただいて結婚することになりました。
 当時、私は地元の大学を出て中学校の教師をしていたんです。教職免許は理科で取得したのですが、地方の学校は教師不足ですので数学なども教えていました」

——理系でしたか! 教職は続けられたのですか。
「仕事を続けるなんてとんでもないと最初から言われました。当時は結婚退職が当たり前の時代でしたから」

——では、専業主婦として家を切り盛りしながら、やがてお店のお手伝いも?
「子どもたちが小学校に入った頃から週に2度ほど店に立つようになりました。そういう日がだんだん増えていったという感じです」

——それだけお店が繁盛されていたということですね。
「義母のタケがとても明るくしっかりした性格の人で、戦中戦後の大変な時代も含めて、店をよく盛り立てていました。
 面倒見もよくて、年に一、二度は暖簾分けした店のご家族も一緒に旅行したり、ご飯を食べたり……。三原堂会と呼んでいるんですが、今も仲良くしています」

——暖簾分けしたお店も「三原堂」の店名で、それぞれご繁盛のようですね。

ベストセラーは塩せんべい

——ところで今、三原堂で一番の人気商品は何ですか?
「塩せんべいです。昭和50年頃から仕入れて売っていたのですが、平成になって茨城県小美玉市に工場を建てたのをきっかけに、夫と番頭さんが試作を繰り返して今の塩せんべいを作りました。まろやかな塩味にしたいと、ドイツ産の岩塩と伯方の塩の2種類を使ったりして」

——味も歯ごたえも特長があっておいしいですね。
「この塩せんべいに御守最中や日本橋めぐりなどの甘い和菓子を詰め合わせると、これがまた好評なんです。
 御守最中は、水天宮さんとのご縁で生まれた創業当時からの菓子。お宮参りや安産祈願に来られたお客様がよく買っていかれます。
 日本橋めぐりは、日本橋の町名を菓銘にした饅頭で、蛎殻町は粒餡入りの東饅頭、室町は栗饅頭というように5つの違った味が楽しめます」

——塩せんべいがあることで、甘辛両方を自在に組み合わせたセットができるのですね。ビジネスマンのお客様の姿が多い理由もわかりました。

塩せんべい

「塩せんべい」。厳選したうるち米を、つぶつぶ感を残して薄くのばし、醤油と2種類の塩でじっくり焼き上げている。

普段着の菓子屋

 「三原堂は、代表銘菓一本でやっている菓子屋ではありませんので、いろいろな菓子を作っています。
 朝は、8時くらいから店頭でどら焼を焼き始めます。すると、甘い匂いがお客様を連れてきてくれるんです(笑)。
 うちのどら焼は、生地に醤油を入れているのが特徴で、口に入れると、ほのかに醤油の香りが広がります。
 えりも小豆を使った粒餡と漉し餡を軸に、さくら餡やレモン餡など季節ごとの餡も4種。戌の日には、狛犬の焼き印を押したどら焼も販売しています。
 ほかにも、春の桜餅、夏の水羊羹、1年を通して人気のある豆大福やみたらしだんごなどの普段づかいのお菓子がいろいろ。
 大福は毎朝、もち米を搗いて作っていますので、翌日には硬くなるんです。若い方のなかには大福が硬くなることを知らない方もおられるそうですが、三原堂ではこれからも硬くなる本物の餅菓子を作っていきたいと思っています」

——さらに上生菓子や洋菓子も。多彩な品揃えですね。
 「観光のお客様にもご来店いただいていますが、なんといってもうちのメインは地元のお客様です。社用のお客様も含めて日々来てくださる地元の方々に『三原堂』『三原堂』と言っていただかなきゃなりませんから」

——この先はどんな店にしていきたいとお考えですか。
「10年先、20年先が予測できない時代ですが、今のこの感じでやっていければいいんじゃないかなと考えています。そして、次の世代につなげていきたいと。せっかく百何十年も続いてきたのですから。  ここ人形町には、歴史のあるいい店がたくさんありますでしょう? 三原堂も、そうした一軒として続けていけたらと思っています」(了)

「どら焼」。あっさりした甘さの餡と醤油入りのしっとりした皮が人気。

「豆大福」。搗きたての餅のおいしさが味わえる。

「御守最中」。水天宮とのご縁のなかから生まれた創業以来の銘菓。

三原堂本店

東京都中央区日本橋人形町1−14−10
TEL :03(3666)3333
http://www.miharado-honten.co.jp/

三原堂本店

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山形 No.219

三原堂本店東京の下町の心意気

山寺。正しくは宝珠山立石寺といい、860年に開山した天台宗の名刹。写真右が開山堂、左の納経堂は山内で最も古い建物。山形駅から山寺駅までは電車で20分ほど。

紅花の商都

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
 誰もが知るこの俳句は、山形市の立石寺、通称「山寺」で松尾芭蕉が詠んだ一句である。全国に景勝地はあまたあるが、観光客が俳句とともに風景を味わうような場所は、他にないのではなかろうか。
 山形市は人口24万3千人。山形県の県庁所在地で、山形城跡を整備した霞城公園が街の核。その東側に公共施設が集まっている。かつての県庁を改修し公開している「文翔館」(国の重文)もその一つだ。
 この文翔館からまっすぐ南に延びる道路が、昔も今も街のメインストリート。江戸時代、山形に繁栄をもたらした紅花商人の屋敷を利用した「山形まるごと館 紅の蔵」や、城下を潤していた用水の堰の一つ「七日町御殿堰」などの観光施設もこの道沿い。また、百万人の見物客が押し寄せる夏の「山形花笠まつり」も、紅花を飾った笠を手にした踊り手がここを練り歩く。
 お土産は「乃し梅」で間違いない。「乃し梅本舗 佐藤屋」もこの通りに店を構えている。風格ある佇まいだが、黒い軒瓦が小さく会釈するように張り出して人を招いている。
 8代目主人・佐藤慎太郎さんを訪ねて暖簾をくぐった。

佐藤慎太郎さん
「乃し梅本舗 佐藤屋」社長、佐藤慎太郎さん。
昭和54年(1979)生まれ。2019年に8代目を継承。2児の父。

紅花と「乃し梅」

——創業はいつの頃ですか?
佐藤「薬屋の次男に生まれた初代松兵衛が、この場所で菓子屋を始めたのが文政4年(1821)と伝わっています。どんな菓子を扱っていたのかはわかりませんが、菓子とは別に気付け薬として『乃し梅』を製造販売していたそうです」

——薬の「乃し梅」?!
「梅の酸が気付けに効くのでしょう。山形は江戸時代に紅花で栄えましたが、紅花から色素を取り出す時に梅が使われました。ですから材料には事欠きません。薬の乃し梅は、紅花とともに山形の特産品として広く知られていたようです」

——その、薬の乃し梅を菓子にされたのは?
「3代目です。菓子として成形するには寒天を使いたいところですが、寒天は酸が加わると固まりません。それを2日ほど天日干しすると固まることを発見したのが3代目です」

——現在、乃し梅はどのように作られているのですか?
「梅肉と水飴、溶かした寒天を合わせてガラスを張った木箱に薄く流し、乾燥室に入れて2日間干します。それをはがして切り揃え、竹の皮で挟んで出来上がりです」

——昔と違うのは……。
「天日干しが機械乾燥になっただけです。乃し梅に似た菓子は全国にありますが、乃し梅ほど梅が入っていません。そして、引っ張るとちぎれます。乃し梅はグミのような弾力があるのでちぎれません」

——菓子として完成されているのですね。
「はい。もしタイムスリップできるなら、僕は3代目が天日干しで成功した瞬間に立ち会いたいです(笑)。
 ちなみに、その後の当主たちは、乃し梅をベースにした菓子を何か一つ残しています。6代目の祖父は砂糖をまぶした『梅しぐれ』。父は、おぼろ種ではさんだ『まゆはき』」

——「まゆはき」は、おいしく美しいお菓子ですね。
「何といっても、刷毛でスッと引いた本紅がかっこいい!」

塩せんべい
左:玉響。8代目の菓子の代表作の一つ。白餡と寒天を使った和の生チョコに「乃し梅」をのせたネオ和菓子。
右:乃し梅。爽やかな酸味を特長とする山形を代表する銘菓。100%山形産の完熟梅を用いている。

8代目はアスリート気質

——佐藤さんはご長男ですか?
「3人兄弟の長男です。でも、跡を継ぐ気はありませんでした。小学校から、あだ名は佐藤屋。そして老舗の跡継ぎは、昔からあるものを作って次の代に渡す役割だと思っていましたから、そんな人生はいやだと。それで、進学も山形から少しでも遠くへと考えて鳥取大学へ。体育の教師かアスリート、あわよくばJリーガーになれたらと考えていました」

——4年たって、卒業ですね。
「そのタイミングで、兄弟で京都に集まって今後を話し合うことにしました。すると、上の弟は、これからはIT時代だから仲間と会社を興す、と言う。下の弟は、歴史の研究者になる。実家にある古文書も整理していく、と言う。2人とも、しっかりした未来像を持っているんです。それで、『兄貴は?』と聞かれて、家業が無くなるのはもったいないから、じゃあ家を継ぐわ、と(笑)。
 その日から修業先を探しました。京都のデパートで足が釘付けになったのが末富の菓子です。何とか頼み込んで入れてもらって、それから5年間お世話になりました」

——末富では、どんな修業を?
「毎日、配達です。あとは御用聞き。5年目に、餡炊きと生地のしを少しやらせてもらった程度です。ただ、毎日、ご主人の近くで話を聞き、いろいろな仕事を見ていました」

——では、菓子作りの修業は?
「佐藤屋に戻ってからです。ベテランの職人さんに『作れるようになって皆に認められるようになるから、一から教えてほしい』と頭を下げて」

和菓子をもっと自由に

「2年後。工場の皆が認めてくれるようになって初めて、自分なりの菓子作りを始めました。
 お茶の先生が本を持ってこられて『このお菓子を作って』と注文されると、『こんな菓子はいかがでしょう』と僕の菓子も一緒に提案します。毎回が試合のようなものです。最初は先生方も驚かれていましたが、段々と僕の菓子を選んでくださることが増えていきました」

——生菓子以外の菓子も、マスコミですぐに噂になりました。
「最初に作った『玉響』は、地元の若い人に、乃し梅の名前は知っているけれど食べたことがないと言われて、伝統の銘菓を見直してもらいたいと作った菓子です。『空ノムコウ』は、地元のガラス作家さんの作品を見てひらめいた寒天菓子。『りぶれ』はレモンとラム酒と黒糖の羊羹で、お酒によく合うと市内のバーやカフェが使ってくれています。

——街のイベントにも積極的に参加されています。
「菓子を通じて、山形を一緒に楽しめるような取り組みがしたい。そして自分は、どこにもない最初の一つを生み出せる菓子屋であり続けたいと思っています」(了)

りぶれ。黒糖の羊羹にラム酒を炊き込み、レモンの蜜漬けを浮かべた寒天をのせた菓子。

発想力豊かな生菓子も評判。菓子銘の美しさ、楽しさも
喜ばれている。

空ノムコウ。気泡を入れた青い錦玉羹が宇宙のよう。
ほんのり生姜が香る。

乃し梅本舗 佐藤屋

山形県山形市十日町3−10−36
TEL:0120(013)108
https://satoya-matsubei.com/

三原堂本店

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山口 No.220

山口 山陰堂 “西の京”に求肥の名菓

龍福寺。大内氏ゆかりの寺。家紋の「大内菱」を染め抜いた幕がかかる山門をくぐると、檜皮葺きの大屋根をのせた美しい本堂が現れる。国の重要文化財。

「西の京」山口

 山口県の県庁所在地、山口市。瀬戸内の海沿いにある印象の強い街だが、中心市街地は内陸の静かな盆地に広がっている。山陽新幹線の新山口駅からなら在来線で北へ7駅。春・秋にはSLやまぐち号も停まる山口駅が最寄り駅だ。
 しかし、瀬戸内海と日本海を結ぶ重要な街道の中間にあるこの地は、古くからずっと西日本の要所となってきた。
 例えば、室町時代には西国随一の大名・大内氏が本拠を置いた。明との交易で築いた莫大な富は、「西の京」と称されるほど雅な文化をこの地にもたらした。山口の総鎮守、今八幡宮。大内氏の館跡に建つ龍福寺。雪舟作の名庭で名高い常栄寺。そして国宝の瑠璃光寺五重塔。今も街のそこここに大内文化の香りがあふれている。
 江戸時代には、長州藩士が闊歩した。幕末の志士たちも行き交った道は、今も山口一の商店街。店の奥に見える豪壮な蔵や堂々とした屋根瓦に街の豊かさが見えてくる。
 なかでも、ひときわ風格のある店が「山陰堂」。この店の「名菓 舌鼓」は、全国に知られる求肥餅の逸品だ。
 7代目当主の竹原雅郎さんを訪ねて、お話を伺った。

「山陰堂」7代目当主、竹原雅郎さん
「山陰堂」7代目当主、竹原雅郎さん。昭和40年(1965)生まれ。趣味は、自然を感じながらの毎日の散歩。

山陽にあって「山陰堂」

——明治の創業だそうですね。
竹原「津和野で士族をしていた竹原彌太郎が、明治16年(1883)にここに菓子屋を開いたのが始まりです。
 竹原家のルーツは現在の広島県竹原市にあるのですが、毛利との戦で追われ、苗字も変えて鳥取の亀井氏に身を寄せました。江戸時代に入り、亀井氏が津和野藩主になると津和野へ随行。そして、武士の世が終わり、商人の道を選んだと伝わっています」

——そこで津和野より賑やかな山口へ出てこられた。
「はい。その折に、苗字も元の“竹原”に戻したそうです。山陰堂といううちの店名には長い間、お世話になった山陰・津和野の地への感謝が込められているように思います」

——「山陰堂」という店名の謎が解けました。それにしても、なぜ菓子屋に?
「初代は幕末、医者になりたいと大坂の適塾をめざして家出をしたという逸話もある人で、時勢を見る目があったようです。母親と妻が茶道をたしなみ、菓子作りの心得がありましたので、繁華な山口でなら商売として成り立つと考えたのでしょう」

名菓「舌鼓」

——そして、「名菓 舌鼓」が誕生しました。
「140年間、作り続けています。白餡を求肥で包んだ単純な餅菓子ですが、なかなか難しい菓子なんです。
 求肥は、きれいに餡が包める軟らかさが必要ですが、軟らかすぎると垂れて座布団を敷いたようになってしまいます。そこで肝心になるのが材料のもち米です。県内産と滋賀県産を主軸に、全国を探しまわって求めます。良いと思っても、まず舌鼓を試作してから買い付けています」

——白餡も、なめらかな舌ざわりで味わいが上品です。
「白餡の大手亡豆は北海道産の中から選びに選んでいます。
 丁寧に炊いた餡と、軟らかな求肥が一体になるように。そのバランスが、舌鼓という菓子の命です」

——味にも姿かたちにも気品があります。
「ありがとうございます。完成された菓子ですから、私たちは日々懸命に作るだけです」

名菓 舌鼓
「名菓 舌鼓」。山陰堂の代表銘菓。
山口出身の総理大臣・寺内正毅が愛し、「これほどの菓子なら、菓銘に“名菓”の文字を加えよ」と命じたというエピソードが残る。

代替わりのタイミング

——竹原家が代々伝えて来られたのですね。
「祖父の竹原二郎が4代目で、その次男の哲史が5代目、五男の文男が6代目を継ぎました。私は文男の息子です」

——竹原さんは跡継ぎとして育ったのですか?
「いえ、親戚のなかの誰かが継ぐだろう、くらいに思っていました。大学で広島に出て、卒業後もそのまま広島で就職しました。日本マクドナルドのフランチャイズです。
 仕事は性に合っていて面白くて、やがて出店計画にも携わるようになり、事業所のトップになり、複数店を統括するようになっていきました。結婚して子どもも生まれて、毎日が充実していましたね。
 一方、山陰堂は叔父と父ががんばっていましたが、いつしか経営に陰りを感じるようになっていきました。父は何も言わないのですが、親子ですからね、伝わります。山口を出てから14年目、32歳の時に帰ろうと決めました」

——すぐに営業や経営に加わられたのですか?
「いいえ、それから数年間は工場であんこ作り、菓子作りです。店の経営は少し離れたところから見守っていました。
 転機は、事務所の机に積み上がった郵便物の中に、業者さんの請求書が埋もれているのを見つけたことです。父の老いが進んでいる。愕然として、その日、私が継ぐ、と伝えました。正式な社長就任は、平成23年(2011)です」

真面目に一所懸命

——舌鼓以外のお菓子もご紹介ください。
「まずは、『亀乃居』。香ばしい皮と、ほどよく小豆の粒を感じる餡が自慢です。そして、お茶菓子として地元のお客様に評判がいいのが『柑太鼓』。桜餅などの季節の餅菓子のほか、お茶席の菓子も毎日5種類ほど作っています。
 さらに、羊羹やカステラも古くから作り続けている定番商品です。『いつもの山陰堂の……』と言っていただくと、やめられなくて(笑)。
 店は、本店のほかに市内を中心に6店舗。この夏には、新山口駅構内の店がリニューアルオープンしました」

——観光のお客様のファンも、ますます増えますね。
「でも、変化は小さく。店の安定を願っているだけです」

——変化は小さく?
「この仕事はルーティンだけでも真面目に一所懸命やればそれなりに大変です。お客様に喜んでいただけるように。それだけを考えて、毎日仕事に励んでいます」(了)

「亀乃居」。山口に伝わる大亀の伝説をモチーフにした最中。香ばしい最中種とあっさりした餡が評判。

店の奥が工場。「名菓 舌鼓」をはじめカステラや饅頭、羊羹、生菓子などが、ここから生まれる。

「柑太鼓」。夏柑入りの洋風の餡と香ばしい皮が特長の焼菓子。

堂々とした佇たたずまいの山陰堂。店内も、銘菓を並べたショーウィンドウが高い天井の下に悠々と延びている。

山陰堂

山口県山口市中市町6−15
TEL:083(923)3110
https://setouchifinder.com/ja/detail/25285/

山陰堂

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津 No.221

津 平治煎餅本店 街の宝。物語と菓子を次代へ

毎年2月3日に開催される津観音(観音寺)の「鬼押さえ節分」。観音像を盗もうとする鬼を侍が退治する様子を演じる神事のあと、盛大に豆まきが行われる。

伊勢は津で持つ

 三重県の県都、津市。一字の市名は、安濃津と呼ばれた室町時代に、博多津・坊津と共に日明貿易の拠点港だったことを今に伝える名前である。
 江戸時代には、藤堂高虎が領主となって城下町を整備。伊勢神宮に続く伊勢街道を海沿いから街なかに付け替えて、宿場町としても発展させた。
 なにしろ年間何百万もの参拝者が城下を通るのである。「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」と伊勢音頭に歌われた大繁栄がやってきた。
 津を訪れた人々が必ず立ち寄った場所がある。伊勢街道沿いにある津観音だ。本尊は阿漕浦で漁夫の網にかかったと伝わる聖観音立像で、浅草観音、大須観音と並ぶ日本三観音の一つ。41棟の伽藍が建ち並んだ大寺院は昭和20年の空襲で全焼し、今その面影は見られないが、毎年2月の「鬼押さえ節分」には往時の賑わいが戻ってくる。
 そして、この節分会にはもう一つの楽しみがある。門前の商店街にある平治煎餅本店で売られる「福引せんべい」。煎餅の中から現れる縁起物の愛らしく、晴れやかなこと。津に春を呼ぶ風物詩だ。
 街と菓子の話を伺いに、4代目の伊藤博康さんを訪ねた。

「山陰堂」7代目当主、竹原雅郎さん
「平治煎餅本店」4代目当主、伊藤博康さん。1967年生まれ。趣味は魚釣り。

忘れ笠の物語

——大正2年(1913)の創業、今年で111年ですね。
伊藤「初代は伊藤銀太郎、私の曽祖父にあたります。桑名の煎餅店で修業した後、津で店を開きました。この初代が作った『平治煎餅』が、今も昔も当店の代表銘菓です」

——笠の形で有名です。
「笠は、伊勢神宮の神領で禁漁区だった阿漕浦を舞台にした、浄瑠璃や歌舞伎の演目に出てくるモチーフです。
 漁師の平治が母の病を治すため、阿漕浦でヤガラという魚を獲って捕えられ、海に沈められるのですが、証拠になったのが、浜に置き忘れた平治の名前が入った笠……。
 海岸近くの住宅街に江戸時代に建てられた平治の孝行を讃える立派な塚があるのですが、いつ行っても花が供えられ、掃き清められています。地域の小学校では、この話を歌物語にして毎年、公演も行っているんですよ」

——孝行話は物語を超えて、街の宝になったのですね。

平治煎餅は立体形状

「うちが創業した当時は、平治関連のものが物凄くたくさんあったそうです。人形や置物、もちろんお菓子も」

——そこに、平治煎餅。評判はどうだったのでしょう。
「味もさることながら、なにより珍しい形が喜ばれたようです。平治煎餅は多分、日本初の立体形状の煎餅なんです」

——立体形状?
「平治煎餅は、平らに焼いた煎餅を曲げて立体にしているのではなく、表裏2枚の型に生地を流して合わせ、何度も返しながら焼いているんです。笠の中心と外側では生地の厚みが違うので、簡単に見えてなかなか手ごわい焼菓子です。
 現在は10丁の焼型が10回転して煎餅を焼く機械を入れていますが、日々、調整が必要な種づくりから火加減、焼き上がりの取り出しまで、すべて人の手で行っています。
 ちなみに焼型は、初代が彫った6つの笠の木型から作った金型で、新調した時も初期の金型から作りました。よく見ていただくと、一つひとつ笠の形も柄も違うのがわかりますよ。裏面には『平治』と書いてあるんです」

——初代の彫り跡が今も!

名菓 舌鼓
写真左:平治煎餅の焼型(原型)。
写真右:代表銘菓の「平治煎餅<小笠>」。「ショコラ」(中)、「ホワイトショコラ」(右)などバリエーションが広がっている。

都の西北、二つの学び舎

——伊藤さんが店を継ごうと考えられたのはいつですか?
「高校時代でしょうか。ですから、早稲田大学に進学したのですが、近くの東京製菓学校にも通っていました」

——二つの学校で学ばれて。
「いや、あまり勉強した記憶がなくて、遊んでばかりでした。大学の門をくぐると釣りクラブの部室に直行。もちろん製菓学校の方も押して知るべしです。どちらも奇跡的な卒業なんです(笑)。
 卒業後は3年ほど一般の企業に勤め、祖父の逝去を機に津に戻りました。4代目を継いだのは35歳の時です」

——代替わりされた頃から、平治煎餅の進化系がイベントで見られるようになりました。
「最初に作ったのは、生地にアーモンドパウダーとバターを加えた『銀笠』。次が、平治煎餅にチョコレートをしみ込ませた『ショコラ』です」

——どちらもおいしくて、今は定番商品になっていますね。
「はい。そして次に挑戦したのが『復刻版』です。平治煎餅は小麦粉と砂糖と卵だけで作っている菓子ですが、戦後、もっと軟らかくというお客様の声で、砂糖の割合を増やすことで硬さを抑えたんです。
 でも、私は自分が子どもの頃に食べていた甘さを控えた平治煎餅が好きで」

——イベントからは、いろいろな商品が生まれているのですね。一番の自信作は?
「『平治のやらかいせんべい』です。完成した時、これが作りたかったんだと手応えを感じました。イベントはお客様の反応を伺えるのも楽しみで、励みになっています」

身の丈にあった変革で

——挑戦は、これからも。

「今ある菓子をさらにブラッシュアップして、より良いもの、よりおいしいものにして次へつなげていきたいと思っています。材料の小麦を替えるなど方法は限りなくありますし、刺激をくれる友人や地域との連携もあります。
 最近も、講師を引き受けている津商業高校のビジネスプランナー養成講座から、やらかいせんべいを円錐形に巻いた楽しい菓子が誕生しました。
 また節分の『福引せんべい』も、作る店が減り続けて最後の1軒がやめると聞いて始めたんです。この菓子を街から無くしてはいけないと思って。
 父がよく、地域と社員を第一に考え、新しいことは身の丈に合う、余裕のある中で進めるようにと言っていました。私も街と人を大切にしながら、より良い菓子を創っていきたいと思っています」 (了)

「福引せんべい」。「鬼押さえ節分」に合わせて1月3日〜2月3日に販売。大きさは大・中・小の3種類。

笠の形の「平治最中」。こちらもロングセラー。 

「重」。カステラ風の煎餅で粒餡をはさんだ銘菓。

平治煎餅本店

三重県津市大門20−15
TEL:059(225)3212
https://heijisenbei.com/

山陰堂

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川越 No.222

川越 龜屋 小江戸の菓子と美を伝えて

川越観光を象徴する蔵造りの町並み。1893年に起きた大火後、防火を考えた商人たちがこぞって蔵造りの商家を建て、この景観が生まれた。国の重要伝統的建築物群保存地区。

江戸が香る町

 都心から電車で1時間ほど。埼玉県川越市は、江戸時代に徳川家ゆかりの大名が治める城下町として、また北関東の物資を江戸に供給する舟運の拠点として繁栄した商都である。
 その繁栄は維新後も続き、明治26年(1893)の川越大火のあと一斉に建て替えられた蔵造りの商家が建ち並ぶ風景は、今も圧巻の迫力で訪れた人々を驚かせる。
 豪壮な瓦屋根、黒漆喰の壁、2階に設けられた観音開き扉……。武家の気風と大商人の心意気を映したような商家の佇まいには、東京が震災と戦災で失った江戸の栄華が香る。
 また、ユネスコ無形文化遺産になった「川越まつり」も、神田明神や赤坂日枝神社の祭礼を手本に発展したもので、東京では数少なくなった絢爛豪華な山だし車が、川越商人の経済力を誇るように悠々と街を巡行する。
 川越を代表する和菓子店、龜屋の本店も、店蔵と脇蔵が並立する歴史的建造物だ。観光客は、どっしりとした蔵造りの店内での買い物を特別な体験のように楽しんでいる。
 「小江戸」川越で240年余りの歴史を刻む老舗の歴史と菓子の話を、龜屋9代目当主・山﨑淳紀さんに伺った。

「龜屋」9代目当主。山﨑淳紀さん。1986年生まれ、趣味は小説の執筆。

商人が造った町並み

——週末の川越は、観光客で大変なにぎわいですね。
「年間720万人の観光客が訪れています。近年はSNSの影響が大きく、特に若い年齢層が増えています」

——たしかに、蔵造りの店が建ち並ぶ風景は、写真を撮って発信したくなります。
「川越は明治の大火で町の3分の1を焼失したのですが、焼け残った建物がすべて蔵造りだったことから、商家の旦那衆が江戸から腕利きの職人を呼んで競うように蔵造りの店を建てました。この時に生まれた町並みが、今の川越の景観です。龜屋の本店の建物も、その一軒です」

——創業は、江戸後期の天明3年(1783)とか。

代々が励んで240余年

「さらに、龜屋を大きく発展させたのが4代目です。当時、江戸屈指といわれた菓子屋に修業に出て腕を磨き、川越に戻ると、店の建物と商品を江戸風に一新します」

——江戸で最高の菓子と最先端の文化に触れたのですね。
「はい。これがまた評判を呼んで、幕末には苗字帯刀を許されるほどの信用を得ます。
 ところが明治になると、4代目は店を14歳の息子に譲ってしまいます。そして県内初となる第八十五国立銀行(現在の埼玉りそな銀行)を設立。さらに商工会議所を設立したり、地元の有力者とともに元 川越藩の御用絵師・橋本雅がほ邦うを支援する会を作ったりと、町の仕事に奔走していきます」

——すごい方ですね。しかし、14歳で跡を継いだ5代目は大変だったでしょう。
「川越大火で店が全焼し、今の蔵造りの店を建てたのが、その5代目です。5代目は川越名物の芋煎餅の元祖『初雁焼』も残しました」

——代々が、それぞれの役割を果たされていく。
「ええ。その次の6代目は『亀の最中』など多くヒット商品を生み、7代目は工場を本店から移転し、跡地に美術館を開館しました。そして8代目の父は、『亀どら』など、今人気の菓子を創っています」

「初雁焼」「初雁霰」「初雁糖」「亀の最中」
写真左:川越名産、さつまいもを使った銘菓3種。「初雁焼」「初雁霰」「初雁糖」。
写真右:6代目が創った代表銘菓「亀の最中」。

小説家と和菓子屋と

「28歳です。22で大学を卒業しましたが、美術美学史に転科して24まで大学にいました。そして、卒業後の3年間は、小説を書いていました。ペンネームで10冊くらいは出版しています」

——今、小説は?。
「書いていません。時間がないこともありますが、家業に就くと決心したあとは完全に軸足を家業に移しました」

——店に入って、最初は菓子作りの見習いからですか?

——よく流行っていますね。
「2022年には『時の鐘店』も造りました。2階は喫茶になっていて、窓から川越のシンボル・時の鐘が眺められます。最高のロケーションで、龜屋の季節の菓子をゆっくり味わっていただけたらと思って造った店です。」

市民が誇れる菓子屋に

——菓子作りで最も大切にされていることは何ですか?
「龜屋らしい菓子であること、つまり江戸の菓子であることです。すっきりと美しく、決して派手になりすぎないことが重要です」

——ご自身も菓子を作られるのですか?
「普段は製造には携わりませんが、川越氷川神社の奉納の菓子などは、江戸時代から伝わる型を使って私が作ります」

——川越の菓子屋、龜屋のご当主の仕事なのですね。
「私は、龜屋は川越になくてはならない店だと思っています。川越の歴史の一部になっているとも自負しています。ですから、ある意味で公益性があるものでありたいと考えています。和菓子作り体験がで きる店も、川越の菓子職人の技術を公開したいという想いで始めたものです。

——川越の菓子屋、龜屋のご当主の仕事なのですね。
「私は、龜屋は川越になくてはならない店だと思っています。川越の歴史の一部になっているとも自負しています。ですから、ある意味で公益性があるものでありたいと考えています。和菓子作り体験がで きる店も、川越の菓子職人の技術を公開したいという想いで始めたものです。
 この先も、川越市民に恥ずかしくない菓子屋であり続けたい。そして、川越には龜屋がある、と自信をもって言っていただける菓子屋にしていくことが自分の使命だと、日々思っています」(了)

龜屋の芋ようかん「郷の芋」

「亀どら」

「春の上生菓子「花見」

山崎美術館。日本画家・橋本雅邦の作品を中心に展覧。入館者には菓子とお茶のサービスがある。

龜屋

埼玉県川越市仲町4−3
TEL:0120(222)051
https://www.koedo-kameya.com/

龜屋

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小布施 No.223

小布施 竹風堂 国産栗100%で創る栗菓子

岩松院の本堂大間の天井に描かれた葛飾北斎筆『八方睨み鳳凰図』。北斎が88歳から89歳にかけて描いたとされる大作。美しい極彩色が、今もそのままに。©岩松院

北斎と栗の町

 長野から長野鉄道で30分余。小布施駅に電車が停まると、乗客がどっと降りていく。小布施町は人口1万1千人ほどの小さな町だが、その百倍を超える観光客が1年間に訪れるのだという。お目当ては、北斎と小布施栗だ。
 江戸の浮世絵師・葛飾北斎は、83歳から4度、小布施を訪れ、小布施の豪商の庇護のもと多くの肉筆画を描いた。町なかの「北斎館」に展示された2基の祭屋台の天井絵や、名刹「岩松院」本堂の大間まに描かれた鳳凰図は、鮮やかな色もそのままに、最晩年の北斎の圧倒的な才能と気迫を今に伝えるものだ。
 一方の小布施栗も、六百年の歴史を有する。幕府への献上品ともなった上質の栗は、町内に何軒もある菓子屋が腕を競うようにして最上級の菓子へと磨き上げてきた。新栗が実る秋ともなれば、菓子屋の前はどこも行列必至だ。
 その一軒が、竹風堂。朝8時に開店する本店に、4代目の竹村利器さんを訪ねた。

「竹風堂」4代目当主、竹村利器さん
「竹風堂」4代目当主、竹村利器さん。1956年生まれ。1男3女の父。長男は事務方として、三女は飲食部で活躍中。

製造卸からの転換

——1893年(明治26年)の創業だそうですね。
「曽祖父が初代で、2代目の祖父までは栗菓子の製造卸をしていました。その卸売りをやめ、自分の店を構えたのが3代目の父です。

——店を出された。
「いやいや。当時は元手もなければ銀行の信用もありませんので、店ができたのは、それから10年後の1970年(昭和45年)のことです」

——強い信念ですね。

 食事中のお客様の後ろに、次のお客様が立って待つような状況でした。当時、高校生だった私でも、これはお客様に申し訳ないと思うほどの混雑ぶりです。そこで父が隣地を取得して、2階で飲食を楽しんでいただける店を建てました。それが今の本店です」

——栗おこわとは、よく思いついたものですね。
「製造卸をしていた時代からの技術や経験の蓄積がありますから、栗のあつかいはお手の物ですよ」

栗粒あんのどら焼き「どら焼山」。

大人気の「栗おこわ」。

使う栗は、すべて「国産」

「その栗ですが、竹風堂では昔も今も国産栗だけを使っています。50%強が小布施栗。台風などのリスクも考えて、残りは茨城や愛媛の契約農家などから仕入れています。
 9月上旬、栗が実ると、そこから50日間、自社工場で1年分の栗を仕込んでいきます。用途によって糖度や煮かたを変えながら栗餡や蜜漬け栗に一次加工して貯蔵するんです。この自家仕込みこそが、うちのすべての菓子の土台です」

——輸入栗は全く使わない?
「はい、昔も今も輸入栗は使っていません。栗は硬い殻をかぶっているので忘れられがちですが、生鮮食品です。菓子はお客様の命や健康につながる食品ですから、私達の目が行き届く国産栗をすばやく加工し、その豊かな風味や色を最大限に引き出して美味しい菓子に仕立てるというのがうちの考え方です」

社会勉強は松山で

——竹村さんご自身のプロフィールもご紹介ください。
「中学までは地元で、高校は千葉にある全寮制の学校に行きました。4人部屋で寝起きし、食事も風呂も部屋単位。規律も上下関係も厳しい学校でしたが、今振り返ると良い思い出ばかりです。
 大学卒業後は一六本舗様にお世話になりました。多角経営をされている会社で揉まれてこいというのが父の思惑だったようですが、私にとっては青春を謳歌した3年間でした。いろいろな方に会わせていただき、学ばせていただいた。なにより、たくさん遊んだ貴重な時間でした(笑)」

——竹風堂に入社してからは、先代と二頭立てで経営を?
「当時の父と一緒に経営などとてもとても。私はもっぱら事務方で地味な仕事をしていました。就業規則を書き換えたり、全社員が参加する研修会を企画・運営したり」

——社員が働く環境を整える仕事ですね。
「企業の一番の目的は、縁あってこの会社に来てくれた従業員やその家族、関連会社の人たちが、より幸せになることだと思っていますから」

——先代との役割分担が見えてきました。

経営の教科書

——ところで、今イチオシの商品は何ですか?
「令和元年に発売した『どら焼山 小倉あん』です。それまでは栗菓子ばかりでしたが、菓子屋として『もう一歩、前へ』進むため、自家製小豆餡のどら焼きを作ろうと決断しました。最近は栗粒あんだけでなく、小倉あんのどら焼山も高く評価され始めて、嬉しい限りです。
 今後はさらに自家製の餡を使った菓子を充実させていきたいですし、りんごなど地場の食材と合わせた菓子も考えていきたい。今、竹風堂は、高い品質の菓子を作ることができる会社になってきましたから」

——この先も楽しみです。
「竹風堂の各店舗の日報にはお客様からいただいた言葉を書き留める空欄があるのですが、毎日読んでいる、その言葉の一つひとつが私の経営の教科書です。次の世代とともに、さらに良い会社にしていきたいと思っています」

創業時からの干菓子「方寸」。

「華厳妙韻」。最高品質の栗ようかん。

本店敷地内にある「(公財)日本のあかり博物館」。国の重要有形民俗文化財に指定された963点をはじめとする古い灯火具を展示。
https://nihonnoakari.or.jp

竹風堂

長野県上高井郡小布施町973
TEL:0120(079)210
https://chikufudo.com

竹風堂

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ぜひ、おいしくて心にしみる「菓子街道」の旅をお楽しみください。